ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 学力調査の結果を生かす工夫 | トップページ | 教師にとっての「情報の共有」 »

教師の「仲良し集団」に期待できることは何か?

 教育ブログを読まれているのは、一般の方や子どもや保護者、教師や行政などの教育関係者など、さまざまな立場の方がいらっしゃるでしょう。
 
 私自身は教師ですが、教育ブログを読むときは、さまざまなフィルターを通して考えていくことを信条としています。

 具体的には、実際に公立学校に子どもを通わせている保護者の立場、PTAとして学校に協力する立場、現場で中学生(教職課程をとる大学生)を教えている教師の立場、学校への指導・助言等を行っていた行政の立場、すでに他界しておりますが最後まで公立学校(の教師)を信用できなかった父親の立場、そして何より、私が小学生・中学生・高校生・大学生の時代に、生徒の立場で教育や教師を見てきた目で、さまざまな記事にふれています。
 必ずしも「教師の目」だけから記事やコメントを書いているわけではないことをご理解ください。

 「いちろうさん」という方から頻繁にコメントをいただくようになったのは、「すずめ先生」のブログへコメントしたことがきっかけでした。
 ただ、「いちろうさん」はそのときに「すずめ先生」にたしなめられて以来、「すずめ先生」のブログには登場されなくなりました(・・・と思います)。

 また前回(小学生が転落死した事故に関する記事)のときと同様に辛口のコメントをしておりますので、「いちろうさん」以外の方からも、どのような印象を持たれるのか関心があるため、こちらの記事の中にその内容を転載させていただきます。

 すずめ先生の回答等は私のコメント内の引用部分だけですが、話の筋はだいたいわかると思います。

 問題となっているのは、教師の「同僚性」の中身の問題です。
 以前から教師の「同僚性」が語られるとき、「教師の仲の良さ」がクローズアップされる記事に対して感じていた疑念がありましたが、今回のコメントではその内容を具体的に表現しています。

***最初のコメント***

>学年の教師集団が仲良ければ,そんな情報は共有できます。
学年がスタッフワークであるというのはその辺にも理由があります。

なぜ保護者が学校の教師を「職業人」として信頼できないかというと、「仲が良ければ」仕事になる、そうでなければ「指導上必要な情報が共有しにくい」という、まるで学級内の子どもの人間関係のようなことが語られているからでしょう。
スタッフワークをしているのは学校だけではないのですが、「仲良し」であれば職場の雰囲気はよくなるとしても、「仲良しであるなし」が教育の質の良し悪しを左右するような職場というのは信頼しにくいでしょう。
教師が個性的であるということは、子どもへの教育方針にさまざまなバリエーションと長所があり、それが有機的に関連し合って大きな成果を出すのでしょうが、子どもの情報共有は最低限の職務として実践すべきであり、それが相手の好き嫌いで制限されてしまうのは組織と職業倫理の問題でしょう。

***二回目のコメント***

細かいことですが、

>子どもには「親」という強大な価値観があります。
でも,往々にして個人の価値観なんて,多少ゆがんでるものなんですね。
世の中そんなに人格者ばっかりじゃない。
だから,子どもはいろんな人の,いろんな価値観にふれて大きくなった方がバランスがとれるんです。

という言葉と、

>「すずめさんの教育は押し付けだと思う。」
私はその通りだと思っています。

この言葉のつながり。
この文章を保護者に読ませることはできますか?

>他の教師たちも,十分にフォローしてくれてたんです。
最近はダメです。自分で叱りとばした子どもは,自分で拾って来なきゃいけない。

>学年の教師集団が仲良ければ,そんな情報は共有できます。
>15人もいる学年集団が,全員そうかと言えば,人間関係がぎくしゃくした中では必要なことも言えなくなる人だっているはず

この言葉を、同僚に読ませることができますか?

