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2008年11月

典型的な「私共空間」:高校の生徒喫煙室

 不登校生徒を集めた寮生の私立高校であるとはいえ、また、学校側が「山火事防止のため」と説明しているとはいえ、高校生用の「喫煙室」を設けていたとは、「教育現場の厳しさ」あるいは「甘さ」を物語るかっこうのニュースですね。

 違法行為であろうが、何であろうが、他人に直接的な迷惑をかけないのであれば何でもあり、そういう社会空間を「わたくしども空間」と私は名付けていますが、さすがに私立学校でも、「プライベートな場所だからOK」などという言い訳は通用しないでしょう。

 反社会的行為問題行動を繰り返す子どもに対して、教師側が一定の譲歩をするケースというのがあります。
 
 昔、学年の教員には何の相談もせず、エスケープを繰り返す子どもに「マンガやゲームの持ち込み許可」の宣言をした校長と、教師との間でトラブルになり、結局校長が子どもに謝罪して事態を収拾したというエピソードを聞いたことがありますが、「子どもの要求・わがままを聞く」ことは、たいていの場合、その後の生活指導に多大な重荷となる処置であると言えます。

 このような「校則」を緩める、という、社会的には「そのくらいいいだろう」と思われることでも、生活指導困難校では致命傷になる場合があります。

 さて、「喫煙」と言えば、少なくない教師にとっては、頭痛の種なのではないでしょうか。

 公的機関などでは「敷地内禁煙」が一般化していますから、どうしても吸いたくなる教師は、敷地の外にわざわざ出かけていって一服することになります。が、厳密には、敷地の外に出られる時間帯というのは、決まっています。「法」に照らしてみると、愛煙家には非常に厳しい世の中です。
 嫌煙主義の私たちにとって見れば、たばこの税金はいくら上がろうが心は痛まないのですが、その税金のおかげで世の中が便利になっているというのも、また複雑な話です。

「悪い成功」と「良い失敗」

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 TVで野球をよく観戦し、解説をお聞きの方であれば一度は耳にしたことがあるかもしれないものに、「悪いファインプレー」と「良い(仕方がない)エラー」というのがあります。
 言い方を変えれば、「悪い成功」と「良い失敗」です。

 スポーツ(だけとは限りませんが)は結果オーライという言葉があるように、「結局、どうなったか」が問われる世界ですが、その過程を見て、「よいプレーだったのか、そうでなかったのか」を問う姿勢というのは、たとえば監督、コーチ、広く言えば教育をする立場の人間にとっては、欠かせないものであるかもしれません。

 仕事のスタイルでも、勉強のスタイルでも、基本的なあり方というのをおろそかにしていては、先が危ぶまれる。

 たとえば、そのときはファインプレーを見せた選手でも、守備位置自体を誤っていた結果、そうなったということでは、今後、本当の凡ミス、試合の勝敗を左右するようなミスをしでかすかもしれない。だから、結果オーライだが、もう一度基礎に戻って練習を積んでいく必要がある、そういうことです。

 守備位置も計算され、準備万端で、難しい打球にも積極果敢に臨んでいく、そういうプレーをしている選手には、基本的信頼感がもてるわけです。

 「教科書」という「主たる教材」を、どのように扱って教えるのか、学ぶのか。

 その基本を誤っている教師、子どもは、それ以外の「仕事の基本」「学習の基本」もおろそかになっている可能性が高い。
 そのとき、だれかが忠告すること、助言すること、軌道修正すること、基本を確認することはできなかったのか。

 「殺人予告」だけでも大きな罪だと思いますが、実行犯にならずにすんだのが幸いです。
 しかし、予告を実行にうつすという行動だけでも食い止めることはできなかったのか。

 現場にいる人間が、全員鋭い「現場感覚」をもっているとは限りません。
 「現場を知らない人間に何が言えるのか」という反論も感情としては理解できますが、基本となる「仕事のやり方」はその現場ならではというより一般的なものがあるはずで、それに照らしておかしいものはおそらくおかしい。

 たとえば、電話でアポイントメントをとったときに復唱するかしないか、電話を受けて、対象の教師が不在だったときに、受け手の自分の名前をきちんと名乗るかどうか
 電話という場面でこの2点をとっても、きちんとできない「現場」はありませんか?

 もちろん、原因のすべてが「現場」にあるのだと断定するわけではもちろんありませんが、「現場」ができたことは何だったのか、できることは何か、すべきことは何か、を問い続けることが必要だと思います。
 それは、「悪いファインプレー」で何とか生き残っている学校には特に念頭においておいてほしいことです。

 

「勘違い・杜撰さ」というキーワード

 「思い込みと勘違い」
 「綿密さと杜撰(幼稚)さ」
 小泉容疑者を語る上でのキーワードになっているようです。
 アンバランスな印象が強い事実が次々に明らかになっているようですが、自分の気に入っているものが台無しにされた恨み、その恨みをはらす執念の強さだけは理屈では語れないのでしょう。
 「体力的に最後のチャンス」というのを「冷静な分析」とよべるのかどうか。

*******************

 文科省官僚殺害予告で逮捕された東大卒の若者についての記事に関連して、ステレオタイプの感想をわざわざいただくことになり、お手をわずらわせて申し訳なく思いますが、問題は小中高の「教科書」のレベルを超えた世界にいたはずの人間が、なぜ「教科書」という言葉を殺害予告の動機を語る場面で出したのか、ということです。
   
 そもそも、「教科書が先生」、というレベルでは、大学に合格することも、卒論を書くこともできなかったはず。
 大学の四年間で何を学んできたのか。
 なぜ大学を卒業した後に「教科書」が登場するのか。
 
 教科書は単なる教材ですので、そこから自分の思考・精神世界の何がどのように広げられたかが教育では問われており、それはわかりきったことで、もし恨むのであれば、その枠内におしとどめた教師か、その枠を超えさせてくれなかった教師が恨みの対象になるのでは?

 わざわざ逮捕されるのがわかっているブログへの犯行予告ですから、この若者も「言いたいこと」を話し出すでしょう。続報を待ちたいと思います。

教科書「至上主義」の終わり

 文科省官僚の殺害予告をして逮捕された大学生は、「教科書の内容と違う現実を知ってだまされたと思った」などと供述しているようです。

 大学生の話している「教科書」が、義務教育や高校の教科書なのか、大学のテキストなのかはわかりませんが、文科省を恨んだことからすると、検定済教科書のことなのでしょう。

 とすると、自分の教育に関わった親や教師を恨んだわけではないということになりますね。

 この大学生の言うように、教科書の内容というのは、社会の現実とどのように食い違っていたのでしょうか。
 また、教科書以外で、社会の現実を知る機会というのはなかったのでしょうか
 教師は、教科書をどのように使って教えていたのでしょうか。

 実は、教科書使用のあり方については、特に社会科の場合、教師によって様々なタイプがあります。

 ある研修の先生は、「教科書を執筆した先生というのは、授業であまり教科書を使われないんですね」と驚かれていました。

 一方で、教科書の内容を本当にもれのないように丁寧に説明する(理解させることではなく)のが仕事、という真面目な教師もいます。
 義務教育の場合、教科書は「主たる教材」であることと、その内容が(学習指導要領準拠であるので)入試問題作成上の縛りになることから、普通は常に教科書を使わない授業というのは存在しません。

 ただ、社会科の場合は、そこに書かれているのはある問いや課題を想定した上での答えや解説にあたるものであり、「考えさせる」授業、問題解決的な学習を展開するときにはかえって邪魔になる場合があるのです。

 結論をふり返るために、授業のまとめの段階で10分程度しっかり読む、というような形が一つの方法としてはあるもので、そこでは「これはいくつかあるうちの答えの一つ、今のところ、わかっていることの一部でしょうね」というまとめでもかまわないのです。 

 新学習指導要領のもとでの教科書は、「はどめ規定」がなくなったことから、どの会社も内容が増え、厚くなる、と言われています。
 それはとりもなおさず「そこに書かれていることがすべてではない」ことのあらわれでもあります。
 
 教科書「至上主義」的発想がどのようにして生まれてしまったのか、分析してくれる人がいると助かります。

西郷隆盛への評価が高まる時代

 司馬遼太郎が『翔ぶが如く』のあとがきで「よく分からなかった」と記したことでもわかるように、西郷隆盛の人物像は、坂本龍馬のように人々にとって身近なものではなく、「謎が多い」人、よく知られていない人、というのが実際のところなのではないでしょうか。

 有名なところでは、江戸城の無血開城写真を残さなかったこと、西南戦争での自刃
 中学校の教科書では、「征韓論」で対立した政府を去ったこと(この内容については今後書き換えられる可能性あり)も記されています。

 西郷隆盛は、「地位や名誉、お金に関心を示さない」人物で、「どんな小さなことでも正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀用うるべからず」と説いた姿勢から、粉飾決算や産地偽装を行うような経営者を許さなかっただろう、という趣旨の記事も見られました(日経ビジネスの有訓無訓・高柳毅「現代の指導者が学びたい私利私欲を捨てた生き様」)。

 西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」の記事によれば、西郷隆盛関係の史料発見はまだ続けられており、今年発見された書状によれば、明治6年に政府を去った西郷の後に続いて職を辞し、鹿児島に帰った人たちの給料がまだ支払われていることを気にかけており、政府を去ってもその財政難を和らげるために動いていたことがわかっています。

 佐高信は2006年に夕刊フジで「西郷隆盛伝説」を連載していました(今は単行本が出ています)。
 数年前に高柳毅に連れられて佐高信が南洲墓地に行ったときに、自分の故郷の人物が西郷に殉じていたことを知ったことは、この連載を書く上で大きな動機付けになったことでしょう。
 墓地の入り口にある次の「勝海舟歌碑」は、教師が読んでも感じるところのある作品でしょう。

 ぬれぎぬを
 干そうともせず
 子供らが
 なすがまにまに
 果てし
 君かな

「入学してほしくない生徒像」をもつ公立学校

[教師] ブログ村キーワード

 子どもや保護者から見た公立学校の「教師の価値が下がった」ことは、歴史的に見ても、明らかなことでしょう。
 それは学力の保障という狭い意味だけの話とは限りません。
 もちろん、価値が下がっているのは教師だけとも限りません。

 世間の支持が高いものに対しては、反対の態度をとり、自分の身を守ることに対しては、非常に熱心になる。
 そのような姿勢では、子どもから見ても魅力的なロールモデルにはなり得ません。

 大人が「頼りにならないもの」であることがわかってくると、幻滅から自暴自棄に陥る子どももいますが、自己教育力の肥料となり、自律的な行動がとられるようになるという面もあります。
 子どもに価値観をおしつけつつも、それを大人が実行できていないのでは、反発を受けて当然。
 自律的な行動が反社会的なものとしてあらわれてくることも、大人がまいた種であると言えます。

 そういう環境におかれる子どもと、自律的にモチベーションを高め、自らの力を伸ばそうとしている大人に囲まれている子どもとでは、どちらが恵まれているのでしょうか。

 成功イメージを描ける環境にある子どもは幸せなものです。
 そういう意味で、「自律的な生き方をしている大人」に出会える機会を学校が設けるというのは、非常に大きな意義をもってくるものと考えます。

 「教師の価値が下がる」ことは、求められている価値に対して、相応の力が発揮できていないという話であれば、まだ教師が救われる道があるでしょう。
 しかし、その価値自体が求められるものでなくなってしまっているとしたら、存在意義の問題になってきます。
 
 都立日本橋高校で起こった不正操作の問題は、「入試得点というものは、操作可能なものである」ことが明らかになったことも問題でしょうが、「入学してほしい生徒像」とともに、不正操作してまでも「入学してほしくない生徒像」というのがあることが知られたことの方が問題でしょう。
 それは、覆しようのない真実であり、公立学校のあり方の根幹に関わる問題です。

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子どものモチベーション

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 昔は、教師が喜ぶこと、教師に認められることでモチベーションを高めるタイプの子どもが今より多かったように感じています。

 逆に見れば、子どもたちは自分が設定した目標や達成イメージ通りになること、それを超えることに満足感をおぼえるような、「自律型」の人間が増えてきているのではないでしょうか。

 大人の顔色をはかって満足感をおぼえるタイプの子どもは、達成度が低くても励ましの意味で甘い顔をすると、そこで満足してしまって先に進めなくなり、ずいぶん後になって実力を知り、大きな挫折感に見舞われるというケースが出てきます。

 自分のイメージが優位に立ち、それを高く設定できる子どもの場合は、教師の満足度とはかかわりなく、勝手により高いところに登っていってくれますから、誠に頼もしいものです。

 教師にもし、目標とすべきイメージが描きにくいという課題があるのだとすれば、そのイメージを描ける機会を増やすという方策を考えなければなりません。
 それを提供するのは・・・という思考ではなく、自ら求める姿勢こそが求められているわけですが、現状はいかがでしょう。

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教師のモチベーション

[教師] ブログ村キーワード

 教師が自分のモチベーションの在り方を語るとき、それを下げる要因になるものを主張してモチベーションを上げるタイプの人がいますね。

 昔、職員会議の場だけよくはりきっている教師を見たことがありました。
 教室でそれくらいがんばってくれればいいのに、と思うのですが、子どもの前では静かになってしまい、「笑っていればはむかってこない」などと言って生活指導の場からは逃げてしまう。

 人事考課制度にしろ、職員会議の在り方にしろ、自分の職務の在り方をしっかりと見つめればよいものに対して、それではモチベーションが上がらないというのは、「勉強しろ」と家で叱られて「そんなことを言われるからやる気がなくなるんだ」と言っている子どものようなものです。

 なぜモチベーションの向上を外に求めるのか。
 
 そのような批判を外に向かってする教師は、もし生徒に

 「どうして先生はもっと勉強のモチベーションを上げてくれるような授業をしてくれないんですか?」

 と問われたら何と答えるのでしょう?

 教師のモチベーションは、何によって支えられているのでしょう?
 
 昔、あることを続けていて、そんなことをしても給料が増えるわけでもないのに、よく毎日できますね、と言われたことがありましたが、なぜと言われても好きでやっているので・・・やめて下さいと言われたらつらいですが・・・としか答えられません。

 昨日は、霞ヶ関の一室で課長さんとお話をさせていただいたのですが、今は自らやる気をふるいたたせられるようなところではないと相手にされない、ということがよく実感できました。

 何でも人にたよろうとする甘い考えが、自分の首を絞め続けていることを早く認識しなければなりません。

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一年の計は師走にあり

[教育現場] ブログ村キーワード

 学校の教師にとって、「一年の計」はいつにあると思われますか?

 「一年の計」といったら「元旦にあり」とすればことわざどおりなのですが、「何事も始めが肝心であって、当初に周到に計画・準備すべきこと」をいうのであれば、・・・学校は4月ですか?

