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2008年10月

仏教の世界の「本当の無視」とは?

[いじめ] ブログ村キーワード

 「喜び」の感情をむき出しに人をけなすことができるタイプの子どもには理解が難しいかもしれませんが、たとえば、友達関係にあった子どもが、一連のいざこざの中で、結果として「無視し合う」状況になるケースがあります。

 ただ、この場合の「無視」は、多くの場合、「喜び」を感じるようなタイプの行動ではなく、けっこう「苦しい」思いをする行動になっているはずです。

 本当は話したいこともあるし、どちらかは謝りたいと思っているかもしれない、また、真意を聞いてみたいと思っているかもしれない。

 実際には、目には見えない感情のやりとりがあるので、それは本当の意味の「無視」ではないのですね。

 仏教の世界で言う本当の意味の「無視」は、こういうものではありません。

 相手方が行動を改めるかどうかを静かに見つめながら、いっさい相手に感情をこめずに、まるでそこにいないかのようにふるまい、相手の自覚と行動の改善を待つ
 
 「口をきかないのは寂しい」「説得できないのは残念だ」「相手が困っているのを見て楽しい」「いい気味だ」などといっさい感じないのが「本当の無視」です。

 いじめの世界の「無視」とは全くレベルが違う話なのですね。

 しかし、それを同一視することしかできない感覚というのが人間にはあり、だから社会はうまくいかないわけです。

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教師の「仲良し」と子どもの「仲良し」

[教育現場] ブログ村キーワード
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 「子どもっぽい」教師集団をたくさん見聞きしてきた私は、すずめ先生からいただいたご意見には抵抗感を覚えましたので、以下のようなコメントをさせていただいております。内容は一部なおしています。

*********************

>大人の仲良しは子どもの仲良しとは違いますよね。
なんでも「yes」,イヤな思いをさせないで価値観を共有し,常に群れているのが子どもの仲良しなら,
大人の仕事グループの仲良しは,お互いの違いを認め合い,時には意見をぶつけながら,もっといいものを作ろうと目的を一つにすることだと思います。

 すずめ先生の上記のコメントから、私との大人観・子ども観の決定的な違いをご説明いたします。

 私が言いたいこと、言ってきたことを簡単に申し上げれば、すずめ先生の「仲良し」観は、実際には逆になっていませんか、ということです。
 つまり、「イヤな思いをしないように(安易な)価値観を共有し、常に群れている」のがダメな教師の「仲良し」集団でしょう、ということです。

 また、あるべき姿も、逆でなければならないとは思われませんか。
 もちろん大人の場合は職務を果たす責任があることが大前提ですが。

 私は自分のブログで「子ども」のいたらなさを取り上げることはめったにありません。
 タイトルどおり、教師のいたらなさについて問題提起するブログですので。

 教師のいたらなさの最たるものというのが、子どもに求めているものを自分たちが持っていないということと、それを子どもに見抜かれてしまうという問題です。

 (教師)「仲良くしなさい

 (子ども)「あなたたち、大人は仲良くしているのですか?」(すずめ先生が行った、大人と子どもで異なる「仲良し」の定義でもかまいません)

 (教師)「時間を守りなさい
 (子ども)「先生たちは、時間や〆切を本当に守っているのですか?

 (教師)「挨拶をしなさい
 (子ども)「先生方は、外来者に礼を尽くした対応をなさっていますか?電話の応対の仕方で非常識なことをしていませんか?

 挙げていけばきりがありません。

 子どもの本当の「仲良し」の関係に近い「仲良し」が、教師にはたくさんいるのでしょうか?

 子どもに価値観をおしつけようとする気持ちはわかりますが、教師たちには価値観をおしつけられますか?
 それをこばんでいる方はたくさんいらっしゃるでしょう。

 大人がそうなら、子どもならもっと難しいことでしょう。
 難しいからできていないわけです。

 教師が抱えている問題を徹底的に洗い出して、それが改善できていけば、大切な価値観というのは自然と「伝わる」ものだと私は信じています。

 もちろん、表面上の指導場面はいくらでもありまし、それを教師はだれ一人として避けることは許されませんが、それが最終手段ではありません。

********************

 たとえば、ある教師集団が赴任してきて、荒れた学校ががらっと変わってしまった場合、改善できた根本理由は何にあるかと考えていただければ、また、赴任してきた教師集団がどのような価値観をもっていたかを感じとっていただければ、その集団が異動してしまっても、すぐには学校は崩れなくなるでしょう。

 なお、すずめ先生のブログは休止中ですので、お話はここでストップしています。

「批判」への対応

[教育現場] ブログ村キーワード

 「批判」に関連する過去の記事を探してみたら、以下のようなものがありました。

*******************
教師の指導上のつまずきを防ぐ指導基準(東京教師ミニマム) 08/10/28 記事
教育実習と初任者研修の重み 08/10/23 記事
ネガティブ発言の料理 08/10/22 記事
教師を元気にさせてくれるのは・・・。 08/10/21 記事
教師にとっての「情報の共有」 08/10/21 記事
 「費用対効果」という言葉は、今では民間企業... 08/10/20 記事
学年経営と学級担任 08/10/14 記事
若手を「大人」にする社内「内閣」制度 08/10/14 記事
若い教師にとって恵まれた職場環境とは? 08/10/13 記事
不信拡大の悪循環からの脱却策(再掲&再考) 08/10/13 記事
「生徒力」による教育の創造 08/10/09 記事
「しんにょう」の漢字でまとめる教育の問題 その3 08/10/05 記事
校長室の「ゴミ箱行き」になる情報 08/10/01 記事
成功事例にも興味がない教師の問題 08/10/01 記事
競争原理が機能しない「他人事」主義 08/09/30 記事
教師はなぜ批判に弱いのか その3 低い評価への耐性不足 08/09/30 記事
教師はなぜ批判に弱いのか その2 08/09/28 記事
教師はなぜ批判に弱いのか その1 08/09/27 記事
失敗・結果・責任 08/09/26 記事
目が覚めた?小学校教師 08/09/25 記事
学校公開時のアンケート内容 08/09/24 記事
「学校公開」によって不信の上塗りをする学校 08/09/23 記事
依存的になる親や子? 08/09/19 記事
意思疎通しない相手への批判 08/09/18 記事
「税金の無駄遣い」という主張を間違いないものにできる教師 08/09/15 記事
失敗と成長の分岐点 08/09/15 記事
「指導者としては不適格だ」と評価される人間のブログ 08/09/14 記事
ハンバーガーとちゃんぽんと教育 08/09/13 記事
「こだわり」と人間の成長 08/09/12 記事
「全国的な学力調査の目的」に示されている学校の役割 08/09/07 記事
時数は減っても「総合的な学習の時間」は学校の看板メニュー 08/09/04 記事
「AよりB」ではなく「AもBも」大切な日本の教育 08/09/03 記事
文科省批判の現場と自己批判の現場 08/09/02 記事
新学習指導要領で学力低下が進むと主張する「学者」 08/08/26 記事
社会関係資本喪失の結果と道徳教育の課題 08/08/24 記事
相手に反論される心配のない批判 08/08/24 記事
「同じ意見」を持つ人は「同じような人間」? 08/08/23 記事
ダメなファシリテーター その1「話し方」 08/08/19 記事
ファシリテーターの役割 08/08/18 記事
同調と反抗、思考停止と対人変革力欠如からの脱却のために 08/08/16 記事
教師VS子ども その4「批判的思考力」 08/08/15 記事
「新しい」教育に対する「開国派」と「攘夷派」 08/08/13 記事
教師VS子ども その2「論理力」 08/08/12 記事
教師VS子ども その1「発想力」 08/08/12 記事
フィンランド・メソッドへの批判の内容からわかる「批判的思考力」 08/08/11 記事
学力向上のために「死活的に重要なこと」とは? 08/08/10 記事
教職志願者を増やす方法とは? 08/08/04 記事
「弱さ」が最強の「武器」になる社会 08/08/03 記事
教員採用の望ましいあり方について 08/08/02 記事
学校経営者としての5つの壁 08/07/31 記事
最も不快な解釈を選ぶ権利 08/07/30 記事
教育の大前提は覆るか? 08/07/30 記事
学習意欲低下に拍車をかけている?言葉 08/07/27 記事
民間企業と公立学校の人事考課の違い 08/07/26 記事
いただいたコメントから飛んでまいりました。 ... 08/07/26 記事
子どもの安全管理と教師の人事管理 08/07/23 記事
許せなかった子どもへの「悪口」 08/07/16 記事
ありがた迷惑な問題解決 08/07/14 記事
信頼回復に必要な議論 08/07/12 記事
教員採用にもみえた私共空間 08/07/11 記事
教育改革への抵抗と提言 08/07/11 記事
批判してくださる方がいる恵まれたブログ 08/07/10 記事
文科省への提案 ~解説への解説は映像(動画)で~ 08/07/09 記事
その問いへの究極的な答えとは・・・。 08/07/08 記事
生徒のリーダーは、生徒が民主的な手続きで決め... 08/07/07 記事
「売れれば売れるほど失われる信用」の問題 08/07/06 記事
反対意見へのアンテナ 08/07/05 記事
道徳的価値に気付かせる教師の役割とは? 08/07/04 記事
総則の冒頭に改訂のエッセンスがあります 08/07/03 記事
教育ブログでのスタンス 08/07/02 記事
リーダーを育成する学校と教師 08/07/01 記事
反響の大きかった記事のコメントについて 08/06/30 記事
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学校の危機管理体制のチェック方法 08/06/24 記事
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他ブログ内での批判に応えて 08/06/22 記事
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教育実習期間中のステップアップ 08/06/07 記事
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評価の質の低さは指導力の質の低さと同じ 08/06/01 記事
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子どもたちの悲鳴? 08/02/29 記事
小学校の評定について 08/02/27 記事
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管理を嫌う教師たちができない管理 08/02/24 記事
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打たれ弱い症候群 08/02/20 記事
格差と成長、教師はどこを見るべきか 08/02/10 記事
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本当に重要な問題か、単に不快なだけか? 08/02/08 記事
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道徳の評価について その1 07/04/05 記事
道徳の教科化について 07/04/02 記事
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甘えたい子どもは教師になるしかない 05/05/01 記事
迎合型だった問題発言大臣 05/04/27 記事
共有できる「天」はどこに 05/04/20 記事

*******************

 私は行政経験によってその傾向が強まったのだと自覚していますが、批判に対して「そういう批判の仕方はおかしい」という受け止め方は一切しません。
 行政の場合、「対応」あるのみですから。
 「やる気がなくなる」とか、「気分が悪くなる」とか言っている暇はありません。

 原因が全くないなら別なのですが、原因があったから、必然ではないとしても、結果として、「批判」となってかえってきたのです。
 誹謗中傷的な批判については、誹謗中傷をするようなタイプの人からの批判であるというだけであって、こちらから相手のそういう性癖を直す努力もした方がいいのかもしれませんが、そんなことよりも「批判」の中身に目を向けて、改善できるところはとことん改善していく、そちらにエネルギーを費やすのが筋だろうと考えています。

 学校への批判と言えば、教師たちの多くは「悪いのはうちらだけではない」という「逃げ」の発想をすぐに持ってしまいがちです。
 その程度のレベルであるから、いつまでたっても「改善」の方策やかたちが見えてこないのです。

 ・・・危険な地域に自ら出向いて人質となり、不当な要求を国家が受けたとき、「自己責任だ。見殺しにしてもよい」という世論があったとしても、その国の国籍をもつ「国民」を守るのが国家の義務であり、粘り強く交渉にあたるのが責務である・・・という話とリンクさせて、学校や教師と子どもの関係、「教育機関」というものの役割を考えてほしいと思うのです。

 学校には、「見なかったことにする」「聞かなかったことにする」のが得意な人がいませんか?
 こういうのが諸悪の根源であることの自覚を、教師には強く抱いてほしいと思います。

 「もう、知らない!」と子どものようにキレる教師はいませんか。
 「知らない」=「私とはかかわりがない」という宣言を出す学校や教師はいませんか。

 このような問いを常に自らに投げかけられる学校は、たいていの「批判」は想定内であり、批判者を「モンスター」扱いする過剰な反応をしなくてすむと思っています。

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子どもと教師への落としどころ

[学力テスト] ブログ村キーワード

 知的な活動前のめりになれるチャンスは、人生の中でそう多くはありません。
 「総合的な学習の時間」は、その数少ないチャンスの一つなのですが、学校側がその機会を提供する場を設けているかどうか。

 もちろん、教科の学習で幅の広い「」の領域が扱われていますが、「トレーニング」の要素が強い時間が多いことで、子どもの学習意欲に高まりが見えない結果となっています。

 昔は、「トレーニング」的学習だけでも学習意欲が高められた時代がありましたし、まだ小学生低学年、中学年くらいまでは通用するのでしょうが、高学年ともなると、自分の力を「使う」場を求め始めます。

 ある研究校の授業を参観したときは、すでに多くの知識を(塾などで)習得した子どもの発表に沿って学習が展開してしまい、結果として個人の「出し物」で終わってしまいましたが、このような授業が一般化すると、「トレーニング」の拡大でしか力を「使う」ことができなくなり、ますます「意欲低下」傾向が続くことになります。

 40人の子どもたちすべてにとって充実した45分、50分を生み出すためには、少なくとも知識の量に左右されない題材によって知的な学習意欲を高め、それぞれが「力」の発揮する落としどころを設ける教材研究が必要となります。

 全国的な学力調査が実施されてから、国が求める「落としどころ」が教師にも子どもたちにも周知されました。

 調査問題の内容やその実施方法については今後も改善を重ねていく必要があるでしょうが、学力調査実施前の子どもと現在の子どもの違いは、国の学力に対するメッセージが直接子どもに伝えられているかどうかということです。
 子どもの目から見れば、「どうして担任の先生が採点してすぐに返してくれないの?」という疑問が生まれて当然でしょうが、税金の節約のためにもしそのことを実施しようとしたときにおこる問題は、とても子どもに教えられる内容ではありません。

 まだ当分教師への「落としどころ」があいまいなまま、学校でも一部の教師の作文で報告書がつくられ教育委員会に提出されただけで終わってしまう学校が多いことでしょう。

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言語・表現活動の充実がもたらす効果

 言語・表現活動にはさまざまなバリエーションがあり、子どもによって得意・不得意があるようです。
 
 学力調査等で、日本の子どもたちは「記述・論述問題」の「無回答」が多いという不名誉な評価を受けています。

 この背景は何かとふり返ってみて、最初に感じるであろうことが、そもそもそういう問題を授業の中で取り上げているか、定期考査の問題で扱っているか、ということです。

 採点基準の統一が難しい(だから採点がめんどうくさいという理由で)論述問題の出題をさけている教師は多くないでしょうか。

 定期考査でその力を測定しないのであれば、授業で発表等の機会を保障しなければいけませんが、それすら避けている人もいないでしょうか。

 もしそうなら、現行の指導要録で採用されている「4(国語は5)つの観点別の学習状況評価」が適切に実施されているとは限らないという話になります。

 授業でも定期考査でも、意外な答えが返ってくる楽しみというのが「出題」する側としてはこたえられない時間になります。
 ふだんはそんな表現活動はしないだろうという意外な生徒が、他の教師も初めて見て驚くほどいきいき取り組んでいたり、議論好きではない生徒が積極的に反論に転じてくるなど、授業の中での「意外性」を楽しむ時間は「言語・表現活動の充実」によってもたらされるものです。

[学習指導要領] ブログ村キーワード
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教師の指導上のつまずきを防ぐ指導基準(東京教師ミニマム)

[学力テスト] ブログ村キーワード

 東京都教育委員会が発表した「児童・生徒の学習のつまずきを防ぐ指導基準(東京ミニマム)」については、すでに学力調査等の前から十分に指導されてきたことだと自負している学校が多いと思いますが、小中の連携にもうまく生かされてくるとよいと思います。

 学校教育の中で、子どもの「つまずき」がいたるところで見られ、それが放置されているのが常態化していた学校は、具体的な問題が明示されることで、何を改善すべきかが見えてくるでしょう。

 よく、「わからないことを質問して」と言われても、「何がわからないのかすらわからない」状態にあった子どもと同じように、「批判されるべきことを探して」と言われても(たとえば学校評価で)、実際に批判されないとわからない学校が多いのですが、「変わるためのチャンス」はたくさん訪れてきます。

 情報に垣根のない現在では、東京都の財産は全国の財産となります。

 中には東京都の害悪が全国の害悪になると主張されている方もいらっしゃいますが、選択する権限はそれぞれの自治体に任されているわけです。

 ストック・公開されている「宝の山」の情報より、孫引き・またその引用などが相次いでいる新刊の教育書を読もうとする傾向にストップがかかるのはいつになるでしょうか。
 新しいものを求めつつ、その本質的なもの、基盤になっているものを習得することが教師には求められています。

 近いうちに、「教師の指導上のつまずきを防ぐ指導基準」なるものが登場するでしょうか。
 何でつまずいているのかを自覚してもらうことがまず必要となるでしょう。

 ただ「東京教師ミニマム」ではちょっと恥ずかしいでしょうか・・・・。

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野球の試合と学校の授業

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 大学時代、私は野球部に所属していたのですが、試合で最も悩んでいたのが、バッターボックスに入ってからの呼吸でした。

 別に「大打者」をめざしていたわけでもないのですが、「大打者は初球を打たない」とか、「ファーストストライクに食らいつくのは余裕がない証拠」とか、そんな固定観念をもっていたせいで、初球の絶好球を見逃したり、打ちにいっても間合いが悪く力が入らないとか、そういう悔いの残る結果となる打席が多かったのです。

 調子のいいときはそれでも、2球目以降に甘い球が来れば打つことができたのですが、調子の悪いときは、絶好球の球筋が頭から離れず、次の甘い球を打ちそこなうケースが多かったように記憶しています。

 打席に入った後、ピッチャーが初球を投げる前に完全に打てる態勢に入れるかどうかは、たいていネクストバッターズサークルからバッターボックスに入るまでの間で決まっていました。

 打った後、ああ、打てる状態だったな、という実感が得られるのです。

 打者は、そのタイプに応じる部分もありますが(相手ピッチャーとの相性も含めて)、基本的には、打席に立つときの塁上の選手、アウトカウント、イニング、得点差などによって、どのようなバッティングをするかをイメージして、打席に立つことになります。
 ベンチからどのようなサインが出されるのかも、当然想定してから打席には立ちます。

 このことを「考えようとしないで考えられている」とき、集中した状態で打席に立つことになりますが、余計なことが頭に浮かんだとき、ほとんどの場合、うまくピッチャーとの息を合わせることができません。

 なぜこのようなことを書いたかというと、教師となって授業に向かう廊下で、あるいは教室での授業中に、同じような状態になったことを思い出したからです。

 教育と野球の違いは、教師の場合の役割が投手であることですが、マウンドに向かうピッチャーの心理というよりは、打席に向かう打者の心理に近いものを今でも感じています。

 すべての授業で指導案を作成するわけではないのですが、シミュレーションは欠かしません。
 その場で思いつく発問もありますが、基本的には核となる発問は事前に用意していきます。

 自然の流れの中で用意していた発問が出るときは、生徒の反応もよく、想定通りに授業が進むのですが、何か間合いの狂いが生じると、発問を出す「わざとらしさ感」への嫌悪感から躊躇が生まれてしまい、結局ほかのことを聞いて不完全燃焼に終わることもありました。

 授業の場合は、教師はどのような投手であることが理想であるかというと、たとえばバッティングピッチャー、打撃練習用の投手としての役割が最も想定しやすい例でしょうか。

 ただ、授業では生徒が打ちにくい球をわざと投げる場合もあるので、くせのあるピッチャーであることは確かです。

 今まで、教師として何度か「最後の一イニング」を経験しているはずなのですが、そのときのことはよく覚えていません。
 特別な心境で投げたり打ったりしていたはずなのですが。

 まだ記憶に残っているのは、意外なバッターにホームランを打たれた場面です。

 生徒たちが「観客」に見えてしまったときが、「引退」する決意を固めるときだと、今でも思っています。

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「しかと」系いじめの起源は仏教思想?

