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「勘違い・杜撰さ」というキーワード

 「思い込みと勘違い」
 「綿密さと杜撰(幼稚)さ」
 小泉容疑者を語る上でのキーワードになっているようです。
 アンバランスな印象が強い事実が次々に明らかになっているようですが、自分の気に入っているものが台無しにされた恨み、その恨みをはらす執念の強さだけは理屈では語れないのでしょう。
 「体力的に最後のチャンス」というのを「冷静な分析」とよべるのかどうか。

*******************

 文科省官僚殺害予告で逮捕された東大卒の若者についての記事に関連して、ステレオタイプの感想をわざわざいただくことになり、お手をわずらわせて申し訳なく思いますが、問題は小中高の「教科書」のレベルを超えた世界にいたはずの人間が、なぜ「教科書」という言葉を殺害予告の動機を語る場面で出したのか、ということです。
   
 そもそも、「教科書が先生」、というレベルでは、大学に合格することも、卒論を書くこともできなかったはず。
 大学の四年間で何を学んできたのか。
 なぜ大学を卒業した後に「教科書」が登場するのか。
 
 教科書は単なる教材ですので、そこから自分の思考・精神世界の何がどのように広げられたかが教育では問われており、それはわかりきったことで、もし恨むのであれば、その枠内におしとどめた教師か、その枠を超えさせてくれなかった教師が恨みの対象になるのでは?

 わざわざ逮捕されるのがわかっているブログへの犯行予告ですから、この若者も「言いたいこと」を話し出すでしょう。続報を待ちたいと思います。

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教育」カテゴリの記事

コメント

ヽ(*≧ε≦*)φ
眼鏡の先は、二次元なのか?

今度は二次元の話ですか?

(○゚ε゚○)
>「教科書の限られた内容」とそれを超えた広がりがある「現実」の違いを教えられなかった教師に不満が向けられないのはなぜか?

ふと思ったが、
教科書の内容の延長線上に現実があるんじゃないんだね。

>教科書に好き嫌いはなかった。

おっしゃるとおり、教科書は好きとか嫌いとか、感謝するとか恨むとか、そういう感情の向かう先としては考えにくいものなのではないでしょうか。
(学校での勉強が嫌いな子どもが、その勉強を象徴するような「教科書」が嫌い、というのはわかるのですが)

ヘ(゚∀゚ヘ)アヒャ
>ちなみにいちろうさんは、教科書を恨んでいますか?

二択で、先生か教科書かと言われたら、教科書。
先生は好きな先生がいたが、
教科書に好き嫌いはなかった。

不満をもったり恨みをもったりする対象のことなので、そもそもそういう思いから遠い人には理解できない世界では?
ちなみにいちろうさんは、教科書を恨んでいますか?

( ´_ゝ`)フーン
暗象のこだわりどころはわかったが、
それが普通なのか?
本当に先生なら、
親にアンケートしてみたら?
どっちが一般人に近いかわかると思うよ。
あっ、恣意的なアンケートじゃないのでしてね。

>教科書を理解させることが上手かどうかが問われている世界なんじゃないの?

「教科書を」ではなく、「教科書で」理解させるのが教師の仕事です。
入学試験の話はそれとして、たとえば自分が就職できない理由が「教科書と現実が違っていたから」ということは、「現実は教科書に書いてあることがすべてではない」という「教科書の限られた内容」とそれを超えた広がりがある「現実」の違いを教えられなかった教師に不満が向けられないのはなぜか?と書いています。

( ´_ゝ`)フーン  記事の中で言うと、ここだね。

>もし恨むのであれば、その枠内におしとどめた教師か、その枠を超えさせてくれなかった教師が恨みの対象になるのでは?

ここが、一般人には通じない発想なんだよ。
教科書を理解させることが上手かどうかが問われている世界なんじゃないの? それを越えた先にあるものは、試験にとって不必要なものなんだよ。試験のために勉強する世界へ導こうとしている者が持つ疑問じゃないんじゃないの?

>暗象のとらえ方は、違うんじゃないの?

違うのでしょうから疑問だ、と記しております。

( ^ω^ ) そもそも…
新聞記事では、
東大を卒業後、職に就いていなかったとみられ、「理想を持って勉強してきたが、教科書の内容と違う現実があることを知り、日本教育を主宰している文科省に詐欺をされたと思った」などと供述している
とあるが?

この供述と、暗象のとらえ方は、違うんじゃないの?

ここでは、単純に、大学4年間の勉強を終えた人、という意味で解釈してみてください。

ψ(`∇´)ψ
>ステレオタイプの感想をわざわざいただくことになり、お手をわずらわせて申し訳なく思いますが、問題は小中高の「教科書」のレベルを超えた世界にいたはずの人間が、なぜ「教科書」という言葉を殺害予告の動機を語る場面で出したのか、ということです。

暗象が、ステレオタイプのとらえ方しかできてないからじゃないの?
で、「問題は小中高の「教科書」のレベルを超えた世界」の意味がわからないんだけど? 塾や予備校の勧誘(宣伝)文言にとらわれている公立学校の先生って、寂しくない?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より