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« 教師の指導上のつまずきを防ぐ指導基準(東京教師ミニマム) | トップページ | 子どもと教師への落としどころ »

言語・表現活動の充実がもたらす効果

 言語・表現活動にはさまざまなバリエーションがあり、子どもによって得意・不得意があるようです。
 
 学力調査等で、日本の子どもたちは「記述・論述問題」の「無回答」が多いという不名誉な評価を受けています。

 この背景は何かとふり返ってみて、最初に感じるであろうことが、そもそもそういう問題を授業の中で取り上げているか、定期考査の問題で扱っているか、ということです。

 採点基準の統一が難しい(だから採点がめんどうくさいという理由で)論述問題の出題をさけている教師は多くないでしょうか。

 定期考査でその力を測定しないのであれば、授業で発表等の機会を保障しなければいけませんが、それすら避けている人もいないでしょうか。

 もしそうなら、現行の指導要録で採用されている「4(国語は5)つの観点別の学習状況評価」が適切に実施されているとは限らないという話になります。

 授業でも定期考査でも、意外な答えが返ってくる楽しみというのが「出題」する側としてはこたえられない時間になります。
 ふだんはそんな表現活動はしないだろうという意外な生徒が、他の教師も初めて見て驚くほどいきいき取り組んでいたり、議論好きではない生徒が積極的に反論に転じてくるなど、授業の中での「意外性」を楽しむ時間は「言語・表現活動の充実」によってもたらされるものです。

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教育」カテゴリの記事

コメント

w(゚o゚)w
全然ない!!

もっと簡単にしてあげるよ。
わかりきった所見や、意味不明の所見でない、お手本となるものを、このブログの幅で2〜3行で、書いてみてくれないか。
3人分でいいよ。

評価をみれば人物が見えると思うのは、
間違いなのか?

実は、単に批判に堪えれる所見を書けないと思っているのだが…。

ご提案自体に矛盾があることにお気付きになりませんか?

(v^ー゜)ヤッタネ!!
お褒めいただいてありがとう。

提案だが、
暗象が指導力不足でないことを証明するために、
10段階で2程度の子どもの社会科の所見を、
このブログの幅で2〜3行で、
10人分書いてみてくれないか。

>わかりきった所見や、意味不明の所見で、
不信感が生まれるんじゃないの?

さすが指導力不足の教師の特徴をよくご理解いただけたようですね。

(?_?)
>「信頼性」を高めることが教師には求められています。

それは総花的に通知表に書いて得られるものなのか?
逆効果じゃないの?
わかりきった所見や、意味不明の所見で、
不信感が生まれるんじゃないの?

>暗象は評価する側だから、
自分たちの地位を高めたいんだろうけど、

「地位」ではなく、「信頼性」を高めることが教師には求められています。

>数文字の所見で評価される側が、
一喜一憂するのは間違った社会だと思うよ。

「一喜一憂」ですましてしまわない教育が求められています。そのためのアドバイスが「所見」にこめられるとよいのではないですか?

(´,_ゝ`)プッ
>委員会や係活動、班活動、部活動に関する所見も通知表の中にはありませんか?

だから?
何の話をしたい?
あっ、
>私が高めたいと考えていることをあえて申し上げると、通知表の「メッセージ性」「個別性」及び「信頼性」でしょうか。<
ここへつながるのか?

で、また評価できるかできないかをするの?

暗象は評価する側だから、
自分たちの地位を高めたいんだろうけど、
数文字の所見で評価される側が、
一喜一憂するのは間違った社会だと思うよ。

個に応じた指導というのは、特別活動等を通して「いろんな人とつながり、ともに何かを成す力をつけ」られているかどうか、できていないとしたら何をどのようにすればよいのかを指導することも含んでいます。
委員会や係活動、班活動、部活動に関する所見も通知表の中にはありませんか?

(+_+)
>>学校がそれを行わないでもすんでしまっているので、塾などの方が学校より信頼されているのでは?

で、一言かいたら、このコメント?

>「個に応じた指導」は学習だけとは限りません。

東京の学校が悪いというべきか、
暗象のいる学校が悪いというべきか…。
私が学校に求めているのは、いろんな人とつながり、ともに何かを成す力をつけてくれるところだよ。確かに、暗象の考え方では、集団形成ができないのはわかるし、私の求める学校象もそこにはない。でも、塾で叶えられるものでもない。

「個に応じた指導」は学習だけとは限りません。
生活の様子を見れば、それを怠っているために学習自体が成り立たない学校が多いようです。

(○゚ε゚○)
>学校がそれを行わないでもすんでしまっているので、塾などの方が学校より信頼されているのでは?

