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振り子型か、螺旋型か?

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 新学習指導要領について「ゆとり教育の否定」「生きる力の育成からの転換」などという誤ったイメージがあることについて、学校側としては明確な説明を保護者等に対して行う必要があるでしょう。
 しかし、残念ながら教師の中にはマスコミ経由の情報だけに踊らされて、保護者の認識レベルと大して変わらないコメントを発表している人もおり、だれが誤りを正すのか、だれがその人の周囲で誤りに気付くのか、不安な思いでいます。

 コンビニの世界では、「合理化」を実現するための「均質化」戦略がとられ、
 「均質化」」戦略が功を奏してこれ以上できないほどの「合理化」を達成した後は、
 再び反転し、
 「均質化」から「個性化」への回帰がおこっています。

 その変化の中でおこっていることは、単に「効率化」が進んだということではなく、より便利に、より地域に密着した形として、進化していることです。

 このような動きは、教育の世界でよく語られる「振り子」現象ではなくて、「螺旋的発展」現象と言えます。

 学校の中で、より強力な形、発展した形で復活してくるのは何でしょうか。
 学校教育に「螺旋的発展」は可能なのでしょうか。

 現在の教育改革に大きな疑問を投げかけていらっしゃる方々に、ぜひご意見をいただきたいものです。

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「ゆとり教育」」カテゴリの記事

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コメント

 しょうです。
 トラックバックをいただいていたにもかかわらず、コメントが大変遅くなりました。

 「螺旋的発展」現象についての問題提起が、確かにコメントのやりとりの中でずれた方向に向かっていますね。

 kurazohさんが提起したことについては、ほぼ同趣旨の内容をベネッセが発信しています。http://benesse.jp/blog/20071227/p3.html

 いわゆる「ゆとり教育」「生きる力」の目玉であった「総合的な学習の時間」の目的は
「(1)自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること(2)学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て(・・・)ること(3)(・・・)身に付けた知識や技能等を相互に関連付け、学習や生活において生かし、それらが総合的に働くようにすること」ですが、
 
 このような「総合学習」の視点は、領域としての「総合的な学習の時間」の中で実現されればいいというものではなく、「各教科」の学習の中に取り込む必要がある、ということですね。

 従って、「各教科で増えた授業時間分の一部を従来“総合”で行っていたような活動に割き、その分、“総合”では教科の枠を越えた学習に絞ろう」、という発想や方針は決して「ゆとり教育の否定」「生きる力の育成からの転換」ではない、ということでしょう。

 ただ、kurazohさんには珍しく「説明」を省略し「文部科学省のHP、学校HP」の参照や「学校への問い合わせ」を勧められたこともズレた一因かな、と感じました。(急いで確認し、横レスでもすればよかったのかもしれませんが・・・)

身近な地域の学習は小学校から始まっており、中学校の地理や歴史でも学習しますよ。

pig
>百聞は一見に如かずです。

こんなレベルで中学で社会を教えられるのか?
見たことのない過去や、
行ったこともない外国を教える嘘つき教師?

>現場なんて知らないって

百聞は一見に如かずです。

(◎_◎)

>・・・そんなに現場はひどいですか?

これも何回目?
私は現場なんて知らないって。
知らないけど、信じて任せているよ。

このブログに書かれている現場が、ひどい!!
それを真実だと思って、そういう目で見たら、
何を見ても、ひどくみえて、批判的になるということ。

暗象の理解力の無さに呆れているんだけど?
日常会話ができる方ですか?

>現場を見に行ったら、
ほぼ間違いなく、学校や先生を批判する側になる

・・・そんなに現場はひどいですか?

shock
>現場を見て、現場の先生のお話をうかがって早く安心された方がよろしいと思いますが・・・。

全然意味がわかっていないのは、真性の頓珍漢?
このブログを読んで不信感いっぱいになって、
現場を見に行ったら、
ほぼ間違いなく、学校や先生を批判する側になる。
という意味なんだけど?
それが目的のブログなのか?

現場を見て、現場の先生のお話をうかがって早く安心された方がよろしいと思いますが・・・。

shock
>直接連携していただけるように訴えていきたいと思います。

残念!!
ほぼ間違いなく、逆効果だよ。

「おおもと」「現場」を見ずにパソコンの前だけで語ろうとする人を何とか自分の身近な社会や公的な機関と直接連携していただけるように訴えていきたいと思います。

(-_-)_zzz
結局、そこかよ。
木を見て森を見ず…
ブログを公開して多くの人に広める必要がないね。
結局、個別のものを自分の目で見て判断しろというなら、ちっとも「論理」にならない。

いちろうさんの疑念を晴らす一番早い方法は、直接お子様が通っていらっしゃる学校に問い合わせていただくことだと思いますが・・・。

文部科学省のHPだけでなく、研究紀要や学校HP等をご覧いただければ、誤解は解けると思います。

(◎_◎;)
>誤ったイメージがあることについて、学校側としては明確な説明を保護者等に対して行う必要があるでしょう。

「誤ったイメージ」なのか?
湯水のように経費を使えるわけじゃないから、
経費というパイの奪い合いのために、
優先順位と、割合を決めてものごとを進めます。
学校では、経費のかわりに「時間割」があり、
今回は、全体の経費を増やした(授業時数増)が、
不必要なものを見直した(総合学習の減)のでは?
それに対して、観念的・情緒的に、
これは必要なものだ、
重要なことなんだと主張することが、
理解できない。
自分の企画書に拘って、
成長できない人を何人も見てきました。


>学校教育に「螺旋的発展」は可能なのでしょうか。

完全に意味不明なんだけど、
単純に振り子型のように、元に戻ることはない。
表面的に同じことをしても、中味が違う。
さすがに、このブログの「管理者」は、
全く同じことを何回も繰り返すのが好きだが、
世の中的にはありえないことだよ。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より