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目が覚めた?小学校教師

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 ときどきとんでもない誤解を世間に広める大学教授(元小学校教諭)がいて、あるコラムでこんなことを書いていました。

 ある中学教師から、「ゆっくりで丁寧な指導がいいとあなたは思っているだろうが、それに慣れた子どもは3倍のペースで進む中学校の授業についてこられなくなる」という批判を受けて、「おかげで、目が覚めた」と。

 何に気付いたのかが明確にはわからないのですが、中学教師から話を聞くまで、中学校の授業を参観して(していないかもしれません)、その課題に気付いていなかったことは明らかです。

 その後に続く言葉にもびっくりしました。

 「教師の善意は子どもをだめにする。」
 ・・・先日の記事(コメントでしたか?)通りの教師です。

 とにかくこの方の中学校教育に関する発言は、はてなものが多いのです。

 中学校の定期考査では、小学校間や学級間で平均点が相当に違う、それも10点程度は普通で、20点くらい違うことも珍しくない・・・(!!)

 あり得ないことでしょう。

 関西の中学校ではこれが本当に珍しくない現象なのでしょうか?

 普通、中学校でクラス編成をするときは、小学校の成績(3段階で、かつ、あまり信憑性もないのですが)をもとに基本的には分けていきますから、学級間の学力格差がそれだけ広がることはないでしょう。

 もし仮に、1組の平均が80点で2組が60点だとすると、これは明らかに異常事態です。

 また、この先生は、「日本の教育の欠陥は中学校に集中的に表れている」ため、「日本の教育をよくするには、中学教師にいい授業をしてもらわないといけない」と主張しています。
 何に目が覚めたのか?
 こういう主張なので不明確なのです。

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教育」カテゴリの記事

コメント

東京は人口が多いために、もともと狭い地域に細かい学区域が指定されていました。
かつては議員の口利きによって、「指定校変更」が実施されてきた経緯もあったようです。
通常は「いじめ」「人間関係の問題」などの対応のため、「避難的措置」として実施されていたのが「指定校変更」でした。
学校選択という規制緩和によって、学校を選んだ責任の在り方というのも議論することができるようになりました。
「選んだ」保護者・子どもと「選ばれた」学校・教師の関係が生まれた意義は大きいものであると考えています。

( ´,_ゝ`)ハイハイ
>強制と無知を乗り越えた「選択」にこそ、責任の根拠が生まれます。

東京は早くに導入したけど、
よい結果が出ているのか?
それとも、無知を乗り越えられずに、
失敗しているのか?

学校選択の視点は自由なものです。
すべての希望がかなうという学校はないでしょう。
強制と無知を乗り越えた「選択」にこそ、責任の根拠が生まれます。

。゜゜(´□`。)°゜。
学校選択の視点は消えたのかよ…。
一方からしか見れない方ですか?
せめて、二方向から見てほしいのだが?

人権教育を推進すれば、すべての問題がただちに解決するというわけではありません。
それでも人権教育だけは、どの学校も、そして問題が深刻な地域こそ、生命線として取り組むべき課題であり、そこに自信がない、などという学校はさすがに少ないでしょう。
「推進」と「解決」をいちろうさんは混同されていませんか?
人権問題の解決が大きな課題であることは確かですが、それは社会全体で取り組む問題であり、学校ではその解決に向けて必要な基礎を培っていく教育が大切なわけです。

┐(´д`)┌ヤレヤレ
これでコンテンツ勝負とは…

>関西の中学校ではこれが本当に珍しくない現象なのでしょうか?
 ↓
地域間の格差・学校選択
 ↓
地域の差が、先生の努力で解消されたら、
部落問題なんて歴史の彼方だろうに…。
 ↓
人権教育の推進にかけては自信をもっている学校が多いことでしょう。
それが生命線になるわけですから。

この流れでの上の文は、
「人権教育は道徳教育と同様に、学校におけるすべての教育活動ですべての人がかかわって実践すべき内容ですから、「生命線」と言えます。」
とは、違うでしょう。