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 いじめの中でも、直接的ないやがらせより、掲示板への書き込みのような陰湿なものの方がいじめられる側の精神的ダメージは大きいものになるのでしょうが、いじめで最もきつい形態は、「しかと」=「無視」ではないでしょうか。

 「無視されるよりいじめられている方がまし」という言い方をする子どももいるようです。

 スリランカ初期仏教長老アルボムッレ・スマナサーラ著「怒らないこと」(サンガ新書)に、次のような話が紹介されていました。
 「無視」による排除制裁)は、仏教が起源だったのでしょうか。

 

私たち仏教徒の場合、お寺で悪いことをした人にどうするのかというと、・・・(中略)・・・よくやるのは、完全に無視することです。何を言おうが何をしようが、知らぬふりをして社会から追い出すのです。物理的に追い出すことではなく、・・・(中略)・・・一緒に活動している人として扱わないで無視するのです。
 その人が発言しても完全に無視して、「じゃあ、次の・・・(中略)・・・
 無視の罰を受けるのは、道徳を守らない人、みんなの決まりも調和も守らない人、・・・(後略)

 
 普通の「無視」仏教の「無視」はどう違うのか。

 仏教的な無視は、「感情的な無視ではなくて、その人が行動を改めるかどうかを静かに見つめながら、まるで相手がその場にいないように行動すること」だそうですが、現代だとそうされた人は「キレ」てしまうので、あまり使える人間改革策ではなさそうですが・・・。

 学級自治会で、「クラス内が騒がしい時、発言する人(またはそれを聞こうとしている人)はどういう態度にでるべきか」と話し合うと、「だれだれが注意する」とかいう方策が提案されるかもしれませんが、これはある基準にあてはめれば、下策です。

 上策として、「静かになるまで待つ」という態度が提案されますが、それが上策である理由は何でしょう。

 「待つ」ことは「信じる」ことであること。
 
 仏教式の無視の話も、「信じる」という受け止め方が「無視」という形であらわれると解釈してよいのでしょうか。

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人間の、動物以下の状態とは?

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 「外部不経済と人間のこだわり」さんからコメントをいただきました。
 ありがとうございます。

こだわりを持って不幸になる。こだわりを持って幸福になる。絶対評価のこだわり。相対評価のこだわり。勝利のこだわり。惜敗のこだわり。受験で合格する人間が、幸福にならないときがある。受験で合格するものは、みな幸福か。悩みのこだわりは、人間を幸福にしたり不幸にしたりする。紙一重の、瀬戸際。

 人前で話をするときの目線の置き方にまで、指導をする「ゆとり」が生まれると、さらに高次の「こだわり」が生まれてきます。

 仏教なら、こういう「こだわり」を捨てることを説くことになるのでしょうが、やはり人間は煩悩からなかなか解き放たれません。

 以前からご紹介している「役立つ初期仏教法話1 怒らないこと」(サンガ新書)では、こんな話が紹介されていますが、この話を知っていたとしても笑われるようなことをあえてできる「こだわり」は人からみれば相当やっかいなものでしょう。

 

世の中で、怒る人ほど頭の悪い人はいません。(中略)そのときは智慧もわいてこないし、明るさもないし、適切な判断もできないでしょう?その状態はもう、人間でも動物でもありません。動物以下です。

 
怒るとき、我々は瞬時に「完全に最低な無知な人間」になってしまいます。怒れば怒るほど、我々は自分の無知そのものを刺激してどんどんバカになります。

 怒っているようでも、実は気持ちは冷静に訴えたいことを訴えているような人が、ごくまれにいるかもしれません。

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子どもに与えられている絶大な権限

 何もたかが中学生に、そこまでの要求をする必要はないだろう、という見方もあります。
 こういう言われ方をするとき、「たかが中学生」という見方に対してまず大きな疑問をもつことになります。
 中学生はたとえば大学までを見通したカリキュラム上では知識・理解面で劣っているわけだし、思うように自分を表現できない子どもが多いのは、言うまでもありません。

 しかし、中学生にもできる(中学生だからできる?)こともたくさんあります。

 「生徒力」育成においては、その実現にこそ重きをおきます。

 計画的にものごとを進めること。

 最近では、子どもが大人と同じような状況に置かれるようになり、ここで問題が生じています。

 集中することが必要な時間には、携帯電話の電源を切る。これで問題は解決します。

 大人はたった一つの仕事に集中できるほど「暇」ではありません。

 必ず何かの影響で中断させられる可能性をはらんでいます。

 しかし中学生には「集中する権限」が与えられています。

 この権限は絶大な威力をもつものです。

 「スピード感」を高めること。

 仕事の速度感覚は、大人だけの特権ではありません。

 「計画的にものごとを進めること」に「スピード感」が加われば、「前倒し実現」が可能になり、「充実」「新しい工夫」「創造」「見直し」「ふり返り」の機会が増すことになります。

 失敗すること。

 失敗を繰り返さないと、いつまでたってもよりよい「計画」が立てられません。

 本番直前のダメ出しはできませんから、前倒しでやってくれた仕事へのダメ出しが、よりレベルの高い仕事の実現に結びつきます。

 これが実現できている生徒集団があります。
 この集団の成長のようすをまた機会があればご紹介したいと思います。

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よいリーダーがもたらす変化

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 子どもにリーダーシップを求める度合いは、学校ごとの環境や教育方針にかなり大きく左右されるでしょう。

 教育界で使われる「ゆとり」という言葉には、非常にさまざまな意味・レベルのものがあって、

 教師が手をかけずに「楽をする」ためのゆとり

 子どもが失敗から多くを学びとるのを待つゆとり

 「鍛える」ことより「のんびりする」ことを重視するゆとり

 目先のこと、短期的な目標の達成に汲々とするのではなく、長期的な目標をじっくり時間をかけて達成しようとするゆとり

 ・・・・・・・・

 変化のスピードが非常に速くなり、人々の価値観の多様化が進み、状況を生み出す要因が複雑化している時代に生きる子どもたちにとって、どんなリーダシップを発揮できるか、どんなリーダーのもとで仕事ができるかは、充実と怠惰、成功と失敗、自律と他律を左右する大きなポイントになります。

 よいリーダーになったり、よいリーダーに恵まれたりすると、人々はどう変化するか
 
1.関係性の向上
   →一体感が増す
    →信頼感が培われる

2.考え方が前向きになる
   →自分にも他人にも肯定的になる
    →誇りと自信が生まれる

3.新しい考え方が生まれる
   →より高い目的意識が生まれる
    →行動が変わる

 教師間でもそれを期待したいのですが、変化の激しさ・多様な価値観・その要因の複雑性に対する忌避感がそれらの実現を妨げます。
 
 まだ思考が柔軟なうちに、広い視野と洞察力を磨き、「子どもができることを社会人にも要求する」というような発信ができると、教師自身も変わっていくことでしょう。


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教育実習と初任者研修の重み

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 3週間いっしょに学んだ教育実習生が採用試験に合格し、現場の教師として活躍してくれることはたいへんうれしいことです。

 教師とは、就職と同時に、他人の「批判」から逃れるコツがわかってしまう職業です。

 どのような「適応」の仕方をするのか。
 だれをロールモデルとできるか。
 教師としての成長の可能性と限界はいつ決まるのでしょうか。
 
 社会の厳しい目にさらされるようになってから、「批判忌避症候群」には過ごしにくい職場になりました。

 授業に集中できないような生徒の姿を「批判」と受け止められれば、毎日が「批判」にさらされている職業であるとも言えます。

 教育実習期間にはほとんど「授業」に対する「批判」の雨・あられだったと思いますが、授業に関する「批判」に対する「構え」は、教師としてのすべての職務に有効にはたらくようになります。
 
 教師は、どれだけ厳しい教育実習期間を過ごしたかで、現場に入ってからの「構え」が決まってくるでしょう。

 そして、「最後のチャンス」は初任者研修です。

 ここでどれだけ優れた管理職・主幹・指導教諭に恵まれるかで、教師生活の一生が決まってしまうと言っても過言ではありません。

 よい「出会い」に恵まれることを願いつつ、現場に入ってくる先生方を応援(私の場合は多くの部分が「批判」という意味ですが)したいと思います。


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子どもに頼られる教師とは?

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 教師は教壇に立つまでに、「人を叱る」「子どもを叱る」経験をどのくらいしてきているのだろうか、という内容の記事を以前に書きましたが、昨日は、「人間関係のトラブルを解決した経験の有無」について考えさせられる話を聞きました。

 これも小学校の話なのですが、ある保護者は「教師がとても忙しそうだ」、という印象を口にされました。

 それは、教師に対する同情ではなくて、「もう少し子どもをしっかり見てくれる余裕がほしい」という要望だったようです。
 
 「この場面で教師が子どもの話をしっかり聞いてあげるか、一言でもアドバイスをしてくれれば、こんなにこじれることはなかったのに(問題に発展することを防げたのに)・・・」

 教育ブログでも教師の多忙さを自分で訴えている方がいますが、保護者からは、「それは子どものことが見られない言い訳なのか」という誤解を受けるおそれがあります。

 子どものことにかかりっきりで、報告書の提出が遅れそう、などというのは、保護者に知らせるような情報ではないでしょうから。

 子どもが本当に教師を頼るとき、というのは、どういうときでしょう。

 そういう場面が学校生活では一度もおこらない、という生徒ももちろんいるでしょう。

 しかし、「こういうときこそ必要なのが教師ではないか」という(教師にとっては)絶好のタイミングで、期待を裏切ってしまう場合というのはけっこうあるものです。

 だから、後で「どうしてこのとき言ってくれなかったのか」ということがわかる相談が、その場でなされないために起こってしまう問題というのが出てきます。

 教師はどうしたら「いざというときに頼れる」存在として子どもから認められるようになるのでしょう。

 これは、すでに「実績」がある教師の場合はいいのですが。
 中学生になるとタテの人間関係というのも生まれてきますから、先輩から「いざとなったらこの先生を頼ればいい」という伝承を引き継いでいる場合があります。

 そうでない場合は、どうしたらよいのか。

 たとえば、よくおこるケースの解決事例を道徳の時間等で示してあげることがいい効果を発揮する場合があります。

 ただそれでも、特に人間関係のトラブルというものは、自分が全くの未経験者でスムーズな解決を図れてしまうというのはめったいないことなのではないか、と思ったのが、冒頭の保護者の話がきっかけでした。

 最近では掲示板への誹謗中傷の書き込みなど、人間関係のトラブルの発生形態は非常に多様化していますが、もとをたどればたわいのない行き違いで問題が大きくなっているケースというのは多いものです。

 相手を傷付けたり、おちょくるような言葉をさっと口にしてしまったこと。

 ふれてはいけない傷に他の人がいる前でふれてしまったこと。
 
 何かトラブルがあったとき、教師は「どうしてそんなことをしてしまったのか」という聞き方をし、原因を特定を急ぐ傾向がありますが、そのトラブルの「原因」よりも「背景」の方にこそ深い問題の根っこがあるかもしれないことを、教師はどのくらいわかっているか。

 AさんとBさんがトラブルをおこしたとき、Aさんからは詳しく話を聞き、Bさんはほとんど教師に話をしなかったとします。
 この原因には、たとえばもともとAさんはいつも先生の近くにいて、「友達の悪口を言う」人として認識されていたが、それが気に入らなかったBさんの感情というのが深くかかわっていたという可能性もあります。

 こういうとき、Bさんに「どうして~」と追及しても何も答えは返ってきません。

 自分自身もそういう人間関係のトラブルに巻き込まれた経験がある人、というのはある意味で恵まれているかもしれません。
 現場の教師たちはどうなのでしょうか。


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ネガティブ発言の料理

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 「抵抗のなかったところには、変革はなかった」と言います。

 教師にとっても生徒にとっても、時にネガティブな言葉や状況が襲ってくることを想定し、それらに耐える力を養っておく必要があります。

 山登りのときなどは、「あと何分で頂上?」「疲れた~」「もう帰りたい」「つまんない」などというネガティブな発言は禁止するのが一般的ですが、理想を言えば、こういう発言に影響を受けず、逆に励ましてあげられるくらい余裕のある生徒ばかりだと助かります。

 学年や学級集団のよさ・悪さは、ネガティブ発言への反応・処理の在り方で決まると言ってもいいかもしれません。
 これはかなり「透過性の高い」評価基準になると考えています。

 ネガティブな意見を言った人を批判して、自分たちの正当性を主張したくなるところをぐっと我慢して、まずはそれを受容し、その発言への意味づけをするプロセスも体験させてあげたいものです。

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 「あと何分で着くの?」
 「あと何分で限界がくる?」
 「もうだめ」「疲れた~」
 「休憩する?」「水を少し飲もうか」
 「いや、いい」
 「もう、帰りたい」「つまんない」
 「帰ったら何しようか?」
 「頂上に着いたら何するか考えようよ」

 「異なる意見があるから、いいものに発展する可能性が高まる」
 「対立があるからこそ、話し合いができ、民主的にものごとが運べる」
 このような健全な環境を現場では重視したいものです。

子どもがいきいきしている授業

 「子どもがいきいきしている授業」
 ・・・これだけの言葉を聞くと、指導力のある担任が伸び伸びとした雰囲気で授業を行っているように聞こえますが、くわしく聞くと、そうとは限らないようです。

 「まるで子どもたちが教室の主人のようで、担任はいいようにふりまわされているようでした」

 「子どもは担任に命令口調で話していました」

 「しつけという意味では、まったくなっていない教室でした」

 「こんな子どもたちが中学校に上がっているとなると、心してかからねばならない

 中学校の先生方の正直な感想です。

 子どもたちは、主体的に授業を楽しんでいると言えるかもしれません。
 学力も高い方です。
 しかし、こういう形態の「学級崩壊」は、どのくらいの割合で存在するのでしょうか。

 一方で、非常におとなしく、しつけられている子どもだが、目が死んでいるように静かで覇気がない
 子どもらしくない、そういう学級もあります。

 昔から、教師の価値観は非常に多様だったと思いますが、今、親の要求する価値観のストライクゾーンは随分せばまっているのかもしれません。

 極端な「子どもらしさ」を要求するのではなく、「バランスのとれた経営」を望む保護者が多いのではないでしょうか。
 そういう要求に、学校はどのように応えたらよいのでしょう。

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教師を元気にさせてくれるのは・・・。

 いきいきと学校で活躍している教師に共通した点は何だと思われますか。
 逆に、いつも暗く、元気のない教師が抱えている問題(その原因)は何だと思われますか。

 「教育創造学」のために、前者をもっとPRしろ!という注文はまだいただいておりませんが、人がポジティブに活動できる背景、高いモチベーションを維持できる背景にあるものは、そんなに複雑なものではなく、「仕事そのものへの充実感」「達成感」「自分自身や他者の成長への実感」「他者から認めてもらえること・頼られていること」くらいにまとめられるでしょう。

 これを裏返せば、「やる気が感じられない人」の共通要素も見えてきます。

 ~教えることに充実感をもてない~
 ~成果が得られず、達成感がない~
 ~成長しているという実感がない~
 ~人から認めてもらっている・頼られているという実感がない~

 ただ、教師が「やる気をもてない」でいる背景として、他にさまざまなことがらが教育関係者から語られています。

 たとえば、教育改革
 たとえば、人事考課
 たとえば、教師がさまざまな理由で「批判」されていること
 たとえば、「忙しすぎること」

 学校で授業改善事業の中核になっている人の「やる気」がなく、「やらされ感」が高かったら、確かに他の教師のモチベーションを上げるのは難しいでしょう。

 しかし、学校で
 ~教えることに充実感がもてるような、楽しい授業づくり~は無理なのでしょうか。
 ~小さな成果でも少しずつ積み重ね、最後に大きな目標を達成する~ことは夢の話でしょうか。
 ~成長しているという実感をもてる「実践記録」づくり~はできないでしょうか。
 ~人から認めてもらっているという実感がもてる機会(研究授業など)を増やす~ことはできませんか。

 能力開発型の人事考課制度は、教師のためになりませんか。
 この制度では、自分で自分に合った目標が設定できるのです。
 
 公務員は「批判」されるのも仕事のうち、という倫理観はもてないのでしょうか。

 「批判」されたことに「実践」で答えをかえす、という気概を教師はもてないのでしょうか。

 「忙しい」教師は、みんな暗いですか?

