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« 教育現場でクリエイティブな仕事が好まれない理由 | トップページ | 学力調査の結果を生かす工夫 »

「教科係」の生徒ができること

 生徒からは「主体的主体性」が生かせる「学校における新しい活動」に関して、さまざまなアイデアが寄せられるものです。
 
 教師の負担が増えそうな企画はつぶされてしまう恐れがありますが、次のような提案についてはいかがでしょう。具体的な方策を直接聞いたわけではありませんが、すばらしい趣旨の提案だと思います。

 「生徒と先生が授業のことについて話し合いをする機会を設ける

 「日直」という役割の生徒がいる学校は多いでしょう。
 中には、「1日交代」ではなくて、「1週間交代」の仕組みをもっている学校があるかもしれません。
 
 日直さんの仕事の反省や引き継ぎは、どのように実施されているでしょう。
 担任と当日の日直、次の日の日直の三者でしょうか。そこに学級委員のような役割の生徒は入っているでしょうか。
 長くても5分ですんでしまうのが、この「反省と引き継ぎ」の時間です。

 これを、中学校で言えば、たとえば「教科の係」と教科担任の間で実施することを考えてみたらどうでしょう。

 中学校の「教科係」は、次の授業で必要な持ち物を連絡したり、提出物を集めたり、当日の教科担任の授業の道具を用意したり、運んだり。「朝自習」がはやっていた時代には、そのプリントの配布や回収、答え合わせなど。

 これらのほとんどは、「頭を使うことがない」仕事です。

 そこで、教科係に少し「頭を使う」役割をもたせたらどうか、という提案が考えられますね。

 たとえば、毎週、放課後等に教科担任との面接の時間を設けて、その週の重点的な内容の理解はどうだったか、授業はわかりやすかったか、提出物の状況はどうか、積極的に発言したり課題をやっていた生徒はだれか、そんなことを話し合う。

 教科担任は、クラスごとの理解度や達成度をおおむね把握することができますし、教科の係と信頼関係を強く結べば「この時間にだれだれさんが落ち込んでいた理由」など、学年所属でないとなかなか入手できない情報にもふれる可能性が増えてきます。
 
 さらに構想をふくらませれば、教科係を「学習委員会」として再編・格上げして、「定期テスト予想問題づくり」に取り組ませたり、学習委員会独自の「学習コンテスト」(簡単なのは、漢字コンテストや計算コンテスト、スペリングコンテストなど)を企画したり、・・・。

 「生徒主導」の学力向上プログラムというのも出現するかもしれません。

 授業は「生徒と教師の間でつくられる」とは言われてきましたが、それは基本的に授業時間でのことで、授業の構想から評価まで生徒を取り込むところまで実現できている学校は少ないでしょう。
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教育」カテゴリの記事

コメント

(○゜ε゜○)ノ~~
>総括の段階で、授業を受けている十数人の教師に対して、数百人が話を聞きに行くことをお求めですか?

通知表の内容としていらないと主張していますが?
子どもの成長が感じられればいいことで、説明がいるのは、それを感じない親や先生不振の親だけでいいんじゃないの?
その時は、自分たちの教育が悪かったと思って集会なんかで全般の説明をしてから、個別に話をすればいいじゃない。大きな事件があるとそうしているんじゃないのか?

>「正しい評価」という言い方はあまり教育現場にはありませんね。

そりゃダメだ。言い方の問題じゃなく、意識の問題だろう。自分がしている評価が正しいかどうかがわからない連中が寄って集まって、教育ができるのか?

>なお、道徳は学校の教育活動全体を通して取り組むものなので、その評価言というのは教科の学習内容に関するものもあります。

はぁ?
数学や理科の評価に道徳が入っているのか?
暗象はそういう評価をどうやって親に伝える?
結局、何もできていないんじゃないのか?
だったら、私の主張の方が現実的だね。

>30字ではダメだが、400字なら評価ができることもあるだろうし、文字で書くより、話をする方がいいだろう。

総括の段階で、授業を受けている十数人の教師に対して、数百人が話を聞きに行くことをお求めですか?

