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言葉も人間も完全なものではない

 私もそうですが、ブログのコメント欄を通しての意思疎通・意見交換というのは難しいものであると、多くの方が感じていらっしゃるものと思います。
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 仏教には、このような説話があります。
 
 釈迦が「あなたの教えを短い言葉で説明してください」と言われ、要望に応えたら、相手がわけがわからず腹を立て、帰ってしまった。

 普通の人なら、「だってあなたが短い言葉でと言ったから・・・」と腹を立てるのに、釈迦は平然としている。
 なぜ腹を立てずにいられるのか。

 仏教では、「言葉は完全でない」「言葉は正しくない」ということを前提にしているからでしょう。

 不完全である言葉を、不完全な人間が使うわけですから、相手にうまく伝わる確証はどこにもありません。

 結局、言葉が善意としてとられる場合と、悪意としてとられる場合があるのは、受け手次第ということになります。

 つまり、「お前の言うことは理解できない」ということは、「私はお前の言うことが理解できない人間である」という意味と同じであると考えればよいことになります。

 ですから、「精一杯、理解してもらえるように尽くしたのに・・・」という後悔をしている人がいたら、それは後悔するべきことではなく、「精一杯尽くしたのだから悔やむことはない」ととらえるべきことであるというのと同じようなことでしょう。

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教育」カテゴリの記事

コメント

個性重視という全体主義もありますからね。教育は難しいものです。

┐(´д`)┌ヤレヤレ
>個性重視の論理が人に迷惑をかけてもいい、人に迷惑をかけなけれな何をしてもいい、わがまま放題な人間を生み出していることに多くの人が気付き初めて、教育への危機感が高まったことが、教育基本法の改正にも読み取れます。

「個性重視」≒「利己主義」という考え方じゃ、
個人主義が育たないはずだね。
そんなに全体主義が好きなのか?
学校行事は北朝鮮の好きなマスゲームが主なのか?

昔は家にいられないので夜遊びや外泊を繰り返したり、家出をした子どもも多かったですよね(都市部だけの話かもしれませんが)。
今は家の居心地がいいのでしょうか。

今、教育は、個性重視から、社会に貢献できる人材の重視へ、転換しようとしていますね。
結局両方大事なのですが、個性重視の論理が人に迷惑をかけてもいい、人に迷惑をかけなけれな何をしてもいい、わがまま放題な人間を生み出していることに多くの人が気付き初めて、教育への危機感が高まったことが、教育基本法の改正にも読み取れます。
個性重視とは、自分だけでなく人の個性も大切にしなければいけないわけで、社会でうまく生きていく知恵やスキルが必要になる、そこで学習指導要領の改訂では、言語活動の重視、問題解決力の育成などが重視されています。
中央集権的国家統制はよほど日本が危機的状況に陥らない限り、教育の世界でもおこらないでしょう。
私が訴えていることは、学習指導要領を自分の頭で解釈できる教師を増やしていきたい、ということで、イエスマンを増やしたいわけではありません。

∑q|゚Д゚|p
>「個性重視」の学習指導要領の時代の子どもが今の30代、40代なんです。

じゃぁ、今は引きこもりが減っているのか?
実数なら少子化で減りそうだが、
割合で言うと増えているイメージがある。

(`Д´)
>みんながみんな教師に素直に従ってきましたか?

私が子どもの時は、体罰ビシバシの時代で、
よく頬に手形をつけて家に帰りました。
そうして、先生は子どもをコントロールしようとし、
今は、ファッショ的な雰囲気の中で、
こうあらねばいけないと、心を縛っている気がします。
私は、ソ連や中国・北朝鮮の教育は嫌いです。
日本の教育は、中央集権的国家統制の方向に進んでいる気がします。その先鋒を暗象に感じています。

「大人のコントロール下に置く」ことが「必要な成長を阻害する」という話の因果関係がよくわかりません。

たしかにいちろうさんがおっしゃるように、人には個性があり一律ではありませんが、ただ、「個性重視」の学習指導要領の時代の子どもが今の30代、40代なんです。

そもそも、教師のコントロール下に子どもを置くとかいって、みんながみんな教師に素直に従ってきましたか?

ヤッテラレンワ…ヽ(○´3`)ノ フッ
>危険がいっぱいの学校外で命を落とすことなく、学校内で命を落としてしまったのでしょうか。

子どもの死亡事故は、校外での死亡より、校内での死亡が多いのか? その子、個人のことを指すなら、事故というものの意味がわかっていないとしか思えない。それを言うなら、先のゲリラ豪雨の神戸での死亡事故などの方が、大人の責任を問われるべきでは?