もしかしたらまた、「人権教育」の意味に食い違いでもありましたか・・・?

w(゚o゚)w  w(゚o゚)w  w(゚o゚)w
>人権教育の推進にかけては自信をもっている学校が多いことでしょう。
>それが生命線になるわけですから。

と書いた文章が、

>人権教育は道徳教育と同様に、学校におけるすべての教育活動ですべての人がかかわって実践すべき内容ですから、「生命線」と言えます。

では、全く意味が違うんだけど?
なんでごまかすかなあ〜。

人権教育は道徳教育と同様に、学校におけるすべての教育活動ですべての人がかかわって実践すべき内容ですから、「生命線」と言えます。

(-。-)y-o0O

>それが生命線になるわけですから。

このことばに象徴される
暗象の考え方を指摘したのだが?

「客寄せのため」の人権教育とは、具体的にはどのように実施するものなのでしょうか。
弁護士や裁判官、NPOで活躍している人を呼んで、人権に関するパネルディスカッションを開いたり、そういう「イベント」をするという意味でしょうか。
そういうイベントをするにしろ何にしろ、「人権教育」が進んでいるかどうかは教師や子どもを見ればよくわかると思います。

「社会を変える」ための人権教育とは、学校という枠を越えた活動をするという意味でしょうか。

学校の教師はただでさえ多忙ですから(これはいちろうさんもよくご存じのようですが)、まずは校内における人権教育に注力していくのが限られた時間の中でできることであり、優先的にやるべきことでしょう。

もちろん余裕があれば、人権作文のコンクールに応募したり、「中学生の主張」などで活動をアピールすることもできるでしょうが、少数の生徒の大きな生徒よりも、多くの生徒の少しの進歩からめざした方がよいと思います。

「客寄せのために頑張っている人は、違う学校へ行ったら変わる」

学校はPR活動が苦手ですから、こういう先生がある学校で大きな成果を出したとしたら、次の学校でも生かせるかもしれません。

人権教育の中身が、進学してくる生徒や保護者にとって信頼できるものと映るかどうかは、説明会等で学校に入ったときの雰囲気、公開授業での教師と子どもとの間のやりとりなどでよくわかると思います。

(¥_¥)
>目指しているものは同じです。

結果として同じものを求めているのはわかるよ。
なぜそれをするのかという部分で、
客寄せのためか、
社会を変えようというためか、
随分前から、その違いを指摘してきています!!

客寄せのために頑張っている人は、
違う学校へ行ったら変わるでしょ。

いちろうさんへ
いつもコメントありがとうございます。
学校における人権教育は、いちろうさんのおっしゃる「人権活動」ほどのことはできていないかもしれませんが、目指しているものは同じです。

(゚Д゚)ハァ?
>それが生命線になるわけですから。

このあたりの感覚の冷たさがなあ…。
人権活動をしている人を何人か知っているけど、
本気で社会を変えようと頑張っているよ。

子どもの教育に携わるものが、
人権教育を客寄せの手段みたいに言うのが、
何とも言えず寂しいところです。

暗象のこういう感覚が、「教育を目的」にせず「教育を手段」にしているように感じさせる。

人権教育の推進にかけては自信をもっている学校が多いことでしょう。
それが生命線になるわけですから。

(;ω;)
結局、学校選択制のシステムに収束していくところが、引き算ですかね…。

地域の差が、先生の努力で解消されたら、
部落問題なんて歴史の彼方だろうに…。

説明が十分でなくてすみません。
人気校の話は、定員以上の希望者が来て、抽選になるときの話という意味です。
最大限、何人とるか、ということ。
定員が40人の倍数になるというのは、そういう意味です。

crying
違うよ。「一律1校40人上限」
元数が、80人の人気校で40人来たら、
120人だから、40人×3学級
元数が81人の人気校で40人来たら、
121人になり、30人×3学級+31人学級

不人気だから少人数とか、
人気校が40人ちょうどになるのは、
教育行政の問題であって、
一概には言えないことはお分かりですか?

