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教師はなぜ批判に弱いのか その1

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 教師や教育関係者は、なぜ批判への耐性に乏しいのか。
 批判に対してなぜ過剰な反応をしてしまうのか。
 自己弁護に走ってしまうのか。

 逆ギレまでのレベルにはいかなくても、議論を尽くすことなく、「どうして理解してくれないのか」という言葉を出すところまでいってしまうのか。

 批判や提案に正対した答えを返さなくても、まだ「私や子どもはこんなにがんばっている」と自己主張する人の方が教師らしくていいですね。

 一つの原因として、内部での切磋琢磨の機会が乏しいことがあると考えられます。
 人事考課制度が導入されても、「批判」に弱い校長は、問題となる教師の指導の在り方についてとことん議論するというスタンスはとらずに、訪問に来る指導主事や人事権をもつ事務方に愚痴をこぼしているだけというパターンが多いのではないでしょうか。

 授業を互いに見合って、素朴な疑問を投げかけ合う機会は年間にどのくらいあるのでしょう。

 互いの指導力を高め合う効果を期待すること、指導上の相乗効果をねらうことを抜きにして、教師の「同僚性」を語ることはできません。

 教師の立場で自分自身と教師に対する自己批判・自己内対話・問題提起をすることは、ときにつらい面も一時的なマイナス面もあるでしょうが、長い目で見て、根っこからの教育改革を進めていくにはそれしかないように思います。

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教育」カテゴリの記事

コメント

しょうさん、Urokoさん、コメントありがとうございました。
ちょっと長くなりそうだったので、記事の方でお答えいたしました。
ブログを営業の道具にされている方は、実名で管理運営し、相当の配慮をなされていると思いますが、やはり文字情報だけの発信では、誤解は生まれるでしょうし、コメントをいただいた方の本心というのもよくわかりません。
いちろうさんのように「遊び相手」とわりきっていらっしゃるとわかりやすいのですが。
ご指摘いただいたことについては、当然配慮しながら、公私両面の活動を行っています。
ブログという情報発信手段を用いる場では、あくまでもコンテンツにしぼって議論ができるとよいと思います。
そうしないと、まずろさんのブログのコメント欄のようになってしまいます。

私はどのような方であれ、「生意気」とか「無礼」とかいう感じ方をしません(自分がそうからだろう!という解釈が一番簡単かもしれませんが・・・)し、誹謗中傷にあたらなければ批判されたこと自体を問題にすることはありません。
どうぞご遠慮なく、忌憚のないご意見を今後もお寄せいただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。

だいぶ以前から拝見していましたが、初めてコメントさせていただきます。
個人塾を営むUrokoと申します。どこかでは卑劣漢ということで、いちろうさんと同じく書き込み拒否になっている人間です(笑)。

コメントさせていただく気になったのは、下のしょうさんのコメントを見たからです。以前と違い、ここしばらくのkurazoh様の記事に、正直しょうさんと同じ感想を持っておりました。

“ここがだめだ!”を強調するよりも、“こうしていったらみんなもっと良くなるんじゃないだろうか!”という実践例(教師の場合には madographos様が常々おっしゃるように「守秘義務」があるので実話は難しいでしょうが、それにアレンジを加えてそれらしくすることは可能でしょう)を、下手な教訓話抜きに語った方が、年齢を問わず、受け入れられる人が多くなるように感じます。

他をこき下ろすことで何かを語ろうとするのは、一部の人達だけで十分なのでは?
人の想いというのは、相手に温かさを感じてこそ、誰でも素直に受け入れられるように思うのです。私はいちろうさんのコメントの背後にはずっと温かさを感じていました。kurazoh様の記事の背後にそれを感じないというのではなく(感じないのならコメントさせていただきません)、もっと違った発信の仕方があるのではないかと・・・・

