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「暗象」の人物像 その2(コメントより)

 8月の「人物像」です。

 暗象からは、明るい社会が見えないんだよ。(8月1日)

 日本の子どもたちの「学校生活満足度」は、どのような質問項目によって測れるのか?
 この試案の比較だけでも「学校に何を望んでいるか」という価値観が分かていることがわかりそうです。

 今の学校は、相当なバッシングを受けているのもかかわらず、けっこう「明るい」のではないでしょうか。
 それは、公立学校の教師は身分保障が絶対的であること。
 つまり、開き直ればバッシングも「何それ?」ですんでしまうこと。
 程度にもよりますが、謝ればすんでしまうこと。

 いちろうさんは私が成果主義的なことを述べているので反発されているのでしょうが、繰り返し述べているように、そんなことで暗くなる暇は学校にはありません。
 失敗を分析しそれを避ける方策の追究を怠る姿勢を問題視しているだけであって、「明るい社会」が何の努力もせずに達成できれば何も言うことはありません。

 私は労働運動の関係で、日教組の人を何人も知っているが、少なくとも私の知る範囲の先生は、子どもたちが出て行く社会を良くしようという努力をしている。(暗象だけではなく、日教組の看板を上げているすずめさんからもそういう部分が見られない・・・(同日)

 いちろうさんが「社会を良くする努力」を教師に求めていることは理解できますが、私にできる範囲のことは「学校を良くする努力」です。

 頓珍漢で意味不明なことも多いが、ここ最近出会った中で唯一、先生なんだろうな、と思っています。(同日)

 後日、この人物像はくつがえってしまうことになります。

 日本社会の矛盾に目を向け改善する努力をしないで、子どもたちをそういう世に送り出すのは、無責任じゃないの?(8月2日)

 だれも暗象に労働運動をしろとか、日教組へ入れとは言わないさ。ただ、○×しか答えのない頭の中味が問題だと言っている(同日)

 暗象の目は、ピラミッド型の組織の上の方にいて、子どもだけじゃなく、親までも含め、しもじもを見るように対応している(同日)

 実際には、ピラミッド型の底辺にいるのですが・・・。

 ロールモデルまでつくって、紋切り型のマニュアル先生を増産(8月6日)

 今、若い教師が「理想の教師」と呼べる人は職場にどのくらいいるのでしょう。
 それぞれの教師の良いところを組み合わせて、自分なりの「ロールモデル」を形成してもらうのが一番です。
 「紋切り」型になってしまうとしたら、教師を見る目のない教師ばかりだから、ということになります。

 隙がないから人間味がないんじゃなく、ポリシーのないマニュアル型の人間味がないんだよ(8月7日)

 日本では「人間味がない」というのが相手を貶めるのに最も有効な言葉の一つですね。

 自分から家族や地域、社会へ関心を広め、そこでどう生きるのかという部分のない人間が、何を教えてもダメでしょう(同日)

 教師一般に語られている、究極のダメ出しですね。

 何はともあれ、何でも賛成というのは、暗象の文科省に対する姿勢であり、同じ暗象は他方で何はともあれ何でも反対という姿勢を見せています。集団としての差はもちろん、個々の差もあれば、個人内でも差があることを、もっともらしい理屈をつけて自説へ導くやり方が、偉そうで嫌いだ。しかも、自覚していない。
 素朴に、どうしてこんなに“偉い”人間ができたのかが、不思議でならない。(8月13日)

 私の主張が文科省に何でも賛成ではないことは、過去の記事をお読みいただければわかります。
 「もっともらしい理屈」というものをもっと読みたいものです。

 暗象にはコミュニケーション能力がほとんどないと思っている。(8月17日)

 コミュニケーション能力のない相手と、かれこれまる四ヶ月以上おつきあいされているいちろうさんはすばらしい根気のある方です。

 過保護で管理主義的との批判をしてきたけど、ここへ来て、その理由がわかってきた気がします。基本的に、他人を信じていないんですよね・・・暗象のブログを読めば読むほど、先生への不信が募るのは、暗象は心の底では、どの先生も信じていないからなんだろうなあ(8月27日)