 とんでもありません。

 私は、「一年の計は12月にあり」と心しています。

 たまたま、私の勤務校の生徒会活動の代替わりが12月に行われるので、新しい組織の構想は12月にスタートします。
 教師もそのサイクルに合わせた方が、仕事に「多忙感」を覚えずにこなしていくことが可能かと思われます。
 
 学校によっては、12月に学校評価の集計を終え、1月にはその結果を踏まえた分析、2月には次年度の教育課程の編成、そして3月には具体的な指導計画づくりというサイクルが確立していると思いますが、「忙しくて12月は無理」という学校があるとすれば、そのネックは3学期制にあると言えます。

 2学期制のメリットは、夏休み前に学期のまとめをしないですむことよりも、12月末にそれをしないですむことの方が圧倒的に大きく、次年度の教育計画づくりにかなりの時間を費やせることにあります。

 まもなく師走ですが、この1ヶ月間で、2009年の動き(あるいはその方向性)はほぼ決定することになります。

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職員会議を減らして子どもとの時間を増やそう

[教育現場] ブログ村キーワード

 職員会議が、「話し合いの場」だと思っている教師はまだ多いのでしょう。
 そして、まだ学校によっては、毎週のように職員会議が開かれているところがあるのではないでしょうか。

 よく教師は「子どもとの時間が大事」「無駄な研修が多い」と言いながら、「職員会議」を減らそう・なくそう、とは言わないものです。

 実は、この職員会議というものが、公立学校の諸問題の根源的なものを物語っているということは、過去の記事をご存じの方なら気付かれていることと思います。

 それについてもう多くは語りませんが、今でも「職員会こそが重要だ」という考えの教師は少なくないかもしれません。

 なぜ、子どもとの時間を削ってまでそれが必要とされるのか。

 一つには、教員の仕事がきちんと組織化されておらず、責任の所在もあいまいで、担当者が全員の承諾を得ないと実行できないというまるで「学級会」のような事態が残存しているからです。
 行事の運営などは、原案を事前に配布し、意見があれば期日までに担当者に個別に示し、それを受けて担当者が調整して、ではこれで、と決定版を配れば、後の連絡・確認は重点事項にしぼってすんでしまうはずで、これを職員会議で長々と説明したりその場で「話し合い」をする必要はないわけです(もちろんそのときまで気付かなかった重大なことは確認されるべきですが)。

 第二には、管理職が同席している場で意見を言うことこそ意味があると考えている人たちがいるからです。
 普通、職員会議に提出される議題は、事前に分掌や学年等で練られたものであり、意見調整がすんでいるものが多いのですが、小さい人数の会議の場では意見を言わない人が、職員会議でいきなり異議を唱えたりすることがあるのです。

 第三には、学校には「全員の話し合いで決まったことが絶対だ」という「全員話し合い絶対主義」の空気が残っているところがあって、子どもが教師から指示を出されてその通りに実行するようなスタイルを、教師対教師の関係では取りたくないと考える傾向があるからです。
 子どもの提案を取り入れようとするような議題ならまだしも、きちんと担当者(担当組織)が決まっていて、その教師たちがこうしよう、と提案したものに「話し合い」が必要となるような持っていき方は、提案として出る時点でまず大きな問題があることに他なりません。
 
 実は、会議の持ち方、意思決定の在り方そのものに、学校は課題を抱えており、時間ばかりかかって生産的なものがないことを危惧する人たちによって、民間のノウハウの導入民間人の登用などが叫ばれる背景の一つにもなっているのです。
 
 本当の意味で「話し合い」が必要な場では「話し合い」をせずに、的はずれなところで「話し合い」を持とうとする。
 このような人たちが主幹教諭などの新しい職を批判するとき、「私たちのやり方が壊される」という考え方を示すのでわかりやすいのですが、原案検討の段階でしっかり話し合うとか、意思決定を早くして、子どもとの時間を増やした方が本来の教育ができるのでは?という問いかけには、どのようにお答えになるのでしょう。

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教師の犯罪が防げない理由

[教育現場] ブログ村キーワード

 勤務時間中に職場を離れて乗馬をしていた教師も、道具を盗んで売っていた教師も、実はいずれも学校における人間や道具の管理がしっかりできていれば、クビにならずにすむ人たちだったわけです。

 そういう意味では、管理職をはじめ、もっとしっかり周囲が「管理」「監督」してあげていれば・・・と思うと、他の関係者にはどのような「責任」があると考えられるのでしょう。

 ・・・しかし、学校というところは基本的に教師や事務職員は一応「信用」されていることになっているので、どうしても、不正の発見が非常に遅くなり、それだけ被害が大きなものになってから見つかって報道されることになります。

 役所の中には、そういうことができないシステムになっているところもあるのでしょうが、学校というところは、本当に「やりたい放題」が可能な場所なのだなということが周知されてしまった感があります。

 初任者研修の初回には、「教師のモラル」「法令遵守について」などに関する研修が組まれていることが多いのですが、さすがにそれを見て「自分はこんなふうにしてクビになりそうだな」と思うような教師はいないはずなのですが・・・。

 教師の犯罪行為がおこったとき、つい年齢を気にしてしまいます。
 低年齢化を心配してのことですが、やはり実際には50歳代が多い。
 ただ、公立学校は50歳代がもともと非常に多いので、発生率では何とも言えません。

 法教育の実践が現場で徐々に広がろうとしていますが、子どもよりも教師の法的リテラシーを高めるのがねらいであるような気までしてきました。

 総合的な学習の時間などは、子どもが調べて発表してくれたことが、教師にとっては新鮮で新しい知識になった、ということもあり、「教師の教育」にも貢献できるものなのですが。

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教師が多忙になる理由の一つが・・・

[教師] ブログ村キーワード

 堀さんからトラックバックでお知らせいただいた記事は、大阪府の女性教諭が2年間、勤務時間中に乗馬教室に通っていたというニュースでした。

 休暇をとっていれば(とれていれば)問題がなかったのですが、そうでなかったので、職務専念義務違反でアウトとなりました。

 教諭は「授業はない時間帯だったので問題ない」という言い訳をしていたそうですね。

 生徒は、教師が職免をとっていないのか、出張なのか、休暇なのか、職員室の掲示を見ないとわからないのですが、この問題は、授業時間以外にこの教師がいなくても、学校として何の問題もなかった、ということが明らかになったことでしょう。

 「教師は多忙するのが問題だ」というキャンペーンをはろうとしている人々にとって、こういうニュースは打撃ですね。
 つまり、このような教師がいるから、一部の教師に仕事が集中していくわけです。

 理由もなく職場にいないことに、2年間も気付かれないですむ、という人事管理体制も問題なのでしょう。

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「たけしの日本教育白書」によるイメージ操作

 「たけしの日本教育白書」で気になったのは、人事考課制度に対する、意図的な、誤解を招く内容の紹介でしょうか。

 プロデューサーは、取材に応じてくれた教師の発言を一方的に取り上げたのでしょう。
 教育委員会は取材に応じなかったと言っていましたが、このような内容について応じられてしまったら、プロデューサーが困る結果になったでしょうね。

 一般の会社でも自己評価に基づく業績評価は普通に行われていると思いますが、一般の会社ですら、その内容が多くの社員の「給与に大きく影響」するところはそれほど大きくないのでは?
 正社員は、基本的には年功序列ではないですか?

 では教師はどうかというと、企業と同様に、「大きく影響」するのはほんのごくごく一握りの人間だけですね。当たり前のことです。
 
 では何のためにやっているかというと、もちろんごく一部の特別昇給対象者、指導力不足教師の昇給停止などの措置の参考になりますが、基本的には給与を決定するためにあるのではなくて、目標管理をしっかりさせるためにあるわけです。

 教師の中には、発表した論文の数、学会発表の回数、執筆した著書等が「業績」の一部として見なされる人がいるかもしれませんが、「売り上げ」「営業利益」「視聴率」などの数字で成果が測れない教育の世界では、個人の「目標管理」がその資質の向上等に大きな力をもっています。

 それと、「研修が教師の子どもとの時間、指導時間を蝕んでいる」という指摘がありましたが、学校というのは組織で動いているものであり、担任一人が学級の全責任を負担しているわけではないのです。
 特に50代後半の教師は担任をもたず、学年全体のことに「経験と実績」を生かしてサポートする役割を担っているわけで、もしこのような人材が全く役に立たないか子どもの前に立たせると逆効果だという場合は研修に出向く担任も心配でしょうがないでしょうが、託児所のような小規模な場所ではない学校では、必ず子どもを見る目はそろっているはずです。
 
 「出張する教師のカバーをする人材がいない」という問題と、紹介された問題は完全に切り離して考えるべきなのです。

 ところで、これらに関するコメントの類はいっさいなく、「教育委員会=悪」というイメージのまま、当日は進行していたようです。
 そういう意味では、忙しい教育委員会はいっさい取材に応じていなかったようですが、できた映像にチェックをかけて、放送前に異論をはさめる条件がついていれば、きっとVTRももっと違ったものになったことでしょう。
 しかし、結局、報道というのは作り手がいくらでも情報操作することが可能であり、自分の都合のよいデータ、証言ばかりを集めて並べるのはとても得意であることが改めてよくわかりました。

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都教委はどんな調査を出すでしょう?

[教師] ブログ村キーワード

 教師が一つでも社会的に反響の大きい犯罪(報道されるようなもの)を犯してしまうと、教師たちが「大嫌い」な調査ものが増えてしまいます。

 今回の学校の道具を盗んでネットオークションで売りさばいていたという事件。
 これによって、また都立高校の教師への信頼が揺らいでしまいました。
 そして、調査をするのは都教委ですから・・・。

 まず、学校予算で購入した備品等を売っていた人間はいないか?
 これを確かめるためには、備品の台帳に総チェックをかける必要あり。
 
 次に、学校のコンピュータを私的に(犯罪行為に)利用していた人間はいないか?
 これも、完全に「シロ」と言い切るためには、すべての履歴にチェックをかける必要あり。

 義務教育の小中学校と違って、高校の予算の大きさというのは聞いてみてびっくるする小中学校教師は多いと思います。
 もし万が一、税金で購入した備品がネット上に流れていたら・・・。

 「新しいパソコンを買ったので、古いのは売ってしまおう」といって売っていたら・・・。

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変わるべきは批判材料がある教師。

[教師] ブログ村キーワード

(私)>教師も親も、子どもに向かって愚痴を言うのは、何の解決にもならないという意味で、壁に向かってほえているのと一緒です。

(いちろうさん)ん…。ダメだな。
「何の解決にもならない」という無害ではなく、私は害毒だと主張しています!!
先生が親の、親が先生を批判するということは、その人の言うことを聞くなと言っているのと同じです。それは無害ではなく、マイナスです。

 子どもにとって、他人である教師が自分の肉親に対する愚痴を言うのと、自分の親が他人である教師の愚痴を言うことが、「同じ」でしょうか。

 おそらく、教師は親のことを、親は教師のことをほとんど知らないと思いますが、親の方が教師のことを知る機会の方が多いし、子どもから入ってくる情報量が多いのは当然でしょう。
 教師がその親のことに対して、他の保護者などから熱心に情報収集しているのなら別ですが。

 教師に対する愚痴も、「どうして授業のときの声があんなに小さいんだろう」「もっと字をきれいに書いてくれればいいのに」「授業の進め方、あまりうまくないね」といった子どももわかっている感想を愚痴として子どもの前で言っても、何の問題もありません。
 しかし、「愚痴」として子どもに言ってもこれは意味がなく、「要望」として教師に伝え、その問題点は気付かせ、改善させなければならないのです。そして、改善されれば、その内容についてはもう問題はなくなるのです。
 

(私)>教師のさまざまな問題点を親が知ることは重要なことです。
(いちろうさん)⇒ 親のそまざまな問題点を先生が知ることは重要なことです。
と置き換えた場合、そりゃぁ、知ることは重要なことかも知れないが、先生は親を変えることができるのか? 結局のところ、暗象の思考では、問題の大きい親を排除するとか、そういう親のいない学校を選択しろという結論になるんじゃないの?そういう考え方じゃ、社会はよくならないよ。

 いちろうさんがご自分で置き換えた方については、どうぞご自由にお考え下さい。
 特にその必要を私は感じておりませんが(ただ、地域によっては、その問題を子どもに語らせる指導方針をもっているところもあるようです。大阪や京都がそうでした)。

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テロに比べたら苦情対応は楽なもの

 怨恨からの殺人事件のことを考えると、行政にかかってくる苦情(要望)電話への対応など楽なものです。
 私の場合は、「教育委員会に火をひけてやる」とか「お前を殺してやる」という脅しを受けたこともありませんでした。
 
 苦情(要望)も非常にバリエーションがあり、直近の問題で、すぐに解決が必要なもの、過ぎたことなので、当事者などからの謝罪で対応するもの、恒常的な問題なので、解決策をしっかり練る必要があるものなどがあります。

 なかには、電話対応に出た相手を困らせるだけのものもあるのですが、これは組織の問題ではないため、聞いていればよいだけなので、案外気持ちが楽になります。
 
 困らせたい相手は、電話先の人間が言われたらイヤだろうなという言葉を次々に投げつけてくるのですが、だいたい想像の範囲内のことですし、実際に言われた経験もあるような言葉ばかりなので、ただ「困らせようとしていて必死なんだなあ」と同情してあげていればよいわけです。

 長時間にわたったり、複数回にわたってくると、「きっと毎日孤独な生活を送っているんだろうな」「だれも話を聞いてくれる人がいないんだなあ」「上司からいつもいじめられているんだろうなあ」というのがわかってきます。
 ぽろっと、電話を受けているこちらには何の関係もない人間が登場したりしますからわかります。
 
 ただし、このような相手に「人情味あふれる言葉」をかけるのはけっこう危険で、「お前に何がわかる!(わからせようとして電話をしているのでは・・・?)」と激高してしまったり、「誠意がある」と相手が勝手に判断すると、本人が目の前に現れ、カウンセリングを始めざるを得なくなったりするのです。

 ですから、意味不明系の苦情に対しては、とりあえず聞いておき、当たり前のことだけお話しておいて、「お役所ってのはしょせん税金泥棒、市民のことなんかろくに考えていない」という不満の種火は残してあげて(これが消えると別の意味で気の毒なことになるので)、また次のストレスの発散の協力者に引き継げばよいわけです。

 市民といっても教育委員会の組織と同様に学校のことに関してほとんど知識がない人が多く、情報量が圧倒的に多い分、こちらが優位に立って話が聞けるのが、苦痛にならない原因かもしれません。

 相手が教師だったり、公立に子どもを通わせている保護者だったりすると、少し神経を使いますが、たいていは落ち着いて当事者通しで話せばわかる程度のことばかりで、助言ですむ場合があります。
 教師の犯罪の発見とその後の対応についても神経を使いますが、市民や保護者からのタレコミよりも、内部告発によって発見されるケースの方が多いでしょう。
 都立高校教諭の窃盗→ネットで販売という行為は、同じ高校の教師が発見したそうですね。