 「褒めてもらいたい症候群」「同情してほしい症候群」が、子どもから教師にまで伝染してきているようですが、教師がいきいき活動できない原因人のせいにするのはひとまず置いておき、まずは子どもと一対一で向き合うのはどうでしょう。

 子どもが学習内容の質問に来たとき、教師がどのように対応しているかで、だいたいどういうタイプの教師かはわかります。

 まず、うれしくなるか、どうか。
 行政から調査の依頼を受けたときは、きっと「この忙しいのに!面倒くさい!」と思う教師も、質問しに子どもが来てくれたら、「よく来てくれた!」と思いませんか。
 教師には、「忙しいからこそやりがいがある」という部分もあるでしょう。

 次に、質問を仕返すか、どうか。
 「聞かれたことに答える」だけで、満足してしまうのですか。
 授業の難易度、理解度をはかる絶好のチャンスでしょう。

 三番目に、「また来たい」と生徒に思わせられるかどうか。

 教師を元気にさせてくれるのは、他のだれでもない、・・・・生徒です。

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教師にとっての「情報の共有」

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 いちろうさん、早速のコメントありがとうございました。

(/ω\)ハズカシーィ  記事に名前が出るとは…

>この文章を保護者に読ませることはできますか?

暗象は、保護者どころか、
このブログを見にきている人にさえ、
コメントを見せたくないようだが?
まあ、暗象の人間性を疑われるよね。
論理性も何もない、
ただ感情的にむきになったり、
子どものケンカみたいなコメントだもんね。(^o^)

自分のことを棚に上げる奴ほど、
他人に要求するのは、3人の共通点だね。

 論理性がない、感情的な「子どものケンカ」という評価ですね。
 また、自分の職業倫理を棚上げし、他人に要求している、という意味の批判でしょうか。

***********************

 まずろさん、コメントありがとうございました。

 

職務上の情報の共有を「MAY」と捉えるか「MUST」と捉えるかの意識の違いと思います。

 これは正にいろいろなこれまでの疑問や違和感の源といっても良いかもしれません。
 職務を遂行する上での意識(責任感とも言い換えることも出来ますね)が甘いもしくは弱い(低い)教員の存在は、当然の職務意識で臨んでいる現場の多くの教員の足を引っ張るものでしょう。
 職員室での怠惰な意識は、たちまちのうちに伝染病のように蔓延しやすいものですから。

 「仲良くする」という職務目標を掲げている学年というのは実際にあるのでしょうか。
 初任のころ、いろんなことでいがみ合っている教師たちを見て、「仲良くしてほしいなあ・・・」と思ったことはありますが。・・・でも結局、価値観が違うんだから無理だろう、とあきらめました。子どもに対してはみなさん立派に教育されていましたから。

 「情報の共有」の方は、立派な職務目標になると思うのですが・・・。
 ただ、「教師への一方的な悪口や非難」など、その場でフォローしておけばいちいち報告しなくてもよいことも多いでしょうから、そういう意味では「NEED」加減をよく考えるということでしょう。

 「教師の仲良し集団」が、子どもや親、管理職の悪口を職員室で楽しそうに話しているのを耳にしたこともありました。
 学校が本当に信頼を取り戻すために、もっとやるべきことがあるでしょう・・・と言いたいのですが・・・。

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教師の「仲良し集団」に期待できることは何か?

 教育ブログを読まれているのは、一般の方や子どもや保護者、教師や行政などの教育関係者など、さまざまな立場の方がいらっしゃるでしょう。
 
 私自身は教師ですが、教育ブログを読むときは、さまざまなフィルターを通して考えていくことを信条としています。

 具体的には、実際に公立学校に子どもを通わせている保護者の立場、PTAとして学校に協力する立場、現場で中学生(教職課程をとる大学生)を教えている教師の立場、学校への指導・助言等を行っていた行政の立場、すでに他界しておりますが最後まで公立学校(の教師)を信用できなかった父親の立場、そして何より、私が小学生・中学生・高校生・大学生の時代に、生徒の立場で教育や教師を見てきた目で、さまざまな記事にふれています。
 必ずしも「教師の目」だけから記事やコメントを書いているわけではないことをご理解ください。

 「いちろうさん」という方から頻繁にコメントをいただくようになったのは、「すずめ先生」のブログへコメントしたことがきっかけでした。
 ただ、「いちろうさん」はそのときに「すずめ先生」にたしなめられて以来、「すずめ先生」のブログには登場されなくなりました(・・・と思います)。

 また前回(小学生が転落死した事故に関する記事)のときと同様に辛口のコメントをしておりますので、「いちろうさん」以外の方からも、どのような印象を持たれるのか関心があるため、こちらの記事の中にその内容を転載させていただきます。

 すずめ先生の回答等は私のコメント内の引用部分だけですが、話の筋はだいたいわかると思います。

 問題となっているのは、教師の「同僚性」の中身の問題です。
 以前から教師の「同僚性」が語られるとき、「教師の仲の良さ」がクローズアップされる記事に対して感じていた疑念がありましたが、今回のコメントではその内容を具体的に表現しています。

***最初のコメント***

>学年の教師集団が仲良ければ,そんな情報は共有できます。
学年がスタッフワークであるというのはその辺にも理由があります。

なぜ保護者が学校の教師を「職業人」として信頼できないかというと、「仲が良ければ」仕事になる、そうでなければ「指導上必要な情報が共有しにくい」という、まるで学級内の子どもの人間関係のようなことが語られているからでしょう。
スタッフワークをしているのは学校だけではないのですが、「仲良し」であれば職場の雰囲気はよくなるとしても、「仲良しであるなし」が教育の質の良し悪しを左右するような職場というのは信頼しにくいでしょう。
教師が個性的であるということは、子どもへの教育方針にさまざまなバリエーションと長所があり、それが有機的に関連し合って大きな成果を出すのでしょうが、子どもの情報共有は最低限の職務として実践すべきであり、それが相手の好き嫌いで制限されてしまうのは組織と職業倫理の問題でしょう。

***二回目のコメント***

細かいことですが、

>子どもには「親」という強大な価値観があります。
でも,往々にして個人の価値観なんて,多少ゆがんでるものなんですね。
世の中そんなに人格者ばっかりじゃない。
だから,子どもはいろんな人の,いろんな価値観にふれて大きくなった方がバランスがとれるんです。

という言葉と、

>「すずめさんの教育は押し付けだと思う。」
私はその通りだと思っています。

この言葉のつながり。
この文章を保護者に読ませることはできますか?

>他の教師たちも,十分にフォローしてくれてたんです。
最近はダメです。自分で叱りとばした子どもは,自分で拾って来なきゃいけない。

>学年の教師集団が仲良ければ,そんな情報は共有できます。
>15人もいる学年集団が,全員そうかと言えば,人間関係がぎくしゃくした中では必要なことも言えなくなる人だっているはず

この言葉を、同僚に読ませることができますか?

>学年の雰囲気をよく保つのは学年主任の大切な仕事の一つだ
>グループリーダーはそれを防ぐためにグループ内の潤滑剤として立ち回ることを要求される
>それと,年かさの教員たちの心配り。

この言葉を、関係がぎくしゃくしている学年の主任や「年かさの教員たち」に語りかけられますか?

>情報共有ができても,阿吽の呼吸や,行動を読んでカバーするというのは,それなりの人間関係ができないととてもできるものではありません。偶発的に仲良しなのではなく,仲良しにするんです。

仲が良いだけで、「それなりの人間関係」があるだけで、教育実践という場で「阿吽の呼吸や,行動を読んでカバーする」ことが
できるわけでもありません。
私はそこを指摘しています。
子どもたちが教師に不信をいだくのは、何も「教師同士が互いを信頼していない」「教師同士が仲良くない」場合だけとは限りません。
「教師同士が仲良く管理職や行政に反発している姿」に嫌悪感をもつ子どももたくさんいることは、「長い1週間」の中でもよくおわかりになったでしょう。
すべては教師が「子どもの立場で考えられるかどうか」にかかっています。

私が指摘したかったのは、すずめ先生個人のことではなく、つまり、
>「だからおまえはいつまで経っても信頼できないんだ」
ということではなく、
教師たちは「仲良し」を目指している=教師はみなそれぞれ一家言を持っており、「仲良し」であることは難しい=現実にはそういう現場が多い=先生たちは十分な情報交換ができていないのだろう・・・という不安や誤解を招くことを危惧しての発言です。

学級経営や学年経営でも、子どもに対して必要以上に「仲良くしろ」というプレッシャーをかけるといじめも増えるし、「仲良くできない」と自覚した子どもが不登校や非行に陥るケースがあるのです。
「仲良くする」という価値観の押しつけは望ましくありません。
大事なのは、「仲良くするために必要なことは何か」についてよく議論させることです。

教師が「仲良くするために必要なこと」=子どもの立場で常に考え、狭い「教育観」を超えた高いレベルの倫理観や職業意識をもつことです。

>何があったのかはわかりませんがとっても過剰反応されていると・・・

文月さんは非常に鋭い人権感覚をお持ちの方ですから、そういう方が危惧されているという事実自体をまず前向きに受け止められるべきだと思います。

最後にこれは私が非常に気になるのは、「教師も人間です」というフレーズで語られる「人間観」や「逃げ」の姿勢です。
これは個人的に「気になる」だけですが。

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学力調査の結果を生かす工夫

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 教育関係者でないとあまり知られていないかもしれない事業に、昨年度、文科省が実施した『学力調査の結果に基づく検証改善サイクルの確立に向けた実践研究』の委託研究事業があります。
 これは、都道府県・政令指定都市ごとに設置された検証改善委員会が実施する研究事業で、各自治体のHPでは公開されていると思います。
 文科省が評価した学校改善支援促進事業の内容が公開されているので、ここでいくつか紹介してみます。
 (「成果の普及」については省略します)

***福島県検証改善委員会***

①学力調査結果の詳細な分析と優れた実践をしている教師への聞き取り調査
・全国学力・学習状況調査の問題と結果の分析やこれまで実施してきた「福島県学力調査」結果との比較等により、より詳細な分析を行い課題を明確にする。
・優れた実践をしている教師の授業観について聞き取り調査を行い、本県の教師の「授業観」の振り返りの指針となるようにする。

②データ分析支援ソフトの開発
・各学校、各学級毎の実態や課題を把握できるようにするためにデータ分析支援ソフトを開発し、各小・中学校に配付する。

③県版「活用力向上のための指導資料」の作成
・「知識」と「活用」問題の関連を視野に入れた日々の授業改善に生かすことのできる具体的な指導資料を開発する。

④「知識」の習得と「活用」との学びの関連を図った「提案授業・授業研究会」の各学校への同時配信
・小・中学校の教師や大学教授等様々な立場の授業者が「提案授業・授業研究会」(5校予定)を行う。その映像を県内の小・中学校にWeb配信するとともに、DVDに収録して配付し、各学校の校内研修での具体的な授業改善の協議の活性化を促す。

⑤「授業改善サポートブック」の開発
・学力調査の分析及び開発した教材・資料等を「授業改善サポートブック」としてまとめ、県内の小中学校教師全員に配付し、校内研修での活用を促す。

***富山県検証改善委員会***

1.学力調査結果に基づく分析
①「学び合い」と学力との相関についての分析
・学校や学級の人間関係の満足度と学力の定着の状況等について分析し、具体的な改善支援策に生かす。

②「体験」と学力との相関についての分析
・体験の頻度と学力の定着の状況等について分析し、具体的な改善支援策に生かす。

③各学校、各地域の分析への支援
・検証改善委員会が独自に作成した学力調査結果の分析支援ソフトを各市町村教育委員会や各学校に配付し、詳細な課題の分析を行い、指導法等の改善を推進する。

2.「とやま型学力向上プログラム」の創造と発展
①課題別指導ヒント集「授業改善のためのかくし味」(学び合い編)による改善
・学び合う学習活動によって指導の成果が認められた実践事例を収集し、授業改善の手がかりを学力調査によって明らかになった課題について調査研究する。それをまとめ課題別ヒント集として全学級に配付し、児童生徒相互が教え合い、認め合い、支え合う学習活動の推進を図る。

②指導教材「美しいことばで伝え合おう」(話し合いDVD・音読CD)による改善
・意見発表の仕方の指導や友達の考えの聞き方の指導について、優れた成果がみられる学校を取材して、学び合う人間関係を醸成する学習指導の在り方を研究する。それをまとめて、コミュニケーション能力の向上を目指した指導教材として各学校に配付し、自分の考えを伝え合う学習活動の推進を図る。

③課題別指導ヒント集「授業改善のためのかくし味」(体験編)による改善
・体験を通して知識・技能等を活用する力を伸ばす実践事例についても調査研究する。それらをまとめて、課題別ヒント集として全学級に配付し、知識・技能等の習得と体験での活用の効果的な関連付けを目指す指導の推進を図る。

④指導教材「豊かな体験パワーアップシート」による改善
・学力・学習状況調査結果の分析から、体験と教科等での学習の関連を深めたり、体験の価値を高めたりする学習シートを指導教材として各学校に配付し、課題に応じて授業等での活用を推進し、知識・技能等を活用する力の育成を図る。

***香川県検証改善委員会***

1.調査結果を踏まえた指導方法の検証・改善を図る取組の促進
①市町教育委員会や学校の個々の実情に応じて具体的な指導方法の検証・改善を図るサイクルを構築し、教員の指導力の向上を図る。
・全国学力・学習状況調査等の結果を踏まえ、市町教育委員会や学校が行う、児童生徒の学力学習意欲・生活習慣の状況や課題等の把握・分析、明らかとなった課題に対する改善策についての検討、具体的な改善に向けた取組に対し、市町教育委員会の要請に応じて、大学教員や指導主事を市町教育委員会に派遣する。
必要に応じて学校訪問も行う。

②市町教育委員会及び学校における継続的な検証改善サイクルの確立に寄与する。
・各学校における児童生徒一人一人の改善につなげられるよう、派遣を通して得られた成果や効果的な取組を、県内全ての市町教育委員会及び学校に普及する。

2.「考える力」や「読む力」の育成を図るための指導方法の研究
 主として、「活用」に関する問題の分析を踏まえ、知識・技能を活用し考える過程を重視した指導法を研究する。
・観察・実験、調査など実生活と関連付けた指導の在り方、様々な文章や資料を読んで、自分の意見を述べたり書いたりする指導の在り方など、知識や技能を活用する力の育成を図る教材を、国語、算数・数学、理科、社会の各教科毎に、小中学校で各1教材作成する。
・指導法の改善に役立てる評価問題を、国調査や県調査の対象教科となっていない社会科の小学校第6学年と中学校第3学年用で作成する。

3.家庭学習の支援の在り方の研究
 児童生徒に家庭学習・基本的な生活習慣の改善を図るために、各学校の取組から効果をあげている児童生徒向け「学習の手引き」や保護者向け「学校だより」などの啓発資料を収集し提供する。

4.教育課程のPDCAサイクルの確立の支援
①市町教育委員会や各学校において、提供されたデータを効果的に活用できるよう、データの加工やグラフ作成等を支援するプログラムを開発する。
②プログラムの活用方法や、調査結果等の分析に基づく改善計画等の作成に関する研修会を開催する。

***福岡県検証改善委員会***

 福岡県学力向上パワーアップ事業実施内容
 学力向上を図る主体的な事業運営として、課題に応じた次の四つの事業を、学校が選択・実施できるようにする。

①小学校における専門的、組織的指導の充実を図るため、市町村教育委員会と協力し、小学校低・中学年の少人数指導、高学年の専科指導員の派遣する事業。

②国語科、算数・数学科における読解力、表現力、思考力に特化して、各学校の学習指導の充実を図るため、市町村教育委員会と協力し、各学校のリーダーとなるべき教員へ指導技術等を提供する研修会を開催する事業。

③学力に関して課題をもつ市町村教育委員会に対して、授業での補充的な学習や発展的な学習など、市町村教育委員会と協力し、きめ細かな指導のための支援を行うためのサポート指導員を派遣する事業。

④児童生徒の学ぶ意欲や学習習慣の定着、進路意識の向上、生活習慣の改善等を図るために、児童生徒を対象にし、大学生、保護者等を活用した土曜日セミナー等を開催する。

***仙台市検証改善委員会***

①教科指導のエキスパートを、課題のある学校へ長期的に派遣
・全国学力・学習状況調査と仙台市標準学力検査の結果とその分析により、教科指導に課題がある学校に教科指導のエキスパート(有識者:退職校長や大学退官者など)を長期的に派遣し、教員の指導改善のための支援と助言を行う。

