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「指導者としては不適格だ」と評価される人間のブログ

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 このブログは、「いちろうさん」という熱心な読者の方が、「指導者としては不適格」と評価している人間のブログです。
 一日平均約100名の方に訪問していただいておりますが、強烈なレッテルが貼られているブログだということをお含みいただいて、引き続き、どうぞ注意深くお読み下さいませ。

 さて、教師に限らないと思いますが、職業人には、専門的な知識や、職業的な智恵が必要です。

 教師にとって専門的な知識というのも様々ありますが、この「知識」というものは、変化の大きい社会では、苦労して学んでもすぐに陳腐化していくという性質があります。
 
 本日のある会議で、「阪神工業地帯の工業製品出荷額の順位が、まだ全国2位だと思っている教師がいる」ということが話題になりました。
 
 では、教師は常に最新の情報を入手していて、「専門的な知識」の面で十分であればよいかというと、そういうものでもありません。

 そういう教師は、「求められる人材」であっても、現場で「活躍できる人材」ではありません。

 現場で「活躍できる人材」選びは、これまで非常に難しいものだったと思います。

 それは、「求められる人材」と「活躍できる人材」の概念が混同されており、「求められる人材」=ニーズに合った人材であるかどうかだけが選考の基準になっていたからでしょう。

 では、「活躍できる人材」とは何か。

 それは、職業的な智恵をもっている人材です。

 「求められる人材」は、法令遵守が徹底できる(初任者研修の最初にたいていこれが扱われます)し、専門的知識には難がないというニーズを満たしてはいますが、そういう教師がたとえば現実の指導困難校の教育を改革できるか、悩みを抱えている子どもを救えるかというと、そう簡単にはいかないでしょう。

 教師のコンピテンシーを構築していくためには、「専門的知識の網羅」という観点ではなく、「職業的な智恵」の言語化という作業が必要になります。

 しかし、「言葉で表せる知識」ではなく「言葉で表せない智恵」が重要になる、という言い方がされるように、「智恵」の言語化は非常に困難な作業です。

 それでも、「職業的な智恵がなければ解決不能だったはずの問題」、「職業的な智恵」を感じることができる「名言」などを探していきたいと思います。

 私自身は、いちろうさんが再三にわたって批判されていることですが、子どもに対しても「求められる人材」より上の、「活躍する人材」の育成をモットーにしています
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教育」カテゴリの記事

コメント

私の性格については、直近の2つの記事をお読みいただくと参考になるかもしれません。

┐(´д`)┌ヤレヤレ
だめだこりゃ〜
このムキになる性格を何とかしろと言っているのに…

いちろうさんへ。
やはり教師同士の間に入ってこられるには現場独自の雰囲気をご存じないだけに、ちょっとピントがずれていらっしゃるようですね。
でも誰にも害はないようですのでお気になさる必要はありません。

私が反組合的な論を展開しているのか、そうでないのかは、本物の闘争を展開している人が読めば一目瞭然でしょう。

すずめ先生も当初は誤解されてしまったようですが、ご自身がよくふり返られているようです。

いちろうさんのような方にかまってもらうきっかけになったので、あのコメントには意義があったようですね。
失敗?は成功?のもととは、このことです。

( ^ω^ )  大人だね〜。
ちょっと大人すぎるコメントだけど、
しょうがないか。

熱くなるとやたらと攻撃的なんだよな。
すずめさんのところで見て、
何者だろう…? って思った。

散々撒き餌をしてもなかなか食いつかなかったのに、
やっとツボに入ったようで、
あの時の再現ができた気がします。

ちょっと2ヶ月前の記事や投稿を読み返していて、
ひとつ発見したものがあります。
私がつっかかったコメントの数日前に、
組合の執行部にコケにされていたんですね。
それで、不必要な悪意や攻撃性が出ていたんだと、
つい先日わかりました。

タイミングよく再現できたので、
ご自身の振り返りにご活用ください。

ニフティからの警告を受けたと勘違いされたいちろうさんが心痛を受けられたことは遺憾であり、たいへん申し訳なく存じます。
ブログの管理者として、お詫び申し上げます。

管理者としては、いちろうさんの「kurazoh=暗象」のイメージを尊重するとともに、その枠外からの指摘もお聞き届けいただけるよう、お願いします。

本ブログでは、管理者に対するコメントは基本的に自由にしていただいてけっこうです。

ブログ上の規約、常識の範囲内でお願いいたします。

o(*^▽^*)o  品性下劣!!  o(*^▽^*)o

>「思いこみ」や「誤解」が原因であったにせよ、ご自身のモラル欠如を自覚していただくことにねらいがあったことはご理解いただけましたか?