>正しく評価をするならば、通知表なんかに書けるものではない

「正しい評価」という言い方はあまり教育現場にはありませんね。

道徳の評価言についてお知りになりたければ、まず以前にご紹介した解説をお読み下さい。
そうすればどのような評価言が例としてあり得るかわかります。

なお、道徳は学校の教育活動全体を通して取り組むものなので、その評価言というのは教科の学習内容に関するものもあります。

┐(´д`)┌ヤレヤレ
>通知表の評価は、言うまでもなく、上の話で述べられていることの一つですね。

切り分けられる一つなのか?
違う所のコメントに書いたが、
通知表に書く所見なんていうのは、
「わかりきった所見や、意味不明の所見で」
と書いたら、暗象は、
>指導力不足の教師の特徴をよくご理解いただけた<
と書いてきたが、それは違うだろう。

30字ではダメだが、400字なら評価ができることもあるだろうし、文字で書くより、話をする方がいいだろう。そうすれば、暗象に「指導力不足」といわれることもない。

「通知表における道徳などの評価の話」として、正しく評価をするならば、通知表なんかに書けるものではないだろうということ。
なんでそんな程度が理解できないのか?

名前を書かなくてもいいから、
道徳の評価の所見を書いてみてくれないか?
40人学級なら、40人分。
そんなことが暗象にできるとは思えない。
40人分が大変なら、
いい例と悪い例を10人分ずつって、どう?
いい記事になると思うよ。

>実際の評価が何かはわからないが、
私のいう評価は、せまい意味なのか?
日々の生活でも活動でも学習でも、
様々なことがらに対して、先生として評価し、
子どもに伝えること…という考え方は、
せまい評価なのか?
評価したりされたりする間柄で、
考え方のやりとりがあって、
その人の価値観ができていくもんじゃないの?

通知表における道徳などの評価の話をされていたのが、ここに来て上の話ですか・・・。
通知表の評価は、言うまでもなく、上の話で述べられていることの一つですね。

* ´З`)σ
>いちろうさんがせまい意味(かつ否定的な意味)で使っている「評価」と、実際の「評価」は異なっているというだけの問題では?

実際の評価が何かはわからないが、
私のいう評価は、せまい意味なのか?
日々の生活でも活動でも学習でも、
様々なことがらに対して、先生として評価し、
子どもに伝えること…という考え方は、
せまい評価なのか?
評価したりされたりする間柄で、
考え方のやりとりがあって、
その人の価値観ができていくもんじゃないの?

暗象のように通知表の所見欄に書けるような評価の方が、考え方としてはせまいし、書いたものは、そこで止まって残るんだよなぁ…。
(おっと、別記事のコメントとの合体です)

単純に、いちろうさんがせまい意味(かつ否定的な意味)で使っている「評価」と、実際の「評価」は異なっているというだけの問題では?
もしたとえば道徳の評価についてご関心をお持ちなのであれば、東洋館出版社から127円で発売されている「小学校学習指導要領解説 道徳編」(124頁以降)をご参照ください。

(*^ー゚)bグッジョブ!!
>自分が気に入ったところだけ切り取って議論をすると、そのような結果になってしまいます。

そうだね。
せめて、このコメント列からとらなきゃね。
何ヶ月も前の他人の記事へのコメントを突然絡めるような人が言うことばではないと思うが…。(^o^)

でも、結局、暗象は答えられないんだよね。

話が全くかみ合わないわけですね。
写真をとるように(批判用に)自分が気に入ったところだけ切り取って議論をすると、そのような結果になってしまいます。

(?_?)
>B問題と道徳とは直接的に関係ありませんが。

私は評価が無理だし、する必要もないというのに、暗象が評価できるし必要だというから、B問題を知らないので、道徳を出してきたの。
ご理解できますでしょうか?  (^o^)

B問題と道徳とは直接的に関係ありませんが。
以前にご説明したB問題の出題の趣旨をご確認ください。

(゚ー゚)
>話が脱線していたようですね。

脱線なのか?
B問題は「社会で生きてはたらく活用力を問う」もので、そこには「評価」があるんだろ。
そして「社会で生きてはたらく活用力を問う」という「評価」とはどういうことなのか、学校で行う「評価」とは、ということの結論が、11/06 18:03のコメントなんじゃないの?
そのコメントがあまりにもB問題の評価から外れているという話。

