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子どもの成長と教師・保護者の関係2

[教師] ブログ村キーワード

(いちろうさん)>「教師も育てるいい機会になる」という意識は、自分は1歩下がった評価者であり、自分より未熟なものがその仕事にあたればいいというもので、一緒に汗を流そうとせずに、できたものの批評ばかりする奴(暗象)がいると、効率が悪くなるという意味で書きました。

 「教師も育てるいい機会になる」という意識は、評価者としてではなく、過去の経験から教師としての成長が実感できる時期・場面・機会というのを知っている立場の人間としてもっているものです。
 記事の中でも述べているように、「教師として育てる」ことを意識した動きをするときは、他の教師たちのフォローやカバーが必要なのであって、黙って見ていればよいわけではありません。
 一歩下がった評価者ではなく、実践者として一歩下がってあげて、実力をつける機会を保障すること、その不足や失敗を補うことが「教師を育てる教師」の役割です。
 ごくまれに、すべてを任せきることができる実力をもった教師もでてくるかもしれませんが。
 結果として「教師を育てること」を怠って「あのときああすればよかった」と言っても何の意味もないわけで、いちろうさんは本文の一番大切なところ(というよりも、教師がもっている自然な教育欲)を読み落としてしまわれたわけですね。

(いちろうさん)>ねぇ、このブログが「あのときああすればよかった」というようなことの積重ねなんだけど? 何の意味もないことが、暗象のまわりにあふれているから、このブログがあるんじゃないの? 不思議なことだ。 見たこともない、うわさ話で成り立っているブログなのか?

 このブログでは、単に若い教師の陥りがちな問題にふれているだけでなく、ベテランでも失敗する事例を紹介しています。
 いちろうさんのコメントへの返答自体が、失敗事例として学んでもらえる対象になっています。

 なお、上の文脈における・・・結果として「教師を育てること」を怠って・・・とは、特定の条件のもとで語っていることですから、明らかに一般論としての失敗とは別次元のものですね。
 一般論としての「あのときああすればよかった」と失敗に気付ける失敗なら改善の余地がある分、まだましなことかもしれません。

(私)>子どもと教師や子どもと保護者との関係性の中で決まるもの (いちろうさん)>私は子どもの担任が男か女か、年齢はいくつで、教科が何かということさえも知らない。通知表というのは、そういう私へ向けて書くから、学校へとりに行かなきゃいけないんじゃないのか? こういう感覚でいる親として、暗象の理屈は意味不明。

 教師と保護者の関係性は、いちろうさんとお子さんの担任のような関係もあれば、授業参観や学級懇談に参加している親と担任の関係もあり、さまざまでしょうね。教師と保護者の間でだけ通じる話というのもあるわけです。
 通知表の内容については、保護者がその文面を読んで聞きたいことを子どもに聞き、子どもが話したいことを親に話し、それでも不明・疑義のあるものであれば担任に聞く、そういうことでよろしいのではないでしょうか。

(いちろうさん)>そういう関係が成り立っていない家庭が多いと嘆くくせに、それを求めるんだね。暗象の理屈は、自己中すぎて疲れるんだけど。まぁ、いいよ。所見のサンプルさえも書けないことがわかったから。その程度の“先生”が語っていることだと思って読むよ。

 ここではふれていませんでしたが、保護者からの通信欄が含まれる通知表はどのくらいあるのでしょうか?
 そうでなければ、別の様式で通知表を確認していただいたことを学校が確認するようなシステムはある程度できていると思われますが。
 (でないと、子どもが保護者に見せずに勝手に判子だけついて持ってくるケースがあるため)

(私)>学校での成長度合いを「保護者ならわかっているでしょうね」などと言う傲慢な態度を学校がとれるわけがありません。 (いちろうさん)>いゃ〜っ、すごく傲慢なんだけど。ゴーマニズム宣言より傲慢。 そもそも、人が成長することに対して、この部分は学校で成長しました、この部分は家で成長しました…と分けることへの傲慢さというか、驕りについて気づいてもらいたかったんだけど、より傲慢な返答が来た。

