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言葉も人間も完全なものではない

 私もそうですが、ブログのコメント欄を通しての意思疎通・意見交換というのは難しいものであると、多くの方が感じていらっしゃるものと思います。
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 仏教には、このような説話があります。
 
 釈迦が「あなたの教えを短い言葉で説明してください」と言われ、要望に応えたら、相手がわけがわからず腹を立て、帰ってしまった。

 普通の人なら、「だってあなたが短い言葉でと言ったから・・・」と腹を立てるのに、釈迦は平然としている。
 なぜ腹を立てずにいられるのか。

 仏教では、「言葉は完全でない」「言葉は正しくない」ということを前提にしているからでしょう。

 不完全である言葉を、不完全な人間が使うわけですから、相手にうまく伝わる確証はどこにもありません。

 結局、言葉が善意としてとられる場合と、悪意としてとられる場合があるのは、受け手次第ということになります。

 つまり、「お前の言うことは理解できない」ということは、「私はお前の言うことが理解できない人間である」という意味と同じであると考えればよいことになります。

 ですから、「精一杯、理解してもらえるように尽くしたのに・・・」という後悔をしている人がいたら、それは後悔するべきことではなく、「精一杯尽くしたのだから悔やむことはない」ととらえるべきことであるというのと同じようなことでしょう。

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教育」カテゴリの記事

コメント

個性重視という全体主義もありますからね。教育は難しいものです。

投稿: kurazoh | 2008/09/28 11:20

┐(´д`)┌ヤレヤレ
>個性重視の論理が人に迷惑をかけてもいい、人に迷惑をかけなけれな何をしてもいい、わがまま放題な人間を生み出していることに多くの人が気付き初めて、教育への危機感が高まったことが、教育基本法の改正にも読み取れます。

「個性重視」≒「利己主義」という考え方じゃ、
個人主義が育たないはずだね。
そんなに全体主義が好きなのか?
学校行事は北朝鮮の好きなマスゲームが主なのか?

投稿: いちろう | 2008/09/27 18:27

昔は家にいられないので夜遊びや外泊を繰り返したり、家出をした子どもも多かったですよね(都市部だけの話かもしれませんが)。
今は家の居心地がいいのでしょうか。

今、教育は、個性重視から、社会に貢献できる人材の重視へ、転換しようとしていますね。
結局両方大事なのですが、個性重視の論理が人に迷惑をかけてもいい、人に迷惑をかけなけれな何をしてもいい、わがまま放題な人間を生み出していることに多くの人が気付き初めて、教育への危機感が高まったことが、教育基本法の改正にも読み取れます。
個性重視とは、自分だけでなく人の個性も大切にしなければいけないわけで、社会でうまく生きていく知恵やスキルが必要になる、そこで学習指導要領の改訂では、言語活動の重視、問題解決力の育成などが重視されています。
中央集権的国家統制はよほど日本が危機的状況に陥らない限り、教育の世界でもおこらないでしょう。
私が訴えていることは、学習指導要領を自分の頭で解釈できる教師を増やしていきたい、ということで、イエスマンを増やしたいわけではありません。

投稿: kurazoh | 2008/09/26 01:16

∑q|゚Д゚|p
>「個性重視」の学習指導要領の時代の子どもが今の30代、40代なんです。

じゃぁ、今は引きこもりが減っているのか?
実数なら少子化で減りそうだが、
割合で言うと増えているイメージがある。

投稿: いちろう | 2008/09/26 01:01

(`Д´)
>みんながみんな教師に素直に従ってきましたか?

私が子どもの時は、体罰ビシバシの時代で、
よく頬に手形をつけて家に帰りました。
そうして、先生は子どもをコントロールしようとし、
今は、ファッショ的な雰囲気の中で、
こうあらねばいけないと、心を縛っている気がします。
私は、ソ連や中国・北朝鮮の教育は嫌いです。
日本の教育は、中央集権的国家統制の方向に進んでいる気がします。その先鋒を暗象に感じています。

投稿: いちろう | 2008/09/26 00:59

「大人のコントロール下に置く」ことが「必要な成長を阻害する」という話の因果関係がよくわかりません。

たしかにいちろうさんがおっしゃるように、人には個性があり一律ではありませんが、ただ、「個性重視」の学習指導要領の時代の子どもが今の30代、40代なんです。

そもそも、教師のコントロール下に子どもを置くとかいって、みんながみんな教師に素直に従ってきましたか?

投稿: kurazoh | 2008/09/26 00:51

ヤッテラレンワ…ヽ(○´3`)ノ フッ
>危険がいっぱいの学校外で命を落とすことなく、学校内で命を落としてしまったのでしょうか。

子どもの死亡事故は、校外での死亡より、校内での死亡が多いのか? その子、個人のことを指すなら、事故というものの意味がわかっていないとしか思えない。それを言うなら、先のゲリラ豪雨の神戸での死亡事故などの方が、大人の責任を問われるべきでは?