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法教育の変化前と変化後の子どもたち

 改めて我が家に独自の「ルール」があるかと考えてみれば、ない。

 何だか、「ルールがしっかり決まっている家庭」が「よい家庭」で、そうでない家庭に問題がある、と学校で教師が言っているのではないかと不安になったりします。

 そういう形で述べられる「ルール」が果たして市民的資質・公民的資質を育成する上で欠かせない「民主的なルール」になっているかどうか。

 小学校の先生方にも、法教育に関する基礎的・基本的な知識をしっかり習得してほしいと思います。

 法教育が目指すものについて、漠然とした感覚しかお持ちでない方には、たとえば江口勇治・磯山恭子編「小学校の法教育を創る(法・ルール・きまりを学ぶ)」(東洋館出版社)に紹介されている「継続的な法教育の学習による成果」が参考になると思います。

 変化前の子どもたちを【before】、変化後の子どもたちを【after】で示しますと、このような例が紹介されています。

before】 法を、拘束するもの、罰を与えるもの、不変のもの、制御できないものとして認識し、人々に影響を及ぼすものとして理解する。
→【after】 法を、発展的なもの、促進するもの、わかりやすいもの、変更できるものとして認識する。

before】 威圧的で、暴力的な態度以外では、紛争解決を行うことができない。
→【after】 社会的に責任を果たすことを踏まえ、紛争解決を行うことができる。

【before】 正当な批判基準に基づかず、権威に対して反抗的な態度である。 
→【after】 正当な権威に対して、正当な判断基準に基づいて、対応することができる。

before】 利己的、自己中心的、他人に無関心な状態である。
→【after】 共感的に理解し、社会的に責任をもち、他人に思いやりをもつことができる。

before】 よく考えられていない約束をすることをはじめ、衝動的な意思決定を行い、問題解決をする。
→【after】 根拠のある約束をすることをはじめ、よく考えられた意思決定を行い、問題解決をすることができる。

 改めて考えてみれば、教師自身の法的リテラシーが未熟ではないかと思い当たる節が多いような気がします。

 市民的資質としての法的リテラシーは、次の2つの観点を中核とするものだと考えられます。
 

 第一には、法に関する正しい認識。市民は、法とは人々がそれぞれに主張する多様な価値への合意の所産であることを踏まえ、法を動態的な存在として認識する必要がある。
 
 第二には、法への主体的な参加。市民は、実際にこのような法を利用し創造するために、自己の権利を行使しその責任を遂行する必要がある。

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「たけしの日本教育白書」より

 「たけしの日本教育白書」で紹介された親子関係で、親が傷つきそうだから困ったり悲しんだりすることは言えない、と気をつかう小学生の話がありました。

 学校では、「友達が傷つくことを言うのはやめよう」という価値観が一般的でしょうが、家でも「友達としての」親がかわいそう、ぎくしゃくするのがいやだ、という感性なのでしょう。

 もうちょっと頭をひねって「言いたいこと」を伝える方法もあるのでしょうが。

 親と子の関係はそれでもいいかもしれません(「妹のような母」が実際に存在することを思えば・・・)が、教師と子どもの関係がそれでは困ります。

 場合によっては、「大きい子ども」と「子ども」の二者と対峙することになりますが、伝えるべきことは伝え、教えるべきことは教える必要がでてきます。

 教育委員会問題については、出演しているゲストは豪華でしたが、システムの問題が話題の中心になってしまい、目玉だった「挙手による意向確認の禁止」を示した東京都教育委員会の通知も、異論を唱えていた校長のピントはずれぶりが露呈され、盛り上がりに欠けてしまいました。

 全体としては、「先生かわいそう」という印象が浮かび上がっており、作り手の意図がよく伝わってきました。

 ただ、司会者が言っていた「尊敬されなくなってしまった」先生というのは既定事実のようですね・・・。

 気の毒なことに、たけしの母校の定時制の教員は、部の道具を盗み、ネットオークションで売っていたようです。

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次々に生まれる「いじめ」用語

[いじめ] ブログ村キーワード

 漢字の読み間違いをする「あそう読み」のことを喜んで取り上げているブログがあります。
 
 この作り手が教師である場合、中には、子どもの読み間違いに対しても同じく喜々として「あそう読み」と言ってからかう人がいるのではないか、という危惧をいだきます。

 苦情電話の対応のためにありとあらゆる内容の想定をする癖がついてしまって以来、教師が陥る問題がすぐに浮かんでしまいます。

 いじめには、からかう・排除する・嘲笑するのに適した?キーワードというのがあります。

 子どもたちはそういう言葉に非常に敏感なので、たとえば教師がそれを取り上げる、あるいは扱うときには注意が必要だと思われます。

 どんな表情で「あそう読み」に反応するか。

 その表情から、子どもたちは多くの情報を教師から受け取ります。

 子どものいじめ・からかいに教師が荷担するような行為がおこることのないよう、祈っていたいと思います。

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教師の最大・最悪のストレス解消法

[教師] ブログ村キーワード

教師の最大・最悪ストレス解消法は、子どもに対してその親の批判をすることです。

 これがどうしてストレス解消に結びつくのかというと、
目の前の子どもには何を指導してもききめがない」という、子どもの問題が自分の指導力不足ではないことを自分に言い聞かせられる。

 「目の前の子どもには何を指導してもききめがない」のは、子どもの責任ではなく、育て方を間違えた親のせいであることを自分と子どもに言い聞かせることで、学校の教育活動(自分の指導)に原因があるわけではないことを納得することができる。

 「目の前の子どもを責めているわけではない」ことを自分と子どもが認識できるので、その場での新しいストレスを生まないですむ。

 「指導の言葉は全く入っていかないが、親の文句を言われれば少しはこたえるだろう」などと考えてしまう。

 そんな理由が思い浮かびます。

 「子どものための言葉」になっておらず、「自分のための言葉」になってしまっていることに気付かない。

 一部の親と同じで、直接子どもを叱ることでストレスを解消している教師も実際にいると思いますが、「子どもを叱る」ことをストレスに感じる教師の中には、「親のせいにする」ことには世論の応援もあるせいか、さほどストレスを感じない人がいる恐れがあり、それが子どもの前で出てしまうことをなかなか予防できません。

 以前にも紹介しましたが、「荒れている」ことで知られていて異動希望者が少ない地区に新たに転任してきた教師たちが同じタクシーに乗って学校に移動中、「この地域の親は・・・」という親に聞かせられない会話をしていたら、それを聞いていた運転手が「この地域の親」で、すぐさま教育委員会に苦情が寄せられた、ということがありました。

 子どもの教育がうまくいかない理由を「」「家庭環境」「生育歴」「経済格差」のせいにしてそれを愚痴として表現し、憂さをはらす、というような行動をとれる教師が存在することが、学校にとっての根本的な問題であることを以前にも述べましたが、これを問題と認識する感性が教師に乏しいことも、これまた大きな問題です。

 信頼できる教師を子どもも保護者も求めているのですが、教師たちはその信頼を裏切ることに非常に鈍感なのです。

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「ペット以下」の子どもを育てている親は何以下になるのか?

 今年の6月、私のコメント後に大きな反響があったすずめ先生のブログですが、また同じような内容の記事に同様のコメントを入れさせていただきました。
 私のブログの方にコメントをしたい方もいらっしゃると思いましたので、ここにもコメントを掲載しておきます。

すずめ先生の何気ない(?)この記事については、実は6月の「あの記事」に対する批判をさせていただいたときと、同じ理由による感想を述べさせていただきます。

「結局は小さい頃に大事に育てて,怪我もさせずに大きくなっていることにあるのだろう」
「その傾向は今もどんどん強くなってきている」
「危険を判断する能力が育っていなかったことはほぼ間違いがない」
「親は100%学校と教師の責任と思っているだろうし,追求されれば,そうとしかいいようがない。でも,就学前に,大人の言うことをきちんと聞く姿勢と,危険を察知する能力を親の責任で育てておかないと・・・大事に育てたわが子が犠牲者にならないとも限らない」

今回の記事はこの内容と同様に、子どもが自立していないことの責任を家庭の育て方に求めているものではないですか。

子どもたちは、すずめ先生の話を聞きながら、「自分の親が批判されている」ということに気付いた表情をしていませんでしたか?
「また親のせいにしているな」という表情をしていませんでしたか?

教室の中では、子どもたちは、「さまざまな仕事で役に立っているし、お互いにあてにされている存在」で、「責任感」が育っている時期なのではないですか。

もし、そうなっていない理由を家庭の責任にして、「役にも立ってないし,誰からもあてにもされてないってところに責任感なんか育つはずがない」と断定的に述べられているのであれば、このような教師の態度こそが問題なのではないか、というのが私の感想です。

それとも学校ではとてもよく育っているのに、「可愛い可愛いと猫かわいがりされ」て「社会的に自立できなく」している家庭を批判するというのが趣旨なのでしょうか。

 子どもを育てる上で、学校と家庭が連携を取らなければならないことは、このブログ上でも繰り返し述べています。そして、家庭の教育力が低下していることは、私も含めて多くの方が実感していることでもあり、責任を十分に果たしていない親を擁護するために意見を述べているわけではありません。

 しかし、子どもに対して保護者の家庭教育を批判するような言動は避けるべきなのです。
 そのような言動は、子どもの心には二重の意味でマイナスの響きをもってこたえてくると思います。

 私の見てきた範囲では、直接保護者に訴える機会が学校側にはあるのに、そういう場面では腰を低くして何も言わず、学校側で不祥事を起こしたときにはさらに腰を低くして保護者に謝罪するような行動を繰り返している学校には、特に子どもの前で保護者の批判をする教師が多いのです。

 子どもたちは非常に弱くなっていると思います。
 教師も、その弱い子どもに追い打ちをかけるような指導はしたくないので、「あなたではなく、親が悪いのよ」というスタイルの指導が多くなっている傾向はないでしょうか。
 「弱くしているのは親のせいなのよ」と子どもに伝えるのは、果たして「教育」でしょうか。「指導」でしょうか。
 
 小学校1・2学年の道徳では、「父母、祖父母を敬愛し、進んで家の手伝いをして、家族の役に立つ喜びを知る」ことを、
3・4学年では、「父母、祖父母を敬愛し、家族みんなで協力し合って楽しい家庭をつくる」ことを、
5・6学年では、「父母、祖父母を敬愛し、家族の幸せを求めて、進んで役に立つことをする」ことを、
中学校では「父母、祖父母に敬愛の念を深め、家族の一員としての自覚をもって充実した家族生活を築く」ことをそれぞれ発達段階に即して学んでいます。
 
 家庭では、ルールを決めて行動をしばるのではなく、「進んで」行うことが道徳的価値として重要なはずです。

 ルールを決めることも大切な場面はあるのですが、それは意見・利害の調整が難しい中、「みんなで決めたことはみんなで守る」という趣旨で設定するものであり、「ルールだから、決めたことだから」家庭の仕事をやる、というのとは違うのです。

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大切にする、長持ちさせるべき「もの」とは何か?

 「ものを大切にする」「ものを長持ちさせる」ために、学校であなたができること・してはならないことは何ですか?
と生徒に問いかけるとき、どんな答えが返ってくるでしょうか。

 こんな問いかけに対する積極的な答え、語りが、新しい学習指導要領ではますます子どもに求められてきます。

 言語活動の充実は「教育課程実施上の配慮事項」のうち、最初に示されているものです。

 国語科は、従来から言語に関する能力を育成する中核的な教科として重要な役割を担ってきましたが、話すこと・聞くこと、書くこと、読むことのそれぞれに記録、要約、説明、論述といった言語活動が例示されています。

 国語以外の教科についても、それぞれの特質に応じた言語活動の充実について記述されています。
 (以下、中学校の教科)

 社会→持続可能な社会を形成するという観点から、私たちがよりよい社会を築いていくために解決すべき課題を探究させ、自分の考えをまとめさせる活動

 数学→数学的な表現を用いて、根拠を明らかにし筋道立てて説明し伝え合うといった数学的活動の充実

 理科→問題を見いだし観察、実験を計画する学習活動、観察、実験の結果を分析し解釈する学習活動、科学的な概念を使用して考えたり説明したりするなどの学習活動の充実

 音楽→音楽を形づくっている要素や構造と曲想とのかかわりを理解して聴き、根拠をもって批評するなどして、音楽のよさや美しさを味わうことの重視

 美術→造形的なよさや美しさ、作者の心情や意図と創造的な表現の工夫、目的や機能との調和のとれた洗練された美しさなどを感じ取り見方を深め、作品などに対する自分の価値意識をもって批評し合うなどして、美意識を高め幅広く味わうことの重視

 技術・家庭→衣食住やものづくりなどに関する実習等の結果を整理し考察する学習活動や、生活における課題を解決するために言葉や図表、概念などを用いて考えたり、説明したりするなどの学習活動の充実

 保健体育→作戦などについて話合いに貢献しようとする活動の重視

 たとえば、ものを大切にする、長持ちさせるためにできることを、教科的な側面から提案することもできそうです。

 大切にする、長持ちさせるべき「もの」とは何でしょうか。

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学習指導要領解説の総則編は教師必読の書

[学習指導要領] ブログ村キーワード

 学習指導要領解説の「総則編」は、少なくとも教育課程の編成の中心になる立場の教師なら、絶対必読の資料です(定価137円)。

 新しい学習指導要領に基づく教育課程の解説ですが、内容はすぐに役立つものも多く、たとえば昨年10月に学校教育法施行規則が改正され、自己評価・学校関係者評価の実施・公表、評価結果の設置者への報告に関する規定が設けられたことをふまえた説明などはすぐにでも確認しておいた方がいいものです。

 文科省は今年1月に学校評価ガイドラインを作成していますが、その評価項目の事例の一部も紹介されています。
 具体的な学校評価の項目や指標等は、教育委員会が設定するものではなく、各学校が判断すべきものとされていますが、その項目自体を構想する手間等を考えれば、何かモデルになるものがほしいと考えるのが一般的な話でしょう。
 教育委員会も、同一の評価項目・基準で実施してくれれば、学校間の比較ができますから、校長の経営力診断の材料にもなりますが、実際のところはどうでしょう。

 資料の中には、過去の学習指導要領等の改訂の経過もありますので、昭和22年、26年改訂、33年改訂、44年改訂、52年改訂、平成元年改訂、10年改定の趣旨をふり返ることができます。

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佐藤優の「超短」書評から書名がわかるか?