②全国学力・学習状況調査と仙台市標準学力検査の分析結果に基づく教材開発
・これらの分析結果に基づき学習ドリル教材と学習ソフトを作成し、基礎基本の定着を目指すものだけでなく、思考力や判断力、表現力と知識活用能力の育成を図る教材を開発する。

③学校診断カルテ&処方箋〔仮称〕を学校に提供
・学習方略や学習環境、友人や教員との関係性などからる調査紙を作成し、学力調査との相関に基づき学習意欲等を因子分析などの分析手法により分析することで、学習方法や指導法の効果

***静岡市検証改善委員会***

 学力調査の結果を踏まえて、検証改善のモデルとなる学校の分析・改善の手法及び内容の収集
①静岡市教育委員会は、学力調査を活用した改善を推進するため、各学校に、検証改善のモデルとなる学校(改善支援対象校)を公募する。
・各学校は、静岡市検証改善委員会が提案する分析手法例(児童生徒による分析例、地域保護者による分析例、大学による分析例、校内における分析例)を参考に、必要に応じて応募する。これにより、各学校の組織を構築(校内検証改善委員会の設置)し、日常の教育活動とつなげた各校の分析・検証計画を整える。

②静岡市検証改善委員会は、分析・改善の調査研究を行うため、「校内検証改善委員会の独自の分析手法が明確であること、学力調査の結果等を踏まえた課題が明確であること、学校の地域的な特徴のバランスをとること」を基準に改善支援対象校を小学校・中学校併せて13校を選定する。これにより、分析手法例、改善対象校の課題を把握する。

③静岡市検証改善委員会は、事業を周知し人材を活用するともに具体的な支援を実施するため、市広報誌を利用し、「学力向上チームスタッフ」として専任指導員(原則として、教員免許を有する者)を登録公募し、40人程度を任用し研修を実施する。これにより指導の向上を図り、人的側面の支援を充実させる。

④静岡市検証改善委員会は、改善支援対象校の課題に応じた改善を充実させるため、専任指導員を派遣するとともに、指導主事による指導助言を実施する。専任指導員は、家庭学習支援(2校)、放課後学習支援(9校)、少人数指導支援(5校)、在宅学習支援(1校)、合宿支援(2校)、体力向上支援(1校)、読書力向上支援(1校)を実施する。これにより、効果の見られる改善事例の収集に努める。

***京都市検証改善委員会***

①学力向上フォローアップシステムの構築
・「教育指導計画」「学力向上プラン」の内容や「全国学力・学習状況調査」「学力定着調査」「学習確認プログラム」などの分析をもとにした「学校経営目標・支援シート」を学校毎に作成し,よりきめ細やかな分析と必要な支援内容を学校と教育委員会が共有・共通認識し,総体として取り組む「学力向上フォローアップシステム」を構築する。

②学校支援策の成果分析・フィードバック
・「学力向上フォローアップシステム」による学校現状評価・分析をもとに,課題別・グループ別の学校支援(カリキュラムマネジメント,教科指導の改善,学習指導ボランティアの活用等)を講じるとともに,その成果を分析し,次年度以降の効果的な支援策の再構築につなげる。

③新たな学習教材の開発
・「全国学力・学習状況調査」等の結果分析をもとに,新たな学習教材の開発も含めた義務教育9年間を繋ぐ基礎基本の定着に向けたシステムの構築を検討する。

***福岡市検証改善委員会***

 指定モデル校(8地域)において,「日々の授業改善」プログラム・家庭学習サポートプログラム・学校改善サポートプログラムの3つのプログラムからなる,福岡市「学び」総合プログラムによる,学校・地域(家庭)・行政との連携を一層強めた学力向上の取組についての実践研究を行い,その成果についての全市普及を図る。

 実施内容(モデル校での実践研究)

①「日々の授業改善プログラム(検証改善サイクルを位置付けた授業改善)
・「授業改善の手引き」等を作成(検証改善委員会)して,教材や指導法・指導体制の工夫についての実践研究に取り組む。
・採点等の授業に伴う事務処理を行う授業サポーターをモデル校に設置し,教員が授業改善に一層専念できるようにする。
・妥当性・信頼性のある定期テストや家庭学習とも連動した教材を導入して,検証改善サイクルを確立させる。

②家庭学習サポートプログラム(宿題及び自学等の学習習慣を育む地域の支援体制づくり)
・学校の空き教室や公民館・集会所等に家庭学習サポート教室を設置して,家庭での習慣作りが困難な児童生徒に対して,家庭学習サポーターによる2段階(宿題を必ず仕上げる習慣づくりから自学力育成サポート)の学習支援をする。

③学校改善サポートプログラム
・モデル校で使用する教材及びテスト等を検討・選定するとともに,授業サポーター,家庭学習サポーターへの研修を行う。
・学校改善アドバイザーによる学校訪問(各地域2回)を実施して,実践研究の進捗状況の確認と指導助言を行う。
・家庭学習教材の提供と,家庭学習サポーターの地域への設置,支援体制確立のための研修会を開催する。
実践研究の成果や課題を集約し,関係機関等を含め全市への啓発を図るための資料を作成する。

***福井県検証改善委員会***

①学力調査の結果をふまえた学校改善の支援
・全小・中学校において、学力調査の結果に基づき「学力向上プラン」を作成し、指導力を高めるための取組みを充実・強化していく。
・地域または学校を指定し、学力向上プランの作成や改善に向けての取組みにあたり、支援員を配置するとともに、大学教員や指導主事等の講師を派遣して、指導・助言をする。また、他校を視察する機会を設ける。
・各学校の作成した「学力向上プラン」を収集し、成果をあげている事例を紹介・普及する。

②基礎・基本を定着させるための教材の作成
・児童の漢字学習に対する興味・関心を高めたり、効果的に漢字を指導したりするための教材を作成する。
・各学校で取り組んでいる基礎・基本を定着させるための実践例を収集し、基礎・基本を充実させるステップアップ算数問題集を作成する。

***山梨県検証改善委員会***

①大学との連携による活用型学習ワークシートの開発
・活用型学習のワークシートを開発し,ホームページ(HP)上にアップする。各学校では,このワークシートをダウンロードし,授業での活用を図る。さらに各問題の趣旨やねらい,できない子への支援方法などを動画と音声によって有識者らが解説することで,活用型学習への理解を深める。

②基礎基本の定着を目的とした反復・習熟度プリントの配信
・インターネットを利用した学習システムを導入し,既習内容の確実な習得と主体的な学習習慣を身に付けられるようにする。

③「活用型」授業の創造に向けた「国語科授業改善の手引き」の作成
・活用型授業事例や教育効果などをリーフレットにまとめ,「活用型」授業の具体的なイメージを各教師がもてるようにする。

④リーフレット「地域・家庭からの学力」の作成
・「家庭での学力の理解」が学力向上の鍵である。このため,社会教育課との連絡・連携を図りながら「学力の正しい理解とその向上」を内容としたリーフレットを作成し,「確かな学力」の向上を目指していく。

⑤「授業カウンセラー」の導入
・教師同士の情報交換や刺激の少ない教師に具体的な授業提案や指導方法をアドバイスし,個々の教師の授業力を高める。これらの5つを短期の取組とするとともに,中長期の取組との連携を図り効果的に進めていく計画である。

***奈良県検証改善委員会***

①授業や家庭学習等で活用する学習資料集「わくわくワーク」の作成・配付
・全国学力・学習状況調査の結果からは、知識に関する問題は概ね満足できる状況であったと考えられるが、正答率70パーセントを下回る児童生徒も存在しており、より一層基礎・基本の確実な定着を図る取組が必要である。また、多くの児童生徒に知識や技能を「活用」することに課題があるということも分かった。そこで、基礎・基本にかかわる力をさらに定着させることを目的とした学校や家庭での繰り返し学習等に活用できるワークシート集(問題集)を作成する。

②教員の意識改革(授業改革)に向けての啓発資料(クリアフォルダ)の作成・配付
・知識・技能等を実生活の様々な場面に活用する力や様々な課題解決のための構想を立て、実践し、評価・改善する力を身につけさせることの重要性等を解説した資料を作成し、全教員に配付する。なお、その資料が常に教員の目に触れるようクリアホルダーに印刷し、配付することで、より一層の浸透を図る。さらに、クリアホルダーの一部には、具体的な授業の組み立てがイメージできるような内容も加え、授業改善につなげる。

③「全国学力・学習状況調査の結果分析・活用の手引き」の作成、配付
・各学校において、調査結果をきちんと分析、活用して学校の指導方針や指導計画の作成に生かされるようにするため、データの解釈や分析、考察の過程や考え方の手引き書を作成し、各学校に配付する。

***島根県検証改善委員会***

①研修プログラムの立案
・調査結果等から、特に算数・数学に課題が多く見られたため、算数・数学の校内研修および研修講座等の充実に向けた調査研究を行い、研修プログラムの立案を行う。

②学習習慣の確立に向けた学校への支援
・島根県は、平成19年度から学習習慣の確立に向けた「学習環境構築事業」を実施し、「学習プリント配信システム」を構築し、各学校が活用できる環境を整えた。そのシステムのより効果的な活用のため、優れた実践を支援し、その成果の普及を図る。

③学力定着確認チャートプログラムの開発
・全国や県との比較により、各学校が自校及び児童生徒一人一人の強みや弱みを確認でき、課題解決のための資料を作成するプログラム等を開発し、学校や市町村教育委員会の学力向上策の改善を促す。(来年度も継続して使用できる仕様にする。)

④学力向上プラン作成への支援
・市町村教育委員会が学校支援の方針を定め、また、学校がそれぞれの課題解決に向けた学力向上プラン等を作成、実施するにあたり、助言を行うため、委員または作業部員の派遣を行う。

⑤啓発用パンフレットの作成
・本委員会が報告書にまとめた学校改善支援プランをわかりやすくパンフレットにまとめ、全教職員に配付し、学校における学力向上策の改善を促す。

***宮崎県検証改善委員会***

①小・中学校の国語、算数・数学における課題解決を図る授業研究会の実施

②授業力向上研修会の実施
・市町村教育委員会や学校の研修会に大学教員等の講師を派遣し、習熟度別の少人数指導の在り方や読解力指導などの授業力の向上を図る。

③各教科研究団体への支援の実施
・県内の研究団体に研究助成を行い、その成果を取りまとめ公開する。

④学力向上サポーターの配置
・改善計画書の内容に実効性が見られ、改善への見通しが十分にあるなど有効な手立てを有している学校に対して、学力向上サポーターによる人的支援を行い、学力向上体制を整備する。

⑤優れた実践校の取組の効果的な活用
・効果的な実践を行っている学校の取組を実践事例集としてまとめ、県内各小中学校へ配付し、普及啓発を図る。

⑥デジタル資料室(仮称)の開設
・「課題解決に向けた授業研究会」や「過去の学力調査の分析結果」等をデジタル資料としてまとめ、県内どこからでも活用できるよう環境整備を行う。

⑦「こんな子どもが学力が伸びている学力向上10のポイント」の配付
 学力との相関関係が大きい質問紙調査の結果を10項目選び出し全小中学校に配付する。

***神戸市検証改善委員会***

 検証改善委員会内に三つのワーキングチームを設置し、連携協力大学等の支援も得ながら、以下の内容について実施する。

①教員のさらなる授業力の強化のための算数・数学の「重点指導事項集」の作成
・今回の全国調査の結果において課題が明らかとなった領域や単元を含めて、教員対象の「重点指導事項集」を作成する。算数・数学科を対象とし、基礎的・基本的な知識・技能のいっそうの定着に資する内容とする。

②より効果的な定着を目指す自主学習用教材の作成
・児童生徒が学習した授業内容を、授業時間外でより効果的に反復・定着できるよう、国語科、算数・数学科における自主学習用教材を開発する。朝の学習、放課後の学習、家庭での学習等での自主学習用教材として位置づけ、活用を図る。内容的には、基礎的・基本的な知識・技能の習得を主眼としつつ、可能な限り、思考力・判断力・表現力の育成につながるような要素も盛り込んでいく。

③児童生徒、保護者を対象とする「学習・生活の手引き」の作成
・家庭での生活習慣や学習習慣づくりのポイント、予習や復習に取り組む際の注意点、教科毎の学習の進め方、等について具体的に記載したものとする。リーフレット形式にし、全保護者に配付する。

④学力調査の結果等の分析より作成した改善計画等に基づく取組のうち、成果をあげている事例を収集し、最終報告書で普及を図る。

「教科係」の生徒ができること

 生徒からは「主体的主体性」が生かせる「学校における新しい活動」に関して、さまざまなアイデアが寄せられるものです。
 
 教師の負担が増えそうな企画はつぶされてしまう恐れがありますが、次のような提案についてはいかがでしょう。具体的な方策を直接聞いたわけではありませんが、すばらしい趣旨の提案だと思います。

 「生徒と先生が授業のことについて話し合いをする機会を設ける

 「日直」という役割の生徒がいる学校は多いでしょう。
 中には、「1日交代」ではなくて、「1週間交代」の仕組みをもっている学校があるかもしれません。
 
 日直さんの仕事の反省や引き継ぎは、どのように実施されているでしょう。
 担任と当日の日直、次の日の日直の三者でしょうか。そこに学級委員のような役割の生徒は入っているでしょうか。
 長くても5分ですんでしまうのが、この「反省と引き継ぎ」の時間です。

 これを、中学校で言えば、たとえば「教科の係」と教科担任の間で実施することを考えてみたらどうでしょう。

 中学校の「教科係」は、次の授業で必要な持ち物を連絡したり、提出物を集めたり、当日の教科担任の授業の道具を用意したり、運んだり。「朝自習」がはやっていた時代には、そのプリントの配布や回収、答え合わせなど。

 これらのほとんどは、「頭を使うことがない」仕事です。

 そこで、教科係に少し「頭を使う」役割をもたせたらどうか、という提案が考えられますね。

 たとえば、毎週、放課後等に教科担任との面接の時間を設けて、その週の重点的な内容の理解はどうだったか、授業はわかりやすかったか、提出物の状況はどうか、積極的に発言したり課題をやっていた生徒はだれか、そんなことを話し合う。

 教科担任は、クラスごとの理解度や達成度をおおむね把握することができますし、教科の係と信頼関係を強く結べば「この時間にだれだれさんが落ち込んでいた理由」など、学年所属でないとなかなか入手できない情報にもふれる可能性が増えてきます。
 
 さらに構想をふくらませれば、教科係を「学習委員会」として再編・格上げして、「定期テスト予想問題づくり」に取り組ませたり、学習委員会独自の「学習コンテスト」(簡単なのは、漢字コンテストや計算コンテスト、スペリングコンテストなど)を企画したり、・・・。

 「生徒主導」の学力向上プログラムというのも出現するかもしれません。

 授業は「生徒と教師の間でつくられる」とは言われてきましたが、それは基本的に授業時間でのことで、授業の構想から評価まで生徒を取り込むところまで実現できている学校は少ないでしょう。
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教育現場でクリエイティブな仕事が好まれない理由

 公務員には、受身的献身的な仕事が求められるのは当然だとしても、学校現場で「指示待ち」「命令待ち」の姿勢の教師ばかりだと教育にはなりません。
 受身的ではあっても常に主体性が求められます。

 しかし、「主体的主体性」=「やる気」「チャレンジ精神」が簡単に発揮できる職場かというと、疑問があります。
 
 多くの教師は、「そんなことに使える時間がない」と答えるのではないでしょうか。
 しかし、「時間がない」というのは本当でしょうか。
 「時間があれば」できるのでしょうか。

 身近なところでいうと、各学校には、それぞれの学校の実態に応じた「学力向上のための取り組み」を立案して実践することが求められています。

 「成果も出ているので、今まで通りで十分である」という学校も多いでしょうが、そういう学校では、「欲を出せば何ができるか」という余裕の「取り組み」まで視野に入ってきます。

 「学力向上策など考えるゆとりがないから今できることをやるしかない」という学校でも、「担任の役割や負担を減らす施策」「今やっていることの根本的な見直し」などのアイデアを出せればその次の策が打てるわけです。

 本当に教師には「時間がない」のか?
 「本校の教師たちは毎日めいいっぱいのところで仕事をしています
と言っている校長などは、まず一番に疑ってかかるべきでしょう。

 「主体的主体性」にストップをかけているのは管理職だけではなく、同僚である場合があります。

 学校で、通常の分掌とは別の「プロジェクトチーム」を募集したとき、さっと人が集まる学校は、きっと「やりがいのある職場」でしょうが、そういう仕組みや雰囲気がない学校では、教務部とか研究部などに仕事がふられて、主任がふてくされるか中で仕事のおしつけあいが行われ、結局は主任か、「断れないタイプ」の教師がそれを抱えることになります。

 こういう学校の場合は、教師に「やる気」「主体的主体性」を与えるのは、同僚や管理職ではなくて、「子ども」です。
 学校改善・学校改革の急所は、「子どもの目」「子どもの実践」となります。
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教育の美しさと白々しさ

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 教育失敗学には、「美しさ」「情緒」が足りない。
 これについては私も自覚しています。

 実践自体が非常に泥臭いものですし、毎日が試行錯誤です。
 唯一の救いは今、目の前にいる子どもたちの表情や態度に「ゆとり」があることでしょうか。
 その「ゆとり」にも、「美しいゆとり」と「醜いゆとり」があり、後者をその場でつぶしていく忙しさはありますが、根本にあるのは「ゆとり」なので、指導にも即時完結的ですむ「ゆとり」があります。
 
