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「日本の教育を考える10人委員会」の報告

[学力テスト] ブログ村キーワード

 「日本の教育を考える10人委員会」が、今年の夏に実施したアンケート調査の結果を公表しています。
 この委員会の性格は、メンバーを調べれば一目瞭然で、現行の教育政策に批判的な人の集まりです。

 今月発表された「義務教育に関する教員アンケート調査」は、その趣旨を読めば結論は先にあることがよくわかります。さらに、個別の「質問文」を読めば、自分たちの主張(批判)に適した回答が得られるようになっていることがわかり、ある意味で非常に「わかりやすい」結果が出ているのと同時に、今の教員の実態がわかる内容になってしまっています。

 アンケートの趣旨は、「今日、様々な教育問題が浮上する中、義務教育の質向上のために新たな教育制度の導入・検討が進められています。しかしながら、それらの制度は教育現場の事態や教育を担う教職員の意向にはそぐわないものも多く、現場の実態を踏まえた上での議論が必要です(・・・以下略)」という言葉で始まっています。

 たとえば、「全国学力・学習状況調査」の実際の趣旨を踏まえることなく、以下のような質問項目を用意していました。

 

平成19年度から文部科学省によって全国学力・学習状況調査が行われています。今後、児童生徒の学力を把握するために、どのような方法がよいと思われますか。あなたご自身の考え方にもっとも近いものを一つ選択してください。(【 】内は結果の%)

 1 引き続き全員参加の全国一斉学力調査を行う必要がある 【21.2】
 2 全国調査の必要はなく、全国から調査校を一部抽出して学力調査を行えばよい 【29.7】
 3 全国調査の必要はなく、各自治体で行われている学力調査でよい 【43.6】
 4 その他」

 この質問文の問題点としては、まず、「児童生徒の学力を把握」とありますが、どのような「児童生徒」をさすのかを示していないことが挙げられます。
 「日本の」なのか、「自校の」なのか。
 3の選択肢が用意されているのがミソで、「各自治体で行われている学力調査」で「日本の児童生徒の学力」を語ることはできないので、せまい範囲で「児童・生徒」をとらえるような誘導になっています。

 まさか「定期テストで学力は把握している」などという「考え方」は回答の想定にはないはずなのですが、1~3の選択肢が結局は「全国学力・学習状況調査」は必要なのか、どうなのかということを聞いています。

 「学力を把握すること」だけが「全国学力・学習状況調査」の目的ではないのに、それだけを目的としているかのように見せかけているのも問題点の一つです。
 学力調査は、中学校では国語・数学以外の教師にはそもそも関心がなく、趣旨を知らないで回答している可能性も考えられます。

 他にも、教師の実態がわかる質問に、以下のものがありました。

 

現在、あなたは次のような業務について負担を感じていますか。それぞれの業務について、あなたご自身の考え方にもっとも近いものをそれぞれ一つずつ(負担である、どちらかといえば負担である、どちらかといえば負担でない、負担でない)選択してください。 (【 】内は上記の4つの回答結果の%)

 教員評価・学校評価 【41.4,38.4,15.0,5.2】
 保護者・PTA対応 【37.9,37.5,18.8,5.8】
 会議 【27.0,47.6,20.0,5.4】
事務 【30.1,41.0,22.8,6.2】
生活指導 【23.8,40.1,27.7,8.5】
 学校行事 【15.1,42.7,31.6,10.7】
 研修 【20.8,37.0,33.2,9.0】
成績処理 【18.2,36.6,33.1,12.2】
 部活動・クラブ活動 【27.3,23.5,26.5,22.8】
 教材開発・授業準備 【14.2,34.6,36.1,15.2】

 以上は小中一緒にしたデータで,小中別にすると,たとえば中学校の部活動の負担を訴える教員が約7割を占めるようになりますが,他のデータは小中別の差はあまり見えません。

 この質問の問題は,「負担」と呼んでいるものが,「精神的」なものか,「身体的」なものか,それとも「質・内容」のようなものか,「時間」に対するものなのか,全くあいまいになってしまっていることです。

 そういう問題を解消するには,それぞれの準備や対応に費やされる時間をそれぞれ具体的に記入させることが考えられます。

 そうすれば,この程度の時間ですむものにこんな「負担感」をもっているのだなあということや,こんなになぜ時間が必要なのか,と無駄が発見できたり,この程度の時間しかやっていないのか,ということがわかったりします。

 「現場の実態を踏まえた上での議論」をするためには,このような調査こそ重要なのです。

 結局,このような「負担感」だけを聞く質問というのは,質問された人間の質を落とす効果が高く,子どもがつくって生徒にやらせようとする調査ならすぐ練り直しを要求するタイプのものです。 
 しかし,実施者の望みどおりの結果が得られる可能性が高い「わかりやすい」質問ではあります。

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教育」カテゴリの記事

コメント

( ̄ー+ ̄)
>子どもがつくって生徒にやらせようとする調査ならすぐ練り直しを要求するタイプのものです。 

うん。批判はわかった。
最近、先生は負担が多く精神疾患が増えているという記事をよく見る。先日は、1年目の先生が何百人も辞めて、その多くが心の病という記事を見た。
暗象は、その状況を分析し解決策をとるにはどんな設問がいいと考えるんだ?
模範的な設問を示してくれ。
もちろん、15,000人のデータとして集計できるものにしてね。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より