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「暗象」の人物像 その1(コメントより)

 いちろうさんからいただいている「暗象」の人物像について、私なりに解説をしてみたいと思います。
 ふり返ると、ずいぶんたくさんありましたね。ここまで熱心に批判していただいたことには本当に心から感謝申し上げます。

 「子どもを自分のコントロール化に置くことに重きをおいているように思え」(6月22日)

 子どもがコントロールできずに他の子どもにも迷惑をかけている教師がたくさんいましたね。
 また、危機・危険に対するコントロール能力がない学校・教師が多く見受けられます。
 高校生は別として、小・中学生には健全な自律を支えるための管理は必要であるというのが私の考えです。

 子どもたちの間に、「できる・できない」をベースとしたいじめがあるんじゃないのかという推測(同日)
 中学生でそんな度胸がいるいじめができるのなら、見てみたいものです。
 すぐに(子どもの手によって)つぶされると思いますが・・・。

 目に見えるいじめではなくて、「優越感」によるおごり、「劣等感」による自信喪失によってもたらされる負のエネルギーの処理については神経を使うところです。

 「レッテル貼」・・・子どもに対してそういう対応をしているんじゃないのか(同日)

 仮にこの生徒はこんな傾向がある、というレッテルがあっとして、それが指導に影響したり、評価にかかわる可能性はほとんどありません。子どもは成長し、そんなレッテルはすぐにどこかに吹き飛んでしまいます。
 逆に、そのような傾向ばかりが続くようなら、注意が集まり指導の対象になる可能性も増します。

 ほぼ思考回路の98%ぐらいが同じのあなた(6月23日)

 数十、数百文字のブログの文章で、人の「思考回路の98%」がわかるのでしょうか・・・?
 ある内容についての考えや意見がほとんど同じ、という程度の意味なのでしょうね。

 漢字を読んであげたら、小学校の低学年でもわかる気がするんだけど、学力低下って、子どもたちのことだけじゃなかったのか?(6月24日)

 小学校の低学年との比較ですか。

 誠意大将軍くらいの評価?(同日)

 あなたの浅い認識にも、本当にこれで学校の先生というのが勤まるものなのか、とても不安に思っています(6月27日)

 その程度の人間が先生を続けられるというのが疑問(6月28日)

 あなたが一生懸命にしていることが、大人社会と子ども社会を引き離していることであり、大人社会へ出れない子どもを作っているんじゃないの?(同日)

 そういう教師をたくさん見てきましたね。別に私が作った人ではありませんが。

 自分の文が他人にどうとられるのかに、あまりに無頓着というべきか、唯我独尊的な“偉さ”を振りかざしている自覚がなさすぎ(6月29日)

 批判する側の「恒」でしょうか?

 あなた方とのやりとりで、「先生は自分の間違いを認めない」「先生は詭弁強弁を駆使して逃げる」「先生は自分を偉いと思い他人を見下す」などと評されていたことが、現実のものとして表れ驚きとともに、これからは先生と言う人たちに、不信の目を向けるようになる(同日)

 思い込みや憶測ではなく、事実に即して行動していただけると助かります。

 どうかんがえても、暗象なるものを先生として認められない。この程度の人間で先生ができるのか?(同日)

 やっぱり、ただ気持ちを汲めない頓珍漢?(6月30日)

 上からの指導を無批判に垂れ流す暗象のような人間が学校を混乱させているんじゃないのか?(7月3日)

 無批判に垂れ流すのをやめて、批判すれば現場は混乱しないのでしょうか?

 御上から賜ったものを理解し流布する姿勢が変。(7月3日)

 私のスタンスとしては、公的な発表の内容が現場でしっかり理解されていないことに危惧を抱いており、また、子どもたちが気の毒であると思い、それらについて指摘しておりました。

 暗象さんの主張する学校って、どう読んでいても、殺伐としている。いじめが横行、登校拒否だらけ‥じゃないの?(同日)

 仮に一人の教師の教育観のおかげで全校のいじめが横行したり不登校が増えたりしているのであれば、すぐに改めるべきですね。でも、そんなことがあり得るのでしょうか?

 自己責任を放棄し、他者に責任転嫁し、他の人を見下す上から目線の解説を加え、その結論が「愛情と誠意」だから、私は暗象さんを誠意大将軍と揶揄しています。(7月10日)

 ここでは明確に「揶揄している」と自身のスタンスを述べられていたのですね。

 暗象は、本当に人を育てることができるのか?(7月26日)

 木端役人や中間管理職的な思考を捨て、人としてこうあるべきだ‥というスタンスを確立していないから、人間味が感じられないんだよなぁ~。(7月27日)

 ○×しかないかのような頭だから、ロボットみたいと言うんだよ。(7月28日)

 全く意味不明なんだけど‥。唯一わかるのは、暗象さんの粘着質的性格だけ。(7月30日)

 何かを聞くと文科省様が出てくるが、そういうのを、上からの垂れ流しと言うんだよ。(7月31日)

 >自分はこの学校のために何ができているのか(私のコメント) そんなことを本気で思うのなら、お辞めになるのが子どもたちのためです。(7月31日)
 
 ここまでで、まだ4分の1くらいでしょうか。

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教育」カテゴリの記事

コメント

「暗象」の人間像に関する「読み」のコメントを整理してみます。

(@_@)
暇だね〜
昨晩のコメントの写しをここに付けておくね。

┐(´д`)┌ヤレヤレ

>「暗象」の人間像に関するコメントを今、集めて整理しています。

整理する必要がないのでは?
表現に多少の違いがあるけど、当初に指摘した「暗象のクラスには不登校が多く、いじめがある」に対して、「思い込み」と言われたことに対して、思い込みじゃなくて“読み”であることを証明し続けているだけだから。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より