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「しかと」系いじめの起源は仏教思想?

[いじめ] ブログ村キーワード

 いじめの中でも、直接的ないやがらせより、掲示板への書き込みのような陰湿なものの方がいじめられる側の精神的ダメージは大きいものになるのでしょうが、いじめで最もきつい形態は、「しかと」=「無視」ではないでしょうか。

 「無視されるよりいじめられている方がまし」という言い方をする子どももいるようです。

 スリランカ初期仏教長老アルボムッレ・スマナサーラ著「怒らないこと」(サンガ新書)に、次のような話が紹介されていました。
 「無視」による排除制裁)は、仏教が起源だったのでしょうか。

 

私たち仏教徒の場合、お寺で悪いことをした人にどうするのかというと、・・・(中略)・・・よくやるのは、完全に無視することです。何を言おうが何をしようが、知らぬふりをして社会から追い出すのです。物理的に追い出すことではなく、・・・(中略)・・・一緒に活動している人として扱わないで無視するのです。
 その人が発言しても完全に無視して、「じゃあ、次の・・・(中略)・・・
 無視の罰を受けるのは、道徳を守らない人、みんなの決まりも調和も守らない人、・・・(後略)

 
 普通の「無視」仏教の「無視」はどう違うのか。

 仏教的な無視は、「感情的な無視ではなくて、その人が行動を改めるかどうかを静かに見つめながら、まるで相手がその場にいないように行動すること」だそうですが、現代だとそうされた人は「キレ」てしまうので、あまり使える人間改革策ではなさそうですが・・・。

 学級自治会で、「クラス内が騒がしい時、発言する人(またはそれを聞こうとしている人)はどういう態度にでるべきか」と話し合うと、「だれだれが注意する」とかいう方策が提案されるかもしれませんが、これはある基準にあてはめれば、下策です。

 上策として、「静かになるまで待つ」という態度が提案されますが、それが上策である理由は何でしょう。

 「待つ」ことは「信じる」ことであること。
 
 仏教式の無視の話も、「信じる」という受け止め方が「無視」という形であらわれると解釈してよいのでしょうか。

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教育」カテゴリの記事

コメント

本質がよくわかるコメントありがとうございます。

(・∀・)ニヤニヤ
>「自分は本質を知っている」という方ほど怪しいのでは?

だったら暗象が一番怪しい (^o^)

宗教に限らず「自分は本質を知っている」という方ほど怪しいのでは?

|゚з゚)
>宗教はその時代その時代の背景に強い影響を受けて変化したり逆に時代に影響を与えてきたものですが、

そうなのか?
日本の仏教なんて鎌倉初期にできた宗派がそのままきているが?  大きな変化がないから新しい宗派ができないんじゃないのか?  鎌倉仏教以降は、江戸時代の黄檗宗ぐらい?
暗象は、宗教っていうものの本質がわかっていないんじゃないのか?

>「排除」と受け止める余裕のない子どもには、「待ち」と受け止めさせる工夫が必要ですね。

「排除」と受け止めてしまう、余裕のない子どもには・・・

ご指摘通り、「、」が必要でしたね。

(@Д@;
>「排除」と受け止める余裕のない子どもには、「待ち」と受け止めさせる工夫が必要ですね。

これは、何を意味したことばなんだ?
日本語なのか?

>こんなとき、組合も一種の宗教団体か?と感じもしました。

別に組合を持ち出すまでもなく、
暗象の出入りしているブログでもそうだろう。
人が持っている本能的な部分なんじゃないの?
それを教育の力で他人を傷つけないような表出に変えるのが、学校なんじゃないの?
家庭教育でも社会教育でもない部分だと思うが、学校の先生を名乗るものがこの程度の意識ではなぁ…

>他を批判することで仲間意識を強め集団をつくり、仲間の中での上下関係をつくるための手法として、排除の脅しを使うんだよ。

このコメントで思い出しましたが、私が招かれてお邪魔したある組合の会合の場で、過激な発言を繰り返す組合の中心人物が、非組合員の私がいることを承知で非組合員のことを「あっちの人間」「あいつら」と繰り返し呼び、「事務作業を嫌がる」「仕事をしない」と非難していました。
この組合は、職員会議で校長に向かって「おまえがバカだからだめなんだよ」というヤジを飛ばす団体だと聞いていたのですが、さすがに「何でお前がここにいるんだよ」と訴えるかのような「排除姿勢」にはまいりました。
ただの進路指導の勉強会だったのですが。
こんなとき、組合も一種の宗教団体か?と感じもしました。

友達ができない子どもの論理の代表例を思い出しました。
宗教はその時代その時代の背景に強い影響を受けて変化したり逆に時代に影響を与えてきたものですが、「排除」と受け止める余裕のない子どもには、「待ち」と受け止めさせる工夫が必要ですね。

`;:゙;`;・(゚ε゚ )ブッ!!
もう一つ、指摘するのを忘れていた。
暗象は「垂れ流し」タイプだと指摘してきたが、
上からくるものを無批判に下へ流すのは、
これまでの指摘で充分に理解できた?
で、今回は、何が上なのかというところで、
暗象は権威に弱いようですね。
多くの人に認められているものには無批判。

今回は仏教を無批判に受け入れているけど、
素朴に、世界三大一神教に順位をつけたら、
イスラム教が3番目にくるのかな?  (#^o^#)

ヤッテラレンワ…ヽ(○´3`)ノ フッ
>仏教式の無視の話も、「信じる」という受け止め方が「無視」という形であらわれると解釈してよいのでしょうか。

違うよ。ただの排除だよ。
排除されるのが嫌なら、自分たちのルールを守れ!!
ブログの世界でもよくあるパターンだよ。
宗教なんていうのは、そうやって求心力を高める。
政治もそうだしね。

他を批判することで仲間意識を強め集団をつくり、
仲間の中での上下関係をつくるための手法として、
排除の脅しを使うんだよ。

子どもたちの社会も、そうなんじゃないの?

本日二度目の、本当に先生なの?

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  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より