>学年の雰囲気をよく保つのは学年主任の大切な仕事の一つだ
>グループリーダーはそれを防ぐためにグループ内の潤滑剤として立ち回ることを要求される
>それと,年かさの教員たちの心配り。

この言葉を、関係がぎくしゃくしている学年の主任や「年かさの教員たち」に語りかけられますか?

>情報共有ができても,阿吽の呼吸や,行動を読んでカバーするというのは,それなりの人間関係ができないととてもできるものではありません。偶発的に仲良しなのではなく,仲良しにするんです。

仲が良いだけで、「それなりの人間関係」があるだけで、教育実践という場で「阿吽の呼吸や,行動を読んでカバーする」ことが
できるわけでもありません。
私はそこを指摘しています。
子どもたちが教師に不信をいだくのは、何も「教師同士が互いを信頼していない」「教師同士が仲良くない」場合だけとは限りません。
「教師同士が仲良く管理職や行政に反発している姿」に嫌悪感をもつ子どももたくさんいることは、「長い1週間」の中でもよくおわかりになったでしょう。
すべては教師が「子どもの立場で考えられるかどうか」にかかっています。

私が指摘したかったのは、すずめ先生個人のことではなく、つまり、
>「だからおまえはいつまで経っても信頼できないんだ」
ということではなく、
教師たちは「仲良し」を目指している=教師はみなそれぞれ一家言を持っており、「仲良し」であることは難しい=現実にはそういう現場が多い=先生たちは十分な情報交換ができていないのだろう・・・という不安や誤解を招くことを危惧しての発言です。

学級経営や学年経営でも、子どもに対して必要以上に「仲良くしろ」というプレッシャーをかけるといじめも増えるし、「仲良くできない」と自覚した子どもが不登校や非行に陥るケースがあるのです。
「仲良くする」という価値観の押しつけは望ましくありません。
大事なのは、「仲良くするために必要なことは何か」についてよく議論させることです。

教師が「仲良くするために必要なこと」=子どもの立場で常に考え、狭い「教育観」を超えた高いレベルの倫理観や職業意識をもつことです。

>何があったのかはわかりませんがとっても過剰反応されていると・・・

文月さんは非常に鋭い人権感覚をお持ちの方ですから、そういう方が危惧されているという事実自体をまず前向きに受け止められるべきだと思います。

最後にこれは私が非常に気になるのは、「教師も人間です」というフレーズで語られる「人間観」や「逃げ」の姿勢です。
これは個人的に「気になる」だけですが。

[教育現場] ブログ村キーワード
にほんブログ村 教育論・教育問題

« 学力調査の結果を生かす工夫 | トップページ | 教師にとっての「情報の共有」 »

教育」カテゴリの記事

コメント

職務上の情報の共有を「MAY」と捉えるか「MUST]と捉えるかの意識の違いと思います。

これは正にいろいろなこれまでの疑問や違和感の源といっても良いかもしれません。
職務を遂行する上での意識(責任感とも言い換えることも出来ますね)が甘いもしくは弱い(低い)教員の存在は、当然の職務意識で臨んでいる現場の多くの教員の足を引っ張るものでしょう。
職員室での怠惰な意識は、たちまちのうちに伝染病のように蔓延しやすいものですから。

(/ω\)ハズカシーィ  記事に名前が出るとは…

>この文章を保護者に読ませることはできますか?

暗象は、保護者どころか、
このブログを見にきている人にさえ、
コメントを見せたくないようだが?
まあ、暗象の人間性を疑われるよね。
論理性も何もない、
ただ感情的にむきになったり、
子どものケンカみたいなコメントだもんね。(^o^)

自分のことを棚に上げる奴ほど、
他人に要求するのは、3人の共通点だね。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/42854923

この記事へのトラックバック一覧です: 教師の「仲良し集団」に期待できることは何か?:

« 学力調査の結果を生かす工夫 | トップページ | 教師にとっての「情報の共有」 »

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より