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« 「謝ってあげているのになぜ?」という発想 | トップページ | 「怒りのもと」を吸い込むスポンジ »

ブログに注ぐエネルギーの根源

 どこかで書いたことかもしれませんが、私は大人から自分自身のことについて罵詈雑言・誹謗中傷を浴びせられても、「法令違反をしている」など職業倫理にかかわることで事実無根のことを言われる以外は、滅多に怒ることはありません。

 ただし、学校現場で何か問題がおこったときに、自分の仕事を棚に上げて、「子どものせい」「親のせい」「子どもが悪い」「親が悪い」という発言をする教師だけは絶対に許せません。

 そういう逃げを、自分自身がとってしまいそうになることもあります。
 しかしそのような逃げは、絶対に避けなければならないことです。

 「権威」がなくなった教師は、信頼される努力を積み重ねていかなければなりません。そのためには、不信の原因になる要素をすべて取り除く必要があります。
 失われた信頼の「回復」「修復」ではなく、完全なる「再建」「建設」です。

 そのエネルギーが自分のブログに注がれています。
 にほんブログ村 教育論・教育問題
 
 「子どものせい」「親のせい」「子どもが悪い」「親が悪い」という教師の話を子どもが読んだり聞いたりすれば、どんな気持ちになるかを考えさせすれば、だれにでも感じるものがあるのでは。

 なお、教師でない一般の方が、「子どものせい」「親のせい」「子どもが悪い」「親が悪い」と言っても、怒りはわいてきません。
 職業癖のようなものでしょうか。

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教育」カテゴリの記事

コメント

いちろうさんにはすでにお願いのコメントを入れさせていただきましたが、今後、Psycheさんもおっしゃるようにマナーに関わることや記事と無関係の内容についてはお知らせした後、対処させていただきます。

記事と関係のないコメントに終始することをあなたが嫌がるのはわかります。ですから私のここで数日前に言ったはずです。

>基本的にいちろうさんの揶揄コメントというのは、指導してこれから成長させていこうとする子ども達を相手にするのとは決定的に異なります。彼は20日2時28分にも、まずろさんのところで指摘された卑猥な言葉をハンドルネームにして、相変わらず揶揄のコメントを入れてきました。そのような彼に付き合うメリットは私は感じませんし、不毛な時間の浪費でしかありません。

横レスを含め、マナーを守ればOKとおっしゃいますが、マナーを守らない相手が横レスをしてくるのに対して全て受け流せという意味なのでしょうか。マナーを守ってコメントをしろというのは妥当であると思いますが、そうおっしゃるからにはマナーを守らない参加者には厳しく対処してからが順序というものでしょう。

横レスを含めて、本文記事の内容に関連のあるコメントについては、一定のマナーをお守りいただければ、いつものようにどうぞご自由にお願いいたします。

読んでいただければご理解いただけると思いますが、私は記事に関するコメントを残しております。しかしいつも横槍が入るため、本筋とはズレてしまったやり取りになってしまうのですね。

横槍は流せとおっしゃるのであれば今後はそのようにさせていただきますが、そうであれば横槍に対してもしっかり管理していただきたい。それが行われず「記事に関連性のないものは削除」とおっしゃれば、意見は活発に述べられずモチベーションの観点からも低下するものと思われます。

いちろうさん、Psycheさんへ。
記事の内容とかかわりのない内容については、一定期間が経過した後、削除させていただきますので、必要があればバックアップ等をお願いします。
わだかまりがなくなるのは難しいかもしれませんが、もし「相手は絶対に理解できないことだ」「分かり合おうとは思わない」というお考えであれば、コメント自体に意味はないことになりますから、そのような内容についてのコメントは今後お控え下さい。
よろしくお願いいたします。

( ´,_ゝ`)ハイハイ

これは相手にしてもいいのかな?

