「悪い成功」と「良い失敗」
TVで野球をよく観戦し、解説をお聞きの方であれば一度は耳にしたことがあるかもしれないものに、「悪いファインプレー」と「良い(仕方がない)エラー」というのがあります。
言い方を変えれば、「悪い成功」と「良い失敗」です。
スポーツ(だけとは限りませんが)は結果オーライという言葉があるように、「結局、どうなったか」が問われる世界ですが、その過程を見て、「よいプレーだったのか、そうでなかったのか」を問う姿勢というのは、たとえば監督、コーチ、広く言えば教育をする立場の人間にとっては、欠かせないものであるかもしれません。
仕事のスタイルでも、勉強のスタイルでも、基本的なあり方というのをおろそかにしていては、先が危ぶまれる。
たとえば、そのときはファインプレーを見せた選手でも、守備位置自体を誤っていた結果、そうなったということでは、今後、本当の凡ミス、試合の勝敗を左右するようなミスをしでかすかもしれない。だから、結果オーライだが、もう一度基礎に戻って練習を積んでいく必要がある、そういうことです。
守備位置も計算され、準備万端で、難しい打球にも積極果敢に臨んでいく、そういうプレーをしている選手には、基本的信頼感がもてるわけです。
「教科書」という「主たる教材」を、どのように扱って教えるのか、学ぶのか。
その基本を誤っている教師、子どもは、それ以外の「仕事の基本」「学習の基本」もおろそかになっている可能性が高い。
そのとき、だれかが忠告すること、助言すること、軌道修正すること、基本を確認することはできなかったのか。
「殺人予告」だけでも大きな罪だと思いますが、実行犯にならずにすんだのが幸いです。
しかし、予告を実行にうつすという行動だけでも食い止めることはできなかったのか。
現場にいる人間が、全員鋭い「現場感覚」をもっているとは限りません。
「現場を知らない人間に何が言えるのか」という反論も感情としては理解できますが、基本となる「仕事のやり方」はその現場ならではというより一般的なものがあるはずで、それに照らしておかしいものはおそらくおかしい。
たとえば、電話でアポイントメントをとったときに復唱するかしないか、電話を受けて、対象の教師が不在だったときに、受け手の自分の名前をきちんと名乗るかどうか。
電話という場面でこの2点をとっても、きちんとできない「現場」はありませんか?
もちろん、原因のすべてが「現場」にあるのだと断定するわけではもちろんありませんが、「現場」ができたことは何だったのか、できることは何か、すべきことは何か、を問い続けることが必要だと思います。
それは、「悪いファインプレー」で何とか生き残っている学校には特に念頭においておいてほしいことです。
« 「勘違い・杜撰さ」というキーワード | トップページ | 典型的な「私共空間」:高校の生徒喫煙室 »
「教育」カテゴリの記事
- 教員になりたての人がすぐ辞める理由(2019.01.12)
- 教育は「願ったもの勝ち」「言ったもの勝ち」ではない(2019.01.08)
- 「一人も見捨てない」は罪な要求である(2019.01.04)
- 列で並ぶこと自体が好きな?日本人(2019.01.01)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント