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「働く人の夢」より

 いろは出版「働く人の夢」を、この本で紹介されているある方にお世話になっていたので手に取ることになりました。
 33人の「働く人」の中に選ばれていた地方公務員の方が、こんなことを述べています。
 

一般的に「休まず、遅れず、働かず」の代表的な職業として挙げられる公務員と、私が25年以上机を並べてきたからこそ感じる公務員は、かなり違う。私が思うに「働かない公務員」なんていない。ただ与えられた仕事に対する姿勢が違うだけであろう。「失敗しないためには」と考えるか「成功するためには」と考えるのか、の違いである。どちらも「住民の幸せを願って」という大前提は変わらないはず。その行動判断として、危険を回避するか、あえて挑戦するか、に分かれるだけ。

 これを教師の話に置き換えてみたらどうでしょう。
 「危険を回避する」タイプの教師と、「あえて挑戦する」タイプの教師とでは、圧倒的に前者が多いでしょう。

 たとえば、荒れた学校では、校内を「巡回する」だけのことでも、教師にとっては非常に大きなプレッシャーとなります。
 「指導すべき状況」を目にする確率が高いからです。
 エスケープ、器物破損、飲食、喫煙・・・・。

 それを避けたければ、職員室で仕事をしていればよいわけです。

 「あえて挑戦する」・・・問題の「抜本的な改革」のために、必要な「小改革」を立ててすぐに実践する。スモールステップの評価をしながら、改革の中身を改善し、実行にうつす。
 「会議の時間を半減する」・・・ためにできることは何か。あえて何をするか。
 「服装指導の教師による温度格差が大きすぎる」・・・幅をせばめるために、何をするか。
 教師には同僚ににらまてしまう「危険」もあるわけで、現場で大きな改革を実施にうつすのは非常に大きな困難が生じますが、重要なただ一つのポイント・・・「子どもの成長と幸せを実現するためにはどうしたらいいのか」を常に念頭における人間関係だとよいと思います。 
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教育」カテゴリの記事

コメント

>目的に向かって一緒に頑張ろうとせず、うまくいかないことを他人の責任にして、研修しろだの問題教師だのと言って排除しようとする姿勢

「目的に向かって一緒に頑張ろうとせず、うまくいかないことを他人の責任にして」いる指導力不足の教師なら「研修」してもらうのは問題はないですか?

実際に「問題教師」=指導力不足の教師として「排除」=研修等によって力量の向上を図ってもらう人たちのレベルはいちろうさんには想像できないかもしれませんね。
「税金の無駄遣い」にはさまざまなレベルのものがあります。

企業と違って、「研修」を受けて指導力の向上を図る機会が与えられるという恵まれた環境があることも、「税金の無駄遣い」かもしれません。復帰できずに退職する方がいらっしゃいますから。

教師の中にも、教室で子どもたちに求めるようなことをそのまま教師集団に要求する人がいますが、そのこと自体が教師の意識レベルを象徴しているわけです。

┐(´д`)┌ヤレヤレ

>いちろうさんが問題にしている教師像は、今まで私がこのブログで批判してきた教師の姿ですね。

別に問題にしていないよ。暗象が問題だと言っている先生と、暗象が同じだと言う指摘。
暗象が問題だとしている先生は、暗象のような考え方から生まれているという指摘。

>「できない人間」の排除というのは、具体的には何をどうすることを指すのでしょうか?

目的に向かって一緒に頑張ろうとせず、うまくいかないことを他人の責任にして、研修しろだの問題教師だのと言って排除しようとする姿勢。

あまりにも自分のことを棚に上げすぎて、不思議なんだけど?  暗象は、そんなに偉いのか?  それとも、うまシカか?

