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子どもの成長と教師・保護者の関係3

(私)>実践者として一歩下がってあげて、実力をつける機会を保障すること、その不足や失敗を補うことが「教師を育てる教師」の役割です。 (いちろうさん)>途中まではいいんだけど『「教師を育てる教師」の役割』と書くところに違和感があるんだよ。結果として「育つ」ことと、意図を持って「育てる」ことは違うことだと思う。その意味で、暗象のいう「実践者として一歩下がってあげて」は、過去のブログ記事から推察して、一歩下がってあら捜しに思えるという程度の話。 どれだけ言い訳を書かれても「同じ目標に向かって一緒に努力している姿」は見えてこない。

 いちろうさんがおっしゃりたいことは、「自己教育力」と「教育力」を明確に分けろ、という主張だと思われます。
 しかし、意図的に「育つ」環境を整えることで、「自己教育力」が十分に発揮できるようにする、という教育の機能を重視することで、いちろうさんが心配されている「同じ目標に向かって一緒に努力しない同僚」が出てくるのを防ぐことになると思うのですが・・・。
 会社にはそういう立場の上司や先輩の同僚はいらっしゃらないのでしょうか?

(私)>コメントへの返答自体が、失敗事例として学んでもらえる対象になっています。 (いちろうさん)>こんな頓珍漢なやりとりで学べるというのは、レベルが低すぎるんじゃないの?

 頓珍漢であること、レベルが低いからこそ学べるものもたくさんあるわけです。

(私)>別の様式で通知表を確認していただいたことを学校が確認するようなシステムはある程度できていると思われますが。 (いちろうさん)>結局、何が言いたいんだ? すばらしく的確なコメントの返答だが(嫌みだからね、また勘違いしないで)、私が求めているのは、暗象が通知表に書いている所見のサンプルなんだけど? 随分ハードルを下げたけど、結局、何の具体も書けないところに胡散臭さがある。

 全否定にまわってくる保護者に対応するための所見としては、このブログの文章自体がサンプルになっています。もちろん、長いやりとりの結果として期待できる効果を見越しての内容であり、短期決戦の技法をとらない方法によるものですが。

(私)>道徳的実践力にかかわるもののことをさしていらっしゃいますか? (いちろうさん)>まただ。勝手に解釈して自説の主張に使わないでよ。 人として成長することの全体を指しています。なんで切り分けしたいんだ。一人の人間の中にあるものだろう。 国語や算数の知識を身につけたといえば、学校では…と語りたくなるのはわかるけど、全然、向いている方向が逆だね。

 やはり「人として成長することの全体」とは、知・徳・体すべてを含めた全人的な成長をさしているものですね。
 道徳的実践力を含む最大の広さの評価対象を問題にされていることはわかりました。
 「総合所見」ではそれを意図して書くことになるのですが、評価は具体的な学校での教育活動とそれに対応した子どもの行動・反応をもとに記述することになりますから、道徳の時間であったり、特別活動の時間であったり、総合の時間であったり、教科の時間であったりと、材料はさまざまです。
 学校の教育活動の場と完全に切り離した形での評価はあり得ません。

(いちろうさん)>身につけようと努力することは否定していないって。それで給料もらっているんだから。ただ、子どもが身につけたものを指して、私たち(学校)のおかげだと言うのは、驕りでしょ。私自身のことを考えると、マンガやテレビドラマ、フォークソングなどより、学校の先生の影響力は小さかったと思うよ。説明責任として必要なことは、○○のために□□しています…程度でいいんじゃないの? (私)>いちろうさんは、教師の指導に基づく成長の実感は子どもに感じられるはずがない、という前提で、私たち(学校)のおかげでこんなに力がつきましたなどという発言はおかしいとおっしゃっているようですが、社交辞令でない「先生のおかげで~」は世の中にいくらでもありそうではないですか? (いちろうさん)>どんなフィルターをかけているんだ? 実感としては、暗象がいうほど上位じゃないよ。先生がそんなに偉いと思っているところに違和感があるんだよ。街角でお得意のアンケート調査でもしてみたらどうだ? 「自分の成長によい影響を与えたのは何ですか?」と。もちろん、親や先生、友人だけではなく、テレビやマンガなども選択肢にいれてね。きっと先生なんてかなり下位だよ。

 学校の「権威」が気に入らない方というのは、学校から評価言が「下される」だけで、それが子ども本人が持っている「成長の実感」より学校の評価が「上位」になってしまうとお考えになってしまう。

