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学力調査結果の市町村別開示をめぐって

[学力テスト] ブログ村キーワード
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 全国学力調査市町村別成績開示がしばらく話題となりそうです。
 この問題に対する立場・態度は、賛成反対と大きく二つに分かれるため、何を根拠にその立場をとるかという部分を含め、発言者の個性がわかりやすく反映される話題です。

 大阪府では、賛成の立場の市町村が開示され、反対する市町村は開示されませんでした。
 府民の「知る権利」の保障を第一に考えるか、開示によるデメリットを第一に考えるかが判断の分かれ目でしょう。

 反対理由には、「競争の過熱化」「単なるテスト対策の横行」「地域の序列化」が主なものとして過去から挙がっております。
 新聞でコメントを求められる大学教師らは色がはっきりしているので、極端な主張・・・「地域全体の荒廃につながりかねない」・・・まで出てきているようです。

 私の考えとしては、この「反対理由」として挙がっているものが、学校や教師の信頼性の低さを前提にしていると感じ、非常に強い反発を覚えている一面があり、一方で絶対評価になってから、信頼性に課題のある評価・評定の問題が生じ、実際のところ学力が高いのか、低いのか、わからない、全国との比較など、やはり相対的な位置を知ることで、ある程度の目安になる・・・という考え方から、「知る権利」の保障を重視すべき、というスタンスをとっています。

 仮に、私の子どもの数学の評定はとてもいい(とても悪い)のだが、全国の調査の結果はちょうど平均点のレベルだった。
 学校の評定の付け方に問題はないのか?
 
 高校の側からすると、蓄積されたデータから見ても、どうもこの自治体の子どもは、評定に比べて入試得点が低い傾向があった。全国の学力調査の結果も見ても同じことが言えそうだ。
 評価・評定の在り方に問題があるのではないか?
 客観的で信頼性のあるデータをもとにした公正・公平な入学選抜が実施できていないのではないか?

 そういう話題が出てくるかもしれません。

 一部の教師からは「家庭環境」「経済的背景」に学力の高低の根拠を見つけたい=自分に負担がこないようにしたいという欲求をもっていることがその発言からありありと伝わってきますが、仮にそれらの問題が低い学力に結びついているとしたら、そういう課題も乗り越えられるような学力向上策がとられるべきで、「あなたの家庭は貧しいのだから学力は低くても仕方がない」とでも言いそうな教師の逃げを許してはいけない・・・それが保護者や子どもの立場からすれば当然の考え方でしょう。

 たとえば大阪府の中でも学力調査の結果が芳しくないことがわかった自治体があるとしましょう。
 その自治体が、その結果から「ダメな地域」とレッテルを貼られてしまったとしましょう。
 その自治体は、どうすればよいのですか。
 それ以外の自治体はどうすればよいのでしょうか。

 開示反対派は、「犯人探しが始まる」というニュアンスの発言をしています。
 では、ある学校が「犯人」である、ということがわかったとしましょう。
 その学校は、どうすればよいのですか。
 その他の学校は、どうすればよいのでしょうか。

 「学力調査の結果は芳しくなくても、私の学校にはこれだけの長所があるんですよ」という「個性のアピール」をして、「人間の価値はテストで測れるような学力で決まるものではない」という正論を主張するのか。

 「学力調査の結果を厳粛に受けとめ、日常の生活指導も含めた学習指導・授業の改善に全校態勢で取り組む決意」を表明し、実践していくのか。

 教育行政側のスタンスとしてはどうでしょう。
 成果主義による予算配分は「教育的でない」にしても、結果として課題のあることが見えた学校には逆に(外部からも含めて)人材の供給に力を入れるという選択肢もとれるでしょう。

 私は、「よほど強い危機感が身近にせまらないと本腰を入れない」のは教師だけでなく日本人一般の性質だと思っているので、「教育を改革する」という意味では、厳しい現実的な数字をつきつけることの効果は大きいと考えています。

 「ピンチがきたときこそ大きな変革のチャンス」であることは、教育の世界だけにあてはまることではないでしょう。

 賛成・反対という振り子型反応ではなく、「これを機会に学力調査の目的や方法をより精査していく」という螺旋型発展に結びつきそうな意見は、傾聴するに値するとも思います。 
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コメント

 イギリス教育改革に関する検証記事(『競争しても学力行き止まり』4 -イギリス教育の失敗とフィンランドの成功-)をアップしましたのでトラックバックさせていただきます。

もし、学力の基礎が学校より塾などの教育産業によって形成されていた、なんてデータが出てきたら、全く新しいタイプの学校像が生まれてくるかもしれませんね。
そういう場合、教師に求められるのは教科の専門性ではなくなってくる可能性があります。

 現実から出発して「よりよい教育を実現していくためにデータを活かす」というあなたの考えは正しいと思います。
 
 例えば、大阪府の「平均点」が全国的に低い背景には「就学援助」や「高校での授業料減免」の対象者が全国一ということに象徴される「生活の苦しさ」があるようですね。

 その現実から出発して「格差の再生産」にならないためにいかにして「学力保障」をしていくのかは、「教育現場・教育行政」の重要な課題でしょう。

 しかし、大阪府知事のように「教育委員会を罵倒する」ようなことは論外であると考えます。知事であるならば、「低学力」の背景にある「経済格差の問題」をどう解決するか「自らの問題として」考え対応していくべきでしょう。

(NHKスペシャルで鋭く提示された「ワーキングプア問題」というのは、まさに家庭教育の基盤さえも崩壊させ、社会を衰弱させていく深刻な問題点・課題であると思います。)

 関連して記事をトラックバックさせていただきますね。

 『競争しても学力行き止まり』で紹介されているような問題点を避けつつ「データを活かしていく」ためには、「それぞれが地域や社会の教育を創造していく主体」として、つまり「自らの問題として」いかに教育をよりよいものにしていくか真剣に考えていく、ということが重要なポイントになると考えています。

「全国学力調査」の内容もあわせて検討していきましょう。

 螺旋型発展の条件

 「開示」それ自体についていえば、行政機関の持っている情報の「開示」が求められた場合、原則開示するというのが民主社会の原則でしょう。

 ただ、将来にわたって全国学力調査を実施し、市町村や学校ごとに結果を「開示」し「対策の強化」をどんどん進めていく、といった方向性については問題を感じます。

 あなたのいう螺旋型発展につながるような論議をしていくためには、「反対意見」に対して(例えば自分に負担がこないようにという欲求に根ざすものだ)といった単純なレッテル貼りをするのではなく、「反対意見からも学んでいく」ことが大切ではないかと考えます。

 私自身も「教育改革」についての論議が「振り子型の空中戦」になることを避けたい、という思いがあります。そのためには、すでに開始されて20年になるイギリスの教育改革(日本の教育改革と多くの共通点を持つ)について、成果と問題点を事実に基づいて検証することが大切だ、と考えるものです。

 私は、文部科学省が「開示」に対して消極的である理由は、「イギリスで起こった様々な問題点」について検証した結果ではないかと想像しているのです。『競争しても学力行き止まり』という本の紹介(なかなか進みませんが)を継続的にしていきたいと思いますので、よろしければご覧ください。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「子産(下)」より
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    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より