 学校教育は、学校が設定し教育委員会に受理された教育課程に基づいて、計画的・意図的に実践されていくものであり、目標管理や進行管理などを行ってたえず実践を評価していくものです。ですから「学校で身に付けさせる力」は明確にあるのであって、これは「傲慢」ではなく学校側の「説明責任」として果たさねばならないものです。

(いちろうさん)>身につけようと努力することは否定していないって。それで給料もらっているんだから。ただ、子どもが身につけたものを指して、私たち(学校)のおかげだと言うのは、驕りでしょ。 私自身のことを考えると、マンガやテレビドラマ、フォークソングなどより、学校の先生の影響力は小さかったと思うよ。 説明責任として必要なことは、○○のために□□しています…程度でいいんじゃないの?

 もしかしたら、いちろうさんが「子どもが身につけたもの」と呼んでいるのは、「礼儀正しく真心をもって人に接する態度」とか「謙虚な心をもち、広い心で自分と異なる意見や立場を大切にする態度」のような、道徳的実践力にかかわるもののことをさしていらっしゃいますか?
 このような力を育てるのは学校・家庭を含むすべての子どもの環境ですよね。
 学校だけで身につく力ではもちろんありません。
 しかし、その評価を公的にしてくれる代表的な場所は学校です。
 さらに、評価・ふり返りに適した時間を提供しているのも学校です。

 学校にはさまざまな道徳的価値の自覚を深める「道徳」の時間というものが存在するわけです。
 その意義は、「○○のために□□しています」だけでもよいのですが、最終的には子どもが自らの言葉で表現される評価で示していくことが必要であり、所見はその確認作業という位置づけもあります。
 道徳性の発達は、他律から自律へが基本であり、それを判断能力から見れば、結果を重視する見方から動機をも重視する見方へ、主観的な見方から客観性を重視した見方へ、一面的な見方から多面的な見方へ、などの発達を促す必要があります。

 まだ小学生では教師がそのような発達の手助けをしてくれていることが自覚できないのでしょうが、中学生にもなると違ってくると思います。

 いちろうさんは、教師の指導に基づく成長の実感は子どもに感じられるはずがない、という前提で、私たち(学校)のおかげでこんなに力がつきましたなどという発言はおかしいとおっしゃっているようですが、社交辞令でない「先生のおかげで~」は世の中にいくらでもありそうではないですか?
 教育のおかげだぞ、と教師が胸をはるくらいの自信は大事だと思いますが、それがただの奢りでしかない教師と、本物のプロとして発言している教師の違いくらいは、子どもが一番よくわかっていると思います。

(いちろうさん)>で、なんで >子どもの成長のためには教師と保護者との会話がなければ難しいのではないでしょうか? となるんだ? 論理的に矛盾していないか? 成果は私のおかげ、失敗はお前らのせい…という、ある意味、このブログに貫徹されている思想だけど、それを日々批判していることに気づいてよ。

 私がいちろうさんに気付いていただきたいのは、学校側が果たすべき説明責任にはさまざまなものがあるということです。
 これは、このような文章を読んでも始まりません。
 以前から申し上げていますが、現場に足を運ぶことなく、教育の問題は語れないと思います。
 別に担任の名前くらいは・・・などと言いたいわけではなく、子どもの成長に教育(あえて広い意味をもたせるために書きました)がどれくらい役に立っているのかを見極めてほしいと思うからこそです。
 目先の失敗・成功も大事な場面は大事になるかもしれませんが、「現実を知ろうとしないこと」が最もおそろしいことではないのでしょうか。

(私)>「正しい」ことのうち、書くことと書かないことを分けるという意味です。 (いちろうさん)>「正しい」かどうかを判断するのも、たくさんあるものの中から取捨選択するのも、先生の主観なんだよね。先生って、何様なんでしょうね。

 正しいにカギ括弧がついているのは、まさに「主観」にかかわる内容だからですが、この選択に失敗する教師がどのようになるのかは、ご経験が物語っていますか?