>その後の人生で「成長できない」ほどの悪影響を与えているとおっしゃりたいのでしょうか。

子どもの10年と、大人の10年は違うだろう。
実際、引きこもりの平均年齢が40歳というニュースで驚いて調べたが、会社に馴染めず30歳前後で引きこもりになる若者も多い。
思春期というか青年期というか、その時期に必要な成長を阻害し、大人のコントロール化に置こうというのは、過保護じゃないの?

投稿: いちろう | 2008/09/26 00:33

いちろうさんには、質問ばかりで申し訳ありませんが、

>試験用の勉強を効率良く教えるために、それ以上に躾けや生徒指導だといって、人としての成長を妨げる教育をしている

「人として成長する」のは学校を出てからでもいくらでもチャンスがあると思うのですが、いちろうさんは学校で受けた「過保護・過干渉」がその後の人生で「成長できない」ほどの悪影響を与えているとおっしゃりたいのでしょうか。

だとしたら、教育はその人間が大きくなったときにふり返って・・・などという悠長なことは言っていられませんね。

投稿: kurazoh | 2008/09/26 00:23

なるほど、よくわかりました。
「過干渉」の想定はさまざまにあるでしょうが、いちろうさんの「過保護」は教育基本法等の法令や学習指導要領に沿って教育をすれば、「過保護」になる可能性はありますね。
最初のすずめ先生の記事を通してのコメントからすれ違っていた言葉の使い方がよくわかりました。
しかし、学校内で子どもが命を落とした原因が「過保護・過干渉」であったといういちろうさんの指摘には同意できませんね。
現場で過保護であれば事故は防げたのです。
なぜ「危険察知能力がない」子どもが、危険がいっぱいの学校外で命を落とすことなく、学校内で命を落としてしまったのでしょうか。

投稿: kurazoh | 2008/09/26 00:14

smile
自分の思い通りにしたくて関わりすぎることを「過保護」といいます。また、自分に責任をとれない部分への関わりを「過干渉」と言います。

投稿: いちろう | 2008/09/26 00:05

いちろうさんへ。
いちろうさんの「過保護」という言葉は、「保護し過ぎる」「かわいがりすぎる」という意味ではないようですね・・・。
私は親の「過保護」という言葉は聞いたことがありますが、教師の「過保護」はあまり聞いたことがないので(少なくとも中学校では・・・)。

投稿: kurazoh | 2008/09/25 23:55

┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~

>子どもが求めているものと、求めていないものとはどのように線引きすればよいのでしょうか。

「わからない」と意思表示をするかしないか。いろいろな手段で意思表示ができるようにしてあげることが教育なんじゃないの?

>「何でもかんでも」教える時間は学校にはありません。

試験用の勉強を効率良く教えるために、それ以上に躾けや生徒指導だといって、人としての成長を妨げる教育をしているように読みとれる。このブログを読むまでは、マスコミがつくった虚像と思っていたが、そうでもないようだ。

>今の授業時間で「過保護」と言えるほどの教育ができるのか?

暗象が教えたいことと、私が親として我が子に教えて欲しいことの間に、大きな差があるということ。

投稿: いちろう | 2008/09/25 23:46

いちろうさんへ。
各記事に丁寧なコメントいつもありがとうございます。

>求めていないものに、お前にはこれが必要だからといって何でもかんでも教えようとするのは、過保護だと思う。

子どもが求めているものと、求めていないものとはどのように線引きすればよいのでしょうか。
「何でもかんでも」教える時間は学校にはありません。
今の授業時間で「過保護」と言えるほどの教育ができるのか?
・・・一般的な見方をすればそんな疑問になると思うのですが、いかがでしょうか。

>「教えること」を否定していないが、それが過ぎれば「育たない」ということ。

「教える」のが過ぎるレベルに達すれば、まだ今より子どもはよく「育っている」はずだというのが現場感覚のお答えです。

いちろうさんのような大人が「教える」対象なら別の話でしょうが・・・。

投稿: kurazoh | 2008/09/25 00:49

キョロ(・_・ )( ・_・)キョロ
下のコメント欄に

求めていないものに、お前にはこれが必要だからといって何でもかんでも教えようとするのは、過保護だと思う。求めに応えられない自分を自己弁護するのは、無責任だと思う。

と書いたのだが?
「教えること」を否定していないが、それが過ぎれば「育たない」ということ。暗象的に言うと、それは教育とは言いません、ただの「教」です。

投稿: いちろう | 2008/09/25 00:09

いちろうさんへ
ちょっとタイミングがずれてしまいましたが、いちろうさんの

>わかる人だけがわかるのではなく、みんながわかるようにしていくこと

>「お前の言うことが理解できない人間である」と表明されたら、その人が理解できるように工夫すべき

という主張は、いちろうさんの使われている「過保護」という言葉の意味とどのように異なっているのでしょうか。

投稿: kurazoh | 2008/09/24 22:12

メールや電話のやりとりでは限界があるでしょうね。
顔と顔をつきあわせていれば簡単なのですが。

投稿: kurazoh | 2008/09/23 16:55

。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
〆は最後に書いた
>自己弁護することなく、工夫を重ねるのが先生である…というのではないのか?
なのだが?