 実はそれは、子どもの自身の成長の実感とマッチした形での所見を教師がしていなかったことが原因ではないでしょうか。
 自分をしっかりを見つめることができる生徒は、成長の軌跡をしっかりと言葉で表現することができます。
 「所見」とは教師の独創を綴るものではなく、実際の教育活動の中の姿を切り取って、「架空の話」ではない「信頼性のある」中身として示すもので、中には子どもの言葉を活用しながらまとめる場合もあるわけです。

 「実感として、学校の評価が上位ではない」
 「先生がそんなに偉いと思っているところに違和感」

という感想は別に強い違和感を感じるものではありません。
 別に(特に保護者にとっては)「学校の評価を上位にする」必要はありませんし、「先生は偉い」と思う必要もありません。

 ただ、所見によって、担任が子どもをしっかりと「見ていてくれている」のかどうか、「成長を認めてくれる存在」なのかどうかはよくわかると思います。

(私)>以前から申し上げていますが、現場に足を運ぶことなく、教育の問題は語れないと思います。 (いちろうさん)>まただ…。 だったら、このブログは意味ないじゃん。 現場に足を運べば、そこの姿の一部がわかるだろうけど、すべてがわかるわけでもないし、ましてや、その現場のすべてを理解したからといって、日本全国の現場を理解できるわけじゃない。

 お子さんの学校に足を運ばれて、その「一部」がわかるだけでも、私の言おうとしていることがご理解いただけると思いますが・・・。

(私)>学校選択自由化が行われたから、保護者が真実を知りたくなったというのでは、順序が逆なのだと思いますが、政策はこのように本来あるべき姿に近づけていく効果というのがあるものです。 (いちろうさん)>またこっちかよ。 学校選択の自由化って、本来あってはいけない方向へ進める施策じゃないの?  先日の新聞では、先行していた所で見直しがはじまったって書いてあったよ。 だいたい、暗象の説を読めば読むほど、間違えていると思う。公立学校は、どんなにがんばっても私立の学校や塾にはなれないんだよ。また、そうなったら困ることに暗象は気づいていない。 教育を商品化させて消費者に選ばせる意識を持たすことは、教育を矮小化していくことになるんじゃないの? まぁ、暗象は矮小化しているから、学校で身につけているとか評価できるとか主張しているんだろうけどね。 若者に対して、「ありゃ〜」と思う度合いが増えたのは、私が歳をとったというより、暗象みたいな先生が増えたからなんだろうね。

 学校選択自由化の賛否両論があることはわかりますが、「保護者が真実を知りたくなった」のはこれがきっかけであることはたしかでしょう。
 昔は、「閉鎖的」というのが、公立学校の代名詞でしたから。
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コメント

┐(´д`)┌ヤレヤレ  疲れる人だね…

>意図的に「育つ」環境を整えること

それはシステムの問題であって、一緒に汗を流さなきゃいけない同僚が、仲間に対して“こいつを育てるためだ”なんていう思い上がりを持ったら、チームワークが乱れるということ。
まぁ、暗象にはわからないだろうね。

>レベルが低いからこそ学べるものもたくさんあるわけです。

それは結構なことですが、わざわざレベルをさげることはないと思うが、素でそのレベル?

>学校の教育活動の場と完全に切り離した形での評価はあり得ません。

?? … なにを言いたいんだ?
学校の通知表に書く評価は、学校の教育活動のことだろう。暗象は、あたかも、その評価がその子どもの成長すべて表しているように言うから、学校ってそんなところじゃないし、先生はそんなに偉いのか…と聞いているの。

>「所見」とは教師の独創を綴るものではなく、実際の教育活動の中の姿を切り取って、「架空の話」ではない「信頼性のある」中身として示すもので、中には子どもの言葉を活用しながらまとめる場合もあるわけです。
>所見によって、担任が子どもをしっかりと「見ていてくれている」のかどうか、「成長を認めてくれる存在」なのかどうかはよくわかると思います。

これまで、13年間、1〜3人の子どもが小中学校に通っていて、毎学期、所見つきの通知表を持ってくるが、暗象の主張する所見にであったことがない。いゃ、出会っていても、そう思っていないのかも知れない。何人もの担任がいたが、それらをすべて「指導力不足」と思うかどうかの基準として、暗象の主張する「所見」を見てみたいだけなのだが? 普通に中学校の先生をしていたら、社会だけで毎学期ごとに200人近くの子どもの所見を書くそうだが、その中のいくつかを書くことが、そんなに難しいのか?

>「一部」がわかるだけでも、私の言おうとしていることがご理解いただけると思いますが・・・。

論理的に間違っているって。

>「保護者が真実を知りたくなった」のはこれがきっかけであることはたしかでしょう。

それは否定していないよ。なぜ知りたいのかという部分で、保護者の利己的な欲求を増長しているというだけのこと。そのことが公教育をよくするとは思えないということ。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より