しょうさんのコメントを拝見し、ついついです。お気に障りましたらごめんなさい。
失礼しました。

┐(´д`)┌ヤレヤレ
>いつまでたっても教育の議論が「子ども不在」になってしまうのですね。

薄っぺらな認識だね。
なんで選挙のたびに日教組や自治労がクローズアップされるか知っている? ただの選挙対策だよ。党利党略のための宣伝活動に「子ども」なんてただのダシだよ。

広島の民間校長の自殺の裁判について調べているが、権力というものの本質が見えてくるよ。

しょう です。

 大変ご無沙汰しています。コメントのやりとりも含めて読ませていただいていますが、気になる点について生意気なことを書かせていただきます。

>批判する側とされる側が,お互いに敬意をもってやり取りしあう関係を構築することが大切でしょう。

 このmadographosさんのコメントはkurazohさん自身の問題として受け止めていくことが大切ではないでしょうか。(ちょうど、学習指導要領に関わる私のコメントについて自己反省も含めてしっかりと受け止められたように。)

 下記のコメントでは「子どものけんかと同じようなレベルでしょう」(自分とは全く関係ないやりとり?)と書いておられますが、次の記事でいちろうさんに返されたコメントは問題だと思いますよ。

>いちろうさんの反応は組合の人と同じパターンですね。
>そして解釈のパターンも同じです。
>議論にならないわけです。

 「批判が届かないときに、その原因は批判された側(例えば組合員)にある」と考えてしまうのも、教職員の陥りがちな弱点なのではないですか。わたしは、あなたの学校づくりに関する実践報告を聞いたわけではないので、きちんとした分析をすることはできませんが、批判が届かないとき「全面的に相手のせいにするのではなく批判のあり方を問う」ことは、大切だと思います。

 また、教職員のだめな部分を不特定多数に発信することの問題点を、以前のコメントでいちろうさんも指摘しておられましたが、私も賛成なのです。よりよい学校づくりを進めていくためには、それぞれの職場の中で教職員同士が向き合い関わっていくこと、「批判する側とされる側が,お互いに敬意をもってやり取りしあう関係を構築すること」(madographosさん)がなにより大切だと私も考えます。

 そしてその際、「だめだと思える教職員」の中にも成長しようという意志があることや、自らの中にも共通する弱さがあることを受け止めつつ、しっかりと関わり合っていくことで相互に成長できるということを確信しています。もちろん教職員が成長するチャンスは同僚との関わりだけではありませんが、それが重要であることは確かでしょう。(ちなみに、私の職場でも「批判的な意見交換」の必要な場面はもちろんありますが、組合員であるなしを問わず「妥当な批判」は受け止めてくださいます。)

 (部分的にせよ)それに成功し、学校づくりを進めていった、という優れた実践例や自らの体験を紹介する方が、教職員のいたらぬ現状(例えば批判に弱い等々)を匿名で発信し続けるよりもはるかに多くの学校や教職員の変革を促していく力になることでしょう。

 実は、以前U高校の実践や私自身の体験を紹介させていただいた意図もそこにありました。
http://plaza.rakuten.co.jp/shchan3/diary/200802120000/
http://plaza.rakuten.co.jp/shchan3/diary/200802130000/
http://plaza.rakuten.co.jp/shchan3/diary/200802190000/

 kurazohさんとのやりとりも有意味だったと思うのですが、ブログでの発信のあり方についても、意見交換を活かしていけたらと願っています。

そのような関係が、昔の文科省と日教組、異なる政党間の一部の議員同士、一部の教師と「モンスター」扱いされる保護者との間に見られるので、いつまでたっても教育の議論が「子ども不在」になってしまうのですね。
子どものけんかと同じようなレベルでしょう。

それは,批判者の姿勢にもよりますね。批判する側とされる側が,お互いに敬意をもってやり取りしあう関係を構築することが大切でしょう。それが同僚性ではないですか。批判しあうというよりも,助言しあう関係でしょうか。
「どうして理解してくれないのか」と言われるのは,批判者の側の理解が本当に足りないからかもしれませんし,
「なぜ私の批判を受け入れないのか」という姿勢の批判者の批判など,受け入れたくもないのは当然です。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より