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成功事例にも興味がない教師の問題

しょうさん、Urokoさん、あたかかいコメントありがとうございました。

 「批判者の姿勢が悪い」ことが批判を受け入れない理由になるということも、教師がよく犯す失敗です。
 
 コンテンツよりコンテクストが上位になるというより、コンテクストが前提になってしまうのですね。

 Urokoさんのおっしゃる、「相手に温かさを感じてこそ、誰でも素直に受け入れられる」というものです。

 現場や行政では、課題の解決が最優先である場合、当然「問題を指摘する姿勢・態度」には注意を払います。

 しかし、日本に限ったことではないかもしれませんが、
 「丁重にお願いされた場合」
 「相手が敬意をもって接してくれた場合」
 「態度がよかった場合」には

 「批判を受け入れるふり」をするケース
が多くないでしょうか。

 私の見聞きした範囲では、よくありましたね。

 その場では「やります」「注意します」と言っても、何の実行にもうつさない。
 
 コンテクスト重視だと、態度がいいから、何もしなくても「聞いてあげた」ことだけで、すべきことをしたように自覚してしまう。

 生徒指導でも同じです。
 指導力のない教師ほど、注意された生徒の態度が悪いとますます指導が荒れていきますが、生徒が「素直なふり」「反省するふる」をするとすぐに問題は解決されたと思ってしまう

 要領のいい生徒は、「その場から早く解放される方法」をよくわかっています。
 要領の悪い生徒は、「注意の仕方が気に入らない」と言って逆ギレする。

 ・・・という経験をふまえなのか、あえて直接的な批判・問題の指摘=コンテンツを優先する態度をこのブログではとることが多いようですね。
 
 ただ、コンテンツ勝負ということになると、立場等による前提が間違っていると、全く議論にならないこともあります。「言っても無駄」というより、「言うほど逆効果」というものです。
 
 また、コンテンツ重視だと、相手の方の人格的な部分・重視している価値観をあらわにしてしまうという問題もありますが・・・。

 さて、このブログのタイトルについて今のところ申し上げられることは、「教育創造学」へはまだまだ手が届かないだろう、ということです。

 何がどのような意味で失敗であるかのを自覚できないというのが教師の最大の問題であると思っています。
 また、自覚していても、自分でどうしたらいいかわからない、そういう教師が多い。

 ロールモデルコンピテンシーモデルがないからかもしれません。
 
 山ほど蓄積されていながらほとんど利用されていない実践報告・・・。
 校内の過去の研究実践すら読まれていない学校が多いでしょう。

 よく、「ではどうしたらいいのか教えてほしい」と聞いてくる人がいますが、切迫した課題なら別として、そういう質問をすること自体が問題であるという指摘を何度もしています。

 そう簡単に教師の指導力を向上させる方法があるのなら、とっくの昔にそんな課題は解決されているでしょう。

 マニュアルや「すぐにできる!」系の本をあてにして、「自分の頭で考える」「意見や疑問を表明する」「対案を出す」「代案を出す」ことがなかなかできない。

 教師の中には、批判を耳にするのはもちろん、他校の成功事例にすら耳をかそうとしない人もいるでしょう。

 「あなたの学校のいいところは何ですか
という質問には答えられるかもしれませんが、

 「地区内であなたの学校よりいいところをもっている学校とはどこでしょう、それはどんな点についてでしょう
という質問に答えられる教師は多くないでしょう。  

 「他のことには興味がない・・・」
 「あなたの学校だからできることでしょう・・・」

 よくこんな言い方もされます。

 「よその人にはわからないことでしょうが・・・」
 「よその区(県)の人には・・・」

 このブログは「相談室」ではありませんので、「こうしていったらみんなもっと良くなるんじゃないだろうか」ということについては、たとえば私が他の方のブログにコメントするとき、僭越ながら指摘させていただく場合があります。

 コンテンツについてもしお気づきのことがありましたら、今後ともぜひコメントの方をよろしくお願いいたします。
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教育」カテゴリの記事

コメント

(◎´∀`)ノ
>子どもにもこれくらいの根気と批判力を育てたいものです。

そうだね。
私が生徒だったら、近寄りもしないと思うよ。

批判の【芽】とは批判的精神のことですね。
そういう精神を育めば、いちろうさんのように根気のいる批判を続けられるわけです。
子どもにもこれくらいの根気と批判力を育てたいものです。

shock
>「批判の目」を養っていると評価していただいてありがとうございます。

残念!!
そう読むということは、コメントをきちんと読んでいないことを証明したようなものですね。結構なエネルギーを割いて遊んでいるんだけど?