求めていないものに、お前にはこれが必要だからといって何でもかんでも教えようとするのは、過保護だと思う。求めに応えられない自分を自己弁護するのは、無責任だと思う。
で、人には、求めるものが何なのか伝える力、他人の求めをくみとる力、そういう力をつけるのが大人の仕事なんじゃないのか? その力を集団の中で育てるのが、学校の役割じゃないのか?
暗象は、そのあたりが未分化な気がする。

投稿: いちろう | 2008/09/23 12:48

まずろさんへ。
コメントありがとうございます。
ここでは現場での話として書きますが、やはり、教育は、言葉だけで何かを変えることはできません。
A先生から「○○さん、私がこの生徒の行動には全責任をもちますから、今回の失敗は許してもらえませんか」と言われてうれしく感じるような生徒でも、B先生に言ってもらって同じようなことを感じるとは限らない。
A先生と生徒には、双方向の気持ちのやりとりがあるから成立する教育も、B先生とその生徒の間のように「一方通行」であると成立しないということです。
生徒が変わると、A先生とB先生の立場は入れ替わるかもしれませんし、両方がA先生、B先生になるかもしれない。
同じ言葉でも、生徒によって受け止め方が100%異なる場合があります。
特に、孤立傾向の高い生徒の場合、たくさんのB先生に囲まれている認識をもってしまい、周囲からの同調性圧力を感じ、耐えられなくなると、その傾向がますます増すことになります。
教師としては、「私を理解してほしい」「私にみんなといっしょの認識ができるよう、教育してほしい」「私もみんなと変わらない、同じ生徒であるということをわかってほしい」「変わり者扱いしないでほしい」というメッセージを受けとめつつ、だからといってその生徒を特別扱いせず、必要なメッセージを送り続けていく、そういうスタンスを私はとっています。
ブログの世界はまた別の話ですが。

投稿: kurazoh | 2008/09/23 09:29

いちろうさんへ。
コメントありがとうございます。
やはり言葉だけのコミュニケーションでは限界があるでしょうね。
いちろうさんにとっては、どこまでいっても「kurazoh」は「kurazoh」ではなく、「暗象」であるということです。
たとえば、入試のときの「面接」の目的は「言葉だけによる情報収集」ではないことは、ただの質問紙調査だけですまさないことからもわかります。
絵画などは言葉よりももっと表現力が豊かなもののうちの一つでしょう。
と同時に、好みがはっきり分かれるジャンルだと思います。音楽もスポーツも似たようなところがあるものでしょう。
ブログについて言えば、これで何かが変わるとは思っていませんし(変わってほしいといは思っていますが)、読んでくださる人がいて、コメントをくださる人がいるだけで満足です。
達成感をこのブログで求めることはありません。
必死に理解する、あるいは否定してくださる方には申し訳ありませんが、やはり「百聞は一見に如かず」ということでしょう。
生徒にも、当たり前の話ですが、学校選択は紙の上の情報だけにたよるな、直接学校を見て、先生方の話を聞いて、肌で感じて決めることにしよう、と指導しています。
匿名性を維持したいブログですから、「どうぞ学校におこしいただいて、疑問の解決を図って下さい」と言えないのが残念です。
コメントでいただく疑問等には今後も答えられる範囲でお答えしていきたいと思います。

投稿: kurazoh | 2008/09/23 09:05

横レス失礼します。

いちろうさん、あなたはこのコメントをされる直前、私のブログのコメント欄にて
>個人の主観に関する部分で、
あなたがたと、共通の認識ができるとは思っていない。
とおっしゃって、kurazohさんや私の問い(kurazohさんが悪意を持ったコメントをされたと感じるのはなぜか)に答えようとなさいませんでした。
この態度と一致しないことを相手に求めるあなた。

>わかる人だけがわかるのではなく、みんながわかるようにしていくことが文化なんだと。「お前の言うことが理解できない人間である」と表明されたら、その人が理解できるように工夫すべきだし、その営みが社会を形成すると。<

全く説得力がありません。
少なくともkurazohさんはあなたに誠実に向き合っておられます。
あなたはご自分の態度を見直し、人に求めるばかりの姿勢に気づくべきです。

投稿: まずろ | 2008/09/23 08:55

o(;△;)o わかるけど、ちょっと違う。

>「私はお前の言うことが理解できない人間である」という意味と同じ

現代美術館へ行ったとき、まったく意味がわからずに、「これは美術作品なのか?」と聞いことがある。すると「わからない人にとってはゴミ。わかる人にとっては芸術。わかる人を文化レベルが高いといいます」みたいなことを言われた。
妙に感心して、確かに私は文化レベルが低い部類だ…と思ったけど、最近、この考えが違うと思うようになった。
わかる人だけがわかるのではなく、みんながわかるようにしていくことが文化なんだと。「お前の言うことが理解できない人間である」と表明されたら、その人が理解できるように工夫すべきだし、その営みが社会を形成すると。
暗象の立場は「精一杯尽くしたのだから悔やむことはない」と自己弁護することなく、工夫を重ねるのが先生である…というのではないのか?

投稿: いちろう | 2008/09/23 04:52

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