 記事の内容自体は、「子どもの立場で常に考える」という論理で主張を貫徹したいこと、伸びることができないでいる子どもの現状を憂い、情緒的な痛みを感じていることが、発信の動機付けになっており、教育実践の勇気・誠実さ・正義感・慈愛・忍耐・礼節・名誉等を感動の物語とともに発信しているわけではないので、読まれる立場としてはあまりよい印象がない、ということはよくわかります。

 教師の資質・能力の中で、「美しいものへの感動」を強く抱くことができることは、教師がそれを子どもたちに伝えなければならない立場の「大人」であることを考えると、非常に重要であり、「論理」を重視してきたコンピテンシー、ロールモデルの中にきちんと組み込んでいかなければならない要素になることは、私も強く自覚するようになりました。記事の中で表現できるかどうかは別ですが・・・。
 媚びを売るような白々しさを目の当たりにしてきた悲しさもなかなか表現しにくいものです。

 数学者・藤原正彦の話から・・・
 

美しいものを愛でそれに感動することも大切である。この情緒は一般に考えられているよりはるかに重要なものと思う。数学者にとってなら、これは最重要と言ってよい。美感や調和感なくしては、いくら論理的思考力が抜群であっても、どちらの方向に論理を進めてよいのかわからない。数学研究とは、高い山の頂にある美しい花を取りに行くようなものだから、その美しさに感動しなければ、そもそも研究する気にさえなれない。美的感受性の重要性は、私の接した自然科学者のほとんどが、その分野でも同様に大切と言ったから、自然科学全般にあてはまるのだろう。
 

受身的主体性と主体的主体性

 多くの企業では、採用の段階で「主体性が高い人物」を選ぶ方法が精緻化されているそうですが、入社してしばらくたってしまうと、上司が「近頃の若い社員は主体性がなくて困る」とぼやいているとも言います。

 それは、採用プロセスの問題よりも、入社後の環境によるものではないかという予想が、当たっているのではないかと考えられます。
 主体性を抑制しながら、「主体性がなくて困る」と言っているのではないか、ということです。

 「それをいうのは10年早い」「石の上にも3年」「入社したてのくせに」「そういうことはもっと上の立場になってからいうものだ」
 そういう言葉を耳にしたことはないでしょうか。

 学校教育のように、目的に合わせて合理的に設計されているプログラムに沿って、その趣旨をよく理解し指導力の高い教師に長期間トレーニングを受けると、教育を受けている年数と達成レベルが相関関係になります。
 料理人や美容師など、技術が要求される職種も同様でしょう。
 自分流より、専門家の、熟練したコーチのトレーニングを受ける方が、力が早く身に付くでしょう。

 ただ、能の「守・破・離」の「」のトレーニングだけでは、「主体的な意思」は向上しにくいわけです。

 教科の授業というのは、時間や内容の枠が決まっているために、「主体性」を重視するとは言いながら、実際には縛りのあるいわば「受身的主体性」しか発揮できません。

 授業が終わった後、質問を待つ生徒で囲まれるのが理想かもしれませんが、それでも小さな目標のレールに沿った範囲での「主体性」が発揮されているにすぎません。

 「」そして「」の段階を学校教育の場でつくり出すのはなかなか難しいかもしれませんが、「既存のルールの保持」「過去の実践の繰り返し」だけでは、「主体的主体性」を身に付けさせるのは困難でしょう。
 
 私が「生徒力」と呼んで育てたい資質・能力は、狭い意味の学力だけではもちろんなくて、「過去の踏襲」ではなく、新しい何かにチャレンジする創意が発揮できる力も含んだ欲ばりなものです。

 以下に掲げた参考図書をヒントに、生徒に何ができるかを考えていきたいと思います。

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 参考図書:高間邦男著『組織を変える「仕掛け」 正解なき時代のリーダーシップとは」(光文社新書)

学力調査結果の市町村別開示をめぐって

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 全国学力調査市町村別成績開示がしばらく話題となりそうです。
 この問題に対する立場・態度は、賛成反対と大きく二つに分かれるため、何を根拠にその立場をとるかという部分を含め、発言者の個性がわかりやすく反映される話題です。

 大阪府では、賛成の立場の市町村が開示され、反対する市町村は開示されませんでした。
 府民の「知る権利」の保障を第一に考えるか、開示によるデメリットを第一に考えるかが判断の分かれ目でしょう。

 反対理由には、「競争の過熱化」「単なるテスト対策の横行」「地域の序列化」が主なものとして過去から挙がっております。
 新聞でコメントを求められる大学教師らは色がはっきりしているので、極端な主張・・・「地域全体の荒廃につながりかねない」・・・まで出てきているようです。

 私の考えとしては、この「反対理由」として挙がっているものが、学校や教師の信頼性の低さを前提にしていると感じ、非常に強い反発を覚えている一面があり、一方で絶対評価になってから、信頼性に課題のある評価・評定の問題が生じ、実際のところ学力が高いのか、低いのか、わからない、全国との比較など、やはり相対的な位置を知ることで、ある程度の目安になる・・・という考え方から、「知る権利」の保障を重視すべき、というスタンスをとっています。

 仮に、私の子どもの数学の評定はとてもいい(とても悪い)のだが、全国の調査の結果はちょうど平均点のレベルだった。
 学校の評定の付け方に問題はないのか?
 
 高校の側からすると、蓄積されたデータから見ても、どうもこの自治体の子どもは、評定に比べて入試得点が低い傾向があった。全国の学力調査の結果も見ても同じことが言えそうだ。
 評価・評定の在り方に問題があるのではないか?
 客観的で信頼性のあるデータをもとにした公正・公平な入学選抜が実施できていないのではないか?

 そういう話題が出てくるかもしれません。

 一部の教師からは「家庭環境」「経済的背景」に学力の高低の根拠を見つけたい=自分に負担がこないようにしたいという欲求をもっていることがその発言からありありと伝わってきますが、仮にそれらの問題が低い学力に結びついているとしたら、そういう課題も乗り越えられるような学力向上策がとられるべきで、「あなたの家庭は貧しいのだから学力は低くても仕方がない」とでも言いそうな教師の逃げを許してはいけない・・・それが保護者や子どもの立場からすれば当然の考え方でしょう。

 たとえば大阪府の中でも学力調査の結果が芳しくないことがわかった自治体があるとしましょう。
 その自治体が、その結果から「ダメな地域」とレッテルを貼られてしまったとしましょう。
 その自治体は、どうすればよいのですか。
 それ以外の自治体はどうすればよいのでしょうか。

 開示反対派は、「犯人探しが始まる」というニュアンスの発言をしています。
 では、ある学校が「犯人」である、ということがわかったとしましょう。
 その学校は、どうすればよいのですか。
 その他の学校は、どうすればよいのでしょうか。

 「学力調査の結果は芳しくなくても、私の学校にはこれだけの長所があるんですよ」という「個性のアピール」をして、「人間の価値はテストで測れるような学力で決まるものではない」という正論を主張するのか。

 「学力調査の結果を厳粛に受けとめ、日常の生活指導も含めた学習指導・授業の改善に全校態勢で取り組む決意」を表明し、実践していくのか。

 教育行政側のスタンスとしてはどうでしょう。
 成果主義による予算配分は「教育的でない」にしても、結果として課題のあることが見えた学校には逆に(外部からも含めて)人材の供給に力を入れるという選択肢もとれるでしょう。

 私は、「よほど強い危機感が身近にせまらないと本腰を入れない」のは教師だけでなく日本人一般の性質だと思っているので、「教育を改革する」という意味では、厳しい現実的な数字をつきつけることの効果は大きいと考えています。

 「ピンチがきたときこそ大きな変革のチャンス」であることは、教育の世界だけにあてはまることではないでしょう。

 賛成・反対という振り子型反応ではなく、「これを機会に学力調査の目的や方法をより精査していく」という螺旋型発展に結びつきそうな意見は、傾聴するに値するとも思います。 
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因果関係の説明は容易にはできない

 教育政策に限らず、現行の政策や、新たに実施される施策が必ずしも成果を確約するものではないことは、歴史が証明しています。

  教育ブログの中には、AをすればBになった、CとDを進めたのでEになった・・・のような、単純な原因の決めつけが散見されますが、算数の問題や漢字の勉強のこつと違って、社会で起こっているさまざまな出来事の因果関係はそう簡単に判断できるものではありません。

 問題は、なぜ失敗するのか、失敗したのかということのふり返りを徹底的に行わないことにあると思います。
 なぜ「徹底的に行わない」かというと、自分に都合が悪いことを恐れるからでしょう。

 子どもには学力向上の必須条件に、「テストのふり返り」があることをいつも強調していますが、子どもも大人と同様、できが悪いテストの答案など、見たくもないものであろうことは、共感できます。

 しかし、実力差はどこで開いてしまうのかというと、テストのやり直しをしっかりするかどうか。これに尽きます。
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 もう一度同じテストをしたら、次は高得点、できれば満点がとれるようにすることが、実は教師の側にとっては非常に重要な指導原則といってよいことだと考えられます。

 定期考査の結果というのは、評定をつける上でかなりのウェートを占める評価資料になるわけですが、学校は子どもの学力を定着させ、伸ばし、高めるところなので、テストすればそれで評価して終わり、評定を出せば責任を果たした、そういうものではないはずです。

 教師たちは、よく「できの良い学年」とか「できの悪い学年」とか勝手なイメージを先行させ、現状を理解したつもりになったり、予言の自己成就を促してしまったりすることがありますが、すずめ先生のブログでは「イメージを良い意味で裏切る結果」が全国の学力調査の結果で出たそうで、学力調査には、そういう「意外な成果」もあるものだと気付かされました。 

「わかりやすさ」の罠

 今回の記事は、開設以来777番目となりました。
 別に回数等に目標があるわけではないですが、次の節目は868番目になるでしょうか。

 今日は、小学校の社会科の授業を参観された先生と、「わかりやすさ」についてお話する機会がありました。

 小学校では、1枚の資料を読み解くことで、ある事実や因果関係等を理解させることが一般的なのでしょうが、社会のできごとが「わかりやすく」理解されるということは、果たしてよいことなのかどうか。

 特に受験を意識したトレーニングを受けた子どもに多いと聞きますが、子どもはすぐに「正解」「正答」を求めたり、知りたがったりします。

 算数には正解がありますが、果たして国語や社会で「正解」「だれにとってもこれで納得」というものを求め続けてよいのかどうか。

 藤原正彦著「祖国とは国語」(新潮文庫)に収められている「国語教育絶対論」で、著者は次のように述べています。
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日本人が論理的思考や表現を苦手とすることは今日も変わらない。・・・中略・・・
 数学を学んでも「論理」が育たないのは、数学の論理が現実世界の論理と甚だしく違うからである。数学における論理は真(正当性100%)か、偽(正当性0%)の二つしかない。真白か真黒かの世界である。現実世界には、絶対的な真も絶対的な偽も存在しない。すべては灰色である。殺人でさえ真黒ではない。死刑がある。殺人は真黒に限りなく近い灰色である。
 そのうえ、数学には公理という万人共通の規約があり、そこからすべての議論は出発する。現実世界には公理はない。すべての人間がそれぞれの公理を用いていると言ってよい。
 現実世界の「論理」とは、普遍性のない前提から出発し、灰色の道をたどる、というきわめて頼りないものである。そこでは思考の正当性より説得力のある表現が重要である。すなわち、「論理」を育てるには、数学より筋道を立てて表現する技術の習得が大切ということになる。(以降、「国語教育」を重視する著者の論に続く)

 授業の内容をうかがっていると、小学生段階なので、非常に限定された条件の中では正しいように思える結論になっていたようですが、実は使った資料がその結論を導く目的でつくられていたものであることに気付けば、「本当はどうだったんだろう」「真実は何なのか」という「探求心」が生まれたものと考えられます。

 簡単な説明で納得してしまい、「正解がわかったのだからもういいだろう」という「行き止まり」思考の授業の積み重ねをどう捉えたらよいか、考えているところです。

規範意識と国語、算数・数学の学力の相関

[学力テスト] ブログ村キーワード
 
 『全国学力・学習状況調査』の東京都の調査結果で、「規範意識と学力」の相関がまとめられていました。
 各学校では、平均と同様な傾向があるのでしょうか。
 
 平成20年度 全国学力・学習状況調査の結果について

 「学校のきまりを守っていますか」(小学生)という問いの答えと国語の正答率の関係を見ると、以下のようになっています。(算数も同様)

  国語のA問題(小6)

 当てはまる(守っている)
  全体の28%(・・・少ない?)で、正答率は71%

 どちらかといえば、当てはまる
  全体の56%で、正答率は69%

 どちらかといえば、当てはまらない
  全体の14%で、正答率は63%

  国語のB問題(小6) 

 当てはまる(守っている)
  正答率は57%

 どちらかといえば、当てはまる
  正答率は55%

 どちらかといえば、当てはまらない
  正答率は47%

 肯定的な回答と、否定的な回答をした児童では、得点にかなりの開きがあります。

 中学校の場合では、特に数学の得点について、開きが大きくなっています。
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東京都による全国学力調査の結果分析

[学力テスト] ブログ村キーワード
 「文部科学省が、児童・生徒一人一人の学習改善や学習意欲の向上につなげることを目的として実施した、『全国学力・学習状況調査』」の東京都の調査結果を東京都教育委員会がまとめて発表しています。
 誤答分析なども行われているので、現場の教師の参考にもなるでしょう。
 
 平成20年度 全国学力・学習状況調査の結果について

 あくまでも平均値としてのデータですが、たとえば小学生の家庭学習時間(学校の授業時間以外に、月~金曜日1日あたりどのくらい勉強をしているか)と国語や算数の正答率の関係を見ると、明らかな相関が見られます。
 なお、B問題についても同様の結果です。

  国語のA問題(小6)

 3時間以上勉強している
  全体の23%で、正答率は81%

 1時間以上、2時間未満
  全体の25%で、正答率は67%

 30分未満(全くしないは除く)
  全体の12%で、正答率は59%

  算数のA問題(小6) 

 3時間以上勉強している
  正答率は86%

 1時間以上、2時間未満
  正答率は73%

 30分未満(全くしないは除く)
  正答率は65%

 *A問題とは、「身に付けておかなければ後の学年等の学習内容に影響を及ぼす内容」「実生活において不可欠であり、常に活用できるようになっていることが望ましい知識・技能など」を指す。

 中学校の場合には、国語については家庭学習時間と正答率との相関はそれほどきつくないのですが、数学では家庭学習時間が1時間未満の生徒(全体の約3分の1)の正答率がA問題で60%以下と、明確な数字が出ています。

 各学校ではこの数字と校内の定期考査の得点との相関をとるなどして、より具体的な実態の把握に生かすことができそうです。
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「透過性」のある観点別評価

 PISAやフィンランド型、全国学力調査等を通して、かねてより主張していることですが、「観点別学習状況評価」への見直しが進むことになると考えています。

 4つの観点(国語は5つ)は、子どもの学力を4つの「側面」から見るものですが、それを見ているとき、実は別の「側面」にある能力も透過して見えているのが普通です。

 たとえば「知識・理解」の側面から見れば、このことがこのように理解できているということは、進んで自分の頭で考え、諸資料をもとに公正な判断を下していることがわかるなど、「透過性」のある評価は学力把握の物理的負担を減らしてくれる効果があります。

 「自分の言葉で語れる能力」があるかどうかは、語らせてみなければわからないように、どの側面から「透過」させるかが評価者としての力量の表れになってきます。

 「透過して見ている」ということは、4つの観点はそれを単純に足し算すれば総合的な評価が下せるかというと、決してそうではありません。

 それなのに、現場では、あえて4つの観点に分かれるような、透過性のない評価をすることによって、信頼性を向上させようと努力している節があります。
 本末転倒と言ってよいでしょう。

 教師の能力評価でも、このような「透過性」のある観点というものが存在するかもしれません。
 それは何でしょうか。
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学年経営と学級担任

 「生徒の学校生活を最も理解しているのは学級担任である」と、学級担任としての自覚と自信を促す記事が紹介されている(TBをいただいた)教育ブログに、また性懲りもなく、以下のようなコメントをつけさせていただきました。
 管理者の方には趣旨をご理解をいただき、また私の方も記事から読み取れなかった趣旨を伺うことができて安心しているところです。 

********************
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(私のコメント・・・ここでは、一部太文字にしました。( )内は補足です。)
 まだこの記事だけしか読ませて頂いておりませんが、中学版「学級王国」の危険性を感じたのでコメントさせていただきます。

>学級担任は、授業、特活、道徳、給食時間や昼休み、部活動と、様々な場面で生徒を観察している

とありますが、中学校で担任クラスの生徒(自分が顧問でない部活に所属している生徒で)と過ごしている時間は、1週間で何時間になるでしょうか。
 時間の長さだけで言うと、生徒とその所属する部活動の顧問の方が長くなる可能性がありますね。

>生徒の学校生活を最も理解しているのは学級担任である

 総合的な理解はもちろん(学級担任が)進んで行う必要がありますが、大事なのは学年や学校の態勢として、必要な情報が学年や学級担任に集まる、そしてそれを担任だけでなく学年の教諭がそれを共有しあう問題が発生した場合は、その情報収集・意見聴取を急ぐ、そういうシステムが重要であり、むしろ「学級担任」を「学年所属の教諭」とした方が保護者の信頼が増すような気がします。

 中学校の場合は「学級担任」より「部活動の顧問」と子ども(及び保護者)が強い信頼関係を結んでいる場合もあり、それが事実なのにあえて「自分が学校で一番よく理解している」と言い切ることは記事にもあったように余計に不信感を高める危険性があるように思います。