「批判の目」ではなく「批判の【芽】」です。

「批判の目」を養っていると評価していただいてありがとうございます。
情報を鵜呑みにしない「批判の目」もぜひともセットでもっていただけると幸いです。
何度も繰り返して恐縮ですが、現場がすべてを物語っています。

shock あちゃー
>すべての評価者の「評価の目」を養うことが必要であり、私のブログではそれに役立つような情報を提供している、という役割もあると考えています。

ここの記事には書かないでおこうと思っていたけど…、あまりにもわかっていないので一言。
少なくとも、このブログが養っているのは、
「評価の目」じゃなくて「批判の芽」だって。
現場で水をまかれて、
近所のスーパーで肥料をまかれたら、
モンスターペアレンツの大増殖になるよ。

しょうさんへ。
ご回答ありがとうございました。

>投書を読んだ教員が「やっぱり最近の保護者はなっていない」という見方を強めたり、kurazohさんのブログを読んだ保護者が「やっぱり教員はなっていない」という見方を強める可能性はゼロではない

ことは確かでしょうね。その実感を強めるもともとの経験が積み重なっているとすれば、なおさらでしょう。
問題は、評価する側ではなく当事者がどれだけ自覚できているかということで、公的な根拠を示す資料としては、公表される学校評価等を利用することができます。
保護者等や第三者機関が評価者になる場合は、内部評価をもとにした評価も行う機会を設定すべきだと思われます。
学校評価の実効性を高めるためには、教師も含めたすべての評価者の「評価の目」を養うことが必要であり、私のブログではそれに役立つような情報を提供している、という役割もあると考えています。

 おやおや。言葉が足りなかったのか、最後の一行がよけいだったのか。

 仮に・・・と書いたのは、「立場を変えて考えてみたら」「もしそのようなブログがあれば」ということでkurazohさんがそのような文章を書かれたと言うことではありません。

 実際にそのようなブログにお目にかかったことはありませんが、地元新聞の投書の中には、家庭教育の問題点(なっていない点)について、自分の知っている事例を一般化して述べたようなもの(意見)が時々あります。

 例えばそのような投書を読んだ教員が「やっぱり最近の保護者はなっていない」という見方を強めたり、kurazohさんのブログを読んだ保護者が「やっぱり教員はなっていない」という見方を強める可能性はゼロではない、という意味です。

 私もPTAの役員ですが、保護者でありかつ教職員である立場から信頼を基盤にした連携づくりを積極的に進めていきたいものだ、と考えています。

しょうさんへ。
コメント&TBありがとうございました。
一点教えていただきたいのですが、

>批判やアドバイスをまともに受け止められない親があまりにも多い

とはどのような文脈で私が述べたことでしたでしょうか。

 kurazohさんの記事やコメントを機会に、「保護者と教職員の連携」について記事をアップしました。トラックバックさせていただきますので、ご一読いただければと思います。

>教員にとって耳の痛いと思われる内容を不特定多数に公開することが、教員に対する信頼を低下させるという意見については疑問を感じます。

 個人に正対して明確な論拠を示しつつ批判することと、自分の体験(自分の接してきた教員のありよう)を一般化して「そもそも教員はこのような弱点を・・・」と述べることは、別の意味を持つでしょう。(もちろんkurazohさんはそのような発信ばかりしてこられたわけではありませんが)
 
 教育を良くしていく上で、教職員と保護者の好ましい連携は不可欠であると考えます。その場合、「大体最近の教員はなっていない」(←現場の教職員自身がブログで書いているぐらいだからよっぽどだ)といった見方や「大体最近の保護者はなっていない」という見方が広がることはマイナスに働く可能性があると思います。

