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「学校公開」によって不信の上塗りをする学校

 「開かれた学校づくり」は、学校の閉鎖性・不透明性をくずし、学校改善を進めるための政策なのですが、「改善」の意識のない学校・意欲のない教師が公開すれば、公立学校への不信が募っていくばかりということになります。
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 学校や教師というのは、いかに「評価されたくない」という信念?をもっているか、どうしたら「評価されずにすまそう」としているか、よくわかることがあります。

 ある方のブログに、学校公開に参加した感想が記載されていましたので、了承をいただいた上、ここにご紹介したいと思います。
 文面からは、学校側が「自ら進んで」公開に臨んでいるわけではないこと、「公開」にある一定のメッセージをこめようとしているわけではないことがありありと伝わってきます。

 決して「ごく一部の」学校の様子ではないと思われますので、たいへん参考になりました。

 

学校公開と言っても、中学は小学校ほどたくさんの人たちが来るわけではないのですが、それでも学校選択制度がある以上、普段の様子を知る大事な機会ですね。
 で、校舎に入って、階段を上がって、5分で帰りたくなりました。
 だって、どの教室も、ぴしゃりとドアが閉ざされているんです。(開いていたのは全校でたった1クラスのみ)

 (中略)

 ドアにはめ込まれている窓もすべて摺りガラスだから、教室の中を覗くことは不可能。

 (中略)

 学校公開も、あちこち足を運んでいると、何回かに1回ぐらいは、「うまいなぁ!」という先生や「おもしろい!」と思う授業に出会えるのですが、残念ながら今日は収穫なしでした。
 どこもかしこも、教科書片手に先生が一方的にしゃべり、たまに生徒に読ませ、黒板を写させる。。。旧態依然の授業スタイル。
 「いいかー、この問題わからない人は、勉強が足りないよー」
 なんてかんじで、流されていく。生徒たちの目が、生き生きしていない。
 私が中学生のころも、こんなだったな。学校の授業なんて、つまらなかったもんな。
 あれから20年以上経っているのに、
 その間に、時代はこんなに変わったのに、
 教室は何一つ変わらない風景。
 これじゃぁ、「塾の方がわかる」と生徒たちに言われてもしかたないか・・・・。だからって、学校で塾講師が授業するのを受け入れるって、どうよ?とも思う。
 中学校の先生は、その教科のエキスパートなのですから、そのテーマをいかにプレゼンするか、その教科を学ぶことのおもしろさをいかに伝えるか、もっと真剣になってもいいのでは?
 研修とか、研究会とか、研鑽は研究授業で終わらせるのではなく、日々の授業に生かしてほしいものです。

 (後略)

 学校選択が自由になっても、ほとんどの学校がこのような状態では、選択の意味がない、という主張(学校選択制への反対)もわかりますが、学校に今(昔から)何が一番求められているのか、たいへんよくわかるご感想ですね。

 このような学校で育って、それが当たり前だと思っている教師には、批判されていることの意味すら理解できないのかもしれません。
 「だって、それが公立学校というものですよ・・・」という教師がわずかであることを願いたいものです。

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教育」カテゴリの記事

コメント

学校公開のアンケートで、保護者が自由な意見を書けない理由として、「子どもに目をつけられたらいやだ」「教師をへそを曲げてしまって地域のことに協力してもえなくなるのが困る」というものがあるそうです。
子どもが授業(教師)の評価をする場合も同様なことが言えますね。
第三者機関などからの、基準を統一した評価が必要なのかもしれません。

>点数化できないものまで点数化させることで競争させ覚えさせようとする。「知識をどれだけ詰め込んでも、体験がないと、・・・

この文章で、いちろうさんの「教える」観がよくわかりました。
おそらくご自分が受けた教育をもとに語られていると思いますが、当時と今では学習指導要領がかなり変わっており、「教える」こと、その内容の重点の意味合いが変化しております。

私のコメントでは「点数化して測れるものは限られているわけですが、せめて点数化するものの質・・・」と申し上げているので、「点数化することがふさわしくないもの」は別の議論になりますね。

たとえば、問題解決力の育成をするとき、思考力や判断力についての形成的評価を行うのですが、これは点数よりも具体的な言葉を使って適切な指導を行う必要があります。

入試問題などでは、論述についてどういう採点基準を設けるかというのが課題になるところです。

点数化が難しいこととは、たとえばこういうものを指しています。

weep
>せめて点数化するものの質、そこでの「1点」の質を問う教師でありたいものです。

ここが一番の違いなんだろうね。
点数化できないものの方が、人生では大切だろう。
何を勘違いしているのか、文科省は道徳も国語や数学みたいな教科にして点数をつけようとしていると、週刊誌か何かで読んだ。
明らかに方向性が違う。点数化できないものまで点数化させることで競争させ覚えさせようとする。「知識をどれだけ詰め込んでも、体験がないと、別物に置き換わる…」というのは、オーム真理教の時にコメンテーターの大学教授が言っていた。私もそう思う。

