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子どもの成長と教師・保護者の関係

(私)>私が批判していたのは、AだからBになった、ということを主張したい人たちが、そういう結論になるように質問項目を設定していることが課題である、ということです。

(いちろうさん)>馬鹿か?
アンケートは結論に導くためにするもんだよ。
だからアンケートの主体が問題になるの。
設問より、「誰がしたか」のほうが重要。
イロハのイの問題。

じゃぁ、「子どもがつくって生徒にやらせようとする調査ならすぐ練り直しを要求するタイプのもの」というからには、「全国学力・学習状況調査がどのように受け止められているか」の設問ならつくれるんだよね。

 簡単な話で、「すべての子どもの学力や学習状況を測定するために、全国学力・学習状況調査はどのくらい役立つものですか」「国が全国的な義務教育の機会均等とその水準の維持向上の観点から各地域における児童生徒の学力・学習状況をきめ細かく把握・分析するために、全国学力・学習状況調査はどのくらい役立つものですか」「各学校では、B問題のような問題を出題することによって思考力・判断力を測定する努力をしていますか」という設問にしたら、調査をやめさせたい人には十分に有効な結果が出ない恐れがあります。

 アンケートの主体が重要なのであれば、別に調査をしなくても持論を展開すればよいのですが、今回のようなアンケートによって、「調査の分析や学力向上のための具体策を考えるのがめんどうくさい」「工夫しないですむ今まで通りのA問題のようなテストばかりをやっていたい」という教師たちに、「ああ、私たちと同じ考えの人が多いんだ」と安心(?)させ、教育の質が向上しない恐れがあることを問題視しています。

 10人委員会のアンケート項目はあまりに露骨なものであり、その結果の公表によって、そもそもの「全国学力・学習状況調査」の趣旨自体が誤解される恐れが多分にあることを指摘したのです。
 

(いちろうさん)わかりきったものではなく、意味不明でもない所見の例は、評価される子どもと、その親と先生しかわからないというのは、理屈として無理がない?
具体例、サンプルを要求することは、変なことなのか?

 所見の「書き方」としては、○○(という具体的な行動等)から○○(という道徳的な判断力が養われていること)がわかります・・・などの形がありますが、それがわかりきったものではなく、意味不明でもないものであるかどうかは、子どもと教師や子どもと保護者との関係性の中で決まるものであり、保護者が子どもや教師を「信頼」できる材料になることが大切です。
 子どもの成長やその可能性について決して「信頼」できている保護者ばかりではないことは、育児書の種類や内容によってよくわかります。

(私)>「学校での子どもの成長」を保護者の方々はどのくらい「感じられて」いるのでしょう。

(いちろうさん)子どもを成長させるのは学校だけという驕り?
なんで学校限定なんだ?
その発想だから、子どもが非行に走ると学校のせいにする親がいるんだよ。

 「学校での子どもの成長」の責任は学齢が上がっていけばいくほど学校側や子ども本人にあることは確かでしょう。公開授業や運動会、文化祭に参加すれば「成長を感じられて満足だ」と思われる保護者の方もいらっしゃるでしょうが、友達との関係性、個別の教科の学力、向上心、責任感等に関する学校での成長度合いを「保護者ならわかっているでしょうね」などと言う傲慢な態度を学校がとれるわけがありません。

 学校での子どもの成長がよく把握できていない保護者のうち、家での成長をしっかり感じている保護者なら、子どもが非行に走る原因を学校に求めるのは正当な態度かもしれませんね。
 子どもが非行に走る原因を学校に求める保護者というのは、家での様子も知らないし、学校での様子もわかっていない保護者がすることでは?

(いちろうさん)子どもの成長が感じられればいいことで、説明がいるのは、それを感じない親や先生不振の親だけでいいんじゃないの? その時は、自分たちの教育が悪かったと思って集会なんかで全般の説明をしてから、個別に話をすればいいじゃない。大きな事件があるとそうしているんじゃないのか?

