ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 文科省批判の現場と自己批判の現場 | トップページ | 時数は減っても「総合的な学習の時間」は学校の看板メニュー »

「AよりB」ではなく「AもBも」大切な日本の教育

 日本はさまざまな文化を積極的に受容しつつ、独自の文化も大切にしようとしている国です。
 そして、AがBよりも大切、という価値観の絶対的比較をよしとしない伝統もあるので、結局、AもBも大切、ということになってしまう。
 そのことが、現在の学校への期待の大きさにもつながっているし、実現できていない分、不信感の大きさにもつながっています。

 A=「生徒の自主性を尊重すること」、B=「生徒に必要なことはじっくり教えること」は、ときに両立できない目標になります。

 だからといって、BよりはAを優先すべきだとか、AよりBが重要だとか、学校としてははっきりと主張できない。
 大きなジレンマと言えます。

 こういうときに、たとえばある時期はAを重視する、次の時期にBに重点をおく、などのように、どちらかに偏った指導はしていないということを納得してもらうための手段というのもありますが、いずれにせよ望むべき成果がでない以上は批判の対象になります。

 A=基礎・基本、B=考える力(活用力)と置き換えて見ても同じことが言えます。
 学力の場合、これらのように分離して設定すること自体が誤りだという見方もありますが、以下のようなわかりやすい例で考えることもできます。

 たとえば、基礎・基本を漢字や言葉遣いの正確さという点で捉えると、誤字脱字だらけの作文でも、内容がとてもおもしろく、独自の視点なり独特の感性にあふれた文章というのがある。
 一方、言葉遣いや漢字は正しいのに、内容がほとんどない、自分の考えが見あたらない作文もある。
 日本では、前者・後者、いずれかでよいとは言い切れないのが普通でしょう。
 やはり価値観としては、両方優れているのがいいと思われるに決まっている。
 
 AもBも、両方同時に育成する、そんな夢のような方法は簡単には見つかりませんが、たとえば、黒板でもノートでも、生徒が「書いたもの」を互いに見合って批判しあう、そのようなスタイルの授業というのは効果的かもしれません。
 活字にしたりプリントにするのがたいへん手間がかかり紙代もかさむのですが、書く力、読む力、考える力、自分の意見を表現する(発表したり書いたりする)力が伸ばせる学習活動となります。

 小学校では、意見や発表は活発に行われても、ノートに書かれないために理解が定着せず、「あのときはわかっていたのに」=「あのときはわかったつもりになってしまっていた」ことになってしまうケースをよく見かけました。
 一定の期間が過ぎた後、過去の学習状況をしっかりふり返って、そのとき理解できていたことを再確認したり、実はそのとき理解できていなかったことを確認したりする作業は大切だと思います。

 学習の成果が上がる「学び方」を、子どもたちから学ぶ、というのも大切なことでしょう。 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

« 文科省批判の現場と自己批判の現場 | トップページ | 時数は減っても「総合的な学習の時間」は学校の看板メニュー »

教育」カテゴリの記事

コメント

いちろうさんはたいしたことないことで学校を批判するのは「自己中」だとお思いなのですね。
「苦情慣れ」していない学校や教師はどきっとするかもしれませんが、「動揺」するところまではいかないでしょう。
ともあれ、信頼できる学校と教師に15年もの長い期間かかわっていらっしゃった経験でおっしゃることには説得力がありますね。
いちろうさんのように学校や教師への評価は何年もあったあとに下されるべきものだというどっしりとした考えの保護者の方に囲まれている教育現場は恵まれた環境ですね。

(ノ_-。)
>もしいちろうさんが批判されている私のような教師がいれば、いちろうさんの良心が許さないのでは?

そこまで自己中じゃないって。
私の意見で学校を動揺させてはいけないだろう。
結果として、学校が荒れていたり、
不登校だらけになっていたら、
何とか対策をするように要求はするだろうけど。

あの先生がこうしただの、ああ言っただのという、
どうでもいいことに口出しすることはない。
先生の考え方があまりにも変で、
それがお便りで配られたら批判するかもしれないが、
今までそういう経験はない。
姉弟あわせて、義務教育15年みてきているけど。

「現場に口出しするのはしてはいけないことだ」「その過程に対する口出しは拒否すべきだ」と思われる前提が、「本当にプロの集団であれば」と認識されているようなので、「いろいろお読みになったことをふまえて、ぜひ現場に足を運んでいただきたいと思います。」と申し上げました。
もちろん強制するつもりはございません。
でも、もしいちろうさんが批判されている私のような教師がいれば、いちろうさんの良心が許さないのでは?