 仮に、「親は子どもの問題点について指摘や批判を受けた時はそれをきちんと受け止めて、子育てのあり方を問い直していく必要がある」という「高い意識」を持った保護者が、一般論として「批判やアドバイスをまともに受け止められない親があまりにも多い」といった意見を発信し続けることは(ある意味で立派ですが)、「非常識だと思える保護者が多い」といった教職員の「一面的な見方」を(保護者自身がブログで書いているんだからよほどなっていないんだな、といった形で)強化していく危険性はあると思います。

 気がかり、と述べたのはそのような意味(連携の構築に際してマイナスに働く可能性)です。

kurazoh様

ご丁寧にありがとうございます。
納得できているわけではありませんが、私はコメント欄での過度な論争を好みません。

それから私はコメントは原則としてブログ主に向けて入れます。
「kurazoh様の本論に関係ない」として私がわざわざ名前を伏せているにも拘わらず、「自分だろう」と名乗り出るようなお方もいらっしゃるようで、このようなコメントは、当人がいつも語る言葉で言えば、当人が嫌うはずの「論点の拡散」でしょうな。
少なくとも、ここのコメント欄ですべき内容ではありません。

このような浅薄なクレームがたぶん付くであろう事を予測して

 >・・・「だけ」なのは、指摘しないよりも悪いと思っています。
 >私は「だけ」はしないようにしています。

・・・その裏には、批判をする限りは、こきおろす『だけ』でなく、「~すればどうだろう」ということを必ず書くということであり、今まで自分はそうしてきました。
批判のみならず、たとえ誹謗中傷であれ、人の口に戸は立てられぬものです。

わかりやすく述べたつもりですが、こういうお方は言葉のウラというものをまったく読み取れないようなので、もう少し読解力をつけて、本記事や他者のコメントを正確に受け取れるようになってから、他者を批判(あれが???)するなりされた方が良いのではないかと・・・・

この欄でこんなことに触れるのはkurazoh様には大変なご迷惑と存じつつ、失礼します。

教員にとって耳の痛いと思われる内容を不特定多数に公開することが、教員に対する信頼を低下させるという意見については疑問を感じます。疑問を感じるような意見があった場合、それに対して異論を唱えないことの方が、ますます不信感を助長することになるのではないでしょうか。少なくとも私はこれまで、教員が書いた記事に疑問を感じることは何度もありましたが、それに対し違和感を述べる教員が皆無に等しかったことについては不信感を募らせることとなりました。もちろん、必ずしも私が正しいというわけではありませんが、それを踏まえても非常に疑問が残ったものです。

さて、他人をこきおろすだけでしか何かを語れないというUroko先生のご意見についてですが、これはおそらく私のことを指しているものと思いますので少しだけ触れさせてください。まず、私は疑問を感じたものについて、率直に意見を述べているに過ぎません。疑問を疑問として批判させないようにもっていく姿勢に私は違和感を覚えます。また、Uroko先生も批判的な記事を過去に書かれているのをこれまで何度も目にしていますので、これについても自分の都合の良いように言っているようにしか思えません。何より、メールにて私の個人情報を公開することをちらつかせることにより発言を封じようとした方が、よくそのようなことを言えたものだなぁと呆れるばかりです。それについてはメールの内容を公開し、それがどのようなものであったか判断していただければ、どちらが正しいか分かるでしょう。おそらくUroko先生は「私信であるから」など何らかの理由をつけて拒否されるでしょうが、私からすれば本当の理由は明らかです。

良い点を強調すればぬるま湯体質であると批判でき、悪い点を強調すれば信頼を失うと批判できます。物は言いようとはまさにこのことです。いずれにせよ大切なのは、率直に意見を言い合えることであるのは言うまでもありません。誹謗中傷や揶揄でない限り、発言(批判)を封じ込める権利など誰にもないのです。

Urokoさんへ。
ご丁寧な回答・コメントありがとうございます。

>親や子どもは、うまくいっていないことがある場合、それをじつによく把握しています。それを言葉にはしないので、うまくいっていると思っているのは先生方やその上司たちだけです。