 面談では、担任に集まった情報を客観的に分析したり、担任の目で見た具体的なエピソードを添えたりして(この点については、管理者の方が記事でふれられていました)、「主観性」の排除に心がけることを(特に子どもとの関係があまり深くない担任教師の場合は)重視することがポイントではないでしょうか。
****************

 「同僚性が大事だ」と取り立てて主張する教師に限って、学年内での情報の共有を怠っているということもあり得ます。
 「教師は互いに認め合い、信頼し合うべきだ」との主張は、互いに干渉し合わない(放っておく)=干渉してほしくない、意見をよこしてほしくない、批判されたくないから・・・ことをねらいとしているケースも考えられます。

 学校経営では教務主任生活指導主任などをつとめる「主幹」が大切ですが、中学校では学年経営が冴えていることが「よい学校」となる条件と言えるかもしれません。
 そういう意味で、学年主任の役割というものは、ある意味で「主幹」よりとても重要な部分があるというのが私の考えです。
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若手を「大人」にする社内「内閣」制度

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 新聞などのマスコミに対しては、「新しいニュースを報じるだけ報じて、その後のことは(ニュース性がなければ)おかまいなし」という性格があることをいつか批判したことがありましたが、日本経済新聞には「追跡この改革」という記事があり、企業の改革後の動きを特集しています。
 2008年8月25日の記事では、若手社員を「大人」にする=社会への視野を広げ、自立心を養うための社内「内閣」(シャドーキャビネット=影の内閣)立ち上げ後の様子が取り上げられていました。
 
 影の内閣は以下の13省があり、社内公募で当選すれば「副大臣」「補佐官」になります(執行役員クラスが「大臣」をつとめている)。
 
 社会保障
 医療
 教育
 環境
 農業
 起業支援
 規制緩和
 地域活性
 グローバル就労
 障害者就労
 シニア就労
 若年層就労
 女性就労

 若い社員が「政府と同じ目線で物事を考える」のがミソで、本物の内閣に政策提言をしたことにもふれられていました。

 経験した社員の感想に、「新聞を読んでもテレビを見ても、どこに問題の本質があるのかを探すようになった」「データを収集し、理論づけをして、プレゼンするうちに、自助自立の姿勢が身に付く」というものもあり、効果のほどがうかがえます。

 株式上場から7年のパソナは、従業員の平均年齢が32歳と、若い社員の多い企業であり、その成熟が大きな課題と認識しているようです。

 教育現場の平均年齢はもっと高いのですが、大量退職・大量採用時代を控えて、若い教員の研修の在り方にも検討を加えていく必要があるかもしれません。
 30歳くらいまでの「若手」をもっと「大人」にする研修・・・。
 免許更新講習10年経験者研修も大切ですが、1校目の勤務を終える3~6年の頃の研修でより実践的なものはできないでしょうか。
 東京都は一つ大事な研究・研修の機会を捨ててしまいましたが・・・。

若い教師にとって恵まれた職場環境とは?

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 まずろさんのブログの中で、「教師への批判」について、しょうさんやPsycheと意見交換をしています。
 このような学校改善を目指した対話が、校内で展開されているのが理想的なのですが。
 私のコメントの一部をここにも掲載しておきます。

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 私の主張をわかりやすく表現すれば、教師として「認める」「認め合う」ために「批判する」「批判し合う」ということでしょう。

 私の実感では、「お前を教師として認めるかどうか、お前が教師として認められるかどうかは、すべてその実践にかかっているぞ」という無言のプレッシャーが先輩教師からあり、教師として子どものために頑張ろうという意欲はたくさんもっているつもりでしたが、余計に頑張らねば、という気持ちになりました。

 40歳代前半くらいまでの教師は、すぐ上の教師たちからこのような「教育」をけっこう受けてきたような気がしますが、30歳代半ばくらいから下の人はいかかでしょうか。

 これは、そもそもこのあたりが採用が減少している年齢層であるために、昔はどしっとして座っていればよかった年配の教師でも、以前と同じように「教育」をし続けなければならないことを意味しています。

 そういうことができた教師の多くは管理職になっているので、その立場でも「教育」しなければなりません。

 私が主張しているのが、そこで「能力開発型の人事考課制度」をフルに利用するということです。
 なかにはその制度が同僚性を失わせていると反対している人がいますが、「同僚性を高める」「若い教師を育てる」ことを職務目標にさせればよいわけです。

 現に指導力不足が子どもに大きな影響を与えている教師などの場合、「信頼しているから・・・」などとは言っていられません。
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 若い先生方に聞いてみたいのですが、現場では

お前を教師として認めるかどうか、お前が教師として認められるかどうかは、すべてその実践にかかっているぞ

というプレッシャーがかかっていますか?
 あまり大きな声では言えないのですが、今私が勤務している学校では、生徒からこのプレッシャーが強力にかかっています。

 そういう意味で、さすがに1校目ではきついかもしれませんが、2校目には、そういうプレッシャーがかかる学校を経験できると、教師としてより大きく成長できるような気がします。
 私の学校はそういうタイプではないのですが、「生活指導困難校」は、すべての教師がそのプレッシャーと常に対峙しています。

不信拡大の悪循環からの脱却策(再掲&再考)

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 YAHOO検索で「教育失敗学」で調べると、次の記事が3番目に表示されます。
 このブログの考え方を象徴する記事だからでしょうか。
 以下に再掲し、読み直してみます。

 2008年6月8日
 不信拡大の悪循環からの脱却策(再掲)
 よたよたあひるさんからのご返答は、どれも教育の世界の人間にとってはたいへん参考になるご指摘です。
 このような他業種との交流が教育界には少なかったので、独善的、保身的、閉鎖的な特質が教員には染みついてしまいました。
 「開かれた学校づくり」「人事考課」等は、このような教員の独善性や閉鎖性によってふくらみ続けてきた不信を払拭するというねらいもありますが、そういう政策への反対・反抗という態度によってさらに不信を拡大するという悪循環に陥っています。
 以下、よたよたあひるさんからのコメントをご紹介します。

 

コメントへのお返事エントリーありがとうございました。ただ、私がコメントに書いた、 >自己申告をもとに指導してくれる >上司の対応によって見方、書き方が >変わるような気がします。は、「恣意性」の問題ではなくて、もっとテクニカルな部分のことです。
 学校の先生方のことはわからないのですが、医療や福祉の領域の職員だと、直接援助の仕事はとてもよくできる・・感度がよくて利用者のツボをつかむことがとてもうまいけれど、この手の作文が上手くない人は多いです。公立施設であっても、意識は専門職であんまり自治体職員という感覚が薄いということもあると思いますが、動いてナンボという意識が強いのかもしれません(主任試験のマークシートでも一番成績の悪い職種が看護でついで福祉職だったような記憶があります。論文はなおのこと苦手な人が多いです)。ちょっと脱線しましたが、感覚ではつかんでいるのに、うまく言葉にできないでいるものは、一人の職員の「職人技」になってしまいます。ちょっとしたガイドがあると、この「職人技」をスタッフ全員への共有財産にできると思うのです。
  
 また、私の日記で書きましたように、個々の職員にも得手不得手はありますから、利用者に対するのと同じようにストレングス・モデルの指導がうまく伝われば、自分でも不得意だと思っている領域への取り組み方が見えてくる場合があると思うんですよね。今のうちの上司は、国語表現の問題も含めて、その産婆術のような指導をしてくれるんです。

 教員の場合も「意識は専門職で自治体職員という感覚が薄い」ことは明らかです。
 問題はこの「専門性」自体にもあり、ボランティアできた大学生や塾からの講師の方がよっぽど教えることを工夫して、「先生よりわかりやすい」と言われてしまったり、「学習指導要領」をろくに読まず、自己流の教育内容・教育方法を毎年踏襲したりという教員が多いのです。
 100マス計算による効果が伝えられるとすぐ飛びついてまねをし出しますが、子どもはそれ自体の充実感はあるとしても、そのために本来の学習を行う授業時間が削られるわけで、もし計算が終わったらぐったりして次の学習に向かう姿勢がまったりムードになってしまったら意味がないわけです。
 それを導入して高い成果を上げてきた先生というのは、100マス計算のように競い合う方法がよかったのではなくて、あくまでも普通の学習の指導力が高かっただけなのです。
 自治体職員としての感覚が薄いことは、一人が取り扱う文書の数が少ないことも原因に上げられます。
 教師は「書類が多い」と文句をいいますが、それは程度問題で言えば、生徒が「宿題が多い」と言っているのと同じです。
 宿題がほとんどでない学校の生徒は、週に2~3回宿題が出ると多いなあと思うかもしれませんが、毎日宿題をこなすのが習慣になっている学校の生徒は、一日に何個もまとめて出されて多いなあと思うわけです。
 自治体職員というより公務員には「文書主義」という原則がありますが、狭い職場であるため口頭での伝達も多く、また「口伝」によって仕事の方法が伝えられるという伝統があることが、教員に「文書主義」の原則が身に付かない背景になり、「また書類ですか、めんどうくさい」という反応になってしまう。
 学校現場では省かれている業務に関係する「起案」という用語も、知らない教員は多いでしょう。
 これは、明らかにボタンのかけ違いによるものです。
 教え方、集団の指導の仕方などは、その場にいれば先輩から盗んだりすることができるのですが、文書作成・文書管理についてはモデルがそこにいないから難しい。
 いまだに書類が整理できない教員はたくさんいると思います。その方法がわかっていない。
 毎年ほとんど同じような書類もあるため、ときどき年度を変えないで出されてしまっても気付かないということがおこります。
 役所も学校も、書類のフォーマットというのは決まっているので、私はそのフォーマットのすべてを4月当初に新しくその学校に入った教員にはすべてわたすべきだと考えています。
 その年は担当でなくても、いつかは自分のところにやってくる。
 そして、教務や生徒部、保健、図書・・・組織がいつ何をどのようにして動いているかを把握する。
 副校長も、文書が来てから調査を開始するのではなく、あらかじめ決まっている調査については依頼文書が来る前に用意しておく。
 忙しい時期に文書作成に時間を取られずにすむ工夫は教員にも管理職にもいくらでもあります。
 頼まれもしない学級通信は喜んで毎日出し、同僚から頼まれて行事の要項の作り方を教えるのは抵抗がなくても、「上からおりてきた」文書だけはいやいややる。子どもと同じレベルです。
 人事考課で自己申告書を作成するときは、自分の能力や学校における立場と学校の現状と課題を踏まえて目標を考えるのですが、欠点はわかっていても、では何をどのように目指せばよいかがわからない。
 子どもには学年当初に「今年度の抱負」という作文を書かせるでしょう。
 この作文を踏まえて、抽象的な目標が書かれたら、具体的な目標を別につくり、その目標を達成するための方法も具体的に考えさせる。そのような生徒指導が習慣になれば、では教師としての自分は・・・となるはずなのですが。
 教員が不信拡大の悪循環から抜け出すには、ひとつはより良い教育を実践することとその方法を自分にもあてはめること。もうひとつが、他業種の常識から学ぶべきことを学びとることでしょうか。
 今、学校が開かれだして、中が変わらないまま開いてしまったものだから、ますます不信が高まってしまう学校が出てきた。一部の教員は、いつまでたっても「外部の人間にはわからないことなのだから」と閉鎖性をあらわにします。
 この閉鎖性は、明らかに子ども集団にも伝播しています。
 早く不信の悪循環から抜け出さないといけません。
 子どもたちにとっては、それは二重の意味で、重要なことです。

 異業種間の交流は、企業の場合、それをきっかけに新事業や起業ができるほどの価値を生み出す機会になる可能性があります。
 子どもの教育に関しては、塾等における能力伸長の機会をすべての子どもに保障するなどの事業について、和田中の地域での実践を超えるような発想がでてくるかもしれません。
 新しいアイデアが学校関係者から生まれるためには、ぜひともこの異業種間の交流、少なくとも学校と地域、官と民の交流を進めていくべきだと考えています。
 それも、特区のような一部地域だけだとまた「機会均等の原則に反する」という批判が出てきますから、一斉に始められるようなものを・・・。

意思決定までの長い道のり

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 今日は教育委員長さんや青少年委員さん、PTA会長さんたちとお話をする機会があったのですが、学校選択制週5日制について、それぞれの長所・短所、メリット・デメリットをよくご存じの上でさまざまな考えをお持ちであることがわかりました。

 実施・不実施継続・取りやめ決断については、長所を最重視するのか、デメリットの防止・解消を最重視するかによって判定が変わってきます。

 その長所・短所も、子どもの立場と保護者の立場では違いますし、教師の場合も「自分の信条」の違いによって認識が異なってきます。

 単純な「多数決」は誤った決断を下す原因になる場合もありますから、注意は必要です。

 また、行政の場合は、その時点の段階では予算等の条件で難しいことがあると、「必要、不必要」「希望する、しない」にいっさいかかわらず、決断を下す場合もあります。

 「予算がないからできない」のなら、「予算をとればいいだろう」という発想になりますが、「予算をとるために必要なこと」という問題意識が、逆に保護者や教師になかったりするのも、また問題かもしれません。
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科学記事を使ってのお遊び(後)

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 生徒(太陽)の力をフルに使え

 授業での理解不足(列車事故) 技術武装で防げ

 燃える(氷) 眠る可能性と(海底に)新資源

 教材ソフト(将棋ソフト)、実力めきめき

 新組織(新気象衛星) 不登校減少(「減災」)に威力

 新・相談室(森林)は心のオアシス

 頭脳もつ 自治活動(海底) チェックソフト(探査機)

 体が発信 新デジタル生活(ママ)

 地域(車)と学校(住宅)、教育力(電力)を融通

 学級王国(島国日本) そこ(底)にある危機(資源)

 学力向上(島国日本) 底にあるヒント(資源)

 日本で新種の能力開発法(恐竜)発見か 

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励まし合いたい大人たち・・・

 教師の仕事は、生徒を苦しめることでも、悲しませることでもなく、学ぶことを楽しませ、わかり、できるようになることを喜ばせること。
 そのためにも、真剣に子どもを鍛えること。
 子どもを鍛えるべき教師が互いに鍛え合うことよりも励まし合うことを求めたがる教育現場の苦しさはよくわかっていますが、私のスタンスはあくまでも「本物しか認めない」ことです。
 政治家や行政のトップである知事ほど教師には敵はいないでしょうから、とにかく目の前の子どもを満足させることから始めましょうと言いたいですね。

科学記事を使ってのお遊び(前)

 日経のサイエンス特集で紹介された記事のタイトルをもじって、教育を考えるヒントにならないか、ためしてみました。
 (  )内が正しいタイトルです。

 第二の学校(地球)を探せ

 生徒の目(犬の鼻) 外部評価(センサー)に勝る謎

 生徒(宇宙)からの信号 補足せよ

 自由研究(サバ)からノーベル賞(高級マグロ)誕生

 文書の山(肥満)でリスク こう膨らむ

 教材ソフト(人型ロボ)、進化どこまで

 いじめ(経済)行為 脳科学で解明

 高速指導(粒子)で問題行動(がん)攻撃

 ITで問題行動(火災)と戦う

 丸ごと揺らし 規範意識(耐震)探る

 大学入試問題(マツタケ)、中学生(庶民)の教材(食材)に?

