ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« ハンバーガーとちゃんぽんと教育 | トップページ | 「指導者としては不適格だ」と評価される人間のブログ »

家庭での「叱られる原因」と叱り方

 雑誌「プレジデント ファミリー」10月号の記事を読んでいて、驚いたことがありました。
 特集「なぜうちの子は、何度言っても聞かないの? 母の叱り方、父の叱り方」の中で、子どもを叱るとき、「叩くことがあるか」という質問に、「ある」と答えた人が4~5割いたことです。
 
 日本にはまだ「体罰容認」の文化が残っているようです。

 面談のときに、「うちの子どもが何かやったらどんどん手を上げてかまいませんから」とおっしゃる親御さんがまだいますが、学校で「腕力」に訴える指導はもう成立しません

 叱るときに絶対に子どもに手を上げないと意識している?の質問に対しては、「意識している」と答えた親は2割強ほどでした。
 
 この特集では(雑誌の読者の傾向もよくわかりますが)、成績のよい子どもの親と普通?の子どもの親を比較しており、「手をあげる」ことについては、両者の違いが見られないようでした。

 ただ、叱るときに怒鳴るかどうかについては、成績が普通の子の親は7割が「怒鳴ることもある」のに対し、成績のよい子の親の方では5割でした。

 「叱られる原因」を考えてみると、子どもは学校よりもはるかにたくさんの「叱られる原因」を家庭で抱えていることがわかります。

 ・成績(テストの点)が悪い
 ・宿題をやらない(期限を守らない)
 ・ゲームばかりやっている
 ・テレビばかり見ている
 ・マンガばかり読んでいる
 ・携帯ばかりいじっている
 ・後かたづけをやらない
 ・風呂に入らない
 ・行儀が悪い
 ・部屋が汚い
 ・食事のマナーが悪い
 ・帰りの時間が遅い
 ・うそをついた
 
 などなど・・・。

 「叱る行為」も「叱る側」としてはおもしろくないようで、「先生からも言い聞かせて下さいよ」と要望してくる親もいますが、内容によっては子どもの味方になってしまう?ようなこともあります。

 考えてみると、こういうことは学校生活では「叱る対象」になっていないものも多く、その分、教師は楽ができているようです。
 逆に、教師も同じような理由でだれかから叱られなけえばいけない状況の人もいそうな気もしますが・・・。 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

« ハンバーガーとちゃんぽんと教育 | トップページ | 「指導者としては不適格だ」と評価される人間のブログ »

教育」カテゴリの記事

コメント

(*゚▽゚)ノ
>学校に足を運んでいただくのが一番ですね。

私は、現場を多少経験しただけで現場を語る人間が大嫌いです。だから、私は信じて任せることにしています。一度、担任と相性が悪いなぁ…と感じたことがありましたが、わが子に対して「先生だって神様や仏様じゃないんだから、一人の大人としてなぜそうするのかを理解して、自分だったらどうするかを考えればいいんじゃないの…」という趣旨で話したことがあります。
学校を選ぶとか、先生を選ぶとか…、そういう視点で親が学校や先生を見るように仕向けることが、批判を増幅しているんじゃないの?

ここの一番の欠点は、
少数派の変わった人を普通に紹介することで、
みんながそうなんじゃないかと思わせることで、
学校全体の評価を貶めていることです。
現実、大人社会だからいろいろな人はいるだろうけど、それを全体と思わせる語りの背景が、マスコミのセンセーショナリズムやセクトのプロパガンダを感じさせます。

>「中央権力に近い公務員」には、どんな行いがお望みなのでしょうか?

実名の内部告発にするか、
公立学校の信頼を高めるのか、
どちらかに軸足を置くべきでしょう。
中途半端に自説の補強のために、同僚の先生を批判し、暗象の視点で批判されるべき先生がたくさんいる…では、だれが得するのか?
このブログで貫かれているのは、自分の評価を高めようとしている浅ましい根性では?

すずめさんのブログでも、妙な先生が登場するが、なんのかんのと言いながら一緒に仕事をしていることが感じられますが、暗象は批判に値する先生は切捨てているように感じられる。だから、子どもに対してもそうなんじゃないかとの疑問を呈しています。

私は「違法行為」の内部告発のような大げさなことを書いているわけでもなく、教師の指導力向上を大きなテーマを掲げているわけですが、このブログの内容はいちろうさんには「やってはいけないこと」か「やらないほうがいいこと」に見えるようですね。
このブログは「プロパガンダの道具」なんておおげさなものなのでしょうか?
「中央権力に近い公務員」には、どんな行いがお望みなのでしょうか?