 いつも年末になると、「必読○○冊」など読書関係の特集が雑誌に組まれますね。
 文藝春秋12月号には、立花隆VS佐藤優「21世紀図書館」必読200冊という特集があります。

 以前も述べたことですが、佐藤優の短い書評はとても秀逸です。
 この「超短」書評を使って、書名あてクイズをしてみたら、どのくらい「教養書」を読んでいるかどうかがわかるかもしれませんね。
 
 以下、番号は171頁以降に掲載されている佐藤優選の100冊の番号です。
1 ユダヤ・キリスト教世界の内在的論理を知るための必読書といえば?以下、書評をそのまま掲載します。
3 努力しても真理をつかむことが難しいというカラクリが明らかにされる。
6 神なき世界の神がどこにいるかがよくわかる。
7 理屈の世界と情の世界を区別し、理解するための基本書。
10 国のために死ぬ論理を構築した重要な書物。
12 客観的と思われる認識に潜む落とし穴をみごとに解明。
13 神なき時代に死をみつめながら人間の生きる原理について問う基本書。
15 人間の自己保存を根底とし、目的なき世界を描いた奇妙な書。
16 個性を尊重しながら世界が調和する様子を描いた名著。
19 アメリカを成り立たせている「見えない国教」の内在的論理を見事に解明。
23 同一律・矛盾律・排中律を見事に駆使した論理の書。
27 西欧文明の限界を西欧の論理で描いた名著。
33 絶対に正しいことを信じる左翼思想の陥穽を見事に解明。
34 政治の世界で、大きな夢をもつことの必要性を強調する誠実な書。
・・・・・ちょっと難しすぎますか・・・?

子どもの成長と教師・保護者の関係4

(私)>意図的に「育つ」環境を整えること (いちろうさん)>それはシステムの問題であって、一緒に汗を流さなきゃいけない同僚が、仲間に対して“こいつを育てるためだ”なんていう思い上がりを持ったら、チームワークが乱れるということ。 まぁ、暗象にはわからないだろうね。

 ようやくいちろうさんの思い描く集団がわかりました。
 経験のない若手たちは、与えられた場を成長のチャンスとして謙虚に受け止める姿勢がないのに、勝手に先輩が「育てよう」と考えても逆効果だということを言いたいわけですね。

 しかし、今の若い教師というのはだいたい謙虚なもので、自分からアドバイスを求めてきたり、先輩のフォローから学ぼうと努力してくれます。
 また、学ぶものがない先輩というのは子どもと同じように敏感にわかっていますから、育てたくても育てられない教師は少なくないものです。
 こういうタイプの人たちの「思い上がり」ならよくわかりますよ。

(私)>学校の教育活動の場と完全に切り離した形での評価はあり得ません。 (いちろうさん)>?? … なにを言いたいんだ? 学校の通知表に書く評価は、学校の教育活動のことだろう。暗象は、あたかも、その評価がその子どもの成長すべて表しているように言うから、学校ってそんなところじゃないし、先生はそんなに偉いのか…と聞いているの。
 ようやくご自分から軌道を修正されましたね。  「評価がその子どもの成長すべてを表している」と判断された根拠はどこにありましたか?

子どもの成長と教師・保護者の関係3

(私)>実践者として一歩下がってあげて、実力をつける機会を保障すること、その不足や失敗を補うことが「教師を育てる教師」の役割です。 (いちろうさん)>途中まではいいんだけど『「教師を育てる教師」の役割』と書くところに違和感があるんだよ。結果として「育つ」ことと、意図を持って「育てる」ことは違うことだと思う。その意味で、暗象のいう「実践者として一歩下がってあげて」は、過去のブログ記事から推察して、一歩下がってあら捜しに思えるという程度の話。 どれだけ言い訳を書かれても「同じ目標に向かって一緒に努力している姿」は見えてこない。

 いちろうさんがおっしゃりたいことは、「自己教育力」と「教育力」を明確に分けろ、という主張だと思われます。
 しかし、意図的に「育つ」環境を整えることで、「自己教育力」が十分に発揮できるようにする、という教育の機能を重視することで、いちろうさんが心配されている「同じ目標に向かって一緒に努力しない同僚」が出てくるのを防ぐことになると思うのですが・・・。
 会社にはそういう立場の上司や先輩の同僚はいらっしゃらないのでしょうか?

(私)>コメントへの返答自体が、失敗事例として学んでもらえる対象になっています。 (いちろうさん)>こんな頓珍漢なやりとりで学べるというのは、レベルが低すぎるんじゃないの?

 頓珍漢であること、レベルが低いからこそ学べるものもたくさんあるわけです。

(私)>別の様式で通知表を確認していただいたことを学校が確認するようなシステムはある程度できていると思われますが。 (いちろうさん)>結局、何が言いたいんだ? すばらしく的確なコメントの返答だが(嫌みだからね、また勘違いしないで)、私が求めているのは、暗象が通知表に書いている所見のサンプルなんだけど? 随分ハードルを下げたけど、結局、何の具体も書けないところに胡散臭さがある。

 全否定にまわってくる保護者に対応するための所見としては、このブログの文章自体がサンプルになっています。もちろん、長いやりとりの結果として期待できる効果を見越しての内容であり、短期決戦の技法をとらない方法によるものですが。

(私)>道徳的実践力にかかわるもののことをさしていらっしゃいますか? (いちろうさん)>まただ。勝手に解釈して自説の主張に使わないでよ。 人として成長することの全体を指しています。なんで切り分けしたいんだ。一人の人間の中にあるものだろう。 国語や算数の知識を身につけたといえば、学校では…と語りたくなるのはわかるけど、全然、向いている方向が逆だね。

 やはり「人として成長することの全体」とは、知・徳・体すべてを含めた全人的な成長をさしているものですね。
 道徳的実践力を含む最大の広さの評価対象を問題にされていることはわかりました。
 「総合所見」ではそれを意図して書くことになるのですが、評価は具体的な学校での教育活動とそれに対応した子どもの行動・反応をもとに記述することになりますから、道徳の時間であったり、特別活動の時間であったり、総合の時間であったり、教科の時間であったりと、材料はさまざまです。
 学校の教育活動の場と完全に切り離した形での評価はあり得ません。

(いちろうさん)>身につけようと努力することは否定していないって。それで給料もらっているんだから。ただ、子どもが身につけたものを指して、私たち(学校)のおかげだと言うのは、驕りでしょ。私自身のことを考えると、マンガやテレビドラマ、フォークソングなどより、学校の先生の影響力は小さかったと思うよ。説明責任として必要なことは、○○のために□□しています…程度でいいんじゃないの? (私)>いちろうさんは、教師の指導に基づく成長の実感は子どもに感じられるはずがない、という前提で、私たち(学校)のおかげでこんなに力がつきましたなどという発言はおかしいとおっしゃっているようですが、社交辞令でない「先生のおかげで~」は世の中にいくらでもありそうではないですか? (いちろうさん)>どんなフィルターをかけているんだ? 実感としては、暗象がいうほど上位じゃないよ。先生がそんなに偉いと思っているところに違和感があるんだよ。街角でお得意のアンケート調査でもしてみたらどうだ? 「自分の成長によい影響を与えたのは何ですか?」と。もちろん、親や先生、友人だけではなく、テレビやマンガなども選択肢にいれてね。きっと先生なんてかなり下位だよ。

 学校の「権威」が気に入らない方というのは、学校から評価言が「下される」だけで、それが子ども本人が持っている「成長の実感」より学校の評価が「上位」になってしまうとお考えになってしまう。

 実はそれは、子どもの自身の成長の実感とマッチした形での所見を教師がしていなかったことが原因ではないでしょうか。
 自分をしっかりを見つめることができる生徒は、成長の軌跡をしっかりと言葉で表現することができます。
 「所見」とは教師の独創を綴るものではなく、実際の教育活動の中の姿を切り取って、「架空の話」ではない「信頼性のある」中身として示すもので、中には子どもの言葉を活用しながらまとめる場合もあるわけです。

 「実感として、学校の評価が上位ではない」
 「先生がそんなに偉いと思っているところに違和感」

という感想は別に強い違和感を感じるものではありません。
 別に(特に保護者にとっては)「学校の評価を上位にする」必要はありませんし、「先生は偉い」と思う必要もありません。

 ただ、所見によって、担任が子どもをしっかりと「見ていてくれている」のかどうか、「成長を認めてくれる存在」なのかどうかはよくわかると思います。

(私)>以前から申し上げていますが、現場に足を運ぶことなく、教育の問題は語れないと思います。 (いちろうさん)>まただ…。 だったら、このブログは意味ないじゃん。 現場に足を運べば、そこの姿の一部がわかるだろうけど、すべてがわかるわけでもないし、ましてや、その現場のすべてを理解したからといって、日本全国の現場を理解できるわけじゃない。

 お子さんの学校に足を運ばれて、その「一部」がわかるだけでも、私の言おうとしていることがご理解いただけると思いますが・・・。

(私)>学校選択自由化が行われたから、保護者が真実を知りたくなったというのでは、順序が逆なのだと思いますが、政策はこのように本来あるべき姿に近づけていく効果というのがあるものです。 (いちろうさん)>またこっちかよ。 学校選択の自由化って、本来あってはいけない方向へ進める施策じゃないの?  先日の新聞では、先行していた所で見直しがはじまったって書いてあったよ。 だいたい、暗象の説を読めば読むほど、間違えていると思う。公立学校は、どんなにがんばっても私立の学校や塾にはなれないんだよ。また、そうなったら困ることに暗象は気づいていない。 教育を商品化させて消費者に選ばせる意識を持たすことは、教育を矮小化していくことになるんじゃないの? まぁ、暗象は矮小化しているから、学校で身につけているとか評価できるとか主張しているんだろうけどね。 若者に対して、「ありゃ〜」と思う度合いが増えたのは、私が歳をとったというより、暗象みたいな先生が増えたからなんだろうね。

 学校選択自由化の賛否両論があることはわかりますが、「保護者が真実を知りたくなった」のはこれがきっかけであることはたしかでしょう。
 昔は、「閉鎖的」というのが、公立学校の代名詞でしたから。
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竹中式マトリクス勉強法

 子どもたちには、知的欲求が非常に高まる時期というものがあるようです。
 残念ながら、その行き場を教える場所というのが、学校にはあるようで、ない。
 「総合的な学習の時間」といっても、計画的に行われる時間の中では、個別の知的欲求に対応できるような学習の場は非常に限られているわけです。

 こういうときのために、様々な人の手による「勉強法」というのが、たとえば中学生にとっても案外参考になるものかもしれません。

 竹中平蔵著「竹中式マトリクス勉強法」(幻冬舎)は、特に難しいことが書いてあるわけではなく、そのマトリクスも非常に簡単なもので、「A・人生を戦いぬく武器としての勉強」「B・人間力を鍛えるための勉強」という座標軸と、「a・天井がある勉強」と「b・天井のない勉強」という軸を組み合わせたもので、それぞれに「Aa・記憶勉強」「Ab・仕事勉強」「Ba・趣味勉強」「Bb・人生勉強」という名称がつけられています。

 「記憶勉強」の世界では遅れをとった人でも、他の勉強の世界があることを示したかった、と竹中平蔵は述べていますが、最後に「記憶勉強」の勉強に戻るサイクルがあることを紹介したあたりはさすがだと感心させられました。

 この天井のある・なしという座標軸の持ち方は、「常に二つの目標をもつ」ことの意味と関連が出てきます。

 中学生には、まだ「資格試験」など経験のない分野が多いわけですが、マトリクスを埋める努力をしながら、奥行きをふまえた勉強に取り組める余裕が感じられたら、すばらしいと思います。

 まだ「人から褒められる」ことに喜びを見いだす年代でしょうが、それを求めずにはいられない一部の大人を尻目に、どんどん成長していってほしいと思います。

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子どもの成長と教師・保護者の関係2

[教師] ブログ村キーワード

(いちろうさん)>「教師も育てるいい機会になる」という意識は、自分は1歩下がった評価者であり、自分より未熟なものがその仕事にあたればいいというもので、一緒に汗を流そうとせずに、できたものの批評ばかりする奴(暗象)がいると、効率が悪くなるという意味で書きました。

 「教師も育てるいい機会になる」という意識は、評価者としてではなく、過去の経験から教師としての成長が実感できる時期・場面・機会というのを知っている立場の人間としてもっているものです。
 記事の中でも述べているように、「教師として育てる」ことを意識した動きをするときは、他の教師たちのフォローやカバーが必要なのであって、黙って見ていればよいわけではありません。
 一歩下がった評価者ではなく、実践者として一歩下がってあげて、実力をつける機会を保障すること、その不足や失敗を補うことが「教師を育てる教師」の役割です。
 ごくまれに、すべてを任せきることができる実力をもった教師もでてくるかもしれませんが。
 結果として「教師を育てること」を怠って「あのときああすればよかった」と言っても何の意味もないわけで、いちろうさんは本文の一番大切なところ(というよりも、教師がもっている自然な教育欲)を読み落としてしまわれたわけですね。

(いちろうさん)>ねぇ、このブログが「あのときああすればよかった」というようなことの積重ねなんだけど? 何の意味もないことが、暗象のまわりにあふれているから、このブログがあるんじゃないの? 不思議なことだ。 見たこともない、うわさ話で成り立っているブログなのか?

 このブログでは、単に若い教師の陥りがちな問題にふれているだけでなく、ベテランでも失敗する事例を紹介しています。
 いちろうさんのコメントへの返答自体が、失敗事例として学んでもらえる対象になっています。

 なお、上の文脈における・・・結果として「教師を育てること」を怠って・・・とは、特定の条件のもとで語っていることですから、明らかに一般論としての失敗とは別次元のものですね。
 一般論としての「あのときああすればよかった」と失敗に気付ける失敗なら改善の余地がある分、まだましなことかもしれません。

(私)>子どもと教師や子どもと保護者との関係性の中で決まるもの (いちろうさん)>私は子どもの担任が男か女か、年齢はいくつで、教科が何かということさえも知らない。通知表というのは、そういう私へ向けて書くから、学校へとりに行かなきゃいけないんじゃないのか? こういう感覚でいる親として、暗象の理屈は意味不明。

 教師と保護者の関係性は、いちろうさんとお子さんの担任のような関係もあれば、授業参観や学級懇談に参加している親と担任の関係もあり、さまざまでしょうね。教師と保護者の間でだけ通じる話というのもあるわけです。
 通知表の内容については、保護者がその文面を読んで聞きたいことを子どもに聞き、子どもが話したいことを親に話し、それでも不明・疑義のあるものであれば担任に聞く、そういうことでよろしいのではないでしょうか。

(いちろうさん)>そういう関係が成り立っていない家庭が多いと嘆くくせに、それを求めるんだね。暗象の理屈は、自己中すぎて疲れるんだけど。まぁ、いいよ。所見のサンプルさえも書けないことがわかったから。その程度の“先生”が語っていることだと思って読むよ。

 ここではふれていませんでしたが、保護者からの通信欄が含まれる通知表はどのくらいあるのでしょうか?
 そうでなければ、別の様式で通知表を確認していただいたことを学校が確認するようなシステムはある程度できていると思われますが。
 (でないと、子どもが保護者に見せずに勝手に判子だけついて持ってくるケースがあるため)

(私)>学校での成長度合いを「保護者ならわかっているでしょうね」などと言う傲慢な態度を学校がとれるわけがありません。 (いちろうさん)>いゃ〜っ、すごく傲慢なんだけど。ゴーマニズム宣言より傲慢。 そもそも、人が成長することに対して、この部分は学校で成長しました、この部分は家で成長しました…と分けることへの傲慢さというか、驕りについて気づいてもらいたかったんだけど、より傲慢な返答が来た。

 学校教育は、学校が設定し教育委員会に受理された教育課程に基づいて、計画的・意図的に実践されていくものであり、目標管理や進行管理などを行ってたえず実践を評価していくものです。ですから「学校で身に付けさせる力」は明確にあるのであって、これは「傲慢」ではなく学校側の「説明責任」として果たさねばならないものです。

(いちろうさん)>身につけようと努力することは否定していないって。それで給料もらっているんだから。ただ、子どもが身につけたものを指して、私たち(学校)のおかげだと言うのは、驕りでしょ。 私自身のことを考えると、マンガやテレビドラマ、フォークソングなどより、学校の先生の影響力は小さかったと思うよ。 説明責任として必要なことは、○○のために□□しています…程度でいいんじゃないの?