>B問題というのは、社会で生きてはたらく活用力を問う

のところから話が脱線していたようですね。
B問題については過去にいくつか記事を書いていますのでよろしければご覧下さい。

┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~
おょくっていることに反応しなくていいよ。
延々と述べている「暗象の評価」の論と、
全国学力テストのB問題で求められるもの、
この2つの整合性を聞きたかっただけだよ。

最後の話は、神奈川の県立高校の話ですね。

(* ̄ー ̄*)

で、それがB問題?
正しい服装で全国学力テストを受けましょう!!
てか?
言い訳を積みあげても何も生まないね。

教師が使う「評価」という言葉には、さまざまなレベルのものがあります。

「よくがんばっていると認める」ことも「評価」ですし、指導要録に記載する評定を「評価」とよぶ場合もあります。

授業でどれくらいの子どもが目標を達成することができたか、を考えるのも「評価」ですし、子どもがどの程度理解できたか、自分で分析するというのも「評価」です。

最後の評定に結びつく「評価」は、まさにさまざまな学習成果の「総括」であり、ある特定のことがらに関する評価だけで決まることはありません。

ただし、その特定のことの評価で、大部分のことはわかるという「透過性」の強い観点というのはあるかもしれません。
明らかにそれだけで決めたのは問題だと思いますが、「入試の受付時の服装」だけでも、その人物についてかなりのことがわかる、というのは、経験から導かれた「智恵」だったのでしょう。

「根拠をもって自分の意見をもつことができる」という評価基準もありますよ。
「正しい」「間違っている」、「○」「×」、「A」「B」「C」という判断だけが「評価」ではありません。

┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~
>道徳で気付かせている価値観・・・という文脈だったはずですが・・・。

そうだよ。それを批判している。

昨日のニュースで、白人顔のオバマ氏と黒人顔のマケイン氏のプラカードを持って「人種にとらわれずに政策で投票しよう」と街を歩いてグッズを配っている人が紹介されていた。
で、道徳の時間に、この行為に対して先生が、授業をした後に、子どもたちが持つ価値観に対して先生が評価するという行為を考えた時、それが正しいとは思えない。

評価が必要なことなのか?

価値観=道徳ではなくて、道徳で気付かせている価値観・・・という文脈だったはずですが・・・。

(v^ー゜)ヤッタネ!!

あったー!!
ここで道徳に点数つける話をしていたんだ。
あまりに頓珍漢だったのと、
暗象の強弁コメントがないから
見落としていたようです。

shock
>「価値観についての認識を問い、評価することは可能」

???
それができなきゃ教育できないだろう。
何を聞いている?
というか、何もわかっていない?

「価値観についての認識を問い、評価することは可能」という認識についてはいかがでしょうか?

(* ̄ー ̄*)
>拡大するのは明白な曲解でしょう。

だから言っているじゃない、
「仮定の論理で突きつめてみると」って。
小っちゃくて見えなかったら虫眼鏡で見るように、微妙な違いを大きくするには、その考え方の延長線上に何があるのかを見るもんじゃないの?

こんな程度でしか返せないから、
暗象が先生と言うのも怪しく思っているし、
「適当」にコメントを書いていると言っている。

「100%試験でというのは不可能でしょうが、部分的には行われてきていることでしょう」という私のコメントから、「テストの出来不出来で道徳性を判断するのは間違い」と「道徳性一般」にまで拡大するのは明白な曲解でしょう。
面接や論文試験は道徳性だけを問うものではありませんし。

(゚ー゚)
>価値観についての認識を問い、評価することは可能です。

それは、真の道徳につながるのか?
カント哲学なんて読んだことがないんだろうなあ…

知識を否定はしないけど、テストは否定する。
少なくとも、テストの出来不出来で道徳性を判断するのは間違い。
仮定の論理で突きつめてみると、高校入試が道徳のテストだけになった時に、一番成績のいい子どもの集まる学校が、最も道徳的な学校で、最も成績の低い学校が、道徳的に劣る学校になるのか?
そう考えると、暗象の理屈は変。

