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典型的な「私共空間」:高校の生徒喫煙室

 不登校生徒を集めた寮生の私立高校であるとはいえ、また、学校側が「山火事防止のため」と説明しているとはいえ、高校生用の「喫煙室」を設けていたとは、「教育現場の厳しさ」あるいは「甘さ」を物語るかっこうのニュースですね。

 違法行為であろうが、何であろうが、他人に直接的な迷惑をかけないのであれば何でもあり、そういう社会空間を「わたくしども空間」と私は名付けていますが、さすがに私立学校でも、「プライベートな場所だからOK」などという言い訳は通用しないでしょう。

 反社会的行為問題行動を繰り返す子どもに対して、教師側が一定の譲歩をするケースというのがあります。
 
 昔、学年の教員には何の相談もせず、エスケープを繰り返す子どもに「マンガやゲームの持ち込み許可」の宣言をした校長と、教師との間でトラブルになり、結局校長が子どもに謝罪して事態を収拾したというエピソードを聞いたことがありますが、「子どもの要求・わがままを聞く」ことは、たいていの場合、その後の生活指導に多大な重荷となる処置であると言えます。

 このような「校則」を緩める、という、社会的には「そのくらいいいだろう」と思われることでも、生活指導困難校では致命傷になる場合があります。

 さて、「喫煙」と言えば、少なくない教師にとっては、頭痛の種なのではないでしょうか。

 公的機関などでは「敷地内禁煙」が一般化していますから、どうしても吸いたくなる教師は、敷地の外にわざわざ出かけていって一服することになります。が、厳密には、敷地の外に出られる時間帯というのは、決まっています。「法」に照らしてみると、愛煙家には非常に厳しい世の中です。
 嫌煙主義の私たちにとって見れば、たばこの税金はいくら上がろうが心は痛まないのですが、その税金のおかげで世の中が便利になっているというのも、また複雑な話です。

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教育」カテゴリの記事

コメント

(´,_ゝ`)プッ
評論家気取りの芸能人程度のコメントだね。

保護者や外部の理解を得る努力はかなり一般化しましたね。

┐(´-`)┌
黄柳野高校のホームページにある校長のコメントには、喫煙室設置までの経緯や職員間の論議が書かれている。ハームリダクションであるとは言っていないが、考え方がそれに当たる。
暗象の理屈なんか何回聞いても、だからどうすればいいの?…という疑問しかでてこない。具体の姿が全く見えないから、先生であるということさえも疑問に思える。
でも、黄柳野高校のHPの話は、よくわかるし、応援したくなる。

言い訳を考えつけばつくほど信用は失われるものです。

(・∀・)ニヤニヤ
最初のコメントのハームリダクションをご存知ない?

「やめなさい」という一言で喫煙をやめさせることはできない、という意味では、「できない」わけですが、それができないから喫煙させる、というのは指導としては誤りで、「喫煙をやめさせる」ためにできることをやり続けるという姿勢が大事なんですよ。
そういう意味では、指導力不足認定の一歩手前の教師に対する指導でも同じなんです。できないことをできる段階までもっていく努力をする。ものすごい時間とコストがかかりますが。この状況がマスコミに詳しくリークされたら、「税金の無駄遣い」攻撃を受けることになるでしょうが。
でも、やはり、たとえば子どもと一対一で会話できない人を現場に立ち続けさせるのは子どものためにも教師本人のためにもなりません。
校内で喫煙させてしまうことも、子ども本人のためになっているように思えませんね。火事を起こして監督責任を問われないようにする、そんな大人の都合としか思えません。
また、喫煙指導というのは、校舎内で吸わなければ問題はない、というわけではないですよね。
昔、「家で吸っんだから学校で吸っても同じだろう」という親がいましたが、さすがにライターの火で友達の髪の毛を燃やしている子どもからは取り上げなければなりませんでしたし、このような学校と地域には、もっと広く社会の目が向けられなければならないというのが私の主張でした。

(・∀・)ニヤニヤ
>「協力を要請すること」も「自分たちにできること」ですし、

暗象は、できないからお願いすることを認める立場だったんだ。同僚にも認めて欲しいね。(^O^)


>とにかく「指導をあきらめない」ことが重要なのです。

黄柳野高校の校長のコメント読んだら?
それでこんなことが書けるなら、
ある意味、たいしたもんだ。

「自分たちにできることはない」というのはいちろうさんの決めつけですね。
「協力を要請すること」も「自分たちにできること」ですし、とにかく「指導をあきらめない」ことが重要なのです。
喫煙室設置は、指導をあきらめている以上の問題があることは言うまでもないことでしょう。
いちろうさんは「荒れた学校」というのをご存じないのでなかなかご理解いただけないかもしれませんが、教師が子どもにとって「いい先生」ではなく、「都合がいい先生」になってしまっているところというのは、再建に非常に時間がかかるんですね。
「学校へ来る必要はない」という指導をしてしまう学校は問題外です。

( ´,_ゝ`)ハイハイ
じゃぁ、何もできないのと同じじゃないの?
そこに問題はあるが、
それじゃダメだと批判を繰り返し、
自分たちにできることはないから、
他の人たちも協力して…というだけ?
だったら、あの校長の方がいいよ。

「説き続ける」のは、校長だけとか、担任だけとか、校内の教師だけとか、そういうレベルで問題行動に対応している学校も多いですが、今はもっと幅を広めて現場の教育にあつみを持たせることが求められています。
法令に基づく対応は対応として、「強制」ができない教師にできることは、「説き続ける」ことです。

(○゚ε゚○)
>「説き続ける」ことができればの話ですね。

無理だろう。
容易に無理であろうことが想像できる環境だ。
だから、暗象ならどうするかを教えて欲しいのだが?

>説き続けて、禁煙ができたら苦労はしないと思うよ。

まずは、「説き続ける」ことができればの話ですね。

(・_・)エッ....?
>喫煙をやめるように、説き続けるしかないのでは?

それで説得できたら苦労しないのでは?
近所のコンビニでも、中高生がタバコすっている。
非行や不登校でモタモタしていた人たちが、
最後の砦として頼ってくる学校だったんじゃないの?

説き続けて、禁煙ができたら苦労はしないと思うよ。
暗象のことばには、現実味がないんだよなぁ…。

「校長による対処」という発想でもよいのですが、この学校には何人の教師がいるのでしょうか?
「話し合い絶対主義」が大好きな教師ばかりなら、話し合いで決まったはずですが。
「校長の独断」なんでしょうか?
それとも、「校長なんだから、何とかしろ?どう対処すればいいのか?」と教師から言われたのでしょうか?
教師がやれることは一つしかないでしょう。喫煙をやめるように、説き続けるしかないのでは?

(´;ω;`)ウウ・・・
暗象ごときに批判されるなんて…。
テレビで見る限り、暗象なんかよりずっと見識がある実践家だよ。子どもに一生懸命にとりくんでいることが伝わってきたよ。
ハームリダクションだと言い張ればいいのに…と思った。

暗象が校長だったら、どう対処できる?
どうせ、義務教育じゃないんだから、法律を破る奴は学校へ来る必要はないって言うんだろうね。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「子産(下)」より
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    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より