( ´_ゝ`)フーン

>満足できること、不満なこと、おかしいこと、すばらしいこと、どんどん担任や校長にぶつけていただきたいと思います。

私は、現場の者でない者が、現場に口出しするのはしてはいけないことだと思っている。現場の入り口と出口を比較し、物事を要求したり工夫を求めることはしても、現場に働く者に対して対応を指示することはダメだと思う。
学校は、そこまで素人の集団なのか? 親や地域の人間なんかの素人の声を聞いてどうする? さらに言うなら、PTA会長だろうが、町会長だろうが、その発言は意見集約をしない限り、一個人の意見であり、バラバラである。統一されていない利己的な意見を聞きますという姿勢が、ダメなんじゃないの?
結果の責任というか、結果の評価は受けるべきだが、その過程に対する口出しは拒否すべきだろう。本当にプロの集団であれば。

どうも、変だ…

>先生というのはたいしたことがないということぐらいかな。だんだん不信の目で見るようになってはきている。

 いろいろお読みになったことをふまえて、ぜひ現場に足を運んでいただきたいと思います。
 満足できること、不満なこと、おかしいこと、すばらしいこと、どんどん担任や校長にぶつけていただきたいと思います。
 いちろうさんほどの熱意があれば、よいところはよりよく、問題であるところはすぐに改善されると思いますが・・・。

┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~

>いちろうさんが、塾の先生の一言一言にそんなに重きを置かれていたことに驚きました。

重きを置くという問題じゃないだろう。
6月の終わりにいくつかの記事とコメントを読んで、
その人間性を理解して指摘したよ。
暗象にもいくつか指摘したと思うが?

塾の講師すべてを否定しているわけではない。
本人の書き込んでいる文字面だけで判断しているわけじゃない。
同じことばでも、文脈で内容は変わるし、
発言のタイミングでも意味は変わる。

先生という人たちは、そういう部分に敏感と思っていた。様々な人がいるといえばそれまでだが、絵の下手な画家や、味のわからない料理人じゃ話にならないことを考えると、先生が人を理解できるかどうかというのは、たいしたことではないのか?

このブログで唯一得たことは、
先生というのはたいしたことがないということぐらいかな。だんだん不信の目で見るようになってはきている。

いちろうさんが、塾の先生の一言一言にそんなに重きを置かれていたことに驚きました。
逆に、重きを置かれているだけ、批判される意欲もわいてくるのでしょうね。
このように人のコメントに無関心でいられない人というのが、今、減ってきていることは、私どもの教育のせいでしょうか。
PISA型学力育成の意味もそんなところから納得できることもあるのですね。

typhoon
>「学校の教師の言うことは聞くべきだ」と子どもにさとされているのでしょうが、塾の先生がそう言うのは問題なのでしょうか?

学校の先生の言うことをすべて聞くべきだとは言わない。無批判に受け入れろというのは、成人させるなというのと同じ意味だと思っている。
ただ文句を言うのではなく、なぜ批判するのか、批判されるのか…という部分を考えるように言っている。

塾の先生が学校の先生の言うことを聞けというのは、ウソだって。点数向上という成果の横取りをしたいとか、自分の指示の方が上だという自慢をしたいだけ。彼のポニョの記事を見てもそれが現れている。
同じものを求めている業者が、他社をほめるというのは、裏があると見るべきでは? もしくは、競争意識のない者のすることでは?
人として育てるには、しなくていいことはしないほうがいいと思うよ。

ここへ来て、これが先生を指導する立場にあった者の発言であり、塾講師の話として読むと、今どきの若者がなぜでてきたのかがわかるような気がしてきた。
自ら未来を切り開いたり、上の者を乗り越えていこうとか、社会を変えよう…なんていう人間は、こういう教育というか思想の中で育てられたら、特殊な部類なんだろうね。

いちろうさんが批判しているPsycheさんの話の中の「塾の先生」と「学校の先生」の関係を、「親」と「学校の先生」におきかえてみるとどうでしょうか。
生徒は、塾で「学校の先生」の問題点をあげ、批判するかもしれません。そもそもそれが塾に通う動機になっている子どももいるでしょう。
たとえば、そこでその批判が正当なものであったとき、「あなたの言うとおりだ。その先生の指導力は問題だ」と相づちをうち、学校の学習への意味を否定し、塾での学習こそが価値があるものだと認識させることが、子どものためになるのか、どうか。
そういう訴えを親の立場で聞いたときは、どのような態度にでるのがよいのでしょう。
公立学校の教師を応援されているいちろうさんは親として、「学校の教師の言うことは聞くべきだ」と子どもにさとされているのでしょうが、塾の先生がそう言うのは問題なのでしょうか?