まさにおっしゃる通りの状況を、何度も記事では取り上げてきました。

それは教師に気付かせればよいのですが、問題は、まだまだ親や子どもにも見えていない部分があること・・・私にもはっきり見えないものもありますが・・・を危惧しています。

>失敗とは、それが是正され、成功できて初めて、何がいけなかったかが認識できるものであり、本人がどうしていいのかわからないときに失敗の烙印を押されたら、ただもがくだけで余計泥沼に入り込み苦しむ
・・・

失敗の種類にもさまざまあるわけですが、単に無知が原因の場合は、教えてあげればすむかもしれません。
ただ、学力向上が思うように進まない、教材開発にしろ、指導にしろ、とにかく時間が足りない、などというほとんどの教師が抱えている問題については、「成功」は非常に困難な問題です。
不用意な一言で生徒を傷付けてしまうような「失敗」は、場合によって取り返しがつかいかもしれません。
「成功しているつもり」の教師の意識改革を進めるとともに、「矛盾」の記事と同様、「失敗」の積み重ねにも負けず、粘り強く成功を追求する姿勢を持ち続けることが教師には求められていると思います。
「人に聞く」「相談する」という手段はもちろん大事ですし、それによって教師自身も子どもも救われるケースは多いでしょう。
私も質問されれば可能な範囲でお答えすることもできますが、基本的な姿勢は、「自分で見つけた答えは一生の財産になる」というもので、あえて成功可能なパターンをお示ししない場合もあるかもしれません。
学校の指導で成功に結びつく条件は、非常に多岐にわたり、多くは「隠された」部分の影響力が強い。ですから安易に「こうすれば・・・」みたいな提案をして、書かれていない大事な要件や前提を無視したまま鵜呑みの指導をしたことによる失敗を誘発したくないという気持ちもあります。

再び失礼します。
わざわざ記事にしていただきありがとうございました。

ところで、「しょうさんへ」のタイトルの中でのご質問ということなのですが、

>「他をこき下ろすことで何かを語ろうとする」一部の人とは誰を指していますか?<

の部分は私の書いたことなので、しょうさんはこれを問われても困るでしょう。
では正確に書き直せば、「他人をこき下ろすこと『でしか何かを語れない』人達」で、私の直接念頭にあるのはkurazoh様が思い当たるでありましょう2人です。kurazoh様は『でしか何かを語れない』の中に入ってはおりません。

ここはその2人のブログではないので名前を出しませんし、これを読んだ本人達は誰のことかわかります。ここでの本論とは関係がないと思います。私は(自分のブログで述べていますが)、きついことは本人直通に書きます。


kurazoh様の記事に間接的に関係すると思いますが、私の教え子にも教師になった人が何人もいます。教務に悩むようなときは立場の違う私によく相談を持ちかけられます。相談に乗ってくれる・・・いや、自分が納得できるアドバイスを返せるような力量を持った上司や同僚は少ないそうです。

>(教育現場は課題だらけですが、)子どもや保護者は「うまくいっている」と思いこまされている部分がある現状(を私は特に問題視しています。)<

親や子どもは、うまくいっていないことがある場合、それをじつによく把握しています。それを言葉にはしないので、うまくいっていると思っているのは先生方やその上司たちだけです。

>成功者のまねはすぐにはできないのですが、失敗者の繰り返しは防ぐことができる。<

いえ、これにも異論があります。

失敗とは、それが是正され、成功できて初めて、何がいけなかったかが認識できるものであり、本人がどうしていいのかわからないときに失敗の烙印を押されたら、ただもがくだけで余計泥沼に入り込み苦しむ先生方の例を私はたくさん見てきました。

だからこき下ろす「だけ」とか失敗なのだという烙印を押す「だけ」なのは、指摘しないよりも悪いと思っています。私は「だけ」はしないようにしています。これは大人相手でも子ども相手でも変わりません。

また横から長々と失礼しました m(_ _)m

しょうさんへ。
コメントありがとうございます。
繰り返しになるかもしれませんが、私のこの場でのスタンスをご説明申し上げます。

教育現場は課題だらけですが、子どもや保護者は「うまくいっている」と思いこまされている部分がある現状を私は特に問題視しています。
それは、目標の設定が甘いか、そもそも目標を設定していないことが原因です。