>喧々諤々の議論はするし、それがないと団結できない

それは学校も同じです。
残念ながら、同僚を飛び越えて校長に異を唱えたり、非組合員と議論しないタイプの教師が多いですね。

>私が言う「批判しあう」というのは、
グループごとに、こそこそと悪口を言いあうこと。

こういう場面はある程度規模が大きい学校ではありそうですね。
部活をもつ教師とそれを避けている教師、異なる学年間、指導が厳しい教師とそういう教師におんぶにだっこの教師など・・・。教師の甘えや馴れ合いはどこに存在するかご想像できますか・・・。

いちろうさんが問題にしている教師像は、今まで私がこのブログで批判してきた教師の姿ですね。

「できない人間」の排除というのは、具体的には何をどうすることを指すのでしょうか?

。゜゜(´□`。)°゜。

>組合という組織の中では「批判しあう」ことは禁止なのでしょうか?

なんて薄っぺらな認識。
…というか、ことば知ってる?
運動方針やとりくみをめぐって、
喧々諤々の議論はするし、
それがないと団結できない。
イエスマンだけならただの伝達機関になる。

私が言う「批判しあう」というのは、
グループごとに、こそこそと悪口を言いあうこと。
暗象が日々の記事を実践しているとすれば、
暗象の学校はそうなっているだろうということ。
それは、先生の特性でもなければ、
先生の質が悪いんじゃなくて、
管理者の責任によるところが大きいということ。


>馴れ合いの集団で傷をなめ合っている時間があったら、たとえバラバラでも子どもがわかる授業をするための努力をした方がましでしょう。

このあたりに、実態としての暗象の周辺の人間関係が見えますが、そこで繰り広げられていることは、生徒の悪口や、他の先生の悪口を言っている姿じゃないの? 
自分たちがうまくいかないことを、他(先生・子ども・親・地域…)のことに責任を転嫁し、自己保身のために悪口を言う…。
でも、暗象の思考回路も同じだということに気づかない?


>勤務時間の4分の3を占める仕事で満足のいくことができない大人が、仲良くしている姿を子どもはどう思うでしょうか?

能力主義に染まってできない人間を排除する様子が見える大人社会の方が、教育上よろしくないと思います。

>お互いを批判しあうようになり・・・

たとえば、組合という組織の中では「批判しあう」ことは禁止なのでしょうか?

批判することでよりよい道を切りひらこうとしているのが組合の活動ではないのでしょうか?

馴れ合いの集団で傷をなめ合っている時間があったら、たとえバラバラでも子どもがわかる授業をするための努力をした方がましでしょう。

勤務時間の4分の3を占める仕事で満足のいくことができない大人が、仲良くしている姿を子どもはどう思うでしょうか?

┐(´-`)┌

とりあえず、論理的ではないよな。

>採用後、力量に課題がある教師も多く見つかります。…略…だから1年間は条件付き採用になっています。

だったら、暗象のいう問題のある先生はいないはずだし、いるというなら周りの先生たちがバラバラだということでしょう。
実際、暗象の主張どおりにしていけば、集団はバラバラになる。少なくとも、少人数の数集団がお互いを批判しあうようになりますよ。


>分掌組織ではそのような発想でやっていますが、

そういや、意味不明の「絆」の強さがどうのとかいう記事があったけど、本当の「絆」って知っているのか? ただの利害関係で結びついている関係しか知らないように思える。
第一、紙に書かれた組織図の比較じゃないんだよ。人と人の関係というのは。

>本当に問題となる教師の力量を上げるためなら、この発想が間違えだという指摘なんだけど。教員採用試験で合格しているんだろ

教員採用試験は、大学や高校の入試と同様、募集定員まではとりますから、採用後、力量に課題がある教師も多く見つかります。特に倍率が下がっているときは要注意です。だから1年間は条件付き採用になっています。

>個々の適性を活かして集団として目標を達成するという思想

分掌組織ではそのような発想でやっていますが、教師は基本的に専門職であり、中核となる「授業」は「適性を活かして」とはいきません。T・Tならまた話は別ですが、授業では基本的に個人の資質・能力によって成果が大きく左右されます。

モヒャ━━((゜Д゜Uu))━━!!!!!!