┐(´д`)┌ヤレヤレ

>学校の先生の指導が入りやすいように塾として動くのは当たり前のことです。

以前、似たようなことを書きましたが、
「したほうがいいこと」と
「しなければいけないこと」の区別が必要では?
塾での成績を上げるために、
学校の先生の力を利用しようと、
協力関係になるためには「したほうがいいこと」
だろうけど、そのために失うものがないの?
人の成長としては、そっちが大事だと思うよ。

何の疑いもなく、そう書けるから、
管理的だとか過保護だと指摘しているし、
だから、その発想で自主性が育つなんて思えない。
分をわきまえることが必要なのでは?

学校の先生の言うことを聞くように指導するのは必要です。子供は生活の大部分を学校で過ごすわけですから、そこでの指導が入りにくい状況は我々にとっても歓迎することではありません。子供の成長を中心に考えれば、学校の先生の指導が入りやすいように塾として動くのは当たり前のことです。

>いちろうさんのおっしゃる「どうしようもない子は排除すればいいだけだから」という不信感に基づく批判は、学校や教師に対しても行われることがあります。

>私はそこまで言っていない。

いちろうさんへ。
失礼いたしました。

shock
>いちろうさんのおっしゃる「どうしようもない子は排除すればいいだけだから」という不信感に基づく批判は、学校や教師に対しても行われることがあります。

私はそこまで言っていない。
身近に、塾や私学を追い出された話はよく聞く。
話の落ちは「お金を返せ」だけどね。
少なくとも私の中では、
公立の学校の先生を否定的にとらえていない。

ただ、自分の中にある排除の理論を自覚していないと、親からの批判を受けた時、その親を批判しモンスターペアレンツに仕立て上げることがあるとは思う。多分に、暗象にはそういう傾向が感じられる。「感じられる」ということは具体の指摘ではなく、いちろうさんの主観にもとづくものなので、何とも答えられません…なんていう回答を考えている姿が目に浮かびますが…  ( ´艸`)プププ

いちろうさんのおっしゃる「どうしようもない子は排除すればいいだけだから」という不信感に基づく批判は、学校や教師に対しても行われることがあります。
生活指導困難校では、出席停止の判断をくださざるを得ないほど問題行動を繰り返す子どもがいますが、学校の処分が、「どうしようもない子は排除すればいいだけ」という受け止められ方をされてしまうほど悲しいことはありません。
子どもの不信感を拡大しないよう、きちんと自らへの行動への反省を促すような指導の努力をしても、本人だけでなく保護者を含めて、教師は「どうしようもない子は排除すればいいだけ」だと考えているのだ、という頑なな信念?をくずすのは容易なことではありません。
学習面に大きなコンプレックスを抱えて不登校傾向にある子ども、人間不信から問題行動を繰り返す子ども、このような子どもに「AもBも」という指導を行うのは難しいです。
しかし、「AはいいからBだけでも」という指導によって改善されるのはまれなので、どうにかして「AもBも」路線の効果的指導を究めていこうと努力しているところです。

sad 非常識?

>>受験学力の向上だけを目標にした「自主性」だと、美術の時間に英語の課題をやるのもOKになってしまいます。

>これを「自主性」と呼ぶかどうかは疑問ですね

呼んじゃダメだろう。
自主性の問題じゃなく、マナーの問題でしょう。
他人を無視することを自主性というのは…。
参加しないのなら自主性で語ってもいいのかな?
それでもなぁ…。

>学校の先生の言うこと聞くように注意します。

ご立派な自主性の指導だこと (o^-^o)
あなたの範疇の出来事以外に口を出しすぎ、
人を評価することを否定している。
先生も塾の講師も人間であり、
それを観察し批判しよりよい人間をめざすのが、
思春期なんじゃないのか?
子どもを自分の思いのままのロボットにすることを求めている人間が、自主性を語っているから、何をしているんだか…と呆れていただけです。

>塾にとっては死活問題ですから、指導者同士の馴れ合いで「子供のせい」にして終わることは絶対にない。

そうだよね。どうしようもない子は排除すればいいだけだから。やめさせるのは評判が落ちるけど、やめていくように仕向けると、いい子ばかりが残り、塾の評判があがるんだよね。それも営業努力!!