 もしかしたら、いちろうさんが「子どもが身につけたもの」と呼んでいるのは、「礼儀正しく真心をもって人に接する態度」とか「謙虚な心をもち、広い心で自分と異なる意見や立場を大切にする態度」のような、道徳的実践力にかかわるもののことをさしていらっしゃいますか?
 このような力を育てるのは学校・家庭を含むすべての子どもの環境ですよね。
 学校だけで身につく力ではもちろんありません。
 しかし、その評価を公的にしてくれる代表的な場所は学校です。
 さらに、評価・ふり返りに適した時間を提供しているのも学校です。

 学校にはさまざまな道徳的価値の自覚を深める「道徳」の時間というものが存在するわけです。
 その意義は、「○○のために□□しています」だけでもよいのですが、最終的には子どもが自らの言葉で表現される評価で示していくことが必要であり、所見はその確認作業という位置づけもあります。
 道徳性の発達は、他律から自律へが基本であり、それを判断能力から見れば、結果を重視する見方から動機をも重視する見方へ、主観的な見方から客観性を重視した見方へ、一面的な見方から多面的な見方へ、などの発達を促す必要があります。

 まだ小学生では教師がそのような発達の手助けをしてくれていることが自覚できないのでしょうが、中学生にもなると違ってくると思います。

 いちろうさんは、教師の指導に基づく成長の実感は子どもに感じられるはずがない、という前提で、私たち(学校)のおかげでこんなに力がつきましたなどという発言はおかしいとおっしゃっているようですが、社交辞令でない「先生のおかげで~」は世の中にいくらでもありそうではないですか?
 教育のおかげだぞ、と教師が胸をはるくらいの自信は大事だと思いますが、それがただの奢りでしかない教師と、本物のプロとして発言している教師の違いくらいは、子どもが一番よくわかっていると思います。

(いちろうさん)>で、なんで >子どもの成長のためには教師と保護者との会話がなければ難しいのではないでしょうか? となるんだ? 論理的に矛盾していないか? 成果は私のおかげ、失敗はお前らのせい…という、ある意味、このブログに貫徹されている思想だけど、それを日々批判していることに気づいてよ。

 私がいちろうさんに気付いていただきたいのは、学校側が果たすべき説明責任にはさまざまなものがあるということです。
 これは、このような文章を読んでも始まりません。
 以前から申し上げていますが、現場に足を運ぶことなく、教育の問題は語れないと思います。
 別に担任の名前くらいは・・・などと言いたいわけではなく、子どもの成長に教育(あえて広い意味をもたせるために書きました)がどれくらい役に立っているのかを見極めてほしいと思うからこそです。
 目先の失敗・成功も大事な場面は大事になるかもしれませんが、「現実を知ろうとしないこと」が最もおそろしいことではないのでしょうか。

(私)>「正しい」ことのうち、書くことと書かないことを分けるという意味です。 (いちろうさん)>「正しい」かどうかを判断するのも、たくさんあるものの中から取捨選択するのも、先生の主観なんだよね。先生って、何様なんでしょうね。

 正しいにカギ括弧がついているのは、まさに「主観」にかかわる内容だからですが、この選択に失敗する教師がどのようになるのかは、ご経験が物語っていますか?

(いちろうさん)>しなきゃいけないことをするより、しなきゃいけないことは、しないほうがいいのでは? 失敗する可能性の方が高いのに、それをしてしまうから信頼を損ねるんだよ。 暗象の主張は、先生の信頼を損ねる結果につながることが多い。結果から過程の間違いを見つけ出すことができないのか? あっ、だから公務員なんだ。

 子どもに対して、すべての真実を告げることが教育的に意味があるものであるとは確かに言えません。
 しかし、保護者に対して、もし真実を知らせることが教師の信頼を損ねる結果となっても、それを隠すことは避けなければなりません。
 学校選択自由化が行われたから、保護者が真実を知りたくなったというのでは、順序が逆なのだと思いますが、政策はこのように本来あるべき姿に近づけていく効果というのがあるものです。

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子どもの成長と教師・保護者の関係

(私)>私が批判していたのは、AだからBになった、ということを主張したい人たちが、そういう結論になるように質問項目を設定していることが課題である、ということです。

(いちろうさん)>馬鹿か?
アンケートは結論に導くためにするもんだよ。
だからアンケートの主体が問題になるの。
設問より、「誰がしたか」のほうが重要。
イロハのイの問題。

じゃぁ、「子どもがつくって生徒にやらせようとする調査ならすぐ練り直しを要求するタイプのもの」というからには、「全国学力・学習状況調査がどのように受け止められているか」の設問ならつくれるんだよね。

 簡単な話で、「すべての子どもの学力や学習状況を測定するために、全国学力・学習状況調査はどのくらい役立つものですか」「国が全国的な義務教育の機会均等とその水準の維持向上の観点から各地域における児童生徒の学力・学習状況をきめ細かく把握・分析するために、全国学力・学習状況調査はどのくらい役立つものですか」「各学校では、B問題のような問題を出題することによって思考力・判断力を測定する努力をしていますか」という設問にしたら、調査をやめさせたい人には十分に有効な結果が出ない恐れがあります。

 アンケートの主体が重要なのであれば、別に調査をしなくても持論を展開すればよいのですが、今回のようなアンケートによって、「調査の分析や学力向上のための具体策を考えるのがめんどうくさい」「工夫しないですむ今まで通りのA問題のようなテストばかりをやっていたい」という教師たちに、「ああ、私たちと同じ考えの人が多いんだ」と安心(?)させ、教育の質が向上しない恐れがあることを問題視しています。

 10人委員会のアンケート項目はあまりに露骨なものであり、その結果の公表によって、そもそもの「全国学力・学習状況調査」の趣旨自体が誤解される恐れが多分にあることを指摘したのです。
 

(いちろうさん)わかりきったものではなく、意味不明でもない所見の例は、評価される子どもと、その親と先生しかわからないというのは、理屈として無理がない?
具体例、サンプルを要求することは、変なことなのか?

 所見の「書き方」としては、○○(という具体的な行動等)から○○(という道徳的な判断力が養われていること)がわかります・・・などの形がありますが、それがわかりきったものではなく、意味不明でもないものであるかどうかは、子どもと教師や子どもと保護者との関係性の中で決まるものであり、保護者が子どもや教師を「信頼」できる材料になることが大切です。
 子どもの成長やその可能性について決して「信頼」できている保護者ばかりではないことは、育児書の種類や内容によってよくわかります。

(私)>「学校での子どもの成長」を保護者の方々はどのくらい「感じられて」いるのでしょう。

(いちろうさん)子どもを成長させるのは学校だけという驕り?
なんで学校限定なんだ?
その発想だから、子どもが非行に走ると学校のせいにする親がいるんだよ。

 「学校での子どもの成長」の責任は学齢が上がっていけばいくほど学校側や子ども本人にあることは確かでしょう。公開授業や運動会、文化祭に参加すれば「成長を感じられて満足だ」と思われる保護者の方もいらっしゃるでしょうが、友達との関係性、個別の教科の学力、向上心、責任感等に関する学校での成長度合いを「保護者ならわかっているでしょうね」などと言う傲慢な態度を学校がとれるわけがありません。

 学校での子どもの成長がよく把握できていない保護者のうち、家での成長をしっかり感じている保護者なら、子どもが非行に走る原因を学校に求めるのは正当な態度かもしれませんね。
 子どもが非行に走る原因を学校に求める保護者というのは、家での様子も知らないし、学校での様子もわかっていない保護者がすることでは?

(いちろうさん)子どもの成長が感じられればいいことで、説明がいるのは、それを感じない親や先生不振の親だけでいいんじゃないの? その時は、自分たちの教育が悪かったと思って集会なんかで全般の説明をしてから、個別に話をすればいいじゃない。大きな事件があるとそうしているんじゃないのか?

(私)>「先生不信の親を個別に呼ぶ」などということはそもそも難しいでしょうね。

(いちろうさん)>なんでわざわざ呼ばなきゃいけないんだ?
呼び出しをくらう側の気持ちがわからないんだろうね。
来る親だけ相手にすればいいだけだろう。

 いちろうさんは学校側が説明責任を果たす場を放棄するタイプの保護者を擁護されているようですが、子どもの成長のためには教師と保護者との会話がなければ難しいのではないでしょうか?

(いちろうさん)>「所見」はその子どもの心に響くかどうかが大切であって、「正しい」ことでも書くべきこととそうでないことははっきり分けて考える必要があります。

暗象的に書くと、所見というのはその子のためになるウソを書く所なんだね。

 「正しい」ことをすべて書かないというのは、「嘘」を書くという意味ではありません。
 「正しい」ことのうち、書くことと書かないことを分けるという意味です。

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教師を育てる学校・教師が育つ学校

[教師] ブログ村キーワード

 「教師を育てる」・・・学校にとって重要なテーマに関するコメントをいただきました。

(私)>子どもだけでなく教師も育てるいい機会になるわけです< (いちろうさん)>と書いている、そういう意識の問題。 暗象にとっては、同僚も子どもと同じなんだろうけど、そういう人間が混じっているとチームワークが崩れて効率が悪くなるということ。

 「教師を育てる」意識をもっていない教師集団、大人というのは案外多いものです。

 昔は、子どもの担任が若い教師になった賢い保護者たちは、「教師を育てる」意識をもって問題への対応などに臨んでいました。ただの「苦情」では若い教師には響かないため、「大切なことに気付かせる」ことに留意した意見というのが出されることもあるでしょう。
 教師のやる気を失わせてしまうと、結局損をするのは自分の子どもですから。

 一方、教師の場合は、過去の自分の経験から、「成長」が実感できる時期・場面・機会というのを知っているわけです。

 普通は、たとえば分掌や学年組織の場合、一番生徒とのやりとりが多い部署に若い教師を配置し、生徒との関係性の中から教師を育てようとする学校が一般的でした。
 すずめ先生のところは「若い教師」が皆無のようなのですが、大量採用の時代の教師が抜けるとき、一気に若い教師が増えてきます
 これこれの経験を積ませて、失敗したところ・不足しているところはしっかりフォローし、カバーする。

 この関係性がただの「仲良し」集団「教師が育つ」集団の最大の違いです。
 成長のつぼを知っていると、実は残念ながら、「育つ教師」と「育たない教師」の違いも見えてきてしまうのですが、教師の成長以上に大事なのが子どもの成長です。

 いちろうさんのおっしゃるように、「効率が悪くなる」のはたしかですが、「子どもの成長」を考えると、時間はかかっても大きな成果が得られる場合があるという意味では、決して「非効率」ですませられるものではないのが教育です。
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道徳教育と数学・理科の特質

 いちろうさんの昨日のコメントへのご回答 

(いちろうさん)>30字ではダメだが、400字なら評価ができることもあるだろうし、文字で書くより、話をする方がいいだろう。

(私)>総括の段階で、授業を受けている十数人の教師に対して、数百人が話を聞きに行くことをお求めですか?

(いちろうさん)>通知表の内容としていらないと主張していますが?
子どもの成長が感じられればいいことで、説明がいるのは、それを感じない親や先生不振の親だけでいいんじゃないの?
その時は、自分たちの教育が悪かったと思って集会なんかで全般の説明をしてから、個別に話をすればいいじゃない。大きな事件があるとそうしているんじゃないのか?


 「学校での子どもの成長」を保護者の方々はどのくらい「感じられて」いるのでしょう。
 「感じない親」ではなくて、「感じる機会が少ない親」が多いのは確かではないでしょうか。
 特に中学生も男子などは家で保護者と学校のことをたくさん会話するなんてことは少ないでしょう。
 
 私も通知表は絶対に所見がないといけないものだとは主張していませんが、複数の教師からの励ましの言葉やアドバイスであふれている通知表と、数字だけが並んでいる通知表では、どちらが子どもと保護者にとって「もらってうれしいもの」「ためになるもの」と感じられるかは想像できます。

 「先生不信の親を個別に呼ぶ」などということはそもそも難しいでしょうね。

自分がしている評価が正しいかどうかがわからない連中が寄って集まって、教育ができるのか?
 「正しさ」が求められるとしたら、たとえば「5~1」の評定の誤記などは絶対にできませんが、「所見」が「正しい」という表現は適切ではありません。  「所見」はその子どもの心に響くかどうかが大切であって、「正しい」ことでも書くべきこととそうでないことははっきり分けて考える必要があります。
(私)>なお、道徳は学校の教育活動全体を通して取り組むものなので、その評価言というのは教科の学習内容に関するものもあります。

(いちろうさん)>はぁ?
数学や理科の評価に道徳が入っているのか?
暗象はそういう評価をどうやって親に伝える?


 中学校数学科の教科目標は、「数量、図形などに関する基礎的な概念や原理・法則の理解を深め、数学的な表現や処理の仕方を習得し、事象を数理的に考察する能力を高めるとともに、数学的活動の楽しさ、数学的な見方や考え方のよさを知り、それらを進んで活用する態度を育てる」となっていますが、事象を数理的に考察する能力を高め、数学的な見方や考え方のよさを知り、それらを進んで活用する態度を育てることは、筋道を立てて考える能力を育てることになるので、真理を愛し、真実を求めつつ、的確な判断力をもって現実を見つめるなどの能力の育成に役立つものです。
 アンケート調査などによって生徒の考えを知り、行事の運営について公平・公正な判断を下すことができた場合などは、数理的な考察が道徳的判断力に結びついている事例です。

 中学校理科の教科目標は、「自然に対する関心を高め、目的意識をもって観察、実験などを行い、科学的に調べる能力と態度を育てるとともに自然の事物・現象についての理解を深め、科学的な見方や考え方を養う。」となっており、「自然に対する関心を高め」「自然の事物・現象についての理解を深め」ることは、道徳の内容である「自然を愛護し、美しいものに感動する豊かな心をもち、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深める」こととかかわっています。
 科学的に調べる能力と態度の育成や、科学的な見方や考え方は、数学と同様に、道徳的判断力の育成と深くかかわっており、特に体験的な活動を通して伸ばしていけるもので、たとえば校外での学習や宿泊行事における体験の内容を踏まえた評価が可能となります。

(私)>指導力がないおかげで、子どもがどんどん成長しているようです。結果としては大成功ですね。

(いちろうさん)>それはいいことだね。

じゃぁ、指導力不足を攻撃するのは、不思議だ。

 私が指導力不足を批判しているのは、それが生徒の成長を阻害したり、能力の向上を怠っていたりすることが最大の理由です。

自分に攻撃の矛先が向かないように、 他人を批判して貶め、自分より下に思わせる。 弱い人間が陥りやすいパターンだ…。 そういや、それで「暗象」にしたんだった。

 自分より上とか下とかそういう問題ではなく、子どものためになっているか、いないか、が問題です。

敢えて“あなた方”といいますが、あなた方の主張は、先生の悪口を書けば、子どもの側の視点だといい、先生の視点でものを書けば、子どものことを見ていないという。 でも、ブログで書けることなんていうのは、先生であれば、先生の視点で子どもをみてどうなのかという程度なんじゃないの?
   「先生の視点で子どもをみてどうなのか」を書くのも自由ですし、「子どもの視点や教師の視点で先生をみてどうなのか」を書くのも自由なのでは?