 8月はUPした記事が多かったので、コメントもたくさんいただきました。

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教育」カテゴリの記事

コメント

( ^ω^)おっおっおっ
>指導力がないおかげで、子どもがどんどん成長しているようです。結果としては大成功ですね。

それはいいことだね。

じゃぁ、指導力不足を攻撃するのは、不思議だ。
あっ、あったな…、そういうの。
自分に攻撃の矛先が向かないように、
他人を批判して貶め、自分より下に思わせる。
弱い人間が陥りやすいパターンだ…。
そういや、それで「暗象」にしたんだった。

指導力がないおかげで、子どもがどんどん成長しているようです。結果としては大成功ですね。

( ̄ー+ ̄)
>ここはネット上の話ですね。

そうだよ。
で、こういうのを誠意がないといっています。

>何の実践もしていないからでしょうかね。

ん。そうだと思う。
日々の記事の思想で実践されたら、
学校がダメになる。
あっ、指導力がなければいいか…

>自分ができないのなら文句を言うな、
協力できないのなら批判するな。
実生活では、いつもそう言っています。

ここはネット上の話ですね。

>暗象は、批判するのは好きだけど、
何の実践もみえない。

何の実践もしていないからでしょうかね。

(-_-メ)
>記事を書くこと自体が批判されることではないですか?

だったら、スルーすればよかったんじゃないの?
おかげで、ブレイクしたんじゃないの?

私は、意見を言うなとは言わない。
けど、自分ができないのなら文句を言うな、
協力できないのなら批判するな。
実生活では、いつもそう言っています。

暗象は、批判するのは好きだけど、
何の実践もみえない。
日々のコメントもそうなんだけどね。

>どうあるべきかを書かなきゃ、ただの文句言いだよ

事故の状況について新聞発表以外の具体的な情報を得ずに憶測を中心に教師が教師の責任逃れと感じさせるような記事を書くこと自体が批判されることではないですか?

私のコメントはそういう意味の批判でもありましたから、ニュース解説のような記事を書かないと申し上げております。

(○゜ε゜○)ノ~~
>「すずめ先生が書いた死亡事故に関する記事」のような記事を書け、という要望をしている時点で、無関係ではないことは明らかですね。

なんで、すずめさんにこだわるの?
「暗象なりの模範解答を書くべき」という主張。
すずめさんの文を評価し、赤ペンを入れるのは先生だから得意だろう。でも、どうあるべきかを書かなきゃ、ただの文句言いだよ。
その意味で、この間、いい題材が出てきているのに、批判していた連中は、だれもがダンマリを決め込んでいる。だから、唯一の先生である暗象に書いてもらいたいだけ。

そうそう、すずめさんに関するかどうかにこだわるということは、以前に指摘した「分析記事=管理手法」というものから抜けれない証明なんだろうね。
なんだかなぁ…。先生のレベルって…。

記事とは関係なくコメントを進めたいのは、いちろうさんの要望にすぎないわけです。
しかし、「すずめ先生が書いた死亡事故に関する記事」のような記事を書け、という要望をしている時点で、無関係ではないことは明らかですね。
結局いちろうさんは、コメントのやりとりが始まったこのような死亡事故に関する捉え方、記事の書き方にこだわっておられるわけです。
そして、結局は相変わらず同じような「人物像」を描きたいだけなわけですね。
それが苦痛ではなくて楽しみでいらっしゃることがこちらとしても苦しまずにすみ、助かるのですが。

繰り返しになりますが、ニュース解説者ではありませんので。

アチャ〜 (@o@)
>すずめ先生の記事と関係があるコメントでしょう。

ここまで書くと、恥ずかしくない?
人間性を疑われるよ。
それとも、国語力がないの?

説明してあげようか?
まず「記事には関係ないけど」と書きました。
これを読んでいただければ、
>この記事自体が、「暗象の人物像」ですから。すずめ先生の記事と関係があるコメント<
と捉えるのは間違いですね。
私は、他人に厳しく自分に甘い暗象に対して、他人に見せる厳しい基準をクリアした記事を書いて欲しいので、「他人の記事だから批判はできるが、自分は記事を書けないなんてことはないよね」と書きました。
これは、すずめさんがまだ書いていないから求めているのです。… そう、すずめさんと関係ない記事として、どう書くべきかの模範解答を求めたのですが…?