(私)>「先生不信の親を個別に呼ぶ」などということはそもそも難しいでしょうね。

(いちろうさん)>なんでわざわざ呼ばなきゃいけないんだ?
呼び出しをくらう側の気持ちがわからないんだろうね。
来る親だけ相手にすればいいだけだろう。

 いちろうさんは学校側が説明責任を果たす場を放棄するタイプの保護者を擁護されているようですが、子どもの成長のためには教師と保護者との会話がなければ難しいのではないでしょうか?

(いちろうさん)>「所見」はその子どもの心に響くかどうかが大切であって、「正しい」ことでも書くべきこととそうでないことははっきり分けて考える必要があります。

暗象的に書くと、所見というのはその子のためになるウソを書く所なんだね。

 「正しい」ことをすべて書かないというのは、「嘘」を書くという意味ではありません。
 「正しい」ことのうち、書くことと書かないことを分けるという意味です。

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教育」カテゴリの記事

コメント

┐(´д`)┌ヤレヤレ
>通知表の内容については、保護者がその文面を読んで聞きたいことを子どもに聞き、子どもが話したいことを親に話し、それでも不明・疑義のあるものであれば担任に聞く、そういうことでよろしいのではないでしょうか。

そういう関係が成り立っていない家庭が多いと嘆くくせに、それを求めるんだね。暗象の理屈は、自己中すぎて疲れるんだけど。まぁ、いいよ。所見のサンプルさえも書けないことがわかったから。その程度の“先生”が語っていることだと思って読むよ。

>「学校で身に付けさせる力」は明確にあるのであって、これは「傲慢」ではなく学校側の「説明責任」として果たさねばならないものです。

身につけようと努力することは否定していないって。それで給料もらっているんだから。ただ、子どもが身につけたものを指して、私たち(学校)のおかげだと言うのは、驕りでしょ。
私自身のことを考えると、マンガやテレビドラマ、フォークソングなどより、学校の先生の影響力は小さかったと思うよ。
説明責任として必要なことは、○○のために□□しています…程度でいいんじゃないの?

>まさに「主観」にかかわる内容だからですが、この選択に失敗する教師がどのようになるのかは、ご経験が物語っていますか?

しなきゃいけないことをするより、しなきゃいけないことは、しないほうがいいのでは?
失敗する可能性の方が高いのに、それをしてしまうから信頼を損ねるんだよ。
暗象の主張は、先生の信頼を損ねる結果につながることが多い。結果から過程の間違いを見つけ出すことができないのか? あっ、だから公務員なんだ。

(私)>子どもと教師や子どもと保護者との関係性の中で決まるもの
(いちろうさん)>私は子どもの担任が男か女か、年齢はいくつで、教科が何かということさえも知らない。通知表というのは、そういう私へ向けて書くから、学校へとりに行かなきゃいけないんじゃないのか?
こういう感覚でいる親として、暗象の理屈は意味不明。

教師と保護者の関係性は、いちろうさんとお子さんの担任のような関係もあれば、授業参観や学級懇談に参加している親と担任の関係もあり、さまざまでしょうね。教師と保護者の間でだけ通じる話というのもあるわけです。
通知表の内容については、保護者がその文面を読んで聞きたいことを子どもに聞き、子どもが話したいことを親に話し、それでも不明・疑義のあるものであれば担任に聞く、そういうことでよろしいのではないでしょうか。

(私)>学校での成長度合いを「保護者ならわかっているでしょうね」などと言う傲慢な態度を学校がとれるわけがありません。

(いちろうさん)>いゃ〜っ、すごく傲慢なんだけど。ゴーマニズム宣言より傲慢。
そもそも、人が成長することに対して、この部分は学校で成長しました、この部分は家で成長しました…と分けることへの傲慢さというか、驕りについて気づいてもらいたかったんだけど、より傲慢な返答が来た。

学校教育は、学校が設定し教育委員会に受理された教育課程に基づいて、計画的・意図的に実践されていくものであり、目標管理や進行管理などを行ってたえず実践を評価していくものです。ですから「学校で身に付けさせる力」は明確にあるのであって、これは「傲慢」ではなく学校側の「説明責任」として果たさねばならないものです。

(いちろうさん)>で、なんで

>子どもの成長のためには教師と保護者との会話がなければ難しいのではないでしょうか?

