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視野がせまくなった人への「思いやり」とは

 一つのことに夢中になったり固執したりすると、人間は視野がせまくなりがちなものです。
 
 論理より感情が優先する人間に特有な性質でもあり、周囲からみれば滑稽にうつったり、気の毒に見えたりして、当人の自己満足を大目に見る余裕があれば問題がないのですが、迷惑が周囲に拡散すると、報復を受ける結果になったりします。

 視野がせまくなるというのは、たとえば打者が投手の球を打つときなどは、自然におこることで、よいことなのでしょうが、スクイズの構えに反応してボールを高めにはずせる投手のように、視野をある程度広くもつことは、集中が必要な場面でも可能なことであり、実は大事な要素なのかもしれません。

 視野がせまい人間は、自分の主張が通らないときに見苦しい姿を露呈することになりますが、その活動に一生懸命であり、他に迷惑がかかっていないときは、あえて見逃しておくことも「思いやり」かもしれません。

 教師と子どもとの関係でいうと、教師がその経験則から、「ここでこの態度は周囲の信頼を失うことになるな」と思っても、子どもが「信頼を得たい一心で行っていること」についてはあえて口をはさまないで失敗させる方が子どものためかもしれません。
 その因果関係が一対一対応で明確にその生徒にはねかえってくるわけでもなく、他の要素で高い信頼を得ることができているかもしれませんから。

 ただし、教師と教師の関係ではそうはいきません。そこが「子どもの立場で考える」ときにシビアに求められる教師の資質とかかわってきます。

 教師は、ときどき非常に視野がせまくなります。
 それは、自分が行政の世界に入ったときに、過去の自分をふり返って痛感したことでもあります。

 しかし、再び現場に戻って実感しているのは、その視野の向く先が実は大事なのであって、見当違いのところに向けられた視線によっていかにその教師とその教師に指導された子どもが多くを失っているのか、当人はなかなか気がついていない、ということです。

 Aの議論をするとき、Aのことしか頭にないように誤解してしまう「偏り」ぶりは、子どもだけとは限りません。
 Aの議論をしているとき、BやCとの有機的な関連付けに成功できる「視野の広さ」を、教師には求めたいものです。

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教育」カテゴリの記事

コメント

( ´艸`)プププ
>私の学校や指導で見てきた学校の実践については、記事をよくお読みいただければある程度のことはおわかりいただけると思います。

全然わからない。
敢えて“あなた方”といいますが、あなた方の主張は、先生の悪口を書けば、子どもの側の視点だといい、先生の視点でものを書けば、子どものことを見ていないという。
でも、ブログで書けることなんていうのは、先生であれば、先生の視点で子どもをみてどうなのかという程度なんじゃないの?

正直、4ヶ月以上読み続けているが、
未だに、本当に先生かどうか疑わしい。
何の実践もなければ、
主張が現実的とも思えない。

私の学校や指導で見てきた学校の実践については、記事をよくお読みいただければある程度のことはおわかりいただけると思います。

私の学校の文化祭は、教師がほとんどタッチしないので、お話できることは子どもを褒めることくらいしかできませんね。
それは学校で褒めていればすむわけです。
記事にする意味はありません。

(´,_ゝ`)プッ
>文化祭の事例をひいて、記事にまとめようと思います。

またかよ。
自分の文化祭についての記事を書くことの方が大切なんじゃないのか?

Psycheさんへ。
教育活動のねらいはどこにあるのか、忘れ去れているかのようなことが学校ではよくおこります。
すずめ先生のブログに入れたコメントの内容なのですが、文化祭の事例をひいて、記事にまとめようと思います。

おっしゃるとおりで
生徒に対しては成長を待つという姿勢は必要ですが
指導者同士は率直に意見を言い合えるべきですね。
それは相手を同じプロとして尊重することと同時に
今、まさに、教育を必要としている子供達を
第一に考えた姿勢であると思います。
結局は、何を中心において考えるか…ということに集約されます。

(*v.v)。
>視野がせまい人間は、自分の主張が通らないときに見苦しい姿を露呈することになりますが、その活動に一生懸命であり、他に迷惑がかかっていないときは、あえて見逃しておくことも「思いやり」かもしれません。

わかりました。
あえて見逃しましょう。
今までも随分スルーしていますが、
その割合を増やしますね。 (^○^)

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より