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「ペット以下」の子どもを育てている親は何以下になるのか?

 今年の6月、私のコメント後に大きな反響があったすずめ先生のブログですが、また同じような内容の記事に同様のコメントを入れさせていただきました。
 私のブログの方にコメントをしたい方もいらっしゃると思いましたので、ここにもコメントを掲載しておきます。

すずめ先生の何気ない(?)この記事については、実は6月の「あの記事」に対する批判をさせていただいたときと、同じ理由による感想を述べさせていただきます。

「結局は小さい頃に大事に育てて,怪我もさせずに大きくなっていることにあるのだろう」
「その傾向は今もどんどん強くなってきている」
「危険を判断する能力が育っていなかったことはほぼ間違いがない」
「親は100%学校と教師の責任と思っているだろうし,追求されれば,そうとしかいいようがない。でも,就学前に,大人の言うことをきちんと聞く姿勢と,危険を察知する能力を親の責任で育てておかないと・・・大事に育てたわが子が犠牲者にならないとも限らない」

今回の記事はこの内容と同様に、子どもが自立していないことの責任を家庭の育て方に求めているものではないですか。

子どもたちは、すずめ先生の話を聞きながら、「自分の親が批判されている」ということに気付いた表情をしていませんでしたか?
「また親のせいにしているな」という表情をしていませんでしたか?

教室の中では、子どもたちは、「さまざまな仕事で役に立っているし、お互いにあてにされている存在」で、「責任感」が育っている時期なのではないですか。

もし、そうなっていない理由を家庭の責任にして、「役にも立ってないし,誰からもあてにもされてないってところに責任感なんか育つはずがない」と断定的に述べられているのであれば、このような教師の態度こそが問題なのではないか、というのが私の感想です。

それとも学校ではとてもよく育っているのに、「可愛い可愛いと猫かわいがりされ」て「社会的に自立できなく」している家庭を批判するというのが趣旨なのでしょうか。

 子どもを育てる上で、学校と家庭が連携を取らなければならないことは、このブログ上でも繰り返し述べています。そして、家庭の教育力が低下していることは、私も含めて多くの方が実感していることでもあり、責任を十分に果たしていない親を擁護するために意見を述べているわけではありません。

 しかし、子どもに対して保護者の家庭教育を批判するような言動は避けるべきなのです。
 そのような言動は、子どもの心には二重の意味でマイナスの響きをもってこたえてくると思います。

 私の見てきた範囲では、直接保護者に訴える機会が学校側にはあるのに、そういう場面では腰を低くして何も言わず、学校側で不祥事を起こしたときにはさらに腰を低くして保護者に謝罪するような行動を繰り返している学校には、特に子どもの前で保護者の批判をする教師が多いのです。

 子どもたちは非常に弱くなっていると思います。
 教師も、その弱い子どもに追い打ちをかけるような指導はしたくないので、「あなたではなく、親が悪いのよ」というスタイルの指導が多くなっている傾向はないでしょうか。
 「弱くしているのは親のせいなのよ」と子どもに伝えるのは、果たして「教育」でしょうか。「指導」でしょうか。
 
 小学校1・2学年の道徳では、「父母、祖父母を敬愛し、進んで家の手伝いをして、家族の役に立つ喜びを知る」ことを、
3・4学年では、「父母、祖父母を敬愛し、家族みんなで協力し合って楽しい家庭をつくる」ことを、
5・6学年では、「父母、祖父母を敬愛し、家族の幸せを求めて、進んで役に立つことをする」ことを、
中学校では「父母、祖父母に敬愛の念を深め、家族の一員としての自覚をもって充実した家族生活を築く」ことをそれぞれ発達段階に即して学んでいます。
 
 家庭では、ルールを決めて行動をしばるのではなく、「進んで」行うことが道徳的価値として重要なはずです。

 ルールを決めることも大切な場面はあるのですが、それは意見・利害の調整が難しい中、「みんなで決めたことはみんなで守る」という趣旨で設定するものであり、「ルールだから、決めたことだから」家庭の仕事をやる、というのとは違うのです。

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教育」カテゴリの記事

コメント

(*゚▽゚)ノ
>「思うのは勝手だが、口に出していいことと悪いことがある」と区別するのが普通だと思いますが・・・。

暗象の道徳観がわかったよ。
その程度なら、○×の試験でも大丈夫だろう。

我が子の先生でなくてよかったよ。

>本質は、口に出したかどうかの問題ではなく、心の中でどう考えているのかという、思考の問題ではありませんか?