暗象はダブハン推進者なんだね。
何のために、
管理者を名乗ったのか教えて欲しいのだが?
自分の名前で「モラルの欠如」を指摘できないの?
まあ、できないだろうなあ。
それまで批判を歓迎し、「暗象」を私がつくったキャラクターだと言って認めていたのにね。

それより暗象は、昨日から今日のやりとりで、自らの品性下劣さを自覚できましたか?
とりあえず、「思い込み」や「誤解」を楽しむ前に、誤解をあたえたことに対する謝罪が必要なのでは?
先生を名乗るには、ネクラだから「暗」。態度がでかくて偉そうだけど、「象」のように心配性で臆病、他のことを聞く耳を持たない。で、「暗象」というキャラ。なかなか鋭いネーミングでしょ。
(◎´∀`)ノ

>管理者としてコメントの削除などを行えるのは、ニフティ(ココログ)しかない
というのはいちろうさんがどちらかで設定した規定ですか?
ニフティはココログの管理をしていますが、個別のブログの管理をしているのはブログの作成者ですよ。
迷惑なコメントは管理者が削除できる機能があること自体、いちろうさんには不愉快ですか?

モラル違反についてニフティから警告を受けたと勘違いされたわけですか。
でも、そのとき、一瞬でも、反省のそぶりを見せていただきましたよね。

「思いこみ」や「誤解」が原因であったにせよ、ご自身のモラル欠如を自覚していただくことにねらいがあったことはご理解いただけましたか?

ヤッテラレンワ…ヽ(○´3`)ノ フッ
>さすがに教師が法令違反をしていると言われたら、反論せざるを得ません。

読者としての思考
1.ブログ主は、kurazoh名でコメントを投稿する。
2.コメント欄に「管理者」名での投稿があった。
3.kurazohではない管理者とは誰のことか?
4.管理者としてコメントの削除などを行えるのは、
  ニフティ(ココログ)しかない。

ニフティの利用規約第18条「禁止事項」の10
「ニフティ又は他者になりすます行為」

結論、
kurazoh名を隠し「管理者」を名のることで、
ニフティに“なりすます行為”をしています。
なりすます行為まで意識していなくとも、
充分に誤解をあたえる行為です。

法令に深入りするより、なぜ「管理者」を名のったかの方が、本題になると言う意味で、前のコメントを書きました。ご理解いただけましたか?
その理由が「「管理者」という権限をもつ立場で注意を促した」程度では、納得できないし、それしかないのであれば、法令遵守を心がけている人物であるとは思えない。

確かに、「kurazoh」「暗象」というブログ上の人格ではなく、「管理者」という権限をもつ立場で注意を促したことで得られる効果は一時的なものでしたね。
モラル違反には目を瞑るというのは教師の悪い癖かもしれませんが、さすがに教師が法令違反をしていると言われたら、反論せざるを得ません。

。゜゜(´□`。)°゜。
>ブログ管理者=ニフティというのは、規定とは無関係にいちろうさんが思いこんでいたことだということがおわかりになりましたでしょうか。

まあいいよ。管理者なら、ここに貼られたアドレスから被害を受けたときに補償するのかとか、いろいろあるけど、最近はたかだかブログの開設程度で管理者と名のる人も多いことだし…。ニフティの掲示板のシスアドあたのからのユーザーとしては、寂しい限りです。

で、なんで自分の名前を使わずに、
誤解されそうな「管理者」を名のったのか。
そこの心理が本題だね。
自分で注意できずに、他の先生にチクルのか?

ブログ村ではいちろうさんのおっしゃりたい「管理者」は「運営者」と表現されています。
ココログでは、「管理者」という用語を以下のように使用しています。

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ブログ管理者=ニフティというのは、規定とは無関係にいちろうさんが思いこんでいたことだということがおわかりになりましたでしょうか。

w(゚o゚)w
>ココログには「管理者は管理者を名乗ってはいけない」規約はありませんよ。

都合のいい解釈だこと。
ニフティの利用規約第18条「禁止事項」の10に
「ニフティ又は他者になりすます行為」とあります。
「ブログ管理者=ニフティ」なので、
一利用者が「管理者」を名のることは、禁止です。

ご理解いただけましたか?