 知能校舎(住宅)が学習(暮らし)手助け

 ネット時代に究極のメッセージ伝達(暗号)

 「ミニ授業(地球)」で学力向上策(生態系)探る

 パソコン授業(電気自動車)イメージ一新

 (目)のマジック 錯覚(錯視)癒し指導(芸術)
  
 ロボット先生(サッカーロボ)、人に勝つ日

 天才の理論は意外に身近(ママ)

 学力向上(ホタル)の光 謎の東西差
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パブリック・メモリアルの価値

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 学校には、始業式・終業式・修了式・入学式・卒業式・周年行事の式典など、いくつかの「儀式的行事」があります。
 さすがに入学式・卒業式の日に授業がある学校は少ないでしょうが、授業時数確保のため、始業式の日に授業が組まれたりするケースも多くなっているようです。

 終業式と卒業式の大きな違いは、卒業式は生徒だけでなく保護者や地域の方などの外部の人が参加することにあります。
 運動会や文化祭、授業参観などとは異なり、卒業式は外部の方も一緒に歌を歌うなど、「参加型」であることから、「公的空間」を共有できる行事となります。
 教師にとっても、「公的に開かれた空間」での教育活動としては、最も記憶に残る一日となるのが卒業式です。

 このような教育の場での「記念になるような思い出となる体験」は、「有終の美」となる卒業式のほかに、どのようなものがあるでしょうか。

 パブリック・メモリアル
 パブクック・メモリー

 学校が子どもたちに体験させてあげられる、心に刻み込んであげられる、そのような場はどのくらいあるでしょうか。
 特別活動ではなく、教科の指導における「パブリック・メモリアル」はあるでしょうか。
 そういう仕掛けのある学校には、「伝統」という名の信頼性の高い知的財産が保たれているということです。

 そして良質の「パブリック・メモリアル」「パブリック・メモリー」を体験し、心の財産にしている子どもは、「愛校心」を持ち、公共空間を勝手に「私(わたくし)」化=私共(わたくしども)空間化せず、高い規範意識を持った人に育っていくのだと思います。

「正面から目線」と「上から目線」

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 「上から目線」とは、どのようなものなのでしょうか。
  
 人を馬鹿にしている見下している、というわかりやすい説明から、相手が求めている答えではなく、客観的な視点で正論を言ってしまう、というものまであるようです。

 相手に「上から目線」と思われないようにするための方法は?
 自信を持っていない相手には「語らない」という方法もある・・・などの方法を紹介している方もいます。
 ここではそれらの内容についてはふれませんが、コンテンツ重視のブログの世界では、私は現在の立場、経験、知識等から導き出せる答えや問題提起、現状分析、展望を述べることしかできません。

 自分のスタンスを敢えて表現すれば、「正面から目線」です。

 理想を言えば、相手の中身も後ろ側も透視できる「正面から目線」を持ちたいものですが、それが難しいからと言って、正面をかわして斜めから見ていくような態度やセンスは受けつけがたい神経をもっているようです。

 しかし、教育の世界に限った話ではないと思います(行政の世界では多いかもしれません)が、学校現場では今そこにある問題から目を反らす(見なかったことにする)ような傾向が非常に強い。
 学校評価を教師が嫌ったり面倒くさがったりするのは、問題を問題として把握していないことを証明するデータとなってしまったり、問題の解決を迫られる根拠となったりすることも理由になっているでしょう。
 全国的な学力調査についても同様でしょう。

 知・徳・体のいずれをとっても、「満足できない」状況にあることを示すデータは嫌になるほどあります。
 
 そして、問題の解決には非常に大きな労力を要することがわかっているため、「仕事を増やす」ことにつながりそうな提案は校内からはなかなかなされない。

 生徒のために「生き残る」必要がなく、希望すれば異動ができる公立学校だと、なおさらそういう傾向が強くなります。

 もちろん「増やした仕事」が問題の解決につながらないと固く信じている人による強い反対も想定できます。

 教師には、現実にやっている仕事で十分な成果が出せていないなら、新しいことにチャレンジしよう、という意欲をもつよりも、「成果は十分である」とハードルを下げて満足してしまうか、「これ以上は無理」とあきらめてしまう場合が多い。 

 もし教師がギブアップしてしまうのならば、ここで存在価値が問われてくるのが「生徒力」です。

 「生徒力」が問われない学校では、生徒による学校内での活動のほとんどは「こなすこと」が重視され、プロ野球の世界で言えば「消化試合」での動きに近いものになります。

 「生徒力」は、優勝を争うペナントレースの緊張した一試合一試合のように学校生活がならないと、育成できません。

 本当の意味での「消化」とは、物質を体内で化学的に処理して利用可能な栄養素にすることで、生徒の活動で言えばさまざまな能力が伸びることをさしています。

 教師にとってはこの化学変化が起こる条件を整えることが最大の仕事であり、責務であると信じています。

「生徒力」による教育の創造

 私のブログ名も明かさずに自分のブログで愚痴をこぼしている方もいれば、しょうさんのように正面から適切な批判をしていただける方もいる・・・教育現場の縮図は、このブログの世界でも生きているようです。

 まずろさんのブログでは当方に対して過大な評価をいただいたようで、たいへん恐縮しております。
 しょうさんからいただいたご意見もふまえながら、このブログの役割を考えているところですが、まだまだ発信内容もその考察も途上段階であり、教育の世界に影響力を与えるほど大それたものでないことは明らかなことです。

 私は教育の創造は広い意味での造語ですが「生徒力」にかかっていると信じています。
 「生徒力」は「自己教育力」よりもっと大きなものを含む概念です。

 教師は、その邪魔をしないよう、足を引っ張らないよう、失敗を犯さないよう、心がけるだけでもよいのではないかとさえ思っています。
 ただ、「生徒力」発揮にはしかけ(システム)が必要です。
 もともとよいしかけ(システム)があるのに、それが死んでいる学校もあるかもしれません。

 現場では今、私の教師生活の一つの集大成にあたる指導に注力を始めようとしている時期なので、視野が狭くなり目先のことばかりにとらわれることのないよう、自分の視点をかき乱す(よい意味で言えば視野を広げる?)目的で記事を頻繁に書いています。

 行政のときもそうでしたが、仕事が忙しいときほど、別の仕事が抱えられるようになり、いったん仕事が少なくなると、本当に楽をしてしまう、そんなことの繰り返しをしてきました。
 今はある意味で最も忙しい時期です。

 私はいちろうさんのような遊びのための揶揄(ご自身のお言葉に沿って申し上げております)は全く気にしませんが、「ノーベル賞もとれない国のことを必死に真似しようとしている日本」などという低レベルの揶揄には非常に腹が立ちます。
 コメントをしても質問の趣旨に正対した回答がほとんど得られないので、ずれている感覚修復できないものと判断してあきらめています。

 教育の問題は教師のことを中心に書いてきましたが、校長ネタはあえて封印してきたつもりです。
 ただ、校長のリーダーシップを敬遠する教師が多い教育の世界の問題点を解消するためにも、いつかはふれることになると思われます。
 校長ネタばかりはさすがに、保護者にとってのインパクトが大きすぎると思うので、校長によるブログでコメントを入れられるような形の運営は慎重にした方がいいかもしれませんね。
 しかし、そもそも校長の存在意義を強く認識することがない子どもが主人公の教育界であれば、どんな批判でもできるような気もします。
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学校を変えていく力

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 いろは出版「働く人の夢」に取り上げられている通訳の方のお話も参考になりました。
 タイトルは「心を訳す」というものです。
 
 冒頭には、帰国子女として日本の学校に通ったとき、「外人」とののしられたり、子どもだけでなく教師からもいじめられたことが記されています。
 
 「なぜ言葉が通じるのに、人と違うだけでこんな仕打ちを・・・

 ここから、挫折して生きる意味を見失うのではなく、人と理解し合うことの難しさを感じながらも、自分は自分でいいのだという強い心を学べたことが、今の仕事に生かされたのでしょう。
 

通訳という仕事は、話している人の意図を読まなくてはなりません。「おお!こう来るか!」「なぜこんな発想が可能な?!」など、いろんな人の頭の中をのぞくことができ、毎日が新しい発見です。・・・(中略)・・・議論が白熱して険悪になってしまっても、冷静に対応しなくてはいけません。しかし、誠実に通訳をしていくと、当事者の方から「相手の言いたいことがよくわかったし、きっと私の言いたいこともちゃんと伝わっているのだろう。平行線ではあるが、意味のある議論だった。」などと言葉をかけていただくこともあります。・・・人と理解し合いたいというミクロな夢は、実はすごくマクロな夢になるのだなとこの仕事を通じて感じます。

 「理解し合いたいという気持ちが、きっとこの世界を変えていく。」
 教育にも同じことが言えるでしょう。
 しかし、相手のことを理解したいという気持ちよりも、はるかに自分のことを理解してほしいという欲求の方が強く前面に出ているのが、教育の世界ではあまりに一般的に見られる光景です。

 「教育を変えていく!」という強い意志やメッセージが学校から伝わってこないのはこのためでしょう。
 教師が動かないから、学校はいつまでたっても変わらない、そんなふうに悲観する必要はありません。
 子どもたちには学校を変える力があります。
 教育を変えるのは子どもたちである、と言ってもいいでしょう。
 そのために教師が子どもに与えることが可能な機会といったら何でしょうか。

「働く人の夢」より

 いろは出版「働く人の夢」を、この本で紹介されているある方にお世話になっていたので手に取ることになりました。
 33人の「働く人」の中に選ばれていた地方公務員の方が、こんなことを述べています。
 

一般的に「休まず、遅れず、働かず」の代表的な職業として挙げられる公務員と、私が25年以上机を並べてきたからこそ感じる公務員は、かなり違う。私が思うに「働かない公務員」なんていない。ただ与えられた仕事に対する姿勢が違うだけであろう。「失敗しないためには」と考えるか「成功するためには」と考えるのか、の違いである。どちらも「住民の幸せを願って」という大前提は変わらないはず。その行動判断として、危険を回避するか、あえて挑戦するか、に分かれるだけ。

 これを教師の話に置き換えてみたらどうでしょう。
 「危険を回避する」タイプの教師と、「あえて挑戦する」タイプの教師とでは、圧倒的に前者が多いでしょう。

 たとえば、荒れた学校では、校内を「巡回する」だけのことでも、教師にとっては非常に大きなプレッシャーとなります。
 「指導すべき状況」を目にする確率が高いからです。
 エスケープ、器物破損、飲食、喫煙・・・・。

 それを避けたければ、職員室で仕事をしていればよいわけです。

 「あえて挑戦する」・・・問題の「抜本的な改革」のために、必要な「小改革」を立ててすぐに実践する。スモールステップの評価をしながら、改革の中身を改善し、実行にうつす。
 「会議の時間を半減する」・・・ためにできることは何か。あえて何をするか。
 「服装指導の教師による温度格差が大きすぎる」・・・幅をせばめるために、何をするか。
 教師には同僚ににらまてしまう「危険」もあるわけで、現場で大きな改革を実施にうつすのは非常に大きな困難が生じますが、重要なただ一つのポイント・・・「子どもの成長と幸せを実現するためにはどうしたらいいのか」を常に念頭における人間関係だとよいと思います。 
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教育ブログの読み方・考え方

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 以前にも中西輝政著『本質を見抜く「考え方」』(サンマーク出版)を紹介したことがありますが、いちろうさんやしょうさんから「このブログを読むとほとんどの(または多くの)学校や教師が不信の目で見られるようになる(可能性がある)」という警告をいただいておりますので、著作の「考え方」を例に出しながら、少し考えてみたいと思います。
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 まずは、

 評価ではなく「事実」だけを見る(考え方33)

 イギリスで民主主義が生まれてきた背景について、著者は次のように述べています。

 庶民は、政治や学問の世界を握っている人間を、ほとんど信用していません。「連中は高等教育を受けていて嘘の技術に長けているから、下手をすると自分たちの富を持っていってしまうかもしれない」という猜疑心を強烈に抱いています。
 「奴らはいろいろと理屈をつけて高い税金をかけようとしている。あいつらの論理に騙されてはならないぞ」と、目を皿にして政治家や知識人を見張っています。それが、民主主義をつくり出した理由です。

 政治家については日本でも同じような目を持っているかもしれませんが、マスコミや知識人等には弱いのではないでしょうか。
 情報を「信用するな」とまでは言いませんが、鵜呑みにするのはいけません
 学校のことが不安なときは、実際に足を運び、わかりやすいポイントについて見る、聞く、話す・・・
 百聞は一見に如かず、です。

 「答え」より「考え方」の重要性を知る(考え方13)

 子どもは早く結論や解答を知りたがる傾向がありますが、テレビのクイズ番組などもこういう態度を助長しているように思います。クイズ番組では懸賞などを除いて、答えがわからないまま番組終了というのはあり得ません。

 マスコミからの情報はわかりやすい「答え」として提供されるケースが多いですが、情報リテラシーを身に付けるためには、記者がどのような過程を経てその記事を作成したか、どのような「考え方」をもっていたかを知ることの方がためになると思います。

 学校の実態=「答え」よりも大切なのは、実態を見る「見方」とそれについて考えるための「考え方」です。

 効率を「量」でなく「質」でとらえる(考え方28)

 日本の生きる道が、「量的効率」から「質的効率」へと変わっているのが現代の特徴です。
 しかし、量的なイメージの方がつかみやすいので、たとえば学力調査なら平均点得点順位、そういったものに目がいってしまいますが、本当に大事なのは「質」の問題です。

 テストの問題では、「量」で決まってしまうもの・・・計算量、練習量で得点が上がる計算や漢字問題・・・と、思考や分析の「質」が問われるものに大きく分けられます。
 今までは(今でも主流はそっちかもしれませんが)量中心の対策で何とかなった世界が、社会の変化に対応するために、自己変革を遂げようとしています

 現在実施されている学力調査では、ようやく学力の「質」の領域にふみこみ始めました。
 PISAの調査も大きなきっかけになってはいますが、現行の学習指導要領が出た10年前から、「質」の向上が大きなテーマになっていました。さらにさかのぼれば「新しい学力観」の出た20年前です。
 本当の意味での「思考・判断」を問うてきたのか。
 それへの問いかけが始まったのであり、指導要録の見直しも進めていかなければなりません。

 ふと浮かんだ「疑問」を封じ込めない(考え方39)

 情報というのは歪められていることが多い、とリスク感覚をもっていれば、「自分の実感、直観を大事にする」姿勢が持てます(もちろん「思い込み」はよくないですが)。

 冷静な情報分析よりも、ふとした直観正直な感覚がものをいう場合もたくさんあります。

 そういう感覚は、やはり現場でしか得ることはできません。

 相互理解を深めるためにも、学校側は、もっと情報を発信すべきです。
 猜疑心と戦う労力を無駄と考えずに、自ら門を開いていくことが大切だと考えています。

「後ろ向き」しんにょうから「前向き」しんにょうへ

[教育現場] ブログ村キーワード
1 「遠」→「近」「通」
 管理職と教師はもっと「近づき合い」、意思の疎通を。
 少なくとも同じ学年の教師同士は、実践の歩調を近づけて。「同じ」になる必要はありません。
 子どもと教師は、適切な「距離感」を持ち合って。近すぎず、遠すぎず
 
 
2 「遠」→「近」
 近距離の学校間の連携ももっと深く、有意義に。
 近いのに遠い関係であることが多い小中間の連携はもっと活発に。
 「ご近所」の方には騒音や校庭の土の害で迷惑をかけていることが多い学校。その方々とのお付き合いやご理解をいただける工夫を。
 
3 「遅」「逸」→「迅」「速」
 「時間を守る」「すばやく次の行動にうつる(けじめをつける・きりかえをしっかりする)」は教師・子どもかかわりなく大原則に。 
 机の脇のボックスなどを工夫し、一番上の棚は「今日中に行う」=帰宅時には必ず空になっている。
 「明日までに行う」=今日中に行ってもよいのは当然ですが、できなければ出勤時に一番上の棚へ。
 「今週中に行う」・「今月中に行う」が次の段・・・などという工夫を。

4 「避」・「逃」→「道」「達」「遂」
 「避けない」「逃げない教師道の確立を。
 目標の達成をめざした実践を。
 子どもには目標の達成のために掲げた具体的行動指針をやり遂げる強い意思を育ませる。

5 「辺」→「運」
 自分が動けば遠いものは近くになる。
 こまめに足を運んでいく「動きのよい」教師へ。

6 「巡」「迷」→「進」
 進行管理をしっかりと。
 迷路から抜け出すためには、視点を高くもつ工夫を。

7 「迎」・「追」→「造」
 自分の考えをもつ。造意の精神。
 「迎合」・「追随」から「創造」へ。

8 「逆」・「退」→「進」
 マイナスのかけ算は損失が大きい。

9 「通」→「連」
 指示・伝達がとぎれない、意思疎通がしっかりした集団へ。
 「連絡」・「連携」の重視・徹底を。

10 「違」→「遵」
 法令遵守は絶対原則。
 確認済みの指導方針は全体で歩調を合わせて。

11 「遮」→「透」
 透明性をより追求。プライバシーを守ったり、個への配慮は大切にしつつ、都合の悪い情報を隠さない。
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「しんにょう」の漢字でまとめる教育の問題 その3

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6 「巡」

 議論のポイントが合わないための「堂々巡り」。
 合意形成には「無駄な時間」も欠かせないという考え方もありますが、できることなら避けたい無駄です。

7 「迎」

 自分の考えを持たず、マスコミ調の批判に「迎合」する教師。

8 「逆」

 ブログで何度かふれている「逆コンピテンシー」。

9 「退」

 異動などを原因として起こる学校改善努力の「後退」。

10 「追」

 生活指導でよく見られる、「後追い」指導。
 「迎合」と似たような意味での「追随」。

11 「迷」

 何が正しい指導か、迷ったまま決断が下せず結果として何もしない教師。

12 「逸」

 迷いのためにタイミングを逸した指導。

13 「通」

 学校ではほとんどの教師の目に触れない「通知」。
 職員会議の場でしか発言・意見表明できない教師がいる組織運営の不全、意思疎通システムの欠如。


14 「違」

 処分件数がなかなか減らない。違法行為違背行為

15 「遮」

 都合の悪い情報の遮断

 民間企業の場合は、上司が決断でき、責任がとれることも、責任の所在を明確にさせない意思が働く学校現場ではほとんど課題は解決されません。

 後ろ向き「しんにょう」から前向き「しんにょう」への転換のためには、校長や教師のリーダーシップが必要です。

「しんにょう」の漢字でまとめる教育の問題 その2

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3 「遅」

 会議の時間に遅れる、書類の提出が遅れる(期限を守らない)、・・・民間企業では許されないことが、学校現場ではよくおこっていることは今までにも記事にしてきました。

 集団行動の指導が行き届いていない学校では、移動整列が遅く、たとえば避難訓練のときの集合・人員確認完了までの時間が長くかかります。
 集合訓練・整列指導は入学後すぐに行うべきもので、これが「遅れ」れば遅れるほど指導の効果は低くなります。

4 「避」・「逃」

 嫌なことを避ける。
 嫌なことから逃げる。

 リーダーシップをとる能力が十分あるにもかかわらず、人の前に立とうとしない子どもが増えていませんか。
 主幹や管理職になろうとしない教師は悪いわけではありませんが、小規模校などの場合は、やはり年齢や経験を生かした立場に立とうとしてほしいものです。
 子どもの場合は、塾の時間に活動を入れられるのは困るとか、いざこざの調停をするのが面倒くさいとか、人に注意して逆恨みされるのが嫌だとか、そういう理由で・・・。

5 「辺」

 「中心」「周辺」というときの「辺」です。「そば」という意味もありますが、ここでは「はし、はずれ、へり、ふち」などという意味で使うときの「辺」です。

 「1クラスあたりの人数が多いのが諸悪の根元だ」と主張する方も多いでしょうが、担任と子どもの関係にも濃淡が見られないでしょうか。
 たとえば、写真を撮ると必ずフレームにおさまりに来ようとするタイプの生徒と、そういうときはささっといなくたるタイプの生徒を比べると、客観的に見た「親しさ」という点で子どもによる強弱は避けられないような気がします。

 でも、それでいいのか?という問いが当然生まれます。
 子どもはみんな平等に接しなければいけないのではないか・・・・。そんな声はよく聞こえてきますが。

「しんにょう(しんにゅう)」漢字でまとめる教育の問題 その1

1 「近」

 中学校に勤務していた私が指導主事になりたてのころ、小学校を訪問したときに驚いた光景は、年配の女性の担任が男の子たちに抱きついている光景でした。
 小学校ではこんな愛情表現が一般的なのかな?とも思いましたが、男性教諭が女子にやったら一発でアウトだと思うと、これは?です。

 小学校は、毎日学校での大部分の時間を一緒に過ごしている大人と子どもの関係ですから、中学校側から見ると、間の距離が「やたらと近い」・・・これが第一印象です。

 思えば、小学校で出前授業に出かけたときも、作業のために集まってもらうと、体がくっつき合ってしまう場面がありました。

 この「距離感」を中には中学校にまで持ち越してしまう子どもがいるのは気になります。

2 「遠」

 小学校では、担任以外の教師との距離は逆に遠くなっているようですね。
 密度の濃さが異なるのはわかりますが、心の距離感の隔たりは気になることがあります。
 小規模校ならある程度は防げるのでしょうが、3クラス以上あると、同じ学年でも「よそのクラスの子ども」扱いされることはないでしょうか。

 異なるクラスの担任と楽しそうに話をしていると、自分のクラスの担任がやきもちをやく、そんな場面はないでしょうか。

 また、ときどき、研究熱心な先生が「おもしろい実験授業」をしたとします。
 興奮した子どもは他のクラスに自慢しに行ったりするんですね。
 そうすると、同じ内容を教科書で普通に学習した子どもたちは、「ずるい~」という反応になります。
 勇気を持って自分のクラスの担任に訴える子どももいますが、担任の立場としてもつらいものがあります。

 小学校は「縦割り」=異年齢集団を重視する特別活動も多く行われていると思いますが、学習指導・生活指導の面も含めて、もう少し「学年」の動きを意識した指導というのはできないのでしょうか。
 私のもった中学生の中には、同じ小学校の出身でも、ゲーム機を持ち込んでよいクラスと、そうでないクラスがあったようです。今もどのくらいの「学級王国」がこの世に存在しているのでしょう。
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規制型「地域」と自発・自律型「地域」のどちらが本物か?