自分の心の中で思っていることには、自分の思い込みや、邪推、誤解などが含まれていることがわかるから、口に出してさらに状況を悪化してしまわないよう、気をつけるのが普通ですよね。

教師なら、指導をしていて、心の中で思う(想像すること)はたくさんありますよ。
しかし、私は「そんなことを想像するな」とは人には言えません。
「思うのは勝手だが、口に出していいことと悪いことがある」と区別するのが普通だと思いますが・・・。

( ´艸`)プププ
子どもたちに聞いてみたいな。何が大事なのか。
暗象は区別がついていないようです。
ダブル・スタンダードとは、2つ以上の類似した事象に対して一貫性のない別の判断をそれぞれの事象につけるような行為・態度のことと説明しました。
「類似」した事象と、「同一」の事象は違います。
同一であるかないかは、間違い探しをすれば、すぐに区別ができます。
類似であるかないかは、どうやって区別しますか?
それは、余分なものを取り除いていくことで、だんだん似てくるものが類似です。どの程度、余分なものを省き、ものの本質に迫れるかが社会生活では重要な力になります。
どうも暗象は、余分なものに目を奪われすぎて、ものの本質がわかっていないようです。

>すずめさんの方は、生徒に面と向かって保護者の批判をすること、まずろさんの方は、報道された内容を見て、感想をブログに書くということ。

「面と向かって批判すること」と「報道された内容を見て感想を書く」ことの違いを言っています。
暗象は以前、子どもたちの方が本質を見抜く力があると言っていましたが、それを本心とするならば、口に出して言うことと、心で思っていることにどれだけの差があるのか、正に論理矛盾をおこしています。
現実に、子どもたちに考えてもらいたいが、態度が悪くて注意された時に、先生が心の中で「あぁ、親の躾けがなっていないんだよなぁ〜」と思っていたらどうですか? 先生が口に出さなかったら許せるという問題ですか? 
本質は、口に出したかどうかの問題ではなく、心の中でどう考えているのかという、思考の問題ではありませんか? 逆に、関西系ではよそ者が聞くと口汚い会話に聞こえることでも、お互いの関係ができている間がらで交わされることが多く、トラブルにもなりません。口から出た言葉ではなく、その人が心でどう思っているかの方が重要なのです。
ゆえに、暗象の主張が本心であれば間違っています。ただの負けず嫌いの詭弁であれば、性格を変えた方がいいでしょう。

kurazohさん、いちろうさん、多くのアドバイスありがとうございます。
私のブログにて新記事をあげさせていただきました。
いちろうさんの色眼鏡が外れれば良いのですが。

>すずめさんの「保護者を批判すること」に対しての態度と、まずろさんの「保護者を批判すること」に対しての態度の違い

すずめさんの方は、生徒に面と向かって保護者の批判をすること、まずろさんの方は、報道された内容を見て、感想をブログに書くということ。

態度は違って当然のことです。

( ´,_ゝ`)ハイハイ

ことばを軽くしたり重くしたり…困った。
ダブル・スタンダードとは、二重規範のこと。
2つ以上の類似した事象に対して一貫性のない別の判断をそれぞれの事象につけるような行為・態度のことで、ことばの使い分け程度では、ダブルスタンダードとはいいません。

暗象の、すずめさんの「保護者を批判すること」に対しての態度と、まずろさんの「保護者を批判すること」に対しての態度の違いを、ダブルスタンダードというのが正しい用法例ですね。
同一思考の類似例としてあるものを、違いを加えることで別の事例にしようとするのを言い訳や言い逃れといいます。
よい子のみなさん。事例を比較するには、不確定要素を順次取り除くのが基本ですよ。(^o^)

いちろうさんのダブルスタンダードも許容の範囲であるようです。

( ̄ー+ ̄)
>全くの予想通りになりました。

まぁ、いつもの後付けだからいいけど、
素朴な疑問を一つ聞いていい?
こっちのブログと、
まずろさんのところに書き込むコメント、
ずいぶん言葉づかいが違うが、
そういう点に子どもたちはこだわらないの?

逆ギレする人というのは、多くは、注意されること、批判されること自体を拒否する人たちなんですね。
自分が間違っている・いないは、どうでもいいわけです。
そして観客が増える(たくさんいることを知る)と、ますます調子に乗る。
このことは書きませんでしたが、全くの予想通りになりました。

∑q|゚Д゚|p
>簡単なことですよ。
>指導されている理由に気付かせればよいだけです。
>ただ、何を指導されているかがわかっていない場合というのはほとんどないんですよね。

逆ギレしている人への指導?
簡単なんだ。
なのに、

>こういうパターンを使う方々によく出会いました。
よくいるんですよね。
「なぜ僕だけ怒られるの?不公平だ!」
と逆ギレする子どもが。
最近では、そういう態度をとり続けて大人に
なったような親が増えてきていますね。<

こんな使い方をするんだ。
何の脈絡もなく、逆ギレする人を見下した表現で使わなくてもいいんじゃないの?

