ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 「しかと」系いじめの起源は仏教思想? | トップページ | 教師の指導上のつまずきを防ぐ指導基準(東京教師ミニマム) »

野球の試合と学校の授業

[教育現場] ブログ村キーワード

 大学時代、私は野球部に所属していたのですが、試合で最も悩んでいたのが、バッターボックスに入ってからの呼吸でした。

 別に「大打者」をめざしていたわけでもないのですが、「大打者は初球を打たない」とか、「ファーストストライクに食らいつくのは余裕がない証拠」とか、そんな固定観念をもっていたせいで、初球の絶好球を見逃したり、打ちにいっても間合いが悪く力が入らないとか、そういう悔いの残る結果となる打席が多かったのです。

 調子のいいときはそれでも、2球目以降に甘い球が来れば打つことができたのですが、調子の悪いときは、絶好球の球筋が頭から離れず、次の甘い球を打ちそこなうケースが多かったように記憶しています。

 打席に入った後、ピッチャーが初球を投げる前に完全に打てる態勢に入れるかどうかは、たいていネクストバッターズサークルからバッターボックスに入るまでの間で決まっていました。

 打った後、ああ、打てる状態だったな、という実感が得られるのです。

 打者は、そのタイプに応じる部分もありますが(相手ピッチャーとの相性も含めて)、基本的には、打席に立つときの塁上の選手、アウトカウント、イニング、得点差などによって、どのようなバッティングをするかをイメージして、打席に立つことになります。
 ベンチからどのようなサインが出されるのかも、当然想定してから打席には立ちます。

 このことを「考えようとしないで考えられている」とき、集中した状態で打席に立つことになりますが、余計なことが頭に浮かんだとき、ほとんどの場合、うまくピッチャーとの息を合わせることができません。

 なぜこのようなことを書いたかというと、教師となって授業に向かう廊下で、あるいは教室での授業中に、同じような状態になったことを思い出したからです。

 教育と野球の違いは、教師の場合の役割が投手であることですが、マウンドに向かうピッチャーの心理というよりは、打席に向かう打者の心理に近いものを今でも感じています。

 すべての授業で指導案を作成するわけではないのですが、シミュレーションは欠かしません。
 その場で思いつく発問もありますが、基本的には核となる発問は事前に用意していきます。

 自然の流れの中で用意していた発問が出るときは、生徒の反応もよく、想定通りに授業が進むのですが、何か間合いの狂いが生じると、発問を出す「わざとらしさ感」への嫌悪感から躊躇が生まれてしまい、結局ほかのことを聞いて不完全燃焼に終わることもありました。

 授業の場合は、教師はどのような投手であることが理想であるかというと、たとえばバッティングピッチャー、打撃練習用の投手としての役割が最も想定しやすい例でしょうか。

 ただ、授業では生徒が打ちにくい球をわざと投げる場合もあるので、くせのあるピッチャーであることは確かです。

 今まで、教師として何度か「最後の一イニング」を経験しているはずなのですが、そのときのことはよく覚えていません。
 特別な心境で投げたり打ったりしていたはずなのですが。

 まだ記憶に残っているのは、意外なバッターにホームランを打たれた場面です。

 生徒たちが「観客」に見えてしまったときが、「引退」する決意を固めるときだと、今でも思っています。

にほんブログ村 教育論・教育問題

« 「しかと」系いじめの起源は仏教思想? | トップページ | 教師の指導上のつまずきを防ぐ指導基準(東京教師ミニマム) »

教育」カテゴリの記事

野球」カテゴリの記事

コメント

それが退屈せずに毎日訪問していただける理由なのですね。

ヤッテラレンワ…ヽ(○´3`)ノ フッ
>「不思議」な教育現場の実態

暗象の精神性を不思議と言っています!!

ありがとうございます。
もっともっと「不思議」な教育現場の実態を紹介していきたいと思います。

ψ(`∇´)ψ
>リスクコントロールをしていただいていることはよくわかっております。

違うよ。
あまりにも不思議だから遊びに来ている。

いちろうさんが私の教育について、リスクコントロールをしていただいていることはよくわかっております。
そしてたいへんありがたく思っています。

私も強くコントロールをきかせようと思う場面も少なくなくあるのですが、小学校などと違い、中学校ではいろんな教師を見て比較しながら指導のあり方をよく見ていますから、「教師の指導の中で、本当に自分たちに必要なこととは何か」を判断するゆとりがあります。