>テストの点数を上げる努力をさせることを「極端になりすぎる行為」と批判した教員に対しては、非常に疑問を感じました。

いつのまにか、学校の自主性が教員のエゴに置き換わっているが、日々のくらぞうさんの文を読んでいると、そういうことの決定権というか管理指導は、校長などであって、個々の教員じゃないんじゃないのか?
批判のための屁理屈?

>受験学力の向上だけを目標にした「自主性」だと、美術の時間に英語の課題をやるのもOKになってしまいます。

これを「自主性」と呼ぶかどうかは疑問ですね(笑)内職を活発に行う子供は、相対的に成績が振るわないイメージがあります。やはり成績の良い子供は、授業中の指導者の説明をしっかり聞いています。

ただ、稀に上位の生徒でも学校の授業で内職をしている生徒はいます。そういう子供に理由を聞くと「授業がつまらないから」と。気持ちは分かりますが、学校の指導者をなめてしまっては結局は子供のためになりませんので、学校の先生の言うこと聞くように注意します。


「自主性を尊重しろ」との意見についてですが、塾ではそれについて仲間の講師と言い合うことはありません。はっきり言って、言い合うまでもないのです。結果が出なければ「自分のやり方」を見直さなければならないののは当然です。

講師が「校舎や講師の自主性」云々と奇麗事を並べたところで、結果が出なければ説得力を持ちません。あるいは、今が悪くとも今後に結びつくのだということを周囲を納得させなければ認められません。塾にとっては死活問題ですから、指導者同士の馴れ合いで「子供のせい」にして終わることは絶対にない。

ですから

>調査の結果を無言で子どもに返すのも、一人一人の結果を分析してアドバイスして返してあげるのも、学校の自主性に任されているわけですが、信頼される教師とか学校がどうあるべきかという発想は現場には薄い気がします。

こういった問題が長続きするようなことはありません。自主性の名の下、手を抜く講師は自然と淘汰されます。よく「点数だけが全てではない」と言い訳をされる教員がおられますが、教員が学習指導を重んじずに何を重んじるのだろうと思います。テストの点数を上げる努力をさせることを「極端になりすぎる行為」と批判した教員に対しては、非常に疑問を感じました。

(´ρ`)ぽか~ん
何のやりとりをしているんだか…。

「自主性」と言う名の「強制」か?
指導するということの本質を、
くらぞうは理解して、演じているところがあるが、
Pは全然わかっていない。
限定された場でなされる活動を、
Pは普遍的にとらえている。
人と深く関わったことのない若者の思い上がりだね。
人を選ぶことなく、すべての人を受け入れてみなよ。
無理だろうけどね…。

コメントありがとうございます。
日本という同調性圧力の強い国では、厳密な意味での「自主性の発揮」というのは難しいでしょうね。
受験学力の向上だけを目標にした「自主性」だと、美術の時間に英語の課題をやるのもOKになってしまいます。
また、自主性と協調性は相反する意味ではないのですが、たとえば学習指導要領が改訂されたり、全国的な学力調査が実施されると、「行政は学校の自主性を重んじていない」とか、行政は学校と協調路線ではないことを前提として発言する人たちがいます。
調査の結果を無言で子どもに返すのも、一人一人の結果を分析してアドバイスして返してあげるのも、学校の自主性に任されているわけですが、信頼される教師とか学校がどうあるべきかという発想は現場には薄い気がします。
そこが、行政や保護者、社会人の立場から見ると「異様な世界」「非常識な世界」に見える原因なのでしょう。
「どうせ来年は異動でこの学校にはいないから・・・」なんて教師の声がよく耳に残っています。

私が聞いたのは入試総務室の室長の方なのですが、彼の言葉は去年の3年生の学力が例年ほど高くなかったというものでした。進路選択の自由という意味の自主性ではなく、勉強に取り組む自主性という意味です。下のコースは偏差値60程度で入れますが、そのレベルであれば生徒の自主性に任せてガンガン伸ばすというのは難しいでしょう。灘や東大寺、大阪星光ぐらいであれば、まだ分かるのですけれど。