>その後の人生で「成長できない」ほどの悪影響を与えているとおっしゃりたいのでしょうか。

子どもの10年と、大人の10年は違うだろう。
実際、引きこもりの平均年齢が40歳というニュースで驚いて調べたが、会社に馴染めず30歳前後で引きこもりになる若者も多い。
思春期というか青年期というか、その時期に必要な成長を阻害し、大人のコントロール化に置こうというのは、過保護じゃないの?

いちろうさんには、質問ばかりで申し訳ありませんが、

>試験用の勉強を効率良く教えるために、それ以上に躾けや生徒指導だといって、人としての成長を妨げる教育をしている

「人として成長する」のは学校を出てからでもいくらでもチャンスがあると思うのですが、いちろうさんは学校で受けた「過保護・過干渉」がその後の人生で「成長できない」ほどの悪影響を与えているとおっしゃりたいのでしょうか。

だとしたら、教育はその人間が大きくなったときにふり返って・・・などという悠長なことは言っていられませんね。

なるほど、よくわかりました。
「過干渉」の想定はさまざまにあるでしょうが、いちろうさんの「過保護」は教育基本法等の法令や学習指導要領に沿って教育をすれば、「過保護」になる可能性はありますね。
最初のすずめ先生の記事を通してのコメントからすれ違っていた言葉の使い方がよくわかりました。
しかし、学校内で子どもが命を落とした原因が「過保護・過干渉」であったといういちろうさんの指摘には同意できませんね。
現場で過保護であれば事故は防げたのです。
なぜ「危険察知能力がない」子どもが、危険がいっぱいの学校外で命を落とすことなく、学校内で命を落としてしまったのでしょうか。

smile
自分の思い通りにしたくて関わりすぎることを「過保護」といいます。また、自分に責任をとれない部分への関わりを「過干渉」と言います。

いちろうさんへ。
いちろうさんの「過保護」という言葉は、「保護し過ぎる」「かわいがりすぎる」という意味ではないようですね・・・。
私は親の「過保護」という言葉は聞いたことがありますが、教師の「過保護」はあまり聞いたことがないので(少なくとも中学校では・・・)。

┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~

>子どもが求めているものと、求めていないものとはどのように線引きすればよいのでしょうか。

「わからない」と意思表示をするかしないか。いろいろな手段で意思表示ができるようにしてあげることが教育なんじゃないの?

>「何でもかんでも」教える時間は学校にはありません。

試験用の勉強を効率良く教えるために、それ以上に躾けや生徒指導だといって、人としての成長を妨げる教育をしているように読みとれる。このブログを読むまでは、マスコミがつくった虚像と思っていたが、そうでもないようだ。

>今の授業時間で「過保護」と言えるほどの教育ができるのか?

暗象が教えたいことと、私が親として我が子に教えて欲しいことの間に、大きな差があるということ。

いちろうさんへ。
各記事に丁寧なコメントいつもありがとうございます。

>求めていないものに、お前にはこれが必要だからといって何でもかんでも教えようとするのは、過保護だと思う。

子どもが求めているものと、求めていないものとはどのように線引きすればよいのでしょうか。
「何でもかんでも」教える時間は学校にはありません。
今の授業時間で「過保護」と言えるほどの教育ができるのか?
・・・一般的な見方をすればそんな疑問になると思うのですが、いかがでしょうか。

>「教えること」を否定していないが、それが過ぎれば「育たない」ということ。

「教える」のが過ぎるレベルに達すれば、まだ今より子どもはよく「育っている」はずだというのが現場感覚のお答えです。

いちろうさんのような大人が「教える」対象なら別の話でしょうが・・・。

キョロ(・_・ )( ・_・)キョロ
下のコメント欄に

求めていないものに、お前にはこれが必要だからといって何でもかんでも教えようとするのは、過保護だと思う。求めに応えられない自分を自己弁護するのは、無責任だと思う。

と書いたのだが?
「教えること」を否定していないが、それが過ぎれば「育たない」ということ。暗象的に言うと、それは教育とは言いません、ただの「教」です。

いちろうさんへ
ちょっとタイミングがずれてしまいましたが、いちろうさんの

>わかる人だけがわかるのではなく、みんながわかるようにしていくこと

>「お前の言うことが理解できない人間である」と表明されたら、その人が理解できるように工夫すべき

という主張は、いちろうさんの使われている「過保護」という言葉の意味とどのように異なっているのでしょうか。

メールや電話のやりとりでは限界があるでしょうね。
顔と顔をつきあわせていれば簡単なのですが。

。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
〆は最後に書いた
>自己弁護することなく、工夫を重ねるのが先生である…というのではないのか?
なのだが?