(いちろうさん)>しなきゃいけないことをするより、しなきゃいけないことは、しないほうがいいのでは? 失敗する可能性の方が高いのに、それをしてしまうから信頼を損ねるんだよ。 暗象の主張は、先生の信頼を損ねる結果につながることが多い。結果から過程の間違いを見つけ出すことができないのか? あっ、だから公務員なんだ。

 子どもに対して、すべての真実を告げることが教育的に意味があるものであるとは確かに言えません。
 しかし、保護者に対して、もし真実を知らせることが教師の信頼を損ねる結果となっても、それを隠すことは避けなければなりません。
 学校選択自由化が行われたから、保護者が真実を知りたくなったというのでは、順序が逆なのだと思いますが、政策はこのように本来あるべき姿に近づけていく効果というのがあるものです。

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コメント

(´,_ゝ`)プッ
>実践者として一歩下がってあげて、実力をつける機会を保障すること、その不足や失敗を補うことが「教師を育てる教師」の役割です。

途中まではいいんだけど『「教師を育てる教師」の役割』と書くところに違和感があるんだよ。結果として「育つ」ことと、意図を持って「育てる」ことは違うことだと思う。その意味で、暗象のいう「実践者として一歩下がってあげて」は、過去のブログ記事から推察して、一歩下がってあら捜しに思えるという程度の話。
どれだけ言い訳を書かれても「同じ目標に向かって一緒に努力している姿」は見えてこない。

>コメントへの返答自体が、失敗事例として学んでもらえる対象になっています。

こんな頓珍漢なやりとりで学べるというのは、レベルが低すぎるんじゃないの?

>別の様式で通知表を確認していただいたことを学校が確認するようなシステムはある程度できていると思われますが。

結局、何が言いたいんだ?
すばらしく的確なコメントの返答だが(嫌みだからね、また勘違いしないで)、私が求めているのは、暗象が通知表に書いている所見のサンプルなんだけど?
随分ハードルを下げたけど、結局、何の具体も書けないところに胡散臭さがある。

>道徳的実践力にかかわるもののことをさしていらっしゃいますか?

まただ。勝手に解釈して自説の主張に使わないでよ。
人として成長することの全体を指しています。なんで切り分けしたいんだ。一人の人間の中にあるものだろう。
国語や算数の知識を身につけたといえば、学校では…と語りたくなるのはわかるけど、全然、向いている方向が逆だね。

>教師の指導に基づく成長の実感は子どもに感じられるはずがない

どんなフィルターをかけているんだ?
実感としては、暗象がいうほど上位じゃないよ。先生がそんなに偉いと思っているところに違和感があるんだよ。街角でお得意のアンケート調査でもしてみたらどうだ? 「自分の成長によい影響を与えたのは何ですか?」と。もちろん、親や先生、友人だけではなく、テレビやマンガなども選択肢にいれてね。きっと先生なんてかなり下位だよ。

>以前から申し上げていますが、現場に足を運ぶことなく、教育の問題は語れないと思います。

まただ…。
だったら、このブログは意味ないじゃん。
現場に足を運べば、そこの姿の一部がわかるだろうけど、すべてがわかるわけでもないし、ましてや、その現場のすべてを理解したからといって、日本全国の現場を理解できるわけじゃない。

>学校選択自由化が行われたから、保護者が真実を知りたくなったというのでは、順序が逆なのだと思いますが、政策はこのように本来あるべき姿に近づけていく効果というのがあるものです。

またこっちかよ。
学校選択の自由化って、本来あってはいけない方向へ進める施策じゃないの?  先日の新聞では、先行していた所で見直しがはじまったって書いてあったよ。
だいたい、暗象の説を読めば読むほど、間違えていると思う。公立学校は、どんなにがんばっても私立の学校や塾にはなれないんだよ。また、そうなったら困ることに暗象は気づいていない。
教育を商品化させて消費者に選ばせる意識を持たすことは、教育を矮小化していくことになるんじゃないの?
まぁ、暗象は矮小化しているから、学校で身につけているとか評価できるとか主張しているんだろうけどね。
若者に対して、「ありゃ〜」と思う度合いが増えたのは、私が歳をとったというより、暗象みたいな先生が増えたからなんだろうね。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「子産(下)」より
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    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より