成功者のまねはすぐにはできないのですが、失敗者の繰り返しは防ぐことができる。
前回のコメントの発言の趣旨はそこにあります。

また、だれにとっても本当に確かなポイントはただ一つだけ。
人から聞いた話を鵜呑みにしないこと。
あるいは、どこかで読んだ話をそれだけで本気にしないこと。

実際に見て、確かめて、よいところ・問題点を見つけ、よいところは伸ばしてもらい、問題点を問題点として自覚してもらい、その改善策を練ってもらい、実施してもらって、よりよいことといった結果として出してもらう。
そういうシステムを定着させなければなりません。
まだまだ、教師も子どもも保護者も、多くの国民も、日本の教育が抱えている危機が認識できていないのではないかと思っています。

ご質問ですが、「他をこき下ろすことで何かを語ろうとする」一部の人とは誰を指していますか?

 しょう です。遅くなりましたがコメントさせていただきます。
 私の前回コメントのポイントは二つです。

1、批判する姿勢の問題と「同僚性」の問題
2、発信する情報の内容(あるいは発信する姿勢)の問題

 まず2からいきます。
 私やUrokoさんのコメントに対する応答記事のタイトルが「成功事例にも興味がない教師の問題」であることも象徴的ですが、発信する内容や視点がほとんど常に「教師の問題」ですね。それに対しては正直、前回コメントさせていただいたのと全く同じことを感じます。
 Urokoさんの言葉を借りて言えば
>“ここがだめだ!”を強調するよりも、“こうしていったらみんなもっと良くなるんじゃないだろうか!”という実践例を下手な教訓話抜きに語った方が、年齢を問わず、受け入れられる人が多くなるように感じます。
>他をこき下ろすことで何かを語ろうとするのは、一部の人達だけで十分なのでは?
 ということです。
 
 個人に対して真剣に向き合って行う批判ではなく、一般論として「そもそも教員はこのような弱さがある」「ここがだめだ」という主張や「下手な教訓話」をしても、教育をよくする上であまり有効ではないだろう、と考えます。また、「不特定多数に発信すること」で教員に対する信頼を(さらに?)低下させ、望ましい連携をより困難にする可能性もある、という点も気がかりです。

>このブログのタイトルについて今のところ申し上げられることは、「教育創造学」へはまだまだ手が届かないだろう、ということです。
>何がどのような意味で失敗であるかのを自覚できないというのが教師の最大の問題であると思っています。

 私自身、新規採用から2年後に「もう担任は持ちたくない」と思うほどの失敗をしましたが、先輩教員が勧めてくれた「実践記録」(マカレンコの『教育詩』も含めて)を読むことで、大きな力を得た体験があります。私の場合、実践の具体的展望が明確に見えてくることによって、自分自身の失敗を冷静に捉え直すことができたわけですが、「実践の展望を見いだすこと」と「失敗を明確に自覚すること」は切り離せないと考えます。「教育失敗学」は具体的な「教育創造学」と結びついてこそ意味あるものになるのではないでしょうか。

 さて、コメントに1に関わることですが kurazohさんの「批判する姿勢」にまで言及した理由の一つはいちろうさんへの応答(前回引用した部分)に大きな疑問を感じたからですが、それに加えて次の点があります。
 そもそも「・・・自覚できないというのが教師の最大の問題であると思っています」と言われる根拠はkurazohさんの体験ですね。だとすれば、kurazohさん自身が「同僚や同業者を信頼できる」という体験よりも「逆の体験」を多くされているのではないか。そして、その背景にはmadographosの言われる「批判する側とされる側が,お互いに敬意をもってやり取りしあう関係を構築すること」がうまく行ってないのではないか、と感じられたのです。(これは確かにコンテクストから想像した内容でしかない、ともいえます。)

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 「教育失敗学から教育創造学へ」でブログ主のkurazohさんは次のように述べておられます。1、ピンチをチャンスに>「褒められたい症候群」「褒められないと不満症候群」から教師は脱皮して、「打たれ強い」「逆境に強い」「逆風を追い風に変える」教師に生まれ変わるの...... [続きを読む]

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より