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変わるべきは批判材料がある教師。

[教師] ブログ村キーワード

(私)>教師も親も、子どもに向かって愚痴を言うのは、何の解決にもならないという意味で、壁に向かってほえているのと一緒です。

(いちろうさん)ん…。ダメだな。
「何の解決にもならない」という無害ではなく、私は害毒だと主張しています!!
先生が親の、親が先生を批判するということは、その人の言うことを聞くなと言っているのと同じです。それは無害ではなく、マイナスです。

 子どもにとって、他人である教師が自分の肉親に対する愚痴を言うのと、自分の親が他人である教師の愚痴を言うことが、「同じ」でしょうか。

 おそらく、教師は親のことを、親は教師のことをほとんど知らないと思いますが、親の方が教師のことを知る機会の方が多いし、子どもから入ってくる情報量が多いのは当然でしょう。
 教師がその親のことに対して、他の保護者などから熱心に情報収集しているのなら別ですが。

 教師に対する愚痴も、「どうして授業のときの声があんなに小さいんだろう」「もっと字をきれいに書いてくれればいいのに」「授業の進め方、あまりうまくないね」といった子どももわかっている感想を愚痴として子どもの前で言っても、何の問題もありません。
 しかし、「愚痴」として子どもに言ってもこれは意味がなく、「要望」として教師に伝え、その問題点は気付かせ、改善させなければならないのです。そして、改善されれば、その内容についてはもう問題はなくなるのです。
 

(私)>教師のさまざまな問題点を親が知ることは重要なことです。
(いちろうさん)⇒ 親のそまざまな問題点を先生が知ることは重要なことです。
と置き換えた場合、そりゃぁ、知ることは重要なことかも知れないが、先生は親を変えることができるのか? 結局のところ、暗象の思考では、問題の大きい親を排除するとか、そういう親のいない学校を選択しろという結論になるんじゃないの?そういう考え方じゃ、社会はよくならないよ。

 いちろうさんがご自分で置き換えた方については、どうぞご自由にお考え下さい。
 特にその必要を私は感じておりませんが(ただ、地域によっては、その問題を子どもに語らせる指導方針をもっているところもあるようです。大阪や京都がそうでした)。

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教育」カテゴリの記事

コメント

(*^ω^*)ノ彡
>充実した暇つぶしの時間になると幸いです。

パターンや思考なんてなかなか変わらないよ。
でも、同じことを何回も繰り返すのは嫌い。
せめて、暗象の好きな螺旋状に進んで欲しいね。
期待しているよ。

いちろうさんへ。
やりがいが増えてよかったですね。
ワンパターンは変わらないかもしれませんが、充実した暇つぶしの時間になると幸いです。

(*^.^*)
>現に、多くの子どもたちは、いちろうさんという人、「何様?」と言っています。「でもおもしろいからこのままでいい」だそうです。
世の中、そんなものです。<

そうですか!! いいですね!!
何様と言われたらどう答えるのかは難しいけど、暗象よりちょっと大人で、暗象が自分のしていることの意味がわかっていないようなので、「いちろう」というキャラで暗象のやっているマネをしている暇人です…そう答えてください。
ちゃんと読んでいたらコメントもどうぞ。
あっ、ブログ主じゃなかった。暗象に伝えてね。

「正しさ」の問題はこの世の中では判断が難しいのですが、「自分だけ」の考えではないことは、よくわかることです。
いちろうさんの言われる「みんな」と、私の「みんな」とではスケールが違いすぎるようです。
もしかしていちろうさんは遊んでいたわけではなくて、「アドバイスをしていた」「成長させようとしていた」のですか・・・・。
でも「変わるべきは批判材料がある教師」であるという同じお考えをお持ちのようで、うれしく思います。
書き手というのは「偉い立場」に見えるものですよ。
現に、多くの子どもたちは、いちろうさんという人、「何様?」と言っています。「でもおもしろいからこのままでいい」だそうです。
世の中、そんなものです。

( ^ω^ )
>子どももわかっている感想を愚痴として子どもの前で言っても、何の問題もありません。

そんな会話が家庭内であるのか?
単純に「あの先生ダメや」とか「1年我慢しようね」という程度のこと。子どもがその先生が好きで反論した時に、このブログを読んでいたら、前言を撤回することなく屁理屈をつけ続け、子どもにそう思わせることができるということ

>特にその必要を私は感じておりません

だから、このブログはいつまでたっても自己中に、まわりのみんなを批判し続け、自分だけが正しいと思っている世界から抜けれないんだよ。
先生以前に、人として他人の気持ちを汲めないと批判され、こうしたらいいよとアドバイスをされたときに、私には必要ありません…というのじゃ、成長できないよ。
それでいて、この記事のタイトルが「変わるべきは批判材料がある教師」なんだから笑える。
はなっから自分を偉い立場に置いて除外している。
困った人だこと…

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より