 私のスタンスは繰り返すまでもありませんが、このブログは私の実践記録ではありませんし、子どもの成長記録でもありません。

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注文をたくさんいただける教育ブログ

 この場所は、いつの間にか注文や要望の多いコメントをいただける教育ブログになっています。
 いつもお読みいただいている方にはおなじみの「いちろう」さんからのご要望です。
 「いちろう」さんにはこちらからの質問にもお答えいただいているので、できる限り対応していきたいと考えています。あちこちクリックするのもご面倒でしょうから、回答もいくつかまとめて記事にいたします。

本日の要望その1

わかりきった所見や、意味不明の所見でない、お手本となるものを、このブログの幅で2〜3行で、書いてみてくれないか。 3人分でいいよ。 実は、単に批判に堪えれる所見を書けないと思っているのだが…。

 評価というのは、評価者と被評価者の間の人間関係、被評価者のさまざまな行動、そのときの評価者のはたらきかけなど、様々な要素がもとになって行われるものですから、評価言を受け止める子ども、その子どもから所見を材料に会話や励ましの意思をもっている保護者、その子どもをよく理解している教師の三者がいないと、成り立たないものです。
 このことから、ここで所見を披露すること自体が批判の対象になるべきものだということで、残念ながらご要望にお応えすることはできません。

本日の要望その2

最近、先生は負担が多く精神疾患が増えているという記事をよく見る。先日は、1年目の先生が何百人も辞めて、その多くが心の病という記事を見た。 暗象は、その状況を分析し解決策をとるにはどんな設問がいいと考えるんだ? 模範的な設問を示してくれ。 もちろん、15,000人のデータとして集計できるものにしてね。

 大がかりなアンケート調査をする場合には、必ず予備調査のようなものを実施し、質問項目を精選する、という作業を要するものです。
 ただ、ご紹介いただいた事象については、複合的な要因が容易に想像でき、むしろ教育委員会の人事部がもっている聞き取り情報の分析から入った方が実態がつかみやすくなるのでしょう。

 AだからBになった、という単純な話ではありませんから。

 私が批判していたのは、AだからBになった、ということを主張したい人たちが、そういう結論になるように質問項目を設定していることが課題である、ということです。
 やり方によっては、ご紹介のケースでも同じようなことができます。

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「日本の教育を考える10人委員会」の報告

[学力テスト] ブログ村キーワード

 「日本の教育を考える10人委員会」が、今年の夏に実施したアンケート調査の結果を公表しています。
 この委員会の性格は、メンバーを調べれば一目瞭然で、現行の教育政策に批判的な人の集まりです。

 今月発表された「義務教育に関する教員アンケート調査」は、その趣旨を読めば結論は先にあることがよくわかります。さらに、個別の「質問文」を読めば、自分たちの主張(批判)に適した回答が得られるようになっていることがわかり、ある意味で非常に「わかりやすい」結果が出ているのと同時に、今の教員の実態がわかる内容になってしまっています。

 アンケートの趣旨は、「今日、様々な教育問題が浮上する中、義務教育の質向上のために新たな教育制度の導入・検討が進められています。しかしながら、それらの制度は教育現場の事態や教育を担う教職員の意向にはそぐわないものも多く、現場の実態を踏まえた上での議論が必要です(・・・以下略)」という言葉で始まっています。

 たとえば、「全国学力・学習状況調査」の実際の趣旨を踏まえることなく、以下のような質問項目を用意していました。

 

平成19年度から文部科学省によって全国学力・学習状況調査が行われています。今後、児童生徒の学力を把握するために、どのような方法がよいと思われますか。あなたご自身の考え方にもっとも近いものを一つ選択してください。(【 】内は結果の%)

 1 引き続き全員参加の全国一斉学力調査を行う必要がある 【21.2】
 2 全国調査の必要はなく、全国から調査校を一部抽出して学力調査を行えばよい 【29.7】
 3 全国調査の必要はなく、各自治体で行われている学力調査でよい 【43.6】
 4 その他」

 この質問文の問題点としては、まず、「児童生徒の学力を把握」とありますが、どのような「児童生徒」をさすのかを示していないことが挙げられます。
 「日本の」なのか、「自校の」なのか。
 3の選択肢が用意されているのがミソで、「各自治体で行われている学力調査」で「日本の児童生徒の学力」を語ることはできないので、せまい範囲で「児童・生徒」をとらえるような誘導になっています。

 まさか「定期テストで学力は把握している」などという「考え方」は回答の想定にはないはずなのですが、1~3の選択肢が結局は「全国学力・学習状況調査」は必要なのか、どうなのかということを聞いています。

 「学力を把握すること」だけが「全国学力・学習状況調査」の目的ではないのに、それだけを目的としているかのように見せかけているのも問題点の一つです。
 学力調査は、中学校では国語・数学以外の教師にはそもそも関心がなく、趣旨を知らないで回答している可能性も考えられます。

 他にも、教師の実態がわかる質問に、以下のものがありました。

 

現在、あなたは次のような業務について負担を感じていますか。それぞれの業務について、あなたご自身の考え方にもっとも近いものをそれぞれ一つずつ(負担である、どちらかといえば負担である、どちらかといえば負担でない、負担でない)選択してください。 (【 】内は上記の4つの回答結果の%)

 教員評価・学校評価 【41.4,38.4,15.0,5.2】
 保護者・PTA対応 【37.9,37.5,18.8,5.8】
 会議 【27.0,47.6,20.0,5.4】
事務 【30.1,41.0,22.8,6.2】
生活指導 【23.8,40.1,27.7,8.5】
 学校行事 【15.1,42.7,31.6,10.7】
 研修 【20.8,37.0,33.2,9.0】
成績処理 【18.2,36.6,33.1,12.2】
 部活動・クラブ活動 【27.3,23.5,26.5,22.8】
 教材開発・授業準備 【14.2,34.6,36.1,15.2】

 以上は小中一緒にしたデータで,小中別にすると,たとえば中学校の部活動の負担を訴える教員が約7割を占めるようになりますが,他のデータは小中別の差はあまり見えません。

 この質問の問題は,「負担」と呼んでいるものが,「精神的」なものか,「身体的」なものか,それとも「質・内容」のようなものか,「時間」に対するものなのか,全くあいまいになってしまっていることです。

 そういう問題を解消するには,それぞれの準備や対応に費やされる時間をそれぞれ具体的に記入させることが考えられます。

 そうすれば,この程度の時間ですむものにこんな「負担感」をもっているのだなあということや,こんなになぜ時間が必要なのか,と無駄が発見できたり,この程度の時間しかやっていないのか,ということがわかったりします。

 「現場の実態を踏まえた上での議論」をするためには,このような調査こそ重要なのです。

 結局,このような「負担感」だけを聞く質問というのは,質問された人間の質を落とす効果が高く,子どもがつくって生徒にやらせようとする調査ならすぐ練り直しを要求するタイプのものです。 
 しかし,実施者の望みどおりの結果が得られる可能性が高い「わかりやすい」質問ではあります。

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学校行事はだれが何を学ぶためのものか?

[教師] ブログ村キーワード

 以下の記事は、文化祭に関するすずめ先生のブログ記事「教師たちの協力態勢は・・・・」についてコメントさせていただいた内容に若干手を加えたものです。

 学校行事の教育的意義は、荒れた学校などでは「それでもっている」とも言えるほどの「あつみ」「あつさ」のあるものなので、教師がここにかける情熱はけっこう大きなものがあります。

 一方で、文月さんがコメントで述べられているように、その「あつさ」から逃れたい、避けていたい生徒も少なくありません。
 中には、爆破予告・生徒を傷つける予告などをしてまで運動会を中止に追い込もうとする生徒もいます。
 それは行き過ぎだとしても、「学校行事はだれが何を学ぶためのなのか?」という視点を踏まえたコメントでした。

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 そもそも学校行事というのは、運営に当たる子どもが疲れ果てるものであって、教師は事故や危険の防止につとめていればよいはずなのですが、公立学校ではそれが難しいので、教師も「学ぶ側」に立ち、「達成感」を得る側に(ときには「疲労感」のみが残る場合もあるでしょうが)なるわけですね。

 実は、本来子どもが身に付け、高めていくべき資質や能力を、子どもではなく教師が伸ばしていく機会というのが学校行事だったりするわけです。

 集団で役割を分担して「仲良く」やっていく力、協力して一つのことをやり遂げる力、人を思いやる力、個性を発揮させて自己有用感を感じさせること、期日間近で慌てないですむような計画性・段取り力など。

 これらの力を、子どもだけではなくて、教師も育てていくいい機会になるわけです。

 実は小学校の学級王国の中学校版が出現する恐れがあるのが、文化祭や合唱コンクールなどの行事なんですね。
 運動会も勝ち負けにこだわると教育効果よりも弊害の方が大きくなってしまいます。
 協力関係よりも、競合関係が勝ってしまっている。
 あるいは、自分の学級の指導でいっぱいいっぱいになってしまっている。
 これでは、若い教師が力をつけるのに時間がかかってしまいます。

 そういう意味で、教師による「総動員態勢」が機能する学校はすばらしいということ(小学校なら教師主導ですから当たり前として)で、ただ理想を言えば、子どもが「総動員態勢」で活動しており、教師はその姿をビデオに撮ったりして見守っているような立場であるのがよいのでしょう。

 もちろん1年生からそこまでの力は要求できませんから、上級生の実力に圧倒され、そこから学ぶ期間=1年、自分たちでやり遂げようとするがうまくいかない期間=2年、失敗を生かして最高のものをつくりあげ、下級生の手本をめざす期間=3年とステップアップするような仕組みができるといいかもしれません。

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世界を引っぱっていく秘訣

 心の中での 「勝ち」「負け」の基準が、人によって、考え方によって、異なるというエピソードはたくさんあります。
 
 結果として何人かが選ばれるような「選考」「選挙」では、「選ばれたかどうか」が勝ち負けの基準なら、結果は明白ですが、それに「負け」ても「勝ち」をおさめたのと同じ結果であると言えるような、独自の基準をもっている人というのは強いものです。

 どんなときにも「勝つ」ことができる人が、大きな変革を成し遂げてくれるのでしょう。

 私は、「」という言葉をキーにして、物事を見る癖をつけていますが、ナポレオン言行録の以下の言葉は、その「」の中でも最も「強い」ものでしょう。

 

世界を引っぱっていく秘訣はただ一つしかない。それは強くあるということである。なぜなら力には誤謬もなく、錯覚もないからである。力は裸にされた真実である。

 せまい意味の「勝ち」しか頭・心に浮かばない人が、自分の基準を勝手に人にも当てはめて批判するような議論があります。
 教育では、「子どもの立場で考える」だけで、幅の広い「勝ち」が見えてきます。

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迎合とプライド ~教師と子ども~ 

[リーダーシップ] ブログ村キーワード

 迎合型の文章を嫌っていた作家に、山本夏彦がいます。
 
 「各界名士」が行う新聞・雑誌への迎合型の記事(「再販制度」に関連した内容)について、このようなコメントを書いていました。
 

みんな新聞の意見に迎合した論旨にきまっていることは、紙面は不思議なもので、一瞥しただけで分るから誰も読まない。
 人の頭のなかには当人と他人がいて、その他人をして十分発言させなければいけない。投書欄でさえ新聞に不都合な説も一つや半分はのせている。そこへ行くと各界名士は新聞に出て始めて名士だから、新聞の気にいることしか言わない。気にいるオンパレードを誰が読むか。

 リーダーの立場になる生徒、リーダーの立場になろうとする生徒なら、他の生徒の応援がなければその立場になれないわけなので、「迎合型」の発言があっても仕方がないだろう、と考えてしまうのが、迎合の中で生きてきた教師たちです。

 しかし、「迎合」がいかに恥ずべき行為なのかを常に訴えていると、子どもでも己のプライドを守ろうとします。

 「迎合」してまで自分の立場を確保しようとはしません。
 「迎合」で得た立場では、何も実現できないことがわかるからでしょう。

 子どもにも守れるプライドを、なぜ公務員である教師は守れないのか?
 非常に不思議なことです。

 意識レベルの低い教師は、迎合を嫌う子どもとわがままな子どもの区別がつきません。
 それはおそらく、日常の授業が「迎合」によって成り立っているからでしょう。

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最初が肝心

[教師] ブログ村キーワード

 「最初が肝心」と言います。
 学校では、入学してから3日間で決まること、1週間で決まること、1ヶ月で決まることなどがあります。
 「整列・集合」、「返事・あいさつ」、「時間を守る行動」などは、初期指導ですべてが決まります。
 
 ナポレオンの言行録に、「私は60回もの戦闘を交えたが、第1回の戦闘の時から知っていたこと以外には何一つ学ばなかった」という言葉があります。

 普通は、経験を重ねれば重ねるほど知識は増え、能力も向上していくものでしょうが、ナポレオンのこの言葉というのは、「最初に自分の持てる限りの力をすべて注ぎ込む」ことの大切さを訴えていると同時に、本質的なことを最初にきちんとつかんでおかないと、真の成長はない、という警句であるようにも思います。

 「いまここですべてを集中させる」という意識を、教師は指導上でもてているかどうか。
 リーダーにそういう意識をもたせる指導ができるかどうか。
 教育の成否の別れ道はこのような非常に単純なことにあるのかもしれません。

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リーダーの育成にこだわる理由

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 私が生徒のリーダー育成にこだわるのは、成功体験に基づくからに他ならないのですが、「教師の犬」に見えるようなリーダーしか身近にいなかった人にとっては、その意義をわかってもらうのは難しいでしょう。