そうなのか?
学習と関係のないことばかり言っているから、
学習させたくて塾へ行くんじゃないの?
そういう意味で、
わが家は塾へは行かせていない。

>私は通知表の権威を落としたい
>暗象は通知表の権威を高めたい

私が高めたいと考えていることをあえて申し上げると、通知表の「メッセージ性」「個別性」及び「信頼性」でしょうか。

>ただ、通知表を網羅的にすればするほど、
先生が子どもに干渉する場面が増え、
私の嫌いな「過保護」「管理」が増える。

個に応じた指導はいちろうさんにとっては「干渉」「過保護」「管理」なのですね。
学校がそれを行わないでもすんでしまっているので、塾などの方が学校より信頼されているのでは?

┐(´д`)┌ヤレヤレ
私は通知表の権威を落としたい
暗象は通知表の権威を高めたい
それだけの違いなんだよね。
ただ、通知表を網羅的にすればするほど、
先生が子どもに干渉する場面が増え、
私の嫌いな「過保護」「管理」が増える。
その方向へ進めば進むほど、
「先生って何様なんだ?」という疑念がわく。

>何でもかんでも点数化して通知表に書くと、
いい点をとろうと無批判に価値を受け入れる・・・

だから所見の意味があるのでは?
「無批判な受け入れ」も「反抗」については指導レベルでの問題ですね。
「形成的評価」というのですが、指導過程での評価をふまえて総括に生かすことでいちろうさんのおっしゃる問題は回避することができます。

( ´_ゝ`)フーン
>もちろんそれは通知表上でなければならないというわけではありません。

通知表を所見だけのものにして、
点数だけのものを別につくって出せばどうなる?
たぶん、通知表の権威は薄れていくと思う。

逆に考えると、道徳に限らず、
何でもかんでも点数化して通知表に書くと、
いい点をとろうと無批判に価値を受け入れる
ロボットみたいな大多数の子どもと、
反抗する極少数の子どもの二極化をする。

そういうことを考えずに先生ができるのか?

>通知簿は“権威”だよ。

いちろうさんの通知表イメージは、「お上から下される反論不能なもの」というものなのでしょうか?

相対評価から絶対評価にかわって、教師にとってはなぜその成績なのかを説明する責任が増しています。

ただ数字で結果を示すのではなく、やはり何らかのコミュニケーションがそこでできることが、評定を出すときには必要な気がします。

もちろんそれは通知表上でなければならないというわけではありません。
教科別の通知表(成績表)をつくっている教師もいると思います。

そうですね。
通知表は作成が義務づけられているものではないわけで、形式は自由、作成する・しないも自由なわけですから、学校独自にもっともっと工夫があってよいわけです。
担任の仕事を減らすとか言って、パソコンで一斉にプリントアウトできるタイプがあるかもしれませんが、やはり担任のコメントが入ったり、努力の成果が見えたりする「手作り感」が通知表には向いているような気がします。
特に総括となる学年末ではない、学期ごとの通知表は見直す余地が多そうです。

(´;ω;`)ウウ・・・
日常の授業ならいいけど、
通知簿は“権威”だよ。
そこに細かく所見をつけるのはどうかと思う。
私は通知簿の“権威”を無くす方向がいい。

>言動に対して、言動で評価し正していくこと、
文章に対して文章で評価し正していくことは、
教育だと思うよ。

というお考えのいちろうさんにとって、「担任所見」だけではなく、「教科担任の所見」がある通知表についてはどう思われますか。

ヽ(´▽`)/
あれっ? 本当だね。
失礼しました。
? … 道徳のことで書いていなかったっけ?
あちこちにコメントつけすぎたね。

>道徳の評価を通知表に書く

ことがどこから出てきた話なのでしょうか、という疑問なのですが?

┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~
>どなたかが横から入られましたか?

入られるのを嫌っているから、一対一のコメントのやりとりでしているということ。
しゃべるのは好きだけど、他人の話は理解できない人なんだね。困った先生だ。

どなたかが横から入られましたか?

( ̄○ ̄;)!
>いつの間にか道徳の評価の話になっていたのですか・・・?