>道徳の試験・・・

100%試験でというのは不可能でしょうが、部分的には行われてきていることでしょう。
たとえば面接試験はそうですし、小論文でも同様に「道徳」で気付かせている価値観についての認識を問い、評価することは可能です。

(´,_ゝ`)プッ
>B問題というのは、社会で生きてはたらく活用力を問うものなので、

この発想だから、
道徳の試験をしようという話になるんだね。
社会で生きてはたらく活用力が、
ペーパーテストではかれるのか?
世間では、そういうのを、机上の空論というんじゃないの?

B問題というのは、社会で生きてはたらく活用力を問うものなので、実はいちろうさんが求めているものに近いのですね。
PISA型学力をはじめ、調査問題への理解が十分浸透しているとは思えません。
実際に受けてみないとその価値がわかりにくいという問題もあるでしょう。

( ´,_ゝ`)ハイハイ

まぁ、想定内の回答だけど…、寂しいね。
暗象とのやりとりが平行線の原因の一つが、
学校のとらえ方だと思っている。

私は、学校では、社会人として生きれる人を育てて欲しいと思っている。より積極的に、社会を形成する人間に育てて欲しいと思っている。
このように書くと暗象は学習指導要領には…とはじまるが、結局のところが、下のコメントである。

A問題の点数だけでは将来が心配であり、B問題の点数をとれる生徒を育成したいという意味では、点数も大事ですね。
点数化が難しい、(コピペでまとめてしまえるようなものではない)論文やレポートをつくる力ももちろん大切です。

(* ̄ー ̄*)
>大切にしたいものには序列はありませんね。

じゃぁ、点数だ。
記事の内容からはそうとしか思えない。

>教育で最も大切にしたいのは何?

大切にしたいものには序列はありませんね。
答えが多すぎて困ります。

ヾ(*゚A`)ノ
>疑問文の解釈を誤れば、おかしな人間観ができあがりますね。


そうなのか?
暗象が学校で大事にしていることの延長と思うが?
暗象が教育で最も大切にしたいのは何?

疑問文の解釈を誤れば、おかしな人間観ができあがりますね。

>社会人になったときに「物を言う」のはせせまい意味の「学力」かどうか。

決してそうとは限らないでしょう。まさに「生きる力」が求められていることが、社会人になったときにわかるでしょう、という意味ですね。

>いわゆる「進学校」の卒業生が社会の中核を担っているかどうか。

社会の中核とは何かという問題もありますが、リーダーシップを発揮できるのは、何も「進学校」の卒業生だけではない、そういう意味です。

>学校にいる多くの子どもは、暗象的には、価値のない大人になるんだろうね。

「社会的な価値」を何に求めるかは人によって、組織によって、さまざまでしょう。
「能力主義」と一言で表現しても、その場その場で求められる「能力」は一様ではないでしょう。

アブネ━━Σ(゚д゚;)━━!!

>社会人になったときに「物を言う」のは…
>いわゆる「進学校」の卒業生が社会の中核…
>長期的な目で学校を評価する基準というもの…

とりあえず、
「ものを言う」ことや「社会の中核」になることが、
暗象的には、価値あることなのか?
あぁ、能力主義者だからなぁ…。
学校にいる多くの子どもは、
暗象的には、価値のない大人になるんだろうね。

社会人になったときに「物を言う」のはせせまい意味の「学力」かどうか。
いわゆる「進学校」の卒業生が社会の中核を担っているかどうか。
長期的な目で学校を評価する基準というものは何でしょう・・・。

ヤッテラレンワ…ヽ(○´3`)ノ フッ

申し訳ないが、東京の子どもは「うざったい」という感情すら表現できないくらいに管理されているのか?
第二反抗期というものじたいを否定しているかのような指導だが、それで子どもたちは主体性のある大人に育つのか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
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    「歴史の活力」より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より