何を表現したいのか、子どもにもわかるようにお願いしますね。

簡単なことですよ。
指導されている理由に気付かせればよいだけです。
ただ、何を指導されているかがわかっていない場合というのはほとんどないんですよね。
教師や大人の場合は、子どもを上回る「プライド」があるのがやっかいなのですが、その「プライド」もあるだけまだましといった感じです。
「批判されていること」自体が許せないといった人はたくさんおり、中には黙殺で通すタイプの人もいます。
これまたやっかいです。

┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~
>逆ギレした経験はあっても、逆ギレされた経験はなそさうですね。


暗象に逆ギレされたことはあるけど、
私が逆ギレしたことはないよ。 (^_^)

でも、私が問うているのは、
教育者として逆ギレする子どもをどうとらえ、
どう指導しているのかということ。
暗象のコメントを読む限り、
日々、記事として書いていることとの乖離が大きすぎる。
まぁ、私にとっては想定内のコメントだが、
定期的な読者のために聞いてみただけ。

いちろうさんは逆ギレした経験はあっても、逆ギレされた経験はなそさうですね。

(v^ー゜)ヤッタネ!!

>よくいるんですよね。
>「なぜ僕だけ怒られるの?不公平だ!」
>と逆ギレする子どもが。

このあたりに、暗象の冷たさが見えるが、
逆ギレと決めつける前に、
自らの行いを省みることが必要では?
不必要な「よくいるんですよね」を加える思考に自己中な論に共感してもらおうという策を感じますが、本当に先生をしているんですか?
子どもたちが可愛そうな気がします…

まずろさんへ。
コメントは、まずろさんのブログの方に入れさせていただきました。
私の方で退屈されたので今度はまずろさんが対応される番ですね。
いちろうさんは決して「的はずれ」ではありません。
狙っている的はあくまでも「あなた方」ですから。

>公平な人間になるのが、なんで難しいの?

これはいちろうさんが持ち出す「公平」にたどりつく「ルール」によれば、という意味です。

コメントしない相手には、「スルー」したと言い、批判的な態度をとっていない、肯定していると自分勝手に解釈し、「ダブルスタンダード」という言葉で攻撃する。

こういうパターンを使う方々によく出会いました。

よくいるんですよね。
「なぜ僕だけ怒られるの?不公平だ!」
と逆ギレする子どもが。
最近では、そういう態度をとり続けて大人に
なったような親が増えてきていますね。
「なぜうちの子だけが指導されるんですか」

いちろうさんがどうしてもすずめ先生の話とまずろさんの話の両方に私が同じような批判のコメントをしなければならないとお考えなら、同じような批判が行われるべき根拠をそれぞれの方の記事からキーワードなどを引用しながらご説明していただけますか?

(○゚ε゚○)
>まずろさんの記事も読みましたが、題材にされている資料を私は知らないので、コメントできません。

そうなのか?
資料を持っているものにしかコメントしていなかったのか?
そういう問題じゃないだろう。
文章を読んで思考の問題点を指摘するのが好きなんだと思っていた。

>ブログ上でいちろうさんのおっしゃる公平な人間になるのはとても難しそうですね。

? 公平な人間になるのが、なんで難しいの?
自分の基準がハッキリしていないだけ?
まぁ、
その場限りの屁理屈で逃げ切ろうとしたり、
自分の意見に反対か賛成かで態度を変えると、
公平な扱いはできなくなるよな。

ただ、他者の評価として「できている・できていない」という問題じゃなく、そうあるべきと心がけていることが大切なんじゃないの?
おっと、先生だったんだ。釈迦に説法だね。

いちろうさんが私のブログでのコメントで、なぜkurazohさんのことを持ち出し的外れなことを息巻いておられるのか、なんとなく事情は飲み込めました。
最近とても忙しく、ゆっくり他を覗く時間もありませんでしたから。(笑)
またすずめさんのところの記事も読んでみたいと思います。

さて、私の記事を読んでいただければお判りになると思いますが、障害児の親を責める意図ではありません。
ただ赤ん坊の時期に親にしか受け取れない子供のメッセージはあまりに多いもの。
それをアンテナ高く感知することで、子供の心の安定を(赤ん坊のころはそれがとても重要ですから)図ってやれるのも親だけにしかしてやれないことなのです。

そういう子どもの心に寄り添う行動の工夫は、私がとてもこだわりたいものの一つなのです。

いちろうさんのコメントには、その理由はお教えできませんがたいへん感謝いたしております。
あることを証明するのにとても有効な内容をいただいております。

まずろさんの記事も読みましたが、題材にされている資料を私は知らないので、コメントできません。

ブログ上でいちろうさんのおっしゃる公平な人間になるのはとても難しそうですね。

( ̄ー ̄)ニヤリ  ダブルスタンダード!!
いいタイミングで、
まずろさんが障害児の親を批判していますが、
そこはスルーで、すずめさんは記事なんですね。
4ヶ月前から、
人によって対応が違うと指摘していますが、
ここまで不公平な対応で先生ができるの?
暗象は、依怙贔屓先生で有名なんじゃないのか?

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  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より