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教育や学校に対する「保護者の立場」とは?

madographosさんからいただいた分析結果について、私なりに補足させていただきたいと思います。

>kurazoh様が,保護者の立場と教師の立場を使い分けられているということです。・・・保護者の見解というのは,自分の子どもの学校を離れては成り立ちません。ですから,教師が,保護者の立場をとって一般論を述べるということは難しいのではないですか。

>ふたつめは,kurazoh様は,他者の見解に対して,過度の一般化あるいは曲解の過ちを犯しておられるということです。私は,「「開かれた学校」否定論」などというものを述べたことはありませんが,あたかもそれが私の立場であるかのようにお書きになるのはどういうことでしょう。

 以上の二点について、二つ目の madographosさんの疑問の答えは、一つ目の閉じた「保護者」観から自然と導き出されるものです。
 保護者は特定の学校の教師にしか教育への要望を語れないというのは、「学校・地域が閉じた空間」であることを前提にした考え方です。
 こういう考え方から、同時に「学校選択自由化」反対論者でいらっしゃることもわかります。
 
>みっつめ。kurazoh様は,固定観念などという言葉を用いて,個々の教師や教育事象の持つ個別性を排除してしまっています。教育改革に疑問をもつ教師には,個々の教育実践に基づくそれぞれ理由があって疑問をもっているのだと思います。これを固定観念などと言ってしまうのは,少々乱暴ではないでしょうか。

 「個々の教育実践に基づくそれぞれ理由があって疑問をもっている」のであれば、当然ながら、固定観念による疑問ではありません。
 私が申し上げているのは、あくまでも「改革をするから教育はますます悪くなる」と責任を学校現場ではなく政策に押しつける信念に従っている人たちのことです。
 madographosさんの想定される学校にはこのような教師はいらっしゃらないようですが、そもそも中教審答申や学習指導要領を読む気のない教師には、「教育改革」反対への論拠を示せといっても、何がどう改革されようとしているのか理解していないので見当はずれの答えしか返ってこないことから、このような呼び方になっています。

>よっつめ。小学校英語については,本当は小中高大を一貫したプログラムの構築が必要なのに,まだそこまで議論が進んでいないうちに必修化がおこなわれたということは理解していらっしゃるようですね。

 英語に限らず、あらゆる教科で「小中高大を一貫したプログラム」などは存在しないでしょう。
 伝統的な国立や私立での「中高一貫」はあったとしても、中高一貫は公立では始まったばかりです。
 大学まで含む一貫教育のプログラムができるのは、いつのことになるでしょう。
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教育」カテゴリの記事

コメント

madographos様。
コメントありがとうございます。
その通りですね。
自律的な学校、教育委員会は実施を検討しているかすでに実践しているでしょう。

「一番の問題は小学校教師の指導力です」,その問題を解決する方策は十分でしょうか。教員養成段階においても,現在,小学校教諭の免許をとるのに,外国語については「外国語コミュニケーション」2単位のみで足りるのです。外国語の指導法等について学ぶことは義務付けられていません。現場の指導力を云々するのであれば,小学校教諭の自助努力にばかり任せるのでなく,外国語(できればネイティブスピーカー)の専科教員を全小学校に入れるか,もしくは指導法講習を悉皆講習で徹底的に行うかといった対応が必要なのではないでしょうか。

madographos様。
ご回答ありがとうございます。
英語の小中接続については、学習指導要領レベルではきちんと考えられていますが、一番の問題は小学校教師の指導力です。
参考になる記事を読んだことがあるので、いつか記事でご紹介したいと思います。

お分かりだと思いますが,教師と保護者に関しては,ブログ上でとる立場のことを申し上げています。
小中高大の一貫性ですが,一貫プログラムと銘打っていなくても,小中高については学習指導要領をよく読めば,その一貫性に配慮されているのはお分かりのはずです。また,大学についても,高校までの学習をもとに教育内容が構築されていることはお分かりのはずです。その意味で,英語に関しては,小中の接続が未熟だと申し上げているのです。
すべて,kurazoh様にはお分かりのことと思いますが,念のため,お答えしておきます。

madographos様へ。
コメントありがとうございます。
madographos様の関係する学校では、教師が保護者として学校へ要望するとき、教師であることを断る必要があるのですか。
学校の裏事情を知っている教師という保護者が学校に要望をしてくるのは、要望された学校の教師としては嫌なことかもしれないのはよくわかっていますが・・・。
「反対論者」というおおげさな言い方は失礼いたしました。
>周りにいらっしゃるその人たちの固定観念をときほぐすことが,中教審答申や学習指導要領を読んでいらっしゃる先生の務めではないですか
直属の上司の務めでしょう。
ただ、その上司も怪しいところが多いのですが。
madographos様のおっしゃる「小中高大を一貫したプログラム」というのは本当に存在するのですか?
しかも一貫教育でないところがつくるとすると、立案者はだれですか?

わざわざエントリーをたてていただく必要もないと思いますが。
さて,私が保護者一般について述べているのではなく,教師が保護者として発言する場合について述べていることにお気づきでしょうか。
また,こんどは,「学校選択自由化」反対論者ですか。よほどレッテル貼りがお好きなようですね。○○論者という呼ばれ方を私は好みません。
kurazoh様は,固定観念にとらわれた教師に囲まれていらっしゃるのですか。そうであれば,彼らを一般論として批判することより,周りにいらっしゃるその人たちの固定観念をときほぐすことが,中教審答申や学習指導要領を読んでいらっしゃる先生の務めではないですか。
小中高大を一貫したプログラムは,一貫教育でなければ無理ですか?少なくとも,他の教科では,完全ではないにしても,校種を超えた一貫性やギャップの乗り越えさせ方が定着しているように思えます。
もうこのぐらいにしておきます。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より