となるんだ?
論理的に矛盾していないか?
成果は私のおかげ、失敗はお前らのせい…という、ある意味、このブログに貫徹されている思想だけど、それを日々批判していることに気づいてよ。

私がいちろうさんに気付いていただきたいのは、学校側が果たすべき説明責任にはさまざまなものがあるということです。
これは、このような文章を読んでも始まりません。
以前から申し上げていますが、現場に足を運ぶことなく、教育の問題は語れないと思います。
別に担任の名前くらいは・・・などと言いたいわけではなく、子どもの成長に教育(あえて広い意味をもたせるために書きました)がどれくらい役に立っているのかを見極めてほしいと思うからこそです。
目先の失敗・成功も大事な場面は大事になるかもしれませんが、「現実を知ろうとしないこと」が最もおそろしいことではないのでしょうか。

(私)>「正しい」ことのうち、書くことと書かないことを分けるという意味です。

(いちろうさん)>「正しい」かどうかを判断するのも、たくさんあるものの中から取捨選択するのも、先生の主観なんだよね。先生って、何様なんでしょうね。

正しいにカギ括弧がついているのは、まさに「主観」にかかわる内容だからですが、この選択に失敗する教師がどのようになるのかは、ご経験が物語っていますか?

w(゚o゚)w
>…という設問にしたら、調査をやめさせたい人には十分に有効な結果が出ない恐れがあります。

官僚主義的な設問をありがとう。ただの施策の実施状況調査だけど、広義にはアンケートなのかな? 最後に「全国学力テストを続けるべきですか」とか一つ付け加えることが大切なんじゃないの? あっ、アンケートの主体も隠すべきだね。
役人というのは、上から実施状況調査がくると、必ず肯定的に書くことが身についている。基本的に政策が変わらないことを前提にしているから、否定的に書くと、嫌なことをさらに細かく強制されたり、締めつけが強くなることを知っているから。

>「全国学力・学習状況調査」の趣旨自体が誤解される恐れが多分にあることを指摘したのです。

本音(実態)と建前(言い訳)が違うのは、時間がたてば顕著になるだけだよ。3年後ぐらいが楽しみだね。

>子どもと教師や子どもと保護者との関係性の中で決まるもの

何度も言うようだけど、意味不明。
さらに、前回主張していた関係性が三角形とすると、今回は2本の棒?
たしかに、私は子どもの担任が男か女か、年齢はいくつで、教科が何かということさえも知らない。通知表というのは、そういう私へ向けて書くから、学校へとりに行かなきゃいけないんじゃないのか?
こういう感覚でいる親として、暗象の理屈は意味不明。

>学校での成長度合いを「保護者ならわかっているでしょうね」などと言う傲慢な態度を学校がとれるわけがありません。

いゃ〜っ、すごく傲慢なんだけど。ゴーマニズム宣言より傲慢。
そもそも、人が成長することに対して、この部分は学校で成長しました、この部分は家で成長しました…と分けることへの傲慢さというか、驕りについて気づいてもらいたかったんだけど、より傲慢な返答が来た。

で、なんで

>子どもの成長のためには教師と保護者との会話がなければ難しいのではないでしょうか?

となるんだ?
論理的に矛盾していないか?
成果は私のおかげ、失敗はお前らのせい…という、ある意味、このブログに貫徹されている思想だけど、それを日々批判していることに気づいてよ。

>「正しい」ことのうち、書くことと書かないことを分けるという意味です。

「正しい」かどうかを判断するのも、たくさんあるものの中から取捨選択するのも、先生の主観なんだよね。先生って、何様なんでしょうね。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「子産(下)」より
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    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より