>卑猥な言葉を用いたこと、そしてホストにちょうど九州の地名が記載されていたことからもそれが分かります。

私は夢遊病者ですかね。2人部屋で一緒にいたひともいるんだけど、そんなことを言いあっても水掛け論ですよね。

>それらはすべて、以前投稿された、あなたのホストと一致しているのです。

へぇーっ。すべてなんだ。

>「じろう」でしか書き込みをしていないとおっしゃいましたが、それは嘘です。

ここでも情報操作をしているけど、「じろう」以後投稿制限を受けて、そのあと2つ投稿したと言ったハズだか? 2つを0にされてしまったね。何も書かずに送ったのがあって、それにはデフォルトの「ここに書き込みます」(?)みたいのがあったと思うが?

いいえ、昨夜コメントを入れられたのはあなたです。卑猥な言葉を用いたこと、そしてホストにちょうど九州の地名が記載されていたことからもそれが分かります。そして、あなたはまずろさんのところで「じろう」でしか書き込みをしていないとおっしゃいましたが、それは嘘です。「必見!!」「000」「口だけ」など、その他多くのハンドルネームを用いて揶揄コメントをされております。それらはすべて、以前投稿された、あなたのホストと一致しているのです。

いいえ、別に私はここであなたを追及するつもりはないのです。仮にそのホストを載せた画像を証拠として差し出しても、「それは捏造である」と言い切ることも可能でありましょう。ましてやそれが証明できたところで、あなたをやり込めることにしかなりませんし、私はそういった見苦しいやり取りに終始するつもりはないのです。

あなたはこれまで、相手を揶揄した内容や、相手の名前を揶揄した形で表現されてこられました。これはあなたが何と言おうと動かしがたい事実です。これらについて反省し、自らの意思で改善することがない限り、私はあなたと同じテーブルにつくことはありません。そのような方と議論したところで、まったく意味を持たないのですから。

w(゚o゚)w
九州へ行っている間に、いろんな人が現れて…。
ここも賑わってきましたね。 (^0^)

やたら長くなって、コメントをつけるのが面倒なんだけど、ちょっと見逃せないのが一つあるので…

>彼は20日2時28分にも、まずろさんのところで指摘された卑猥な言葉をハンドルネームにして、相変わらず揶揄のコメントを入れてきました。

私のことを嫌いなのはわかるけど、
このコメントは何なんだろう?
内容もわかりませんが、
20日の午前2時は、
ネットができる環境にありませんでした。
私に対して最初につけたコメントをお忘れですか?
>議論という場において批判するのではなく
>思い込みだけで発言するのは控えた方が賢明でしょう。
私は、自己に課しているものと、
他人に課すものの差が大きすぎるとの指摘もしてきました。
覚えていますか?

5009さんへ。
コメントありがとうございます。
言葉の「鏡効果」という話をお聞きになったことはありますか。
相手に送った言葉は、鏡に当たって跳ね返る光のように、自分自身を照らす光になります。
いじめ問題への対処については、「いじめをしている人の心も大きく傷ついている」ことを前提にした指導が必要になるのですが、この例とは逆に、よりよい人間関係づくりの指導には、よい言葉の「鏡効果」を活用することがあります。

私がどのような実践をし、それに基づいてどういう文章を書くにしろ、それにふれて感じる人の心のあり方がすべての評価を決定することになります。

拙い記事から5009さんが評価できる部分を拾っていただいてありがとうございました。

HNを間違えてしまい失礼しました。
kurazohさんでしたね。

kurazouさんは、文章もコメントも、いつも平静(平常心)で感心させられます。
感情的で理性を失い、時には道を外れてしまうような人間は、教師にはふさわしくないと思いますので、
私にとって、kurazouさんは、尊敬すべき教師です。
教師や親が、いつも平静で安定していることが、子どもにとって一番大事な事だと思います。
平静や安定は、簡単なようで(私には)すごく難しいんですよね。

いつも安定しているように見える人でも、
その安定が、相手を攻撃したり、け落としたり、無視したり、裏で策略したり、逃げることによって得られた安定の場合もあります。
kurazouさんは、攻撃も策略も無視も逃げもせず、ただ正々堂々誠実に向き合い、常に平常心でいらっしゃり、すごい方だと感じております。

いつも平静で水晶玉のような心のkurazouさんでさえ、吸い込んでしまうものが学校にたくさんあるのですね。
kurazouさんでさえそうおっしゃるのだから、多くの学校の先生が、心の病気になってしまうのもうなずけます。