>「自主性を重んじている」と生徒に感じさせながら実は必要なことをガンガン教えて実践させ、成就感をもたせるというのが私のスタンスですが、子どもができもしない状況で「自主性に任せる」ととられてしまうような態度に出ると「指導の放棄」と見なされますから、力加減とタイミングは実に難しいものです。

大変共感できます。私も自主的に取り組むことを普段授業でも強調していますが、なかなか難しいですね。私の塾は公立の生徒を対象にしておりますので、その苦労は痛いほど分かります。子供が自主的に学ぶようになれば、教育の大きな山は乗り越えたと言ってもよいでしょう。

コメントありがとうございます。
現実の指導には、私も含め、非常にたくさんのタイプやバリエーションがありますね。
子どもとしては教師が画一的でなく、いろんなタイプの人から指導されることで、どこかで「生かされている」「自主性を重んじてもらっている」と感じる場面があることが望ましいでしょう。
学年と活動の内容にもよりますが、「自主性を重んじている」と生徒に感じさせながら実は必要なことをガンガン教えて実践させ、成就感をもたせるというのが私のスタンスですが、子どもができもしない状況で「自主性に任せる」ととられてしまうような態度に出ると「指導の放棄」と見なされますから、力加減とタイミングは実に難しいものです。
「自主性」というのは、そこに「学ばない自由」「Aの教科の授業中にBの教科の課題を行う自由」を含めるかどうかという問題まで幅がある言葉です。

ご紹介いただいた高校の件は、進学実績からわかる「進路選択」の自主性のことなのでしょうか。
「現役で入れるところに進学してしまおう」という生徒が増えると、有名校への進学実績という点で見劣りしてくる可能性がありますね。
そこが人気のバロメーターがある学校というのは、いろんなジレンマを抱えているような気がします。
・・・あるいは、「学力低下」は難関校でも問題になっているのか・・・?

ある精神病患者が言いました。「私は投薬されることにより私ではなくなる」と。教育も同じようなものなのでしょうか。別のものが関わることにより、子供の自由な発想が奪われてしまう…と。私はそうは考えません。教育とは、泥水をよりキレイな水にするためのろ過のようなものだと考えています。

たとえば花を子供に見せて「思うことを自由に書きなさい」と言っても、子供も「自由に書きました」で終わってしまいます。しかしこちらが「花の色はどうだ?」「葉の形はどうだ?」と掘り下げてやると、子供はそれについて目が向く。子供の発想や感覚を磨くことは、積極的な指導者の問いかけがあるからこそと思います。これは訓練とも言い換えることができますね。

「子供の自主性を重んじる」との名目から、積極的な指導から遠ざかるのは「手抜き」でしかありません。問題は指導の「質」です。そして、このような教育ほど手間や時間がかかり、より積極的な指導者の関わりが必要でしょう。

この前、ある進学校の入試説明会に参加したのですが、その学校の昨年度の実績が今までよりも極端に下がってしまったというのです。学長は「改革のための影響だが2・3年後には結果が出る」と言います。私は気になったので説明会のあと関係者をつかまえ、質問したのです。「改革とは具体的にはどのようなものだったのか?」と。

向こうから返ってきた回答は私の予想外でした。「生徒の自主性を重んじる教師が3年生担当に多かったので、生徒に任せることが増えたのです。そうしたら実績が下がってしまったのです」と。これを「改革」などという学長の神経にもびっくりしましたが、まさか偏差値65弱の私立校にこのように考える教師がいるとは…と。

「学長は改革の結果が2・3年後に出るとおっしゃったが、今後も生徒の自主性を重んじるとの理由から生徒に任せることが増える、つまり積極的な指導からは遠ざかると考えてよろしいのでしょうか?」「いえ、以前に戻したいと考えています」

学長の「改革の結果は出る」との説明とは矛盾していますが、私はそれ以上は言わずに会場を後にしました。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/42372164

この記事へのトラックバック一覧です: 「AよりB」ではなく「AもBも」大切な日本の教育:

« 文科省批判の現場と自己批判の現場 | トップページ | 時数は減っても「総合的な学習の時間」は学校の看板メニュー »

2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より