なんだかよくわからない説明だけど、
この記事はいつから小学校限定になったのか?
妙に言い訳っぽい方向へ引っぱっているなあ〜

>本当に問題となる教師の力量を上げるためなら、

この発想が間違えだという指摘なんだけど。
教員採用試験で合格しているんだろ?
不正合格なのか?

暗象には、個々の適性を活かして集団として目標を達成するという思想がない。それで管理職ができるのか?
人を大事にしない管理者が上に立つと、下の者はやってられないだろうなあ。殺伐とした職場をつくっているという自覚を持たなきゃダメだと思うよ。

中学校なら担任外(副担任)という居場所があるからよいのですが、小学校ではほとんどが学級をもちますから組織で個人の力量不足のカバーには限界があるわけです。
もちろん、学年という集団を強く意識させる意図的な指導を行っていて、成果が出ていれば別なのですが、それでも一度子どもに根付いてしまった「不公平感」の解消は難しい。
教師が子どもの立場ではなく、同僚の立場やメンツを大事にしているようでは、教師や大人の信頼自体に疑いの目がかかってきます。
本当に問題となる教師の力量を上げるためなら、その教師のために研修を増やすとか、毎日指導案や週の指導計画を複数の教師と検討しあうとか、落ち着きのない子どもの集中のさせ方についていいアイデアを出し合うとか、そういうバックアップを徹底的にやるべきです。

小学校のクラス替えのときに「当たりはずれ」とか「くじ引き」とか言われるのは、明らかに力量や資質に問題がある教師がいることがわかっている場合です。
中学校では学級担任の力よりも学年集団の指導力が物を言いますから、崩壊するとしたら学級ではなく学年や学校規模になります。その原因についてはいずれまた記事にしようと思います。

(* ̄ー ̄*)
>回復が難しいほどの崩壊が生じる原因は、…

この文章を読む限り、組織体になっていない。
同じ目的に向かってとりくむ組織体をつくらなきゃいけないはずなのに、個々の人物に責任を転嫁して、排除しようという姿勢が読みとれます。担任や管理職や…と言いながら、順番に排除していっても、逆に集団は悪くなるよ。
この姿勢を指して、当初から、暗象のクラスは不登校やいじめが多いんじゃないのか…と指摘しました。

学級崩壊にはさまざまなケースがあるのですが、だれが解決にあたるにしても、非常に根気がいる取り組みになります。
「同僚」と書きましたが、人手が足りない学校では、副校長などが授業を担当することもあります。
導入さえスムーズにいけば、経験や指導力のある教師が教室に入るだけで、いちろうさんがおっしゃるような「力で押さえつけ」る方法ではなくても、授業が成立するようになります。
問題は担任教師の復帰後のことです。
問題の担任教師が異動しない場合は、校内で違う学年の担任になるケースが多い。
それも最も落ち着いて「いい学級」の担任になる。
「さすがにこのクラスを崩壊させたら・・・」などというプレッシャーの中で、耐えてがんばれる教師ならいいのですが・・・。
私が思うに、回復が難しいほどの崩壊が生じる原因は、その走りの段階で同僚に相談もせず、臨界点まで放置した担任教師の責任が重い。さらには、巡回などで授業やクラスの実態を把握していなかった管理職の責任も大きいと考えています。

(´ρ`)ぽか~ん
>崩壊学級の立て直しのときは、内部の同僚が手を入れるわけですが、そのときは解決したように見えても、すぐに元通りになってしまう場合があります。

それは、教育じゃないんじゃないのか?
ヤクザ屋さんや強面のオジサンの方が、
もっと上手にするんじゃない?
子どもの本質が何も変わっていないのなら、
「解決したように見える」ということ自体間違い。
ただ力で押さえつけているだけだから、
抑える力が弱まったら、もっと反発するよ。

暗象は、教育を語っているのか?
それさえも疑問に思えてきた。

現場の様子を書けない理由は、
プライバシーなどの問題じゃなく、
やっていることや考えていることのレベルが
素人並なんじゃないのか?