いちろうさんへ。
真実を隠せば不信はもう元に戻らないところまでいくでしょう。

私も赴任した先で初めて出会った保護者に繰り返し言われました。
「学校(教師)は、自分に都合の悪いことをすぐ隠す」
「本当のことを言わない」

「教師なんて、二度と信用しない」
と何度言われたことでしょう。

でも、当たり前のことですが、「信用しない」と言った教師でも常に信用される教師を期待し続けてくれるのが保護者なのですね。

何が真実か、学校は信頼できるところなのかどうか、それを知る手がかりは、学校に足を運んでいただくのが一番ですね。

自己反省のない組織に未来はないでしょう。
「お前にこそ未来はない」といちろうさんはおっしゃりたいのだと思いますが。

┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~

ねぇ、なんだか…、間違えていない?
私がここへ来るきっかけになった、
すずめさんのブログ記事に対して、
暗象は何と言っていたのか覚えている?

探すのに時間がかかるからうろ覚えで書くけど、
「学校の先生への信頼を損なう」という意味で、
すずめさんの記事文章を批判していましたよね。

で、すずめさんと暗象では、どちらが学校の先生への信頼を損なうことをしているのか? 信頼を損なう行為をしている先生を糾弾している自分が偉いのか? 現場の者として見てきた、特殊な先生を広く宣伝することが、学校現場への信頼を高めることになるのか?
少なくとも、このブログを読んでいる100人の人たちの多くは、公立学校にはやりたくないとか、税金の無駄遣いだとか、現在の学校を否定的にとらえていると思いますよ。
暗象のプロパガンダの道具に使われることで、公立学校への不信が高まるというのは、中央権力に近い公務員の行いとしては、どうかと思いますよ。

いちろうさんへ
 私が実際に受けたことがある苦情、現場で感じたことがある問題点を申し上げますと・・・
・成績(テストの点)が悪い
 ある教科のA先生よりB先生のクラスの平均点が異常に低い。他の教科ではそんなことないのに・・・。B先生は、あるクラスに来るとお説教の時間が長く、授業時間が短くなっている・・・。
・宿題をやらない(期限を守らない)
 文書の提出期限を守ってくれないために、仕事が滞る。
・ゲームばかりやっている
 ある学校でパソコンを使った授業をしたら(社会科で)、「なぜゲームをやらせてくれないのか?」と苦情を言う生徒がいました。ある教科の教師がパソコン室ではゲームで遊ぶ時間にしていたことがわかった。
・テレビばかり見ている
 空き時間や放課後に、職員室でテレビを見て仕事をさぼっている教師がいる。
・マンガばかり読んでいる
 没収したマンガを職員室の自席の棚に並べ、空き時間になると読んでいる教師がいる。
・携帯ばかりいじっている
 入試のときの監督の教師が、ちょくちょく携帯をいじっていたので、試験に集中できなかった。
・後かたづけをやらない、部屋が汚い
 職員室の自席の整理ができていない。
・帰りの時間が遅い
 部活未亡人が多い。
 民間人経験者をたくさん採用したくなる人事部の気持ちがわかるような気がしますが、もちろんごくごく一部の教員にあてはまることです(と信じたい)。

いちみ様、こんばんは。
初めてのコメントでしたでしょうか。
教育の矛盾の集大成の仕事がほしいですね。
教育失敗学では、そういう失敗事例及び改善策を積み重ねていきたいと思います。
「自分を守るために叱る」行為。
確かに家庭でも学校でもあるでしょうね。
そのタイプに多い特徴は、「叱るタイミングのずれ」でしょうか。
その場で間違いに気付かせる行為が子どもには必要なのですが、社会の中では、逆ギレされて殺されてしまう事件が相次いでいます。
他人の子どもを叱ることは、相当難しい世の中になってしまいました。

( ̄ー ̄)ニヤリ

>教師も同じような理由でだれかから叱られなけえばいけない状況の人もいそうな気もしますが・・・。

こういうしめ方に考え方が現れていますが、
いちみさんが言われているように、
叱る理由は何でしょう?
親が子どもを叱る理由をあげてありますが、
子どものためという口実で、
親が周囲からどう評価されるかを気にしながら、
叱るという行為を通して強制しているだけでは?
だから体罰を否定する人が多いのでは?

そう考えると、暗象のしめは、先生がまわりからどう評価されているかを気にしすぎているのでは? (過去にも指摘してきたが…)
先生を評価するのは、中高生なら子どもたちだけでもいいんじゃないのか? そういう視点が足りないと言うか、それ以上に、親や地域、他の先生(管理職?)・校長・教育委員会の評価に重きを置いているのが感じられてならない。 親としての要望は、違うところにあると思うよ。

こんにちは、「いちみの教室」の一美です。

叱る理由は何でしょう。
親は、子のことを考えて、常識を教えるためにやってる行為(好意)であると思っている。
しかし、それは本当だろうか。
私もついこの間までそう思っていたし、それを疑うことはなかった。だが心の奥底では、親である自分が周りから悪く思われないために、ちゃんとしつけているいい家庭と思われるようにと思っていた。
子は、それを察知しているから親の言っていることへの矛盾をついてくる。
先生に対しても同じである。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/42468949

この記事へのトラックバック一覧です: 家庭での「叱られる原因」と叱り方:

« ハンバーガーとちゃんぽんと教育 | トップページ | 「指導者としては不適格だ」と評価される人間のブログ »

2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より