まぁ、書けないから意味不明のコメントをつけているんだろうけど、ある意味、恥ずかしくない?
この程度のことで逃げていたら、日々、他の先生に求めている諸々のことがらすべて、穿ってみられるよ。

>ニュースも好きそうだし、一つお願いがある。
暗象との出会いは、すずめさんの記事だが、
ここへ来て、給食のパンでの死亡事故、
先生の目の前での鬼ごっこでの落下死亡事故と、
学校という場で、しかも先生の目の前で、
死亡事故が起きているのに、なぜ記事にしないの?

すずめ先生の記事と関係があるコメントでしょう。
死亡事故の記事からすべては始まっているわけですから。
記事には関係ないという解釈はいちろうさんだけのものでしょう。

(@_@) あ〜、驚いた。
>この記事自体が、「暗象の人物像」ですから。

記事とは関係なくコメントが進んでいるのでは?
最初のコメントは、
>記事には関係ないけど …略… 暗象の分析記事をお願いしたいのだが?
からはじまっているのだが?

逆に、いつから「この記事」のコメントと受け止めたのかを知りたい。

>そういう「管理」を教師がするから

は、前の

>「ああ、こういうことがおこるから、先生方はふだんから注意しているんだなあ」

を受けてのコメントでした。
分けて発信してしまったので誤解されてしまったようですね。

で、そのような内容について、いちろうさんが最初に私に下した人物像と関連があったので、すずめ先生のブログのコメントのことです、と表現したわけです。

この記事自体が、「暗象の人物像」ですから。

ヤッテラレンワ…ヽ(○´3`)ノ フッ
>すずめ先生のコメント欄でいちろうさんが批判された内容ですが

先日、コメントを付ける記事を間違えた時に、
暗象は
>ことがどこから出てきた話なのでしょうか、という疑問なのですが?そういう「管理」を教師がするから事故がおこる、とおっしゃっていたように記憶しています<
と書いてきたけど、
それ以前に、記事にもコメントにもない「管理」が、どこから出てきたのかを聞いたら、4ヶ月前の他人のブログへのコメントのこと?

暗象の頭の中では、
 分析記事 = 管理手法
ということが勝手に増幅されているのか?

典型的な暗象のコメントの付け方なんだけど…
本当に先生なのか?

子どものいっていることばが理解できるのか?
子育てなんかでよく言われることだけど、
子どもの求めと違うことばかりすると、
子どもが情緒不安定になるんだって。
お腹が空いて泣いたらオムツをかえられ、
ウンコして泣いたらオッパイ飲ませる?

そうそう、その割に、他人を批判するんだよね。
ストライクゾーンを外してくるって … (^_^)

すずめ先生のコメント欄でいちろうさんが批判された内容ですが。

(´ρ`)ぽか~ん
>そういう「管理」を教師がするから事故がおこる、

どういう「管理」なんだ?
学校での死亡事故の分析記事を求めただけだが?

以前、いちろうさんは、そういう「管理」を教師がするから事故がおこる、とおっしゃっていたように記憶していますが、いかがでしょうか。

ここでは記事にしていませんが、生徒たちには機会を見て事故の内容を話しています。

全国の学校でも、「ああ、こういうことがおこるから、先生方はふだんから注意しているんだなあ」と思ってくれる子どもが多いことを期待します。

ニュース解説者ではありませんので。

o(*^▽^*)o
記事には関係ないけど、
ニュースも好きそうだし、一つお願いがある。
暗象との出会いは、すずめさんの記事だが、
ここへ来て、給食のパンでの死亡事故、
先生の目の前での鬼ごっこでの落下死亡事故と、
学校という場で、しかも先生の目の前で、
死亡事故が起きているのに、なぜ記事にしないの?
ぜひ、暗象の分析記事をお願いしたいのだが?
まさか、他人の記事だから批判はできるが、
自分は記事を書けないなんてことはないよね。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「春秋の名君」より
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    「沈黙の王」より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より