 私の住んでいる地元では、2年に1回、大きな祭りがありますが、そこで担がれているとても立派な御神輿は、実は少し離れた町会のもので、その地域では高齢化等のために担ぎ手がいなくなっているため、他の地域の人たちに担いでもらって御神輿の存在意義を維持しています。
 二つの離れた町会が、「持ちつ持たれつ」の関係で結ばれているわけです。
 そしてそこに、一つの新しい「地域」が生まれています。

 このように、「地域」とは、決して単純な行政区画で決まるものではなく、さまざまなきっかけを通して連帯していけるものであって、そこで最も重視されうる指標は「自発性」であると言えます。

 回覧板等が残っているところではあっても、「五人組」ではありませんから、祭りへの参加の強制はできません。

 学校選択自由化によって、「地域が壊される」という自由化反対、規制賛成意見が出されていますが、学校が主体的に捉えていくべき「地域」とは何でしょうか。単なる自治会でよいのでしょうか。

 住民の「自発性」「主体性」によって多くの人から選ばれる学校では、それが視野に入れる「地域」が広がるかもしれません。
 行政が規定した「地域」と、自発的な住民と自律的な学校がつくる「地域」は、どちらが本物になるのでしょうか。

 もちろん賛否両論あり、「振り子」現象が見られるかもしれません。
 この矛盾に対しても、単なる振り子ではなく「復活」したときに以前より大きな発展や進歩がなければ、自動的にすぐまた振り子は反対側に振れていくことになるでしょう。 

振り子型か、螺旋型か?

[学習指導要領] ブログ村キーワード
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 新学習指導要領について「ゆとり教育の否定」「生きる力の育成からの転換」などという誤ったイメージがあることについて、学校側としては明確な説明を保護者等に対して行う必要があるでしょう。
 しかし、残念ながら教師の中にはマスコミ経由の情報だけに踊らされて、保護者の認識レベルと大して変わらないコメントを発表している人もおり、だれが誤りを正すのか、だれがその人の周囲で誤りに気付くのか、不安な思いでいます。

 コンビニの世界では、「合理化」を実現するための「均質化」戦略がとられ、
 「均質化」」戦略が功を奏してこれ以上できないほどの「合理化」を達成した後は、
 再び反転し、
 「均質化」から「個性化」への回帰がおこっています。

 その変化の中でおこっていることは、単に「効率化」が進んだということではなく、より便利に、より地域に密着した形として、進化していることです。

 このような動きは、教育の世界でよく語られる「振り子」現象ではなくて、「螺旋的発展」現象と言えます。

 学校の中で、より強力な形、発展した形で復活してくるのは何でしょうか。
 学校教育に「螺旋的発展」は可能なのでしょうか。

 現在の教育改革に大きな疑問を投げかけていらっしゃる方々に、ぜひご意見をいただきたいものです。

問題4 割り切り型か、格闘型か?

[規制] ブログ村キーワード

 学校には多くの「矛盾」が存在します。
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 その「矛盾」にどう向き合っていくか。
 この態度によって、学校の価値は大きく左右されることになるでしょう。

 一つの極に、「なあなあ型」「割り切り型」の指導者、経営者がいます。
 「どうせ・・・
 「できないものはできない
 「過ぎたことはあきらめよう
 
 亀井勝一郎の言葉だそうですが、

「割り切り」とは、魂の弱さである。
 
 その対極にあるのが、「格闘型」です。

 そもそも世の中は矛盾だらけであり、政治などはその両極に立って争うことが多くなります。

 政治的な活動ができない、「全体の奉仕者」としての公務員が活動する「教育」の場では、この「矛盾」にどう立ち向かっていけばよいのでしょうか。

 田坂広志著「使える弁証法」(東洋経済新報社)の中にある言葉ですが、

 

矛盾」とは、物事の発展の原動力である。

 「矛盾」とは、発展の「原動力」であり、世界の「生命力」のことである。

 だから、世界は変化し、発展し、進歩し、進化していく。

 我々は、その「矛盾」をただ機械的に「否定」すべきではない。

 「矛盾」を弁証法的に「止揚」していかなければならない。
 
 「器の大きな人物」とは、このような「矛盾」を心の中にしっかりと抱え込み、格闘し続けることのできる人物のことである。

 面倒なことは避けて(なあなあですませて)、どうでもいいところで格闘する、そんな場面は学校にないでしょうか。

 「市場原理」か「政府規制」か。

 「自己責任(競争原理)」か「弱者救済」か。

 教育の世界のおもしろい矛盾は、競争原理ではなく、行政による規制を求めていたり、行政による規制を否定したりしていることにあります。

問題3 絆の強度は何で決まるか?

 「」は無機物ですが、「」は「生き物」です。
 その強度は何で決まるのでしょうか。

 失敗をしても、そこから逃げずに成功理想を求めようとする不屈の精神
 失敗を恐れない勇気
 人は失敗を通して成長していく。
 これを共有し合っているという信念でしょうか。

 「」を断ち切ろうとする強い力に対抗しうる、内面の強さでしょうか。

 弱い部分にこそ多くの手がさしのべられる「やさしさ」「思いやり」でしょうか。

 人に言われるがまま、いつもどおり、当たり前のことだけを行っている生活で、「」は強くなるのでしょうか。
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鎖の強度は何で決まるか?

 情報セキュリティの問題でたとえに使われる言葉に、

 「鎖の強度は最も弱い輪の部分で決まる

というものがあります。

 初任者研修はだいたい初回に近い研修で、モラルや法令遵守の内容を確認しますが、この研修を終えて現場に戻ると、「弱い輪」の部分がありありと見えてきます。

 こんなとき、初任者としてはどう対処したらよいのでしょう。

 校長が初任者に指導する時間もたくさんありますが、これを嫌がる人もいます。
 なぜかというと、初任者に指導している内容ができていない教師がたくさん目についてくるからでしょう。
 「私よりも先に指導する相手がいるのでは?
 ということに初任者が気付いてしまいます。

 管理職試験の指導を校長が行う場合は、もっと笑えません。
 論文はこう書く、面接ではこう答えると指導してくれるのですが、
 「そのことをなぜあなたが自分の学校でやらないのか?
 と思ってしまうからです。

 コメントの中で、いい経験やアイデアをもっている教師が、それを公表せずにいる理由を「他の先生の仕事を増やしたくない」などとしているケースがあることにふれました。

 この教師の能力は、どうしたら生かせるのでしょう。
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ピンチをチャンスに

 ピンチチャンスに。
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 授業がある日の教師はただでさえ多忙な時間を過ごしているので、問題がおこったときにうまく対応できず、さらに解決に要する時間が増大してしまうことがあります。
 このような初期対応の失敗を防ぐために、問題解決マニュアルを作成している学校もありますが、当然「生き物」である問題はマニュアル通りやれば解決する、というものでもありません。
 少なくとも、「組織的に対応する=個人で抱えない」「初期対応に問題解決労力の90%をかけるつもりで向かう」ことだけは確認しておきたいものです。

 学校の信用が失墜する大きな問題は、現職教師が犯罪を犯した場合です。
 飲酒運転による人身事故、万引、汚物の投げ込み?等々。

 全校集会緊急保護者会を実施して、経緯を報告し、謝罪等を行うのですが、こういうピンチのときこそ、日ごろから思っていてもできなかった大きな改革に打って出るチャンスとなります。

 教師は学校で、日ごろから、「やりたいこと」を「やれるだけ」「思う存分」やれているか。
 他の教師の協力が必要な場合、校長のリーダーシップが必要な場合、子どものリーダーシップが必要な場合、・・・条件がなかなか整わない場合があるかもしれませんが、「ゼロベース」でできるチャンスが生まれたときは、なりふりかまわず突き進むことができます。

 がっかりするような出来事ばかりがおこる学校でも、「いつかはきっと・・・」という希望を教師も子どもも思っているはずで、たとえば学力調査の結果の不振を通してさえも、「次はきっと・・・」という向上心に結びつく・・・・

 と期待するのは行政ばかりで、学校ではデータを秘匿したり、都合の悪いことは「何もなかった」ことにしたりと、180度異なった対応が現場ではなされることもあります。

 「褒められたい症候群」「褒められないと不満症候群」から教師は脱皮して、「打たれ強い」「逆境に強い」「逆風を追い風に変える」教師に生まれ変わるのは難しいことでしょうか。
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問題2 相づちの意味

 「相づち」を打って相手にメッセージを送るその意味や使い方が、何通りもある・・・・
 初めて聞いた人には、意外に思えることかもしれません。

 普通は、「同意を示す」ために使う動作が「相づち」ですが、この他にはどんな使い方があるでしょう。

 さまざまな場面を思い浮かべて、整理してみましょうか。

 教師からは、どのように「相づち」を打たれた経験があるでしょう。

 以下のようなケースの意味は?

 野球の試合。サインを出さない変わりに、相づちを打ちました。

 授業での一見まとまりのない発表。いくつかの段階で、相づちを打ちました。
 
 全体の前での指示出しが終わった生徒に、相づちを打ちました。

 順番待ちで不安そうにしている生徒に、相づちを打ちました。

 明らかに対立する意見を述べている生徒に、相づちを打ちました。

校長室の「ゴミ箱行き」になる情報

 教育委員会が各学校に送付する書類は、副校長等が開封してもかまわないものと、校長しか開いてはいけないもの(人事関係の書類など)があり、後者の方には「親展」と記すしくみになっています。
 
 校長宛の書類なのになぜ副校長が開封するのかというと、多くの学校では文書収受の事務を副校長が行っているからでしょう(事務職が行うのが一般的なところがあるかもしれません)。
 文書管理がきちんとできていない学校は、●月●日付の第●号の書類ですが・・・と問い合わせても「なくしました」とか「探すのに時間がかかります」とか言って結局FAXを送って連絡する羽目になるのですが、他のケースも・・・。

 管理職だけが把握して教員にはいっさい知らされない情報があることを、たとえばある校長先生のブログでは示してくれています。
 

時には教育委員会からグラフやら表やらが飛んできますが、「他に比べてこの学校はここが低い」などと言った情報は直ちにゴミ箱行き。校長の心に中だけに閉じこめます。

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 これではいくら主幹を配置しようが、教員免許更新制を実施しようが、学校改善教育改革は実現出来ないでしょう。
 公立学校がいかに特殊な世界かというのがよくわかるたとえ(?)です。

 いわれのない苦情すら、教師が耳にしなかっただけでもまた新たな苦情を生むことになるのに、公的文書が「ゴミ箱行き」(これはもちろん文字通りの意味ではないと信じたいですが・・・文書管理規則というのもありますので・・・)になるような学校では、何も知らされない教師たちが気の毒です。

 校長先生の気持ちもわからないではないのですが、

一方「ここが良い」とか教育委員会などで評価された点は、大いに伝えます。ポジティブな情報は人を生き生きとさせます。

 というような話では、以前から指摘している「ご機嫌取りだけが仕事の管理職」と批判されても仕方ないでしょう。
 「ご機嫌取り」をしているつもりでも、よりシビアな目で校長を見ている教師がいることも忘れてはなりません。

 「何がどの程度問題か」に気付かず、教えてくれもしない職場にいる教師たちに必要な情報を提供できるのはだれでしょう。

成功事例にも興味がない教師の問題

しょうさん、Urokoさん、あたかかいコメントありがとうございました。

 「批判者の姿勢が悪い」ことが批判を受け入れない理由になるということも、教師がよく犯す失敗です。
 
 コンテンツよりコンテクストが上位になるというより、コンテクストが前提になってしまうのですね。

 Urokoさんのおっしゃる、「相手に温かさを感じてこそ、誰でも素直に受け入れられる」というものです。

 現場や行政では、課題の解決が最優先である場合、当然「問題を指摘する姿勢・態度」には注意を払います。

 しかし、日本に限ったことではないかもしれませんが、
 「丁重にお願いされた場合」
 「相手が敬意をもって接してくれた場合」
 「態度がよかった場合」には

 「批判を受け入れるふり」をするケース
が多くないでしょうか。

 私の見聞きした範囲では、よくありましたね。

 その場では「やります」「注意します」と言っても、何の実行にもうつさない。
 
 コンテクスト重視だと、態度がいいから、何もしなくても「聞いてあげた」ことだけで、すべきことをしたように自覚してしまう。

 生徒指導でも同じです。
 指導力のない教師ほど、注意された生徒の態度が悪いとますます指導が荒れていきますが、生徒が「素直なふり」「反省するふる」をするとすぐに問題は解決されたと思ってしまう

 要領のいい生徒は、「その場から早く解放される方法」をよくわかっています。
 要領の悪い生徒は、「注意の仕方が気に入らない」と言って逆ギレする。

 ・・・という経験をふまえなのか、あえて直接的な批判・問題の指摘=コンテンツを優先する態度をこのブログではとることが多いようですね。
 
 ただ、コンテンツ勝負ということになると、立場等による前提が間違っていると、全く議論にならないこともあります。「言っても無駄」というより、「言うほど逆効果」というものです。
 
 また、コンテンツ重視だと、相手の方の人格的な部分・重視している価値観をあらわにしてしまうという問題もありますが・・・。

 さて、このブログのタイトルについて今のところ申し上げられることは、「教育創造学」へはまだまだ手が届かないだろう、ということです。

 何がどのような意味で失敗であるかのを自覚できないというのが教師の最大の問題であると思っています。
 また、自覚していても、自分でどうしたらいいかわからない、そういう教師が多い。

 ロールモデルコンピテンシーモデルがないからかもしれません。
 
 山ほど蓄積されていながらほとんど利用されていない実践報告・・・。
 校内の過去の研究実践すら読まれていない学校が多いでしょう。

 よく、「ではどうしたらいいのか教えてほしい」と聞いてくる人がいますが、切迫した課題なら別として、そういう質問をすること自体が問題であるという指摘を何度もしています。

 そう簡単に教師の指導力を向上させる方法があるのなら、とっくの昔にそんな課題は解決されているでしょう。

 マニュアルや「すぐにできる!」系の本をあてにして、「自分の頭で考える」「意見や疑問を表明する」「対案を出す」「代案を出す」ことがなかなかできない。

 教師の中には、批判を耳にするのはもちろん、他校の成功事例にすら耳をかそうとしない人もいるでしょう。

 「あなたの学校のいいところは何ですか
という質問には答えられるかもしれませんが、

 「地区内であなたの学校よりいいところをもっている学校とはどこでしょう、それはどんな点についてでしょう
という質問に答えられる教師は多くないでしょう。  

 「他のことには興味がない・・・」
 「あなたの学校だからできることでしょう・・・」

 よくこんな言い方もされます。

 「よその人にはわからないことでしょうが・・・」
 「よその区(県)の人には・・・」

 このブログは「相談室」ではありませんので、「こうしていったらみんなもっと良くなるんじゃないだろうか」ということについては、たとえば私が他の方のブログにコメントするとき、僭越ながら指摘させていただく場合があります。

 コンテンツについてもしお気づきのことがありましたら、今後ともぜひコメントの方をよろしくお願いいたします。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より