やはり、いちろうさんの誤解だったのですね。
ココログには「管理者は管理者を名乗ってはいけない」規約はありませんよ。
ブログの管理者は規定では「ユーザー」といいます。

。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
>ブログの管理者は管理者を名乗ってはいけないという規約がどこにあるか教えていただけますか?

何か勘違いをされていると思いますが、
暗象は、ココログの「会員」であって、
「管理者」ではありません。
ブログ管理者は、ニフティです。

ますます、何がしたかったのか…?

もしよろしければ、ブログの管理者は管理者を名乗ってはいけないという規約がどこにあるか教えていただけますか?

shock
>ブログの管理者が「管理者」と名乗ってはいけないという規約がある

こそこそしないで、kurazohで書いてくれば、
訂正したのに…。
なにをしたかったのか…?
普段の学校での様子がうかがえますね。

!!(゚ロ゚屮)屮
>そのような規約はどのブログ運営者の規約にあるのでしょうか?

規約を読まずにOKボタンを押しているの?

>問題行動を繰り返す子どもがよく指導に逆ギレして「これをやっちゃいけない法律がどこにあるんだよ」と言っているのを思い出しました。

先生としては、逆ギレする前に指導が必要なんじゃないの?
引用部分だけど、
法律とまではいかないが、指導するときには根拠がいるだろう。根拠を理解させずに子どもを叱って思い通りにしようと考えるから、子どもが逆ギレするんじゃないの?

法令違反はしていないが、マナー違反は堂々と繰り返す。
問題行動を繰り返す子どもがよく指導に逆ギレして「これをやっちゃいけない法律がどこにあるんだよ」と言っているのを思い出しました。

いちろうさんへ。
いちろうさんがおっしゃりたかったことで意味がわからなかったことが一つ、ようやくわかりました。
いちろうさんは、ブログの管理者が「管理者」と名乗ってはいけないという規約があるとおっしゃりたかったのですね。
しかし、そのような規約はどのブログ運営者の規約にあるのでしょうか?

( ̄Д ̄;;
>「してはいけないこと」はだれが決めたどんなことで、「しないほうがいいこと」はだれが考えているどんなことでしたでしょうか?

「してはいけないこと」とは、きまりに反することです。「しないほうがいいこと」はマナーに反することです。
書き手の名前の変更は「しないほうがいいこと」です。ご自身も「暗象」に関しては、私が勝手につくりあげたキャラクターと認めていたのでは?
ちなみに、管理者を名のることは、このブログの規約に反する「してはいけないこと」です。
法令や規約を理解せずに、法令遵守を語るほど頓珍漢なことはないと思っています。

尚、
>「処分」って何をすることでしょうか?
とありますが、
コメントを勝手に削除する行為は処分でしょう。
上記、法令遵守の立場をとるならば、
同じように黙って削除するだけではなく、
それなりの断りがあって然るべきと考えています。
それがないので、法令遵守ではなく、「自分にとってどうか」という基準になっていると指摘しています。

いちろうさんへ。
「してはいけないこと」はだれが決めたどんなことで、「しないほうがいいこと」はだれが考えているどんなことでしたでしょうか?
何度かコメント欄に登場する話なのですが、内容をよく覚えていません。
いちろうさんのように勝手に書き手の名称を改変して呼ぶような態度は、「してはいけないこと」と「しないほうがいいこと」のどちらなのでしょうか?
「処分」って何をすることでしょうか?

w(゚o゚)w
>「指導者としては不適格」と評価

これは、コメントの削除に対しての件です。
部下同士のトラブルに対して、
「してはいけないこと」をした人と、
「しないほうがいいこと」をした人に対して、
同じ処分をしては、
組織としてやっていけないだろうということ。

暗象は、学校の先生というのであれば、
このてのトラブルは多いだろうに、
その処理が適切にできないということを指して、
「指導者としては不適格」と評価ました。
人の評価が、法令遵守ではなく、「自分にとってどうか」という基準になっているからです。
こう指摘すると、大人に対するときと子どもでは違うと主張しますが、先にご自分でも書かれているように、子どもの方が本質を見抜いていますよ。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より