「ネガティブなものをパワーに変える」
いい言葉ですね。


ありす様へ。
お見苦しい点が多々あったことをお詫び申し上げます。
ありす様から見て、特に気になった箇所をご指摘いただけると幸いです。
よろしくお願いいたします。

>ネガティブなものをパワーに変える楽しみを感じられないと、教師はつとまりません。

上記のようにおっしゃるkurazohさんの、現場指導に対する熱い思いや力強さを垣間見ることが出来るのですが、基本的にいちろうさんの揶揄コメントというのは、指導してこれから成長させていこうとする子ども達を相手にするのとは決定的に異なります。彼は20日2時28分にも、まずろさんのところで指摘された卑猥な言葉をハンドルネームにして、相変わらず揶揄のコメントを入れてきました。そのような彼に付き合うメリットは私は感じませんし、不毛な時間の浪費でしかありません。あなたにはそれ以上の深い考えがおありなのだとは思いますが、せっかくの貴重なメッセージを発信し続けるエネルギーが磨り減ってしまわないかが心配です。

kurazoh様
ここ数日のコメントからうかがえるkurazoh様の人間性に甚だ疑問を感じています。揶揄に厳しく対処するPsycheさんと一緒になり揶揄を繰り返しています。
教師たるもの人の上に立たねばならないという気概は理解できます。しかし、あまりにも大人気ない。
いちろうさんに問うていますが、kurazoh様のコメントは、お二人のお子さんに見せることができるのですか。
以前のように熱い思いを客観的でクールな文で被った記事やコメントに戻してください。

いちろうさんには、「管理者」からの言葉を受けても、ご自分で反省すべきことはなかったとお考えですか。
私にはともかく、コメント欄に意見を下さる他の方を呼ぶときにはハンドルネームを使うのが最低限のマナーでしょう。
また、他人のブログの中で、対話を拒んでいる相手に挑発的な言葉を投げかけ続けることも、慎むべき行為だと考えております。
「私はともかく」と言ったときに、「じゃあ、あいつはそのままでいいのだ」としかとらえられないことも残念ですが、そういう方の存在も記録に残しておく価値があるという判断で、今のところは投稿制限や削除などはかけずにおります。
私が謝罪したのは、まずろさんのところで言葉遣いを改めてコメントされているいちろうさんを見て、「kurazoh」からの注意でも聞き届けていただけたのだなと気づき、私がブログを管理しコメントを削除できる立場であることを強調した「管理者」という名前を使う必要がなかったことがわかったからです。
改めていちろうさんへのお願いですが、コメント欄は、不特定多数の方がお読みになる公的な性質をもっているものなので、読まれる方が不快な思いをされるような言葉遣い(何がそれに当たるのかは自己判断でお願いいたします。まずろさんもおっしゃっていましたが、ご子息がお読みになって、がっかりされるような言い回しなどです)はおやめ下さい。

( ´,_ゝ`)ハイハイ
>誤解が解けたのですからもうよいように思います。

人の意図を汲むことができないのですね。
私は終始一貫し、違う名前で投稿した理由を問うています。法令違反だの、誤解したなどというのは、話の流れの中で、暗象に理由を問うための手段です。
ということで、私的には何も解決しておりません。

横やりを制限したり、
奨励するかのように扱ったり、
その基準が自己中であるという指摘も、
2ヶ月前からしてきています。
横やりの基準についてもお願いします。

公開はしませんが、私に対する「いちろうさん語録」というのをまとめると教訓の書ができそうです。

前任校などで私が受けた「生徒語録」というのは、今でも耳に残っているものがたくさんあります。
ネガティブなものをパワーに変える楽しみを感じられないと、教師はつとまりません。

Psycheさん、ご配慮ありがとうございます。
いちろうさんはまだ「法令違反」にこだわっていらっしゃるようなので、お見苦しいかとは存じますが、もう少しお付き合いさせていただきたいと思います。
私の学校には、いちろうさんのように信念のしっかりした生徒が多く、とことん話しこむのも楽しいものですから、つい・・・。
その生徒たちは、教師に対して批判的なのに、いつもすぐ話しかけてくれるのでうれしくなってしまうのです。