求めていないものに、お前にはこれが必要だからといって何でもかんでも教えようとするのは、過保護だと思う。求めに応えられない自分を自己弁護するのは、無責任だと思う。
で、人には、求めるものが何なのか伝える力、他人の求めをくみとる力、そういう力をつけるのが大人の仕事なんじゃないのか? その力を集団の中で育てるのが、学校の役割じゃないのか?
暗象は、そのあたりが未分化な気がする。

まずろさんへ。
コメントありがとうございます。
ここでは現場での話として書きますが、やはり、教育は、言葉だけで何かを変えることはできません。
A先生から「○○さん、私がこの生徒の行動には全責任をもちますから、今回の失敗は許してもらえませんか」と言われてうれしく感じるような生徒でも、B先生に言ってもらって同じようなことを感じるとは限らない。
A先生と生徒には、双方向の気持ちのやりとりがあるから成立する教育も、B先生とその生徒の間のように「一方通行」であると成立しないということです。
生徒が変わると、A先生とB先生の立場は入れ替わるかもしれませんし、両方がA先生、B先生になるかもしれない。
同じ言葉でも、生徒によって受け止め方が100%異なる場合があります。
特に、孤立傾向の高い生徒の場合、たくさんのB先生に囲まれている認識をもってしまい、周囲からの同調性圧力を感じ、耐えられなくなると、その傾向がますます増すことになります。
教師としては、「私を理解してほしい」「私にみんなといっしょの認識ができるよう、教育してほしい」「私もみんなと変わらない、同じ生徒であるということをわかってほしい」「変わり者扱いしないでほしい」というメッセージを受けとめつつ、だからといってその生徒を特別扱いせず、必要なメッセージを送り続けていく、そういうスタンスを私はとっています。
ブログの世界はまた別の話ですが。

いちろうさんへ。
コメントありがとうございます。
やはり言葉だけのコミュニケーションでは限界があるでしょうね。
いちろうさんにとっては、どこまでいっても「kurazoh」は「kurazoh」ではなく、「暗象」であるということです。
たとえば、入試のときの「面接」の目的は「言葉だけによる情報収集」ではないことは、ただの質問紙調査だけですまさないことからもわかります。
絵画などは言葉よりももっと表現力が豊かなもののうちの一つでしょう。
と同時に、好みがはっきり分かれるジャンルだと思います。音楽もスポーツも似たようなところがあるものでしょう。
ブログについて言えば、これで何かが変わるとは思っていませんし(変わってほしいといは思っていますが)、読んでくださる人がいて、コメントをくださる人がいるだけで満足です。
達成感をこのブログで求めることはありません。
必死に理解する、あるいは否定してくださる方には申し訳ありませんが、やはり「百聞は一見に如かず」ということでしょう。
生徒にも、当たり前の話ですが、学校選択は紙の上の情報だけにたよるな、直接学校を見て、先生方の話を聞いて、肌で感じて決めることにしよう、と指導しています。
匿名性を維持したいブログですから、「どうぞ学校におこしいただいて、疑問の解決を図って下さい」と言えないのが残念です。
コメントでいただく疑問等には今後も答えられる範囲でお答えしていきたいと思います。

横レス失礼します。

いちろうさん、あなたはこのコメントをされる直前、私のブログのコメント欄にて
>個人の主観に関する部分で、
あなたがたと、共通の認識ができるとは思っていない。
とおっしゃって、kurazohさんや私の問い(kurazohさんが悪意を持ったコメントをされたと感じるのはなぜか)に答えようとなさいませんでした。
この態度と一致しないことを相手に求めるあなた。

>わかる人だけがわかるのではなく、みんながわかるようにしていくことが文化なんだと。「お前の言うことが理解できない人間である」と表明されたら、その人が理解できるように工夫すべきだし、その営みが社会を形成すると。<

全く説得力がありません。
少なくともkurazohさんはあなたに誠実に向き合っておられます。
あなたはご自分の態度を見直し、人に求めるばかりの姿勢に気づくべきです。

o(;△;)o わかるけど、ちょっと違う。

>「私はお前の言うことが理解できない人間である」という意味と同じ

現代美術館へ行ったとき、まったく意味がわからずに、「これは美術作品なのか?」と聞いことがある。すると「わからない人にとってはゴミ。わかる人にとっては芸術。わかる人を文化レベルが高いといいます」みたいなことを言われた。
妙に感心して、確かに私は文化レベルが低い部類だ…と思ったけど、最近、この考えが違うと思うようになった。
わかる人だけがわかるのではなく、みんながわかるようにしていくことが文化なんだと。「お前の言うことが理解できない人間である」と表明されたら、その人が理解できるように工夫すべきだし、その営みが社会を形成すると。
暗象の立場は「精一杯尽くしたのだから悔やむことはない」と自己弁護することなく、工夫を重ねるのが先生である…というのではないのか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より