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職員会議を減らして子どもとの時間を増やそう

[教育現場] ブログ村キーワード

 職員会議が、「話し合いの場」だと思っている教師はまだ多いのでしょう。
 そして、まだ学校によっては、毎週のように職員会議が開かれているところがあるのではないでしょうか。

 よく教師は「子どもとの時間が大事」「無駄な研修が多い」と言いながら、「職員会議」を減らそう・なくそう、とは言わないものです。

 実は、この職員会議というものが、公立学校の諸問題の根源的なものを物語っているということは、過去の記事をご存じの方なら気付かれていることと思います。

 それについてもう多くは語りませんが、今でも「職員会こそが重要だ」という考えの教師は少なくないかもしれません。

 なぜ、子どもとの時間を削ってまでそれが必要とされるのか。

 一つには、教員の仕事がきちんと組織化されておらず、責任の所在もあいまいで、担当者が全員の承諾を得ないと実行できないというまるで「学級会」のような事態が残存しているからです。
 行事の運営などは、原案を事前に配布し、意見があれば期日までに担当者に個別に示し、それを受けて担当者が調整して、ではこれで、と決定版を配れば、後の連絡・確認は重点事項にしぼってすんでしまうはずで、これを職員会議で長々と説明したりその場で「話し合い」をする必要はないわけです(もちろんそのときまで気付かなかった重大なことは確認されるべきですが)。

 第二には、管理職が同席している場で意見を言うことこそ意味があると考えている人たちがいるからです。
 普通、職員会議に提出される議題は、事前に分掌や学年等で練られたものであり、意見調整がすんでいるものが多いのですが、小さい人数の会議の場では意見を言わない人が、職員会議でいきなり異議を唱えたりすることがあるのです。

 第三には、学校には「全員の話し合いで決まったことが絶対だ」という「全員話し合い絶対主義」の空気が残っているところがあって、子どもが教師から指示を出されてその通りに実行するようなスタイルを、教師対教師の関係では取りたくないと考える傾向があるからです。
 子どもの提案を取り入れようとするような議題ならまだしも、きちんと担当者(担当組織)が決まっていて、その教師たちがこうしよう、と提案したものに「話し合い」が必要となるような持っていき方は、提案として出る時点でまず大きな問題があることに他なりません。
 
 実は、会議の持ち方、意思決定の在り方そのものに、学校は課題を抱えており、時間ばかりかかって生産的なものがないことを危惧する人たちによって、民間のノウハウの導入民間人の登用などが叫ばれる背景の一つにもなっているのです。
 
 本当の意味で「話し合い」が必要な場では「話し合い」をせずに、的はずれなところで「話し合い」を持とうとする。
 このような人たちが主幹教諭などの新しい職を批判するとき、「私たちのやり方が壊される」という考え方を示すのでわかりやすいのですが、原案検討の段階でしっかり話し合うとか、意思決定を早くして、子どもとの時間を増やした方が本来の教育ができるのでは?という問いかけには、どのようにお答えになるのでしょう。

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教育」カテゴリの記事

コメント

ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…
>ここではモチベーションを上げるのにどうしたらよいかということを話題にしているわけではありません。

そうなんだよ。そこが問題。
モチベーションを下げようと思っていないのに、
下げてしまう組織運営だと批判したんだよ。

一生懸命にやって、前よりダメにする人って、
自覚すればすむんだけどね。

石の運び方まで教えないと動けない人もいますからね。
でも、普通の教師は子どものモチベーションを上げるのに熱心であるべきで、当たり前のことが当たり前にできない人の面倒を見るのはたいへんなロスになります。
ここではモチベーションを上げるのにどうしたらよいかということを話題にしているわけではありません。

(´,_ゝ`)プッ
別に「職員会議」に限定していないよ。
組織運営上、何を大切にするのかという問題。
よくある話で、
大きな石を運んでいる人夫に、
「あなたは何をしているんだ」と質問した時に、
「石を運んでいます」という人と、
「お城を造るために、石を運んでいます」という人、
どちらのモチベーションが高いかは、
暗象でもわかると思います。
じゃぁ、モチベーションをあげるのに、
仕事の意味を文書やことばで伝えるだけでいいの?
そんなんじゃダメだよ…という話。

組合が嫌いなのはわかるけど、
その思いで、周囲をねじ曲げて見ているんだよ。
自分のコメント、読み直してみたら?

職員会議に「モチベーションを上げる」ことを求めるタイプの教師は、実は自分の逃げ道を確保していることにもなるんですよ。
それは、話し合いがうまくいかなかったときに、「職員会議は校長が主宰するものだからだめなんだ。悪いのは管理職だ。全員で話し合ってもだめなんだから、だめで仕方がないんだ」と。
これが、自分たちが責任をもって運営する、管理職のかかわらない会議・グループだと、結局うまくいかなかったときの責任は自分たちに問われてしまいますから。
モチベーションは分掌組織や学年単位でいくらでも高められるのが学校なんですけれども。
全員が集まらないと士気が高まらない学校というのはある意味で危機的です。
昔で言えば、組合の人たちが管理職を攻撃してモチベーションを高めるのが職員会議だったのですが、今では周囲の教師から露骨に表現されるうんざり感に耐えて発言している方が気の毒です。

( ^ω^)おっおっおっ
関係ないと思ってスルーしていたけど、
こりゃ、ダメだわ。
働く人のモチベーションを下げるための
もっとも有効な手段だね。

再春館製薬所のCMで、
「認識一致の太鼓」っていうの知っている?
リンク
http://www.saishunkan.co.jp/domo/cm/cm_ninshiki.html

巨大企業や官僚機構のマネをしても、
末端の現場は活性化しないよ。
元気のある中小企業から学ぶべきでは?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より