端から見ていて申し訳ないのですが、管理者がkurazohさんであり、誤解が解けたのですからもうよいように思います。それをさらに追求続けるあたりに、相手をやり込めることを目的とした意図を感じます。誤解が解けた以上、相手を追及しても不毛なだけです。

ここから先はkurazohさんに向けたものですが、塾にも理解しがたいクレーマーというのはいます。このようなときの教室管理者の姿勢は大切です。

塾は保護者や生徒の要望に出来る限り応えますが、無理難題を押し付けられた場合はどのような対応をするのがベストなのか。丁寧で謙虚な対応は一見誠意あるものに見えますが、私の知る限りそれがよりいっそうクレーマーの態度を助長したケースは多い。そういえば昔、kurazohさんが「クレームは分類できる」と記事でおっしゃったいたことを思い出しました。燃えるものであったり、再利用できるものであったり…と。

教師は、一方的に指摘する前に、子どもを言い分を聞きます。
いちろうさんを子どもに見立てて恐縮ですが、いちろうさんが「反省すべき」と自覚されていることは何ですか?

┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~
>いちろうさんに反省を促すという目的でとったもの

>ここでは単にへそを曲げていらっしゃるだけだと思い、投稿制限をかけておりません。

1.私が反省しなければいけないのは何か
2.反省しなければいけないことがあるのであれば、
  指摘するのが先では?
  子どもに対しても、
  注意せずに、突然叱りだすのか?
  (ヒステリックな先生ならそうかもしれない)

「管理者」という投稿名は、コメントをやりとりしていたkurazohの立場ではなく、ブログを管理運営する立場からいちろうさんに反省を促すという目的でとったもので、人間は同じであることが(私には)明白ですから、ダブルハンドルネームを使用したという認識はもっておりません。
管理者を「暗象」と呼べてしまうほどの方ですから、「kurazoh」の立場から何を言っても無駄だという私の誤解があったことに気づき、謝罪をさせていただきました。
まずろさんのブログではモラルを守っていらっしゃるので、ここでは単にへそを曲げていらっしゃるだけだと思い、投稿制限をかけておりません。

(lll゚Д゚)
>いちろうさんは何の「過ち」も犯していませんよ。

ん。もちろん私もそう思っている。
で、そういう私に対して、暗象が行った行為に対して、私は「法令違反をしている」と指摘しました。いろいろやりとりがあり、暗象は「遺憾であり、たいへん申し訳なく存じます」と書きました。
自らが行った行為を、法令に反すると認めたから、遺憾の意を表したと思いました。
なのに「「法令違反をしている」など職業倫理にかかわることで事実無根のことを言われる」と、この記事に書いてきたので、コメントをつけました。

しつこいようですが、投稿名を変えた理由をお願いします。

いちろうさんは何の「過ち」も犯していませんよ。
もしご自身で自覚があるようでしたら教えて下さい。
一方的な理解や誤解に基づく決めつけ的な発言も、「過ち」であるとは言えません。
マナーに反するようなことも。

子どもに対する教師の「役者」としての演技にはバリエーションがたくさんあるわけです。
異なる立場からのコメントなら反省していただける方だということがわかり、ほっとしているところです。

( ̄ー ̄)ニヤリ
>自らの過ちに気付かせるために、教師は「役者」として演技することが多いです。

私の“過ち”とは何ですか?

自らの過ちに気付かせるために、教師は「役者」として演技することが多いです。
いつもこの「演技」につき合っていただいて、いちろうさんにはありがたく思います。

( ´,_ゝ`)ハイハイ
>「法令違反をしている」など職業倫理にかかわることで事実無根のことを言われる以外は、滅多に怒ることはありません。

なんで同じ人間として書けるのか…
ダブハンでもなんでもしたら?

>勘違いされたいちろうさんが心痛を受けられたことは遺憾であり、たいへん申し訳なく存じます。

正に職業倫理の問題だが、
勘違いした私が悪いのか、
勘違いさせた暗象が悪いのか?
勘違いさせるために、わざわざ投稿名を変えた自分の倫理観は、どうなの?
素朴に、私への対応手法をみていると、
子どもを指導できるとは思えないのだが?
子どもは暗象の仮面に騙されると信じているのか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より