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« 問題2 相づちの意味 | トップページ | 鎖の強度は何で決まるか? »

ピンチをチャンスに

 ピンチチャンスに。
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 授業がある日の教師はただでさえ多忙な時間を過ごしているので、問題がおこったときにうまく対応できず、さらに解決に要する時間が増大してしまうことがあります。
 このような初期対応の失敗を防ぐために、問題解決マニュアルを作成している学校もありますが、当然「生き物」である問題はマニュアル通りやれば解決する、というものでもありません。
 少なくとも、「組織的に対応する=個人で抱えない」「初期対応に問題解決労力の90%をかけるつもりで向かう」ことだけは確認しておきたいものです。

 学校の信用が失墜する大きな問題は、現職教師が犯罪を犯した場合です。
 飲酒運転による人身事故、万引、汚物の投げ込み?等々。

 全校集会緊急保護者会を実施して、経緯を報告し、謝罪等を行うのですが、こういうピンチのときこそ、日ごろから思っていてもできなかった大きな改革に打って出るチャンスとなります。

 教師は学校で、日ごろから、「やりたいこと」を「やれるだけ」「思う存分」やれているか。
 他の教師の協力が必要な場合、校長のリーダーシップが必要な場合、子どものリーダーシップが必要な場合、・・・条件がなかなか整わない場合があるかもしれませんが、「ゼロベース」でできるチャンスが生まれたときは、なりふりかまわず突き進むことができます。

 がっかりするような出来事ばかりがおこる学校でも、「いつかはきっと・・・」という希望を教師も子どもも思っているはずで、たとえば学力調査の結果の不振を通してさえも、「次はきっと・・・」という向上心に結びつく・・・・

 と期待するのは行政ばかりで、学校ではデータを秘匿したり、都合の悪いことは「何もなかった」ことにしたりと、180度異なった対応が現場ではなされることもあります。

 「褒められたい症候群」「褒められないと不満症候群」から教師は脱皮して、「打たれ強い」「逆境に強い」「逆風を追い風に変える」教師に生まれ変わるのは難しいことでしょうか。
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教育」カテゴリの記事

コメント

いちろうさんへ。
情報リテラシーの面からも参考になる内容ですね。
このような面があるかどうかをよく自分の頭で吟味しながら、読んでいただくことは大切ですね。
ありがとうございました。

プロパガンダ(Propaganda)とは、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する宣伝行為。

プロパガンダの技術
1. レッテル貼り
 攻撃対象となる人や集団、国、民族に
 ネガティブなイメージを押し付ける。
  ⇒ とあるブログへのコメントなど
2. 華麗な言葉による普遍化
 対象となる人物や集団に、
 多くの人が普遍的価値を認めているような
 価値と認知度を植え付ける。
3. 転移
 多くの人が認めやすい権威を味方につける事で、
 自らの考えを正当化する試み。
  ⇒ 学習指導要領、文科省
4. 証言利用
 「信憑性がある」とされる人に語らせる事で、
 自らの主張に説得性を高めようとする
  ⇒ 本からの引用
5. 平凡化
 コミュニケーションの送り手が
 受け手と同じような立場にあると思わせ、
 親近感を持たせようとする。
  ⇒ 世間で批判されている先生像の
    クローズアップ
6. カードスタッキング
 自らの主張に都合のいい事柄を強調し、
 悪い事柄を隠蔽する。
  ⇒ ブログ全般
7. バンドワゴン
 その事柄が世の中の権勢であるように宣伝する。
 人間は本能的に集団から疎外される事を恐れる
 性質があり、自らの主張が世の中の権勢である
 と錯覚させる事で引きつける事が出来る。
  ⇒ 日々の書きよう
               Wikipediaより
どう?
国策プロパガンダだけがプロパガンダじゃないよ。

「このブログの意味」は、読んでいただく方一人一人にとっての「意味」でしょうか。
「プロパガンタ」という言葉がお好きなようですが、そんなにおおげさなものですか?

(;´д`)トホホ…

>すべての人の共通理解や完全に普遍化できる実践というのはなかなか難しいものです。

だったら、このブログの意味は?
個々の実践も書けないなら、
ただの暗象のプロパガンダと言われても、
しょうがない状況ということを認めた?

教育現場では、いちろうさんのおっしゃる「自己中」=「普遍化できない実績や事実、論理」ながらも、目標達成に向けて最善の手段と考えられるから実践していくしかないのですね。
すべての人の共通理解や完全に普遍化できる実践というのはなかなか難しいものです。

(__).。oO

>自分の実績や自分が事実として述べた内容に基づいて語ることを「自己中心」と定義すればそうなりますね。

普遍化できない実績や事実、論理だから
自己中と言っています。

自分の実績や自分が事実として述べた内容に基づいて語ることを「自己中心」と定義すればそうなりますね。

(◎_◎)
>読み方を変えれば、これも…

何でも自分中心に読み替えてください。
それを自己中といいます。

学校評価というのもがあるのですが、読み方を変えれば、これも360度評価にあたるものになります。

shock
>360度評価等についてふれた記事

親分子分の関係を喜ぶ程度の人は、
論ずることはできても、実践は無理だろう。
本心が違うから。

もし興味がおありでしたら、360度評価等についてふれた記事もございますから、どうぞご覧下さい。

┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~
>管理職が個々の教師の能力ややる気を把握し、個性が発揮できるように組織をつくっていくことが可能になります。

学校の人事評価システムの詳細はわからないが、
大企業の多くが失敗した理由をご存知ですか?
ちなみに、
成功例の多くは中小企業であったりします。
簡単なことで、相互評価ができているかどうかという部分なのですが、暗象のブログを読む限りにおいては、人事評価は失敗するでしょう。
上のものが下のものを評価したり指導する視点しかない。ただの官僚機構の統制手段に人事評価を使おうとしているだけだから。

前回のコメントで示したような教師を出さないための工夫が人事考課制度であり、目標の設定やキャリアプランの策定によって、管理職が個々の教師の能力ややる気を把握し、個性が発揮できるように組織をつくっていくことが可能になります。
管理職と教師の意思疎通がしっかりできていないと、外部から来た人間が最初に気付いてしまったりすることがあるのです。

(*≧m≦*)
4つ目のコメントでこうなるブログも、
コンテンツ勝負なの?
あっ、こういう方向へ引っ張ったからいいのか…

「1からつくる」仕事はやりがいがあると思いますが・・・。
それはもちろん、前任校での実績をふまえてということですが。
いい経験を寄せ集めれば、もっといい学校になるのに・・・ということがありました。
研修会に参加すると、いい意見を持っている先生が多いことが発見できるのですが、なぜそれを提案しないのですか?と聞くと、「仕事を増やして迷惑をかけたくない」というお答えが返ってきます。
こういう遠慮をしなければならない学校では、「やりたいこと」を「やれるだけ」できないで欲求不満のまま、また異動していくことになるのだなあと感じています。

wobbly
>ゼロベースで仕事ができる職場はうらやましいです。

別にゼロベースじゃないが、
そういうしがらみは、自分の心の中にあるんだよ。
すべての先生が暗象と同じ意識は持っていないだろう。

ゼロベースで仕事ができる職場はうらやましいです。

(○゚ε゚○)

>学校の信用が失墜する大きな問題は、現職教師が犯罪を犯した場合です。

いやっ、このブログの愛読者になれば、
暗象以外のすべての先生の信用は失墜するだろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より