 成功体験成就体験充実体験の有無は、行動や判断を左右します。

 多くの場合、「中学生にそこまで要求するのは無理だろう」と限界を設定し、育成責任の放棄を無意識のうちにやってしまうのが教師の癖です。

 「仲良し」「横並び」大好きの教師集団の場合は、子どもも大人も「統率していこう」という意欲をもてる人は少なくなりますし、「出る杭」はすぐに打たれてしまいます。

 このような教師と違って、「統率」行動の意味や意義を理解している子どもというのは必ずいるもので、その意欲をうまく引き出すことに成功すれば、生徒の「自治」というのが形になってきます。

 大人ばかりでなく子どもの「タテ関係」を生み出すことも忌避するタイプの教師には、このようなリーダーは育成しにくいものです。
 リーダーに期待をかけたり責任をもたせたりあげることなく、いつまでたっても「みんなで仲良く」と言っているので、動きの効率は悪い段取りが組めずに時間を無駄にするもめ事はおこるまとまらないのを「みんな」のせいにする、などの悪循環のまま、結局「やるべき者」=生徒がやらずに、「指導する立場の者」=教師がやるような活動になってしまうわけです。

 行事運営でも、教師が授業で自問自答してしまうようなパターンがよく見られるのはこのためです。

 リーダーが育ってくると、計画性も何もなくその生徒によりかかるタイプの教師もいますが、こういう教師は子どもから逆に学べるチャンスになります。
 発問してもだれも挙手しないと、いつも正答が言える生徒に当ててしまい(他の生徒が理解できたのかどうかは無視して)、先に進んでしまう、そういうタイプの教師は、「どういう問い方をすれば他の生徒も答えられるのか」を生徒に聞いてみるとよいかもしれません。
 
 生徒のリーダーは、よい教師を育てていく原動力にもなり得るのです。

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視野がせまくなった人への「思いやり」とは

 一つのことに夢中になったり固執したりすると、人間は視野がせまくなりがちなものです。
 
 論理より感情が優先する人間に特有な性質でもあり、周囲からみれば滑稽にうつったり、気の毒に見えたりして、当人の自己満足を大目に見る余裕があれば問題がないのですが、迷惑が周囲に拡散すると、報復を受ける結果になったりします。

 視野がせまくなるというのは、たとえば打者が投手の球を打つときなどは、自然におこることで、よいことなのでしょうが、スクイズの構えに反応してボールを高めにはずせる投手のように、視野をある程度広くもつことは、集中が必要な場面でも可能なことであり、実は大事な要素なのかもしれません。

 視野がせまい人間は、自分の主張が通らないときに見苦しい姿を露呈することになりますが、その活動に一生懸命であり、他に迷惑がかかっていないときは、あえて見逃しておくことも「思いやり」かもしれません。

 教師と子どもとの関係でいうと、教師がその経験則から、「ここでこの態度は周囲の信頼を失うことになるな」と思っても、子どもが「信頼を得たい一心で行っていること」についてはあえて口をはさまないで失敗させる方が子どものためかもしれません。
 その因果関係が一対一対応で明確にその生徒にはねかえってくるわけでもなく、他の要素で高い信頼を得ることができているかもしれませんから。

 ただし、教師と教師の関係ではそうはいきません。そこが「子どもの立場で考える」ときにシビアに求められる教師の資質とかかわってきます。

 教師は、ときどき非常に視野がせまくなります。
 それは、自分が行政の世界に入ったときに、過去の自分をふり返って痛感したことでもあります。

 しかし、再び現場に戻って実感しているのは、その視野の向く先が実は大事なのであって、見当違いのところに向けられた視線によっていかにその教師とその教師に指導された子どもが多くを失っているのか、当人はなかなか気がついていない、ということです。

 Aの議論をするとき、Aのことしか頭にないように誤解してしまう「偏り」ぶりは、子どもだけとは限りません。
 Aの議論をしているとき、BやCとの有機的な関連付けに成功できる「視野の広さ」を、教師には求めたいものです。

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現場とケンカできる経営者

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 また大阪の話ですが、堀場製作所最高顧問の堀場雅夫が日経ビジネスの記事の中で、「大阪市民は大阪府民であるという意識が薄い」という趣旨のことを述べていました。

 分権化で所得税が減り、住民税が増える中で、「自治体への所属意識」というのは各都道府県で違いがあるのでしょうか。

 私の関心はこのことの他に、「大阪市民に大阪府民としての問題意識を持たせた」功労者として、橋下知事を挙げていることにありました。

 橋下知事の戦略は、あえて周囲が反発するようなコメントを発表し、マスコミを吸引して、そこからニュースをはき出させ広い層の関心をも吸い寄せていく、そんな手法をとっています。

 自治体のほとんどは「事なかれ主義」が多く、首長からの積極的な情報発信というのはめったになかったのですが、石原都知事、東国原宮崎県知事、そして橋下知事と、マスコミの取り上げ頻度が高く他県の人も知っている知事というのはごく少数でしょう。

 このような知事が果たしている役割としてわかりやすいのが、説明責任です。

 選挙で選んでもらった住民に対して、自分が今何を考え、実行し、戦っているかを公共の電波に乗せて日常的に説明しています。
 このことは、当たり前ですが、反発も同時に招くものであり、次回の選挙には不利な材料になるのも承知で、どんどん自分の考えを述べていく。

 このような姿勢をもつトップは、「住民から選ばれる立場ではない」行政レベルになってしまうと、ほとんどいなくなります。

 しかし、学校の流れは変わりました。

 学校が選ばれる時代になった以上、校長は説明責任を果たしていかなければなりません
 時には、教師たちに議論を吹っかけていくくらいの経営根性が必要になります。

 しかし、「嫌われることが大嫌い」であることが見え見えの校長では、現場も気の毒で議論にも何もならないでしょう。

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「研究発表会」をめぐる様々な課題

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 先日、全国大会と名のつく研究大会の授業の質が落ちてきた、と毎年のように参観している先生から感想をいただきました。

 区市町村や都道府県、地方のブロック、全国と、一般の方はほとんどご存じないかと思いますが、教科ごとに毎年どこかで大きな研究発表が実施されています。

 ただ、その参加者は教師全体の数からするとごくごく少なく、それでも参加した教師が各学校で学べた成果を発表し共有できればよいのですが、肝心の発表内容が満足のいかないものだと、「出張費が無駄だった」という好ましくない結果になってしまいます。
 
 もちろん、研究発表から大きなヒントや改善意欲が得られて、プラスの意味で「子どもにかえされる」ものになればよいのですが。

 このような研究発表の質的低下の原因の一つには、各自治体が独自で持っていた研究・研修組織を縮小したこと、もともとそのような機関が欠如していたことが考えられます。

 研究発表の質の低下は、たとえば新たに指導主事に任用される人材の質の低下にも結びつき、学校に指導できない教育委員会の増加に結びつきます。

 また、研究発表会への参加者も減っていく傾向が強くなるでしょう。

 公立学校の教師が参加するこのような研究発表の他に、大学附属で実施される発表もあるのですが、「内容が高度」「生徒の質が高いから参考にならない」などの理由で、おそらく公立学校の教師の参加はどの附属でも限られていると思われます。せっかく参加した教師も、そのようなインパクトにおされ、リピーターが少ない。
 研究協議でかわされる授業者と、質問者である他の大学附属の教師、大学の教授等のやりとりを聞いて、「場違いだなあ」などと感じさせてしまうのも課題かもしれません。

 しかし、授業では非常に「優秀」そうに見える子どもたちも、公立学校と同じようなペーパーテストではあまりふるわない場合があります。
 ここが授業の質を考える上で非常に重要なことで、「授業のどこを見るか」「子どもの何を見るか」があいまいなまま参加したのでは、「おみやげ」が貧弱なものになってしまいます。
  
 もう少し新しいタイプの研究・研究発表・研究協議の在り方を国レベルで考えていく時期がきているかもしれません。

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「逃げるが勝ち」のムードが壊す教育

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 フィンランドの教育にしろ、日本で荒れた学校を再建した教師の話にしろ、一般の教師にとって耳が痛いのは、「特別なことは何もしていません」という「究極のコメント」です。
 
 学力向上にも学校の秩序回復にも「特別なことがいらない」としたら、学力の低下や秩序の崩壊を招いた原因が「できて当然のこと」ができていないからなのではないか、と思われるからです。

 このような話をすると、教師の側からは、今の子どもが「できて当然のことができない」、たとえば、「教師の話を50分間集中して聞いていられない」「教科書を忘れて平気でいる」「板書をノートに書こうとすらしない」のでたいへんなのだ、という声が聞こえてくるかもしれません。
 つまり、話を「子どものレベルが低い」というところに落としてしまうのです。
 
 人によっては、研究授業をすると、親がおしゃべりをし始めて、授業の邪魔になっている。親のレベルも低い。だからだめなんだ。・・・親がターゲットになることもあるでしょう。

 「特別なことを何もしない」で学力向上や学校の秩序回復に成功した学校と、そうではない学校の大きな違いは何か。

 それは、「だからこうしよう」と受け止めるか、「だからだめなんだ」と受け止めるのかの違いだと思っています。

 もう一つ加えると、問題なのは、「だからだめなんだ」ではだめだとすると、「ではどうしたらいいのか」と答えを人に求めてしまう姿勢です。

 子どもがだめな理由と、教師がだめな理由が同じであることに気付かないことが問題なわけです。

 教師にとって最も厳しい環境が、実は最も自分のもてる能力が発揮できる環境であるということは、それを教師生活の中で実感することができた人しか話せない言葉かもしれませんが、教育の場で「逃げるが勝ち」のムードを漂わせないようにするために、子どもに課したい役割をいずれ訴えていこうと思います。

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子どもの命が失われる学校

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 普通では考えられないことで命を落とす小中学生。
 
 レアなケースである、私の子どもの通う学校ではあり得ない、そう言い切れる保護者はどのくらいいるでしょうか。

 私が現場の教師として最も気になっているのは、

 危険な状況を見ても注意・指導できない教師が多すぎるのではないか、ということです。
 
 「うちは自主・自律を重んじる学校です」と言って、子どもに安全を管理する責任を転嫁する学校はないでしょうか。

 「注意してもきかないんです」と言って、指導を放棄している教師はいないでしょうか。

 子どもに限らず、一度高いテンションになったらまわりが見えなくなる、そのために危険が迫っていたら、まわりのだれかが危険をとりのぞかなければなりません。

 子どもと教師の「あいだ」。その距離感が問われているのだと思います。

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大阪の親は振り込め詐欺にひっかからない?

 振り込め詐欺でだまし取られたお金の総額が200億円以上あるということですが、このお金を、「お金でトラブルを闇に葬ろうとした人間の罰金総額」のような表現をしている人がいました。

 詐欺の手口は巧妙になっているようで、注意が必要ですが、「本人に会って確認できないことはおかしい」というただ一つのこだわりが通せれば犯罪は成立しないわけですね。

 被害にあった方は気の毒ですが、「大阪では振込詐欺の被害は少ない。なぜなら、大阪の親は、そんなもの、自分で責任を取れ!という話になるから」というエピソードもあるようで(本当かどうかはわかりませんが)、そうすると「被害者が多い地域」には、「過保護な親」「子どもの不祥事?をもみ消したい親」が多いということになるのでしょうか。

 大阪は何かと話題になっていますが、賛否両論をまきおこす橋下知事の発言によって教育への関心も高まっているようです。

 先日、研究会で初めて接することができた大阪の先生方は、私の住んでいる東京よりも生徒との距離が近い、かなり生徒の内面に踏み込んだ指導をする、というのが印象的でしたが、その背景には親のどのようなスタンスが影響しているのか、今度また訪問させていただいたときにうかがってみたいものです。

子どもと教師とどちらが愚かか?

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 忘れ物をした生徒に「愚か者の誓い」を書かせたり、教室に「○○○未提出の愚か者」という貼り紙をしていた教師(2年の学年主任)の「愚かさ」について話題になっているようですが、このような教師の行動によって、公立学校の教師から子どもがどのような目で見られているか、よくわかるでしょう。

 その教師は、「ばか者」より「愚か者」の方がソフトでよいと判断した、というコメントまでしているようです。そして今度は自分が「愚か者の誓い」をする羽目になってしまった、というニュースですね。
 教師の正直さ・素直さが包み隠しのない状態で語られているので、不信感に拍車がかかる効果が生まれています。

 普段は個人が特定できる個別の教師の批判はしないのですが、これに類することが他にないわけではない現状が予想できるので、コメントいたします。

 教師が子どもを「愚か」だと思っている以上に、教師は社会から「愚か」だと思われています。
 教師が行った「」の最大の効果は「指導力の低さ」が明るみになったことです。
 このような「失敗」がなぜ繰り返されるのか。
 
 その最大の原因は、教師が子どもを一方的にとことん「愚か」だと思っていること、そして教師が「子どもの立場になって考えていない」ことです。

 教諭の立場は学年主任であったために、教室に異常な貼り紙があっても、担任は批判できなかったのでしょうか。

 日直などの教師が、校内を巡回するシステムはないのでしょうか。

 このような問題の予防については、組織の仕組みや他の良識のある教師の批判力で何とかなるかもしれません。

 しかし、次のような教師たちの思考パターンの課題は、なかなか解決されそうにありません。

 教育ブログを読んでいると、批判されていることから話をそらし、「では、忘れ物をさせないために、どうしたらいいのか」という方に思考をもっていくパターンの教師がいるようです。

 ろくな智慧が出てこないので、「愚か者の誓い」になってしまうわけですね。
 では、いい智慧というのがあるかというと、罰則によらずに「忘れ物をなくす」ことは、残念ながら非常に困難であると言わざるを得ません。

 忘れ物をしても、チェックをしない教師がいたり、忘れずに持ってきても、持ってきている意味がなかったりするケースがあります。

 「怒られたり罰を受けたくないから忘れ物をしない」という消極的な意味ではなく、「忘れ物をしたら学習に支障が出るから忘れ物をしない」という強い自覚を生徒が持っていたとしても、それをゼロにするのは難しいことです。

 まず、忘れ物が多いのは、教科別の問題なのか、個人の問題なのか。
 一度、分析をしっかりしてみるのもよいかもしれません。
 対処の方法が変わるでしょう。
 
 あとは、果たして忘れ物をしていると授業・学習が成立しないのかどうか。
 忘れ物をしている生徒は、忘れ物をしていなくても、授業が理解できていないのではないか。あるいはその逆か。
 次の授業の持ち物が、きちんと連絡される場が設定されているか。
 忘れ物をゼロにするために教師が費やす労力と、忘れ物がゼロになったときの授業の成果が本当に見合うものになっているかどうか。

 分析は、「生徒の立場」から行うことが肝要です。

「暗象」の人物像 その2(コメントより)

 8月の「人物像」です。

 暗象からは、明るい社会が見えないんだよ。(8月1日)

 日本の子どもたちの「学校生活満足度」は、どのような質問項目によって測れるのか?
 この試案の比較だけでも「学校に何を望んでいるか」という価値観が分かていることがわかりそうです。

