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若い教師にとって恵まれた職場環境とは?

にほんブログ村 教育論・教育問題
 まずろさんのブログの中で、「教師への批判」について、しょうさんやPsycheと意見交換をしています。
 このような学校改善を目指した対話が、校内で展開されているのが理想的なのですが。
 私のコメントの一部をここにも掲載しておきます。

 *****************
 私の主張をわかりやすく表現すれば、教師として「認める」「認め合う」ために「批判する」「批判し合う」ということでしょう。

 私の実感では、「お前を教師として認めるかどうか、お前が教師として認められるかどうかは、すべてその実践にかかっているぞ」という無言のプレッシャーが先輩教師からあり、教師として子どものために頑張ろうという意欲はたくさんもっているつもりでしたが、余計に頑張らねば、という気持ちになりました。

 40歳代前半くらいまでの教師は、すぐ上の教師たちからこのような「教育」をけっこう受けてきたような気がしますが、30歳代半ばくらいから下の人はいかかでしょうか。

 これは、そもそもこのあたりが採用が減少している年齢層であるために、昔はどしっとして座っていればよかった年配の教師でも、以前と同じように「教育」をし続けなければならないことを意味しています。

 そういうことができた教師の多くは管理職になっているので、その立場でも「教育」しなければなりません。

 私が主張しているのが、そこで「能力開発型の人事考課制度」をフルに利用するということです。
 なかにはその制度が同僚性を失わせていると反対している人がいますが、「同僚性を高める」「若い教師を育てる」ことを職務目標にさせればよいわけです。

 現に指導力不足が子どもに大きな影響を与えている教師などの場合、「信頼しているから・・・」などとは言っていられません。
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 *****************

 若い先生方に聞いてみたいのですが、現場では

お前を教師として認めるかどうか、お前が教師として認められるかどうかは、すべてその実践にかかっているぞ

というプレッシャーがかかっていますか?
 あまり大きな声では言えないのですが、今私が勤務している学校では、生徒からこのプレッシャーが強力にかかっています。

 そういう意味で、さすがに1校目ではきついかもしれませんが、2校目には、そういうプレッシャーがかかる学校を経験できると、教師としてより大きく成長できるような気がします。
 私の学校はそういうタイプではないのですが、「生活指導困難校」は、すべての教師がそのプレッシャーと常に対峙しています。

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教育」カテゴリの記事

コメント

コメントありがとうございました。
学校内部では、組合員・非組合員という区分けもありますが、それとは別に自然に構成される「仲間集団」というのがあります。
たとえば行事の後などに開かれる飲み会でいつもそろう気の合うメンバーとか。
こういう「仲間集団」は、他の教師や管理職への批判を酒の肴に盛り上がったりするのですが、このレベルの「仲良し集団」が決して悪いわけではなくて、きちんとしたことを言い合えたり、下手な管理職よりも上手に若手を育てる人たちもいるわけです。
そういう「仲良し集団」が今は減っていって、単に愚痴をこぼし合う集団が増えてきているのではないかと危惧しています。
採用で年齢層に偏りがあることなども原因かもしれません。全体として「若手への指導層」「新規ベテラン層」(40歳代前後)が非常に薄くなっているのが中学校現場です。

私の塾では研修の際に「商品として通用する」というフレーズがよく出てきます。模擬授業をする講師は自らのスキルの向上を目指し、また評価する講師も同じく本人のためを思い感想を口にします。それが本人のためであり、塾のためであり、ひいては生徒のためであると考えているからです。

「認める指導」というのは非常勤講師でも初期のうちであり、ある程度経験を重ねると専任講師と同じように評価されます。(もちろん非常勤講師に厳しく接する分、専任講師はそれ以上に自らを省みなければならないのですが…)それは非常勤であろうと専任であろうと、生徒の前に立てば「先生」であることには変わらないからです。

講師の成長は生徒のためになります。しかし、妥当かどうかを議論よりも先に、「認め合う」大切さを説くことにより講師を成長させようとする考え方には違和感を覚えます。もちろん褒められ、認められることにより前向きに頑張れるというのは分かります。しかし私たちの前には「今」まさに教育を必要としている子ども達がおり、そういった子ども達のことを考えると「認められない(批判すべき)」ものを「認める」ことはできません。そういう意味では「本物」しか認めないというkurazohさんのお考えは非常に共感を覚えます。

「同僚性」は子供達のためにあるのです。それを忘れてはなりません。目の前にいる子供たちを中心に考えると、悠長に「認める」だのと言ってられません。何よりも評価の対象についてではなく「先生だって子供と同じように認められることにより伸びるのだ」などという講師がいれば、少なくとも私の塾では受け入れられません。意識が低いと判断され、生徒のことを本当に考えている同僚からは信頼を失うことになります。寄り添ってもらわなければ改善できない意識の低い先生は、教壇に立つ必要はありません。

これらは正論などという高いハードルではなく、「当然」「最低限」のラインです。公教員の方々からすれば、これは高いハードルと感じる方が多いのでしょうか。子供を「認める」のと先生を「認める」のとはまったく異なります。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
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  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より