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« 「教育改革=悪」方程式による教師の自己防衛 | トップページ | 教育や学校に対する「保護者の立場」とは? »

なぜ一歩前に出るのか?

 人より一歩前に立とうとする、前向きな人に欠かせないものは何でしょうか。

 現実に流されないための錨とは、何でしょう。
 何をもつことが大切なのでしょうか。

 決して失われることのない報酬とは、何でしょう。
 お金とか、地位ではない報酬を純粋に実感できるチャンスは今です。

 成長していくための最高の方法とは、何でしょう。
 いつも何気なく言葉にしていますが、本当にその実現を願っているかどうかが大事です。

 自分の心の姿勢を映し出す鏡とは、何でしょう。
 だれのために、一歩前に出るのですか。
 それは、仕事を終えたとき、もうひとつ残る別の作品でもあるでしょう。

 力を磨いていく唯一の道は、どんな困難からも逃げないことです。
 
 相手の真実を感じとる力量=共感力をもち、自らと格闘し続ける強い意思をもった人同士、頂上での再会を約束しあって、一日一日の務めを果たしていってほしいと思います。
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教育」カテゴリの記事

コメント

「知らない人が寄ってくることってない」のであれば、いちろうさんがご心配される必要はないのでは?
私の「思想」が広がることをおそれて、コメントをいただいているのですね。
たいへんありがたいことです。
記事がなくなるまで、いちろうさんの仕事も減らないわけですね。

shock
>よほど私の学校の生徒の現状と行く末が気にかかっていらっしゃるようですね。

違うよ!!
自覚して、変な思想を拡げないようにしてほしいだけ。

>「何が」できる、できない、「何の」能力がある、ない、というのは、「何」が変わることでみんな子どもが入れ替わりますから、そのくくりで子どもを評価するのはたいへんな作業になってしまいますが。

障害って、そんな問題じゃないよ。
人とのつながりの希薄さや、
人を理解することの薄っぺらさが感じられてならない。

>不幸なことに、私にも子ども時代から、そんな力が備わってしまっています。

そうなのか?
以前、「しないほうがいいこと」と「してはいけないこと」を一緒にしたらダメだと指摘したにも関わらず、「してはいけないこと」をした人の方の肩を持っていることを自覚されているのであれば、指導者としては不適格だというところまで自覚されてはどうですか?

>本質を的確に見抜ける力が備わっています。

変な色に染まっていなければ、誰にでもあると思うよ。ある意味、知的障害があったり、幼児だったりする方が、くだらないことばやニセの表情に騙されずに見抜けるんじゃないのか?
単純に、暗象には、知らない人が寄ってくることってないんじゃないの?

いちろうさんには、よほど私の学校の生徒の現状と行く末が気にかかっていらっしゃるようですね。繰り返し同じようなご意見をいただいてありがとうございます。

いちろうさんが述べられている「できる人」「できない人」「能力のある人」「能力のない人」というくくりは、何が基準になって設定されるのでしょう。

「何が」できる、できない、「何の」能力がある、ない、というのは、「何」が変わることでみんな子どもが入れ替わりますから、そのくくりで子どもを評価するのはたいへんな作業になってしまいますが。

基本的にはみんなができるようになり、能力がつくことが目標ですが、もちろん障がいが原因でできないことがある子どももいます。
しかし、自分で自分の限界をつくらないよう、「一歩前」を見ることを意識付けるようにしています。

教師は私一人ではありませんし、子どもはさまざまな情報を取捨選択して、自分に意味があるものを探っています。

いちろうさんには同意していただけるかどうかわかりませんが、子どもには教師の本質を的確に見抜ける力が備わっています。
中学校以上になると、大勢の教師を比較できますから、評価も厳しいものになります。

不幸なことに、私にも子ども時代から、そんな力が備わってしまっています。

(;´д`)トホホ…

>常に自分に問い続けられる強い意思をもった子どもを育成したいと考えています。

最初にここへ来たときに何度も繰り返したけど、
世の中には、できる人とできない人がいて、
その差は、努力の差じゃなくて能力の差もある。
知的障害の例をあげたときもすれ違って終わったけど、暗象の「子ども」の範疇は、すべての子どもじゃなく、自分の理屈を理解して実践する子どもだけを対象にしているんじゃないの?
だから、こぼれる子どもも多いだろうし、他の統計と比べて、登校拒否の割合が多いんじゃないのか?…と、指摘しました。回答はいらないよ。ご自分の胸に手を当てて思い返してくれればそれでいい。

昨日東京で、昼食時に塀越しに学校をのぞいて、ふと、先生の動きに目をやっていて気づいた。いつのまにか先生に不信感を持ってあら探しをしていたなぁ…と。

いちろうさんへ。
利己主義を貫くと勝てない競争もあることは、子どもたちがよくわかっていますよ。
子どもたちのつながりができていない学校(すずめ先生の学校のことでは言いません)と、つながりができていて、「一歩先」を目指している学校の違いは、「競争」を後ろ向きにとらえるか、前向きにとらえるかの違いでもあるかもしれません。
「競争」は必ず「負け組」を生むという固定観念は、大人はともかく、子どもたちはまだそこから自由です。
レッテル貼りは大人たちが勝手にしていることが多いのです。
「社会をつくる」高い意欲をもつ子どもの育成を教育基本法や新しい指導要領指導要領は求めていますが、まずは「だれのための一歩か」を常に自分に問い続けられる強い意思をもった子どもを育成したいと考えています。

(ノω・、)
日教組の勉強もずいぶんしてきたけど、日教組のせいで、共同体としての社会が崩れてきたという主張が見られるが、どうもその批判も違っている気がする。
すずめさんのブログでは、子ども同士のつながりをつくって社会人となるように努力している姿が見えるが、ここのブログで子どもに求められているのは、競争をベースにした利己主義に貫かれている。子どもたちは、どんな社会をつくろうとしているのか? どんな社会をつくる大人に育てたいのか? ただ上の人の言うことを聞く“都合の”いい子ならいいのか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より