 今の学校は、相当なバッシングを受けているのもかかわらず、けっこう「明るい」のではないでしょうか。
 それは、公立学校の教師は身分保障が絶対的であること。
 つまり、開き直ればバッシングも「何それ?」ですんでしまうこと。
 程度にもよりますが、謝ればすんでしまうこと。

 いちろうさんは私が成果主義的なことを述べているので反発されているのでしょうが、繰り返し述べているように、そんなことで暗くなる暇は学校にはありません。
 失敗を分析しそれを避ける方策の追究を怠る姿勢を問題視しているだけであって、「明るい社会」が何の努力もせずに達成できれば何も言うことはありません。

 私は労働運動の関係で、日教組の人を何人も知っているが、少なくとも私の知る範囲の先生は、子どもたちが出て行く社会を良くしようという努力をしている。(暗象だけではなく、日教組の看板を上げているすずめさんからもそういう部分が見られない・・・(同日)

 いちろうさんが「社会を良くする努力」を教師に求めていることは理解できますが、私にできる範囲のことは「学校を良くする努力」です。

 頓珍漢で意味不明なことも多いが、ここ最近出会った中で唯一、先生なんだろうな、と思っています。(同日)

 後日、この人物像はくつがえってしまうことになります。

 日本社会の矛盾に目を向け改善する努力をしないで、子どもたちをそういう世に送り出すのは、無責任じゃないの?(8月2日)

 だれも暗象に労働運動をしろとか、日教組へ入れとは言わないさ。ただ、○×しか答えのない頭の中味が問題だと言っている(同日)

 暗象の目は、ピラミッド型の組織の上の方にいて、子どもだけじゃなく、親までも含め、しもじもを見るように対応している(同日)

 実際には、ピラミッド型の底辺にいるのですが・・・。

 ロールモデルまでつくって、紋切り型のマニュアル先生を増産(8月6日)

 今、若い教師が「理想の教師」と呼べる人は職場にどのくらいいるのでしょう。
 それぞれの教師の良いところを組み合わせて、自分なりの「ロールモデル」を形成してもらうのが一番です。
 「紋切り」型になってしまうとしたら、教師を見る目のない教師ばかりだから、ということになります。

 隙がないから人間味がないんじゃなく、ポリシーのないマニュアル型の人間味がないんだよ(8月7日)

 日本では「人間味がない」というのが相手を貶めるのに最も有効な言葉の一つですね。

 自分から家族や地域、社会へ関心を広め、そこでどう生きるのかという部分のない人間が、何を教えてもダメでしょう(同日)

 教師一般に語られている、究極のダメ出しですね。

 何はともあれ、何でも賛成というのは、暗象の文科省に対する姿勢であり、同じ暗象は他方で何はともあれ何でも反対という姿勢を見せています。集団としての差はもちろん、個々の差もあれば、個人内でも差があることを、もっともらしい理屈をつけて自説へ導くやり方が、偉そうで嫌いだ。しかも、自覚していない。
 素朴に、どうしてこんなに“偉い”人間ができたのかが、不思議でならない。(8月13日)

 私の主張が文科省に何でも賛成ではないことは、過去の記事をお読みいただければわかります。
 「もっともらしい理屈」というものをもっと読みたいものです。

 暗象にはコミュニケーション能力がほとんどないと思っている。(8月17日)

 コミュニケーション能力のない相手と、かれこれまる四ヶ月以上おつきあいされているいちろうさんはすばらしい根気のある方です。

 過保護で管理主義的との批判をしてきたけど、ここへ来て、その理由がわかってきた気がします。基本的に、他人を信じていないんですよね・・・暗象のブログを読めば読むほど、先生への不信が募るのは、暗象は心の底では、どの先生も信じていないからなんだろうなあ(8月27日)

 8月はUPした記事が多かったので、コメントもたくさんいただきました。

マニュアル軽視の教師の「能力」

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 教師が教育の場で発揮する「能力」は非常に多岐にわたり、それらが複合的に実践の場では生かされることになるので、分析的な「能力」の高い・低いというのは、簡単に評価するわけにはいかないのが普通です。

 仕事ができる教師の場合は、他の人ができないことを無意識にこなしてしまっている場合があり、それが意識化されるような工夫をしないと、「引き継ぎ」に失敗することになります。

 コンピテンシーモデルロールモデルという汎用的なもの以前に、「マニュアル」がものを言うレベルに公立学校はあるのかもしれません。

 なぜ去年はうまくいったのに、今年は失敗だったのか。
 
 去年、うまくいったのはなぜだったのか。

 今年、失敗してしまったのはなぜか。

 教師の反省会では、「この学年は○○のはたらきが抜群だった」「この学年でしかできなかったことだ」などと、生徒のよい話題というのはよく出されるのですが、特に失敗が目立った活動の場合、運営上、何が原因だったのかを突き詰める作業がおろそかになりがちです。

 「せっかく終わったんだから、もう嫌なことは忘れようよ」
 「せっかく担当者が頑張ったんだから、めんどうくさい話はやめよう」

という空気がある学校では、「指導の改善」が図られることは期待できないでしょう。
 指導力がある教師が担当になるときまで待つしかありません。

 ある能力に秀でていれば、必ず成果が出せるとは限りません。

 これまで私は、「能力」の高い人が、そのエネルギーを誤った方向に際限なく使っている姿をたくさん見ていて、「これが子どものために使われたらもっと公立学校はよくなるのになあ・・・」と思ったことがたくさんありました。

 「能力」の高い人ほど、「マニュアル」系のものを無視して独断で行動する性質もあるのですが、ときどきとんでもないポカをやらかしてしまうのです。

 ですから「学校評価」では「次年度に絶対に犯してはならないミス」をきちんと整理し、引き継いでいることが必要です。
 これも広い意味では学校に必要な失敗回避「マニュアル」です。

 「マニュアル」だのみを軽視する「志の高さ」も立派ですが、「予想通りの失敗」が繰り返される学校では自分の見栄より子どもの成功を重視するべきです。

「力のある公立学校」の指摘で際だつ公立学校の「弱み」

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 公立学校の一般的な問題を指摘するのと、優れた成果を残している個別の学校の事例を紹介するのと、結果としては同じことのような気がします。

 志水宏吉著「公立学校の底力」(ちくま新書)では、公立学校のメリットとして「地域性」「平等性」「多様性」の三つをあげ、「力のある学校」という呼び方で、指導上の「効果のある学校」の「教育の質的な特徴」「いかにすればそうした学校をつくり出すことができるのか」を追究した成果が述べられています。

 「力のある学校」の8つの要素として挙げられているのが以下の内容です。

1 気持ちのそろった教職員集団
2 戦略的で柔軟な学校運営
3 豊かなつながりを生み出す生徒指導
4 すべての子どもの学びを支える学習指導
5 ともに育つ地域・校種間連携
6 双方向的な家庭とのかかわり
7 安心して学べる学校環境
8 前向きで活動的な学校文化

 私立学校との比較で言えば、あるいは「学校選択ができる公立学校」との比較で言えば、学校選択ができない公立学校の強みは、5番の「ともに育つ地域」にあると言えます。
 
 ただ、一方の「ともに育つ校種間連携」にうち、公立学校で強みがないのがタテの連携、小中、中高、高大連携でした。公立の一貫教育もはじまりましたが、まだ成果のほどはわかっていません。

 この8つの要素は、実は一般的な公立学校の「弱さ」を象徴する要素でもあり、逆に国立・私立学校の強みが際だつような印象になってしまっています。

 都市部の中でも、中学受験が今まで一般的ではなかった地域がありました。
 しかし、最近はこのような地域の中学受験率が急激に上昇しており、塾の進出も相次いでいます。
 
 「魅力があるから来るのではない、地域に住んでいるから来るのが当たり前なのだ。地域を担う人材になるのだ」と、学校選択制に反対し、地域の行事に管理職以外の教師がほとんどかかわっていない公立学校の教師が訴えても、説得力がありません。

 「私立学校」は経済的に恵まれていて、優秀な生徒が集まるから「いい学校」になるのだ、という言い訳をしてしまったとき、公立学校の「強み」はほとんど失われることになるでしょう。 

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成長を阻むもの ~「生産の文化」と「消費の文化」~

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 小・中学生は、本当にうらやましい年代だと思います。

 ちょっと前まではとてもできないと思われていたはずのことが、いつの間にかできるようになっている。

 ちょっと前まではとても大人に見えた上級生と、いつしか同じこと、あるいはそれ以上のことをこなせるようになっている。

 ちょっと前までできなくてじれったく感じていた自分と同じような後輩たちが、自分から学ぶようになっている。

 本当であれば、教師のほとんどもこれらと同じような成長を遂げていく必要があるかと思います。

 成長を阻んでいるものは何でしょうか。

 それは、「生産」ではなく「消費」に流れる弱さと習慣でしょう。

 競争は伴いますが、簡単な刺激で「消費」はいくらでも促すことができます。

 「消費」は「楽しい」「気が楽」「簡単に満足感が得られる」ので、だれでも飛びつきたくなります。

 それに対して、「生産」には自らの能力やエネルギーが必要となりますから、簡単にはいきません。
 成功しない場合もあります。

 しかし、成功できなかった、ほめられなかったからといって、「生産」への取り組みをやめてしまえば、そこで成長・進歩終わりになります。

 子どもと教師の違いは、教師は「成功できなかった」ということが許されないため、成功できる見込みのない人に「生産」のチャンスがまわってこないことでしょうか。

 よい学校かどうかの基準として、子どもによる「生産の文化」が主流か、「消費の文化」が主流かで判断することが可能かもしれません。

 「生産型」研修と「消費型」研修

 「生産型」学力調査と「消費型」学力調査

 「生産型」教師と「消費型」教師

 「生産型」自治活動と「消費型」自治活動

 「生産型」授業と「消費型」授業

 「生産型」校内組織と「消費型」校内組織 

 さまざまな角度から「生産型」の教育がとられていない問題を検証してみるのはいかがでしょうか。

「暗象」の人物像 その1(コメントより)

 いちろうさんからいただいている「暗象」の人物像について、私なりに解説をしてみたいと思います。
 ふり返ると、ずいぶんたくさんありましたね。ここまで熱心に批判していただいたことには本当に心から感謝申し上げます。

 「子どもを自分のコントロール化に置くことに重きをおいているように思え」(6月22日)

 子どもがコントロールできずに他の子どもにも迷惑をかけている教師がたくさんいましたね。
 また、危機・危険に対するコントロール能力がない学校・教師が多く見受けられます。
 高校生は別として、小・中学生には健全な自律を支えるための管理は必要であるというのが私の考えです。

 子どもたちの間に、「できる・できない」をベースとしたいじめがあるんじゃないのかという推測(同日)
 中学生でそんな度胸がいるいじめができるのなら、見てみたいものです。
 すぐに(子どもの手によって)つぶされると思いますが・・・。

 目に見えるいじめではなくて、「優越感」によるおごり、「劣等感」による自信喪失によってもたらされる負のエネルギーの処理については神経を使うところです。

 「レッテル貼」・・・子どもに対してそういう対応をしているんじゃないのか(同日)

 仮にこの生徒はこんな傾向がある、というレッテルがあっとして、それが指導に影響したり、評価にかかわる可能性はほとんどありません。子どもは成長し、そんなレッテルはすぐにどこかに吹き飛んでしまいます。
 逆に、そのような傾向ばかりが続くようなら、注意が集まり指導の対象になる可能性も増します。

 ほぼ思考回路の98%ぐらいが同じのあなた(6月23日)

 数十、数百文字のブログの文章で、人の「思考回路の98%」がわかるのでしょうか・・・?
 ある内容についての考えや意見がほとんど同じ、という程度の意味なのでしょうね。

 漢字を読んであげたら、小学校の低学年でもわかる気がするんだけど、学力低下って、子どもたちのことだけじゃなかったのか?(6月24日)

 小学校の低学年との比較ですか。

 誠意大将軍くらいの評価?(同日)

 あなたの浅い認識にも、本当にこれで学校の先生というのが勤まるものなのか、とても不安に思っています(6月27日)

 その程度の人間が先生を続けられるというのが疑問(6月28日)

 あなたが一生懸命にしていることが、大人社会と子ども社会を引き離していることであり、大人社会へ出れない子どもを作っているんじゃないの?(同日)

 そういう教師をたくさん見てきましたね。別に私が作った人ではありませんが。

 自分の文が他人にどうとられるのかに、あまりに無頓着というべきか、唯我独尊的な“偉さ”を振りかざしている自覚がなさすぎ(6月29日)

 批判する側の「恒」でしょうか?

 あなた方とのやりとりで、「先生は自分の間違いを認めない」「先生は詭弁強弁を駆使して逃げる」「先生は自分を偉いと思い他人を見下す」などと評されていたことが、現実のものとして表れ驚きとともに、これからは先生と言う人たちに、不信の目を向けるようになる(同日)

 思い込みや憶測ではなく、事実に即して行動していただけると助かります。

 どうかんがえても、暗象なるものを先生として認められない。この程度の人間で先生ができるのか?(同日)

 やっぱり、ただ気持ちを汲めない頓珍漢?(6月30日)

 上からの指導を無批判に垂れ流す暗象のような人間が学校を混乱させているんじゃないのか?(7月3日)

 無批判に垂れ流すのをやめて、批判すれば現場は混乱しないのでしょうか?

 御上から賜ったものを理解し流布する姿勢が変。(7月3日)

 私のスタンスとしては、公的な発表の内容が現場でしっかり理解されていないことに危惧を抱いており、また、子どもたちが気の毒であると思い、それらについて指摘しておりました。

 暗象さんの主張する学校って、どう読んでいても、殺伐としている。いじめが横行、登校拒否だらけ‥じゃないの?(同日)

 仮に一人の教師の教育観のおかげで全校のいじめが横行したり不登校が増えたりしているのであれば、すぐに改めるべきですね。でも、そんなことがあり得るのでしょうか?

 自己責任を放棄し、他者に責任転嫁し、他の人を見下す上から目線の解説を加え、その結論が「愛情と誠意」だから、私は暗象さんを誠意大将軍と揶揄しています。(7月10日)

 ここでは明確に「揶揄している」と自身のスタンスを述べられていたのですね。

 暗象は、本当に人を育てることができるのか?(7月26日)

 木端役人や中間管理職的な思考を捨て、人としてこうあるべきだ‥というスタンスを確立していないから、人間味が感じられないんだよなぁ~。(7月27日)

 ○×しかないかのような頭だから、ロボットみたいと言うんだよ。(7月28日)

 全く意味不明なんだけど‥。唯一わかるのは、暗象さんの粘着質的性格だけ。(7月30日)

 何かを聞くと文科省様が出てくるが、そういうのを、上からの垂れ流しと言うんだよ。(7月31日)

 >自分はこの学校のために何ができているのか(私のコメント) そんなことを本気で思うのなら、お辞めになるのが子どもたちのためです。(7月31日)
 
 ここまでで、まだ4分の1くらいでしょうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より