いちろうさんへ。
コメントありがとうございます。

>みんながどうしているのか、みんなのなかでどうなのか…。そういう視点が薄れることを感じて、ビデオ撮影をやめた。

木ではなく森を見る視野というのはとても大切なものだと私も思います。

運動会や文化祭は、テレビの記者会見よりもカメラの数が多いですね。
周囲のことに何の配慮もできず、ビデオ撮りに熱心な保護者はたくさんいます。

・・・確かに、あれだけ高価なものの活躍場所というのも滅多にあるわけではないので、「子どもが主役」の映像を求める気持ちはわからないでもないのですが・・・。

>未来の社会を描き、その中で今の子どもたちがどうしているのかを・・・

現実の競争社会で生きていない教師には、「未来の社会を描く」勘が乏しいでしょうから、どうしても「点数ばかりにこだわる」体質から抜けきれないのでしょう。
1点、2点の差にこだわる教師は少ない(子どもには多い)でしょうが、これが子どもによって数十点の違いがでることについては、簡単に見逃せることではないでしょう。
点数化して測れるものは限られているわけですが、せめて点数化するものの質、そこでの「1点」の質を問う教師でありたいものです。

5009さんへ。
コメントありがとうございます。

たとえばADHDの子どもがいる場合などは、情報刺激を少なくする配慮がいりますから、ドアの状態について一概にこうでなければいけないということは言えません。
そういう場合は、受付のところで一言だけ、「ドアはしまっていますが、どうぞご自由にお入り下さい。途中入室・途中退室もご自由に。」のアナウンスがあれば問題ないわけです。

生活指導で苦労している学校の多くは、学校公開にも消極的だと思われるのですが、外部の人たちが入ると不思議と行儀良くなる子どももいるので、「第三者から見られること」の意義も学校は考えていかなければならないと思っています。

学校側としては、単なる自由記述のアンケートではなく、「どこを見てほしいか」というメッセージをそこに込めてもよいのではないかとも考えています。

「生徒の服装や態度はどうですか」
「挨拶はよくできていますか」
「教師の声の大きさ、明瞭さはどうですか」
など、プラスの評価を子どもや教師にフィードバックできるシステムがあれば、公開の意義も増えるでしょう。

(´~`)。゜○

そんなに親というか、大人の感度は高くない。ただの印象と、自分や我が子にとってどうなのかだけしかみない。
私的なことだが、10数年前になるが、高いお金を出して買ったビデオカメラをやめた。我が子の動きしか見えなくなったから。みんながどうしているのか、みんなのなかでどうなのか…。そういう視点が薄れることを感じて、ビデオ撮影をやめた。

>>危険なのは、「汗をかき」「真摯に誠実に」間違った方法で「頑張っている」姿が見られてしまうことです。

私は技術論じゃなく「間違った方法で→間違った方向で」に置き換えてもらうと、よくわかります。将来の社会を描き、その中で今の子どもたちがどうしているのかを考えずに、点数ばかりにこだわるのは間違いだと思う。

私が、学校公開に参加したときは、すべての教室のドアや窓が開放されていました。
暑い時期でしたから、風通しよくするのが目的だったのかもしれません。
隣のクラスの音が大きかったため、後ろの席では先生の声が聞こえづらく感じました。
授業の途中、隣のクラスの先生の声も気になり、(隣は今、誰かが叱られているんだな)などと、気ををとられたりもしました

先生方がドアを閉めるのは、生徒の集中力が廊下を行き来する人によって邪魔されないようにしようとする配慮からなのでしょうか。
あるいは、先生自身が、授業を他の人に聞かれたくないという心理の表れなのでしょうか。
ドアの開け閉め一つをとっても、人によって様々なとらえ方があるようなので、教育とは難しいものですね。

ドアが閉まっていても、授業が上手いと感じられたのならば、ドアが閉まっている事への不信感は感じないのではないかと思います。

>危険なのは、「汗をかき」「真摯に誠実に」間違った方法で「頑張っている」姿が見られてしまうことです。

確かに、「子どものために頑張っている」と主張している人ほど、手の施しようがない気がします。
ご自身は(頑張っているから、私は正しい)と自己満足していらっしゃるようなので、自分を省みることができないみたいなんですよね。

すずめ先生へ。
コメントありがとうございます。
学校公開では、職員室の机の上・生徒昇降口の靴の状態・廊下で出会った教師に質問したときの応答の仕方の3つをチェックすれば、かなりのことがわかります・・・と以前どこかで紹介した記憶があります。

これらの3つは、学校公開だからと急に改善することが難しいからです。

「学校公開のときだけ、何だかちゃんとした授業をしている気がする、先生がはりきっている気がする」というのはおかしいという考えもあるでしょうが、公開がないと何も変わらないのであれば、短期間でも効果が出ている気がします。

危険なのは、「汗をかき」「真摯に誠実に」間違った方法で「頑張っている」姿が見られてしまうことです。

しかし、そういう態度だけでも保護者の信頼を得られることはできるでしょうから、すずめ先生の主張されるような努力はしてほしいですね。

ちゃかすわけではないですが,学校公開は気候のいいときにやっていただきたい。
件の学校も,夏なら教室の窓も扉も全開だったかもしれません。
真冬の参観日はつらいです。
寒い!
窓だって,扉だって,目張りもしたいくらいです。

学校公開は基本的に積極的にやるべきだと思っています。正直な所をいろんな方に見ていただくことで,教師のやっていることに理解も深まりますし,時には授業に入っていただければもっといい。
去年はこれで保護者と教員の距離がぐっと縮まり,そのあとの連携がうんとうまくいくようになりました。
一緒に子どもを見ていくときには,教員が汗をかく姿をどんどんアピールすべきでしょう。
顰蹙の教員がいることも否みませんが,ほとんどは真摯に誠実に頑張っているのですから。

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  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
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    「子産(下)」より
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    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より