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人間の、動物以下の状態とは?

[教育現場] ブログ村キーワード

 「外部不経済と人間のこだわり」さんからコメントをいただきました。
 ありがとうございます。

こだわりを持って不幸になる。こだわりを持って幸福になる。絶対評価のこだわり。相対評価のこだわり。勝利のこだわり。惜敗のこだわり。受験で合格する人間が、幸福にならないときがある。受験で合格するものは、みな幸福か。悩みのこだわりは、人間を幸福にしたり不幸にしたりする。紙一重の、瀬戸際。

 人前で話をするときの目線の置き方にまで、指導をする「ゆとり」が生まれると、さらに高次の「こだわり」が生まれてきます。

 仏教なら、こういう「こだわり」を捨てることを説くことになるのでしょうが、やはり人間は煩悩からなかなか解き放たれません。

 以前からご紹介している「役立つ初期仏教法話1 怒らないこと」(サンガ新書)では、こんな話が紹介されていますが、この話を知っていたとしても笑われるようなことをあえてできる「こだわり」は人からみれば相当やっかいなものでしょう。

 

世の中で、怒る人ほど頭の悪い人はいません。(中略)そのときは智慧もわいてこないし、明るさもないし、適切な判断もできないでしょう?その状態はもう、人間でも動物でもありません。動物以下です。

 
怒るとき、我々は瞬時に「完全に最低な無知な人間」になってしまいます。怒れば怒るほど、我々は自分の無知そのものを刺激してどんどんバカになります。

 怒っているようでも、実は気持ちは冷静に訴えたいことを訴えているような人が、ごくまれにいるかもしれません。

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教育」カテゴリの記事

コメント

記事で若干の補足をいたします。

( ´,_ゝ`)ハイハイ
>話の本題は「こだわり」であって、

引用部分の可否の問題。
自説を補強したり、自説の権威付けの引用で、
その引用部分の表現に不適切なものがあれば、
数多ある中から引用箇所を選んだ者の責任では?

そこまで自己中に対応できるところが不思議。

話の本題は「こだわり」であって、仏教のこだわりに固執しているわけではありませんね。

(☆_★)
>みんな引用部分の言葉ですが?

引用大好きの暗象は、
自ら選んだ引用部分の解釈には、
全く責任を持とうともしないんだね。
ちょっと笑えるコメントだね。
まあ、暗象らしいといえばそれまでだが。

何のための引用なのか…
本を読んだという自己顕示欲?

いちろうさんが気にされているのはみんな引用部分の言葉ですが?

┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~
>差別的な思想と断定する根拠

「完全に最低な無知な人間」とは?
どこで区切れば、
このことばから差別がなくなるんだ?
あ、それ以前に「無知な人間」を
「最低」だと思っているんだ。
それなら、以前の障害のある人の学校での位置づけや、社会へでてからの位置づけで、全然話があわないことがあったけど、理解できたよ。

差別的な思想と断定する根拠を私は持っていないので・・・。
まだ仏教思想の入り口をぶらぶらしている程度なので、いちろうさんのようにはっきりと言い切る能力をもっていません。

┐(´-`)┌
こんな程度の返ししかできないとは、
先生のレベルの低さの象徴ですかね…。

余裕のない人には仏教説話は逆効果ですね。

w(゚o゚)w
>怒るとき、我々は瞬時に「完全に最低な無知な人間」になってしまいます。

この一文の中にある差別的な思想を、
学校の先生として、どう説明するのか?

私は、よく能力主義者と批判するけど、
暗象は、この一文の差別思想を感じることなく、
こういう思想を広めることで、
集団を思い通りの方向へ進めようとしている?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より