どこまで丁寧に書けばいいんだ?
私は一対一でのコメントのやりとりだと思っていた。だから横から入るのも入られるのも好きじゃない。

いつの間にか道徳の評価の話になっていたのですか・・・?
私の紹介した通知表は、教科ごとの所見があるというタイプのものです。
なお、通知表の所見では、見方によっては道徳的な観点を強くもつような内容、「向上心がある」「公正・公平に判断できる」などのことを書くことも多いですが・・・。
「評価」は点数や記号だけで行われるものではなくて、文章による「所見」というものが指導要録などにも記されています。

(・・;)
>「通知表」もマイナスの価値しかもたないものなのでしょうね。

だから暗象の頭の中は○×しかないというの!!
コメントの流れから、
道徳の評価を通知表に書くということを、
「最低な行為」と書きました。

暗象は、曲解したり、適用範囲を自分に都合のいいように変えて反論したがるけど、中学生程度の読解力がありますか?

いちろうさんにとっては「通知表」もマイナスの価値しかもたないものなのでしょうね。

┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~
>私が勤務校で提案した通知表はこのような形式になっています。

そりゃ、普通の先生なら面倒くさくてしないだろう。前回のコメントにもう一つ付け加えなきゃいけないね。最低な行為は、テストだけじゃない、通知表もダメだね。

>言動に対して、言動で評価し正していくこと、
文章に対して文章で評価し正していくこと

私が勤務校で提案した通知表はこのような形式になっています。
「めんどうくさい」という反発が強かったのですが、一応定着しているようです。

(´,_ゝ`)プッ
>A、B、Cという3段階の評価で十分な内容もたくさんあるのですが。

だから何もわかっていないんだって。
ABCや優良可という問題じゃない。
言動に対して、言動で評価し正していくこと、
文章に対して文章で評価し正していくことは、
教育だと思うよ。
でも、知識として先生の定めた基準に合っているかどうかをペーパーでテストし点数やABCで評価するというのは間違っている。

やはりテストでどうしても点数化したいのはいちろうさんのようですね。
A、B、Cという3段階の評価で十分な内容もたくさんあるのですが。

(?_?)
>どのような根拠に基づいて書けているかを評価するような問題

評価するのは、先生?
評価するには、基準がいるのでは?
基準に合っているかどうかで評価するのでは?
であれば、点数化もできるものでは?

意味不明なんだけど?

「対立」していた意見をどのように「合意」に結びつけるか、そのときに「効率」や「公正」についてはどう考慮されているかなど、さまざまな意見や考えを述べるときに、どのような根拠に基づいて書けているかを評価するような問題があります。
社会生活では簡単に「正答」を見つけることはできません。
しかし、「正答」に近いと多くの人から判断してもらえるような意見とその根拠を示す力を身に付けさせるために、「効率」や「公正」をキーワード・判断基準として示したりしています。

(-ε-)
>自分の考えが述べられているとかが評価の対象になるテストでは、必ずしも「正答」があるわけではないのです。

意味不明の技術論を書かれると困るが、
この文で言うところの「評価」とは何だ?
正答のないものを「評価」するとは、
どういうことなんだ?
そういう「評価」は、
誰の何のためになるものなんだ?
全く意味不明だ。

>テストで測定するということは、正解があり不正解があるということであり

いちろうさんが受けてこられたテストは、ただ点数がつくだけのものだったかもしれませんが、「観点別学習状況評価」に基づいて評定を出す現在の仕組みでは、必ずしも「点数」にする必要はありません。

「正解」「不正解」ではなく、どの程度資料が活用できているとか、自分の考えが述べられているとかが評価の対象になるテストでは、必ずしも「正答」があるわけではないのです。

何も書かなければ評価できない、という意味では、いちろうさんの想定されているテストと同じなのですが。

(○゚ε゚○)
>これは最も確実な「誤読」に基づく偏見のように思われます

上の記事でいうと

>定期考査でその力を測定しないのであれば、授業で発表等の機会を保障しなければいけません

テストでできないなら授業で…ということは、テストで測定すべきという考え方ですね。テストで測定するということは、正解があり不正解があるということであり、さらに、これまでも学力という名で正答を増やすことを求めているので、「正答を求めている」と表現することは誤読なのでしょうか?

>この記事を読んでいても、
正解を求めている姿しか見えてこない

今までいただいたいちろうさんのコメントの中でも、これは最も確実な「誤読」に基づく偏見のように思われますが、いかがでしょうか?

_ノフ○ グッタリ …

>日本の子どもたちは「記述・論述問題」の「無回答」が多いという不名誉な評価を受けています。

そりゃ、正解を求めることばかり繰り返すからだよ。
この記事を読んでいても、
正解を求めている姿しか見えてこない。
結局は、暗象以下の人間をつくっているだけ?

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より