どうも、ここでのコメントに、
プロの姿を感じない。

部外者がどんどん学校教育の指導部分にまで介入できるようになると、一時的には効果が出ても、その部外者がいなくなると元に戻る・・・同様に、よく崩壊学級の立て直しのときは、内部の同僚が手を入れるわけですが、そのときは解決したように見えても、すぐに元通りになってしまう場合があります。
結局は、外部から何を問題視しようと、当事者が変わらなければ何も変わらない、それが学校の実態でしょう。
そういう危機感を、教育委員会の人間より、少なくとも同僚、最悪でも校長だけは、抱いていてほしいと思います。

ヾ(*゚A`)ノ
>担任が見て把握していた出来事なので、部外者としてはすぐに対応はできませんでした。

これは日々の主張と違うんじゃないの?
子どもがいない時という限定ものだったのか?

部下はもちろんだが、同僚であっても、
ひょっとすると年上の上司であっても、
100%間違えている対応をしていたら、
注意するもんだよ。

結局、暗象のお気楽さの証明?

>暗象が巡視して見たのであれば、
自分が対応すべきことだろう。

自分が現場のそういう立場だったら、まず担任の教師に事情を聞くでしょうね。
いきなり呼び止めたりはできません。
何と言っても担任が見て把握していた出来事なので、部外者としてはすぐに対応はできませんでした。

ちょっと補足なのですが、実は荒れていない学校でも、それは校内で問題をおこす生徒が学校に入りにくい状況にしていて、学校に来ないからそうなっているところもあります。「じゃまをする人間は来なくていい」という「突き放し系」の指導ですね。
これは学校内は平和が保てるのであまり反対する教師が出ないやっかいな状況です。
でもしっかり問題は外でおこしてくれて、出動することになる場合があるのですが。

人間にとって一番きつい仕打ちは「無視」ではないでしょうか。きつくこたえるとわかっていてそういう仕打ちをする人も多いですよね。

(´ρ`)ぽか~ん
>担任の教師の目にとまりながらも、何も声をかけてもらえずに、さびしそうに学校を去っていく生徒の姿を見たこともありました。

これと、巡視回避はどうつながるんだ?
暗象が巡視して見たのであれば、
自分が対応すべきことだろう。
さらに「目にとまりながらも、何も声をかけてもらえずに」とあるが、子どもは、本当に声をかけてほしかったのか? 担任は本当に気づいていたのか? その後「さびしそうに」とあるが、それは、不確かな前提の上に暗象の先生批判をベースにした主観をのせただけじゃないのか?

何のことだか、さっぱりなんだけど、
それを横においても、
巡視したら解決する出来事なのか?

>どんなレベル
・・・荒れた学校の中には、出欠確認すら十分にできないところもあります。
保健室に行っているはずだ、とか、トイレに行ってもうすぐ戻ってくるはずだ・・・とか。
近くのコンビニに買い物に行っている生徒とか・・・。
授業のある教師は探しに行けませんから、そのまま授業を続けるケースが多いのです。
保健室経由で無断で帰宅される場合は、本人と連絡をとるのが深夜になってしまったりします。
担任の教師の目にとまりながらも、何も声をかけてもらえずに、さびしそうに学校を去っていく生徒の姿を見たこともありました。

(゚Д゚)ハァ?
>荒れた学校では、校内を「巡回する」だけのことでも、教師にとっては非常に大きなプレッシャーとなります。
>「指導すべき状況」を目にする確率が高いからです。
>エスケープ、器物破損、飲食、喫煙・・・・。
>それを避けたければ、職員室で仕事をしていればよいわけです。

どんなレベルで何を書いているの?
巡回しないと、エスケープが発見できないのか?
授業の最初は、出欠確認からだろう。
私が子どもの時も、テレビドラマもそうなのだが?

だんだん先生という肩書きも胡散臭くなってきた。
私の遊び場から遊具を撤去するしなあ〜

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より