教育の場で指導者は教師でも、主体は教育される子ども自身だなと感じる機会はたくさんありました。
これは、私が経験したさまざまなタイプの学校すべてであてはまることがありましたから、特別な偏見ではないと思われます。

だからといって子どもにすべてをゆだねるのではなく、一定のことを示し続ける姿勢が大事だと思っています。

┐(´д`)┌ヤレヤレ
>ゼロですと言ったら、「嘘だろう!」と思われるわけですね。

こんなところへ書かなくてもいいって。
暗象の心の中と、
ここを読んでいる、
実際の暗象を知る友だちが、
私のコメントで考えてくれればいいだけ。

もし、不登校・いじめがゼロですと言ったら、「嘘だろう!」と思われるわけですね。

┐(´д`)┌ヤレヤレ
>「暗象」の人間像に関するコメントを今、集めて整理しています。

整理する必要がないのでは?
表現に多少の違いがあるけど、当初に指摘した「暗象のクラスには不登校が多く、いじめがある」に対して、「思い込み」と言われたことに対して、思い込みじゃなくて“読み”であることを証明し続けているだけだから。

>暗象は「こういう人間だ」と思ったら、
そういう方向からしか人を見れない

いちろうさんの場合はいかがでしょう。
「暗象」の人間像に関するコメントを今、集めて整理しています。

(○゚ε゚○)
>その程度のレッテルならすぐにはがれます

先入観の問題。
暗象は「こういう人間だ」と思ったら、
そういう方向からしか人を見れないから、
暗象に対してはレッテル貼りにこだわり、
指摘を続けています。

いちろうさんは「レッテル」にこだわりが強いようですね。
その程度のレッテルならすぐにはがれますし、子どもはいつ「発言派」「じっくり思考派」に転身するかわかりません。
教科によっても違いますし、単元の内容によっても違います。
たとえば、いちろうさんが記事について「ほめる」ようなコメントを入れられたしたら、「意外」なコメントになるかもしれませんね。
「レッテル」を貼らなくても、そんなコメントはなさらないでしょうが。

┐(´д`)┌ヤレヤレ
>意外なときに意外な発言をしてくれるから「意外性」の話が登場してくるわけですが・・・。

過去に、意外でないようにするのがいい授業だとの主張をしていたんじゃないの? 回数のことか内容のことかもわからないが、自らそうさせたことに対して“意外”とは感じないだろうし、“意外”と感じるということは、日々、他の先生に要求していることができていない証拠だという指摘です。
尚、“意外”と感じさせるという子どもに対しては、「自ら発言しない子」というレッテルが貼られているということでは?

「自主的な発言をしない生徒」が意外なときに意外な発言をしてくれるから「意外性」の話が登場してくるわけですが・・・。

( ´,_ゝ`)ハイハイ
>40人すべてがどんな発表もこなせるというわけではありません。

いつのまにか「めったに自主的な発言をしない生徒」の「めったに」が消えてしまった話になっている。
40人全員が発言を続けている授業をしろとはいっていない(そんなのは想像もできないが)。でも、日々の暗象のことばを信ずるなら「自主的な発言をしない生徒」に発言をさせるような授業を目指しているんじゃないのか? そういう授業ができていない先生を批判しながら、自らの意識を棚に上げているところが嫌いなんだよ。

中学校の授業では、40人すべてがどんな発表もこなせるというわけではありません。
もちろん、教科によって得意・不得意はあって当然ですね。

(ノω・、)
>めったに自主的な発言をしない生徒のこと

可愛そうな子だね…。
発言をしないんじゃなくて、
発言の機会を与えていないとか、
発言に至までの理解がすすんでいないとか、
本当はそういう目で見なきゃいけないんじゃないの?
暗象の授業じゃなかったら、いい発想の意見をたくさん出すかもね。

ここでの「意外なバッター」とは、普段の授業でめったに自主的な発言をしない生徒のことですね。

w(゚o゚)w
今日、お休みしたから普段読まないような記事を読んだけど…、やっぱり不安に思う。

>意外なバッターにホームランを打たれた場面です。

そういう目で子どもたちを見ているんだね。
これまで指摘した時は“大人だから…”との
言い訳をしていましたが、
やはり、大人だけではなかったのですね。

“意外なバッター”と評される子どもは、
意外ではないバッターと、どう違うのですか?

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/42927759

この記事へのトラックバック一覧です: 野球の試合と学校の授業:

« 「しかと」系いじめの起源は仏教思想? | トップページ | 教師の指導上のつまずきを防ぐ指導基準(東京教師ミニマム) »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より