金沢市は35人学級もありなのかもしれませんね。国の基準とは異なるということは、独自に予算措置をしているのかもしれません。

(゚▽゚*)
ふ〜ん。
金沢市のシステムと違うんだね。
金沢はそんな切り方をしていない。

>人気校なら40人ちょうどになるなんてことはない。

抽選で生徒数を抑えなければならない学校は、定員が40の倍数になります。
教室は最低でも3クラスくらいはあるでしょうから、定員が120人、160人などとなる場合が多いようです。

( ´,_ゝ`)ハイハイ
>実際におこったことをもとに述べております。
学年の人数が50人なら25人学級。60人でも30人学級が実現です。

80人なら40人×2学級。81人なら、27人×3学級…
不人気だから少人数で、
人気校なら40人ちょうどになるなんてことはない。
保育園児のレベルで説明されてもねぇ〜。

>少人数指導が実施しやすいのが小規模校のメリットです。

減りすぎて廃校に追い込まれた小学校の番組を見たことがあるよ。単純に少人数の学校だからという理由で選ぶのは少数派では?
逆に人気校だからという理由だけで選ぶ人は多いのでは?

>中学校よりも学力差が縮小しているのが公立高校の特色ですから、ピンポイントのニーズに合った授業が実施しやすくなります。

なんの意味かわからなかったが、
ただの論点ずらしか?

>ここまで机上の空論を押し通せるなんて…。

実際におこったことをもとに述べております。
学年の人数が50人なら25人学級。60人でも30人学級が実現です。

それに対して、人気校はめいいっぱい入りますから40人学級。

少人数指導が実施しやすいのが小規模校のメリットです。

>学級数が減っても先生が同じだけいるのか?

学級数が減ってしまうと、定員が少なくなります。

>公立高校に置き換えて考えてみたら?
先生の努力で評価が変わるのか?

公立高校の評価を変えるには、行政のテコ入れが必要かもしれませんね。
ただ、中学校よりも学力差が縮小しているのが公立高校の特色ですから、ピンポイントのニーズに合った授業が実施しやすくなります。

shock
>「避けられ続ける学校」は学校で、少人数のメリットが発揮でき、教師ががんばればいずれ評価される成果がたくさん出せるようになるのでは・・・?

参りました!!

ここまで机上の空論を押し通せるなんて…。
学級は、40人刻みだから、クラス内の人数が必ず減るとは限らないのでは?
学級数が減っても先生が同じだけいるのか?

公立高校に置き換えて考えてみたら?
先生の努力で評価が変わるのか?

強制的に割りふられた学校ではなくて、自ら選択した学校に通っているということによって、学校側としては選択にともなう責任を子どもや親に自覚させることができるわけです。
そういうメリットを学校側が活用しなければ効果が減ってしまうと思いますが、「選ばれ続ける学校」というのは期待を裏切らない努力がなされているのでは・・・?
「避けられ続ける学校」は学校で、少人数のメリットが発揮でき、教師ががんばればいずれ評価される成果がたくさん出せるようになるのでは・・・?

(´ρ`)ぽか~ん
>「学校をよくしようとは考えない」「子どもや親を大量生産」しているのは、学校の問題ではないのですね?

ほんと、通じない人だね。
教育行政と書けばいいのかな?
でも、現場の先生が声をあげなきゃ、
何も変わらないだろう。
現場にいて、推進する者の罪も重いと思うよ。

いちろうさんへ
貴重なご意見ありがとうございました。

子どもや親は「選んだ学校をよくしようとは考えない」けれども、「集まる学校」は「毎年、ほぼ同じ」なのですね。
どういう理由からでしょう。

努力をするにもかかわらず「避けられる」原因とは何なのでしょうか?

「学校をよくしようとは考えない」「子どもや親を大量生産」しているのは、学校の問題ではないのですね?

Σ(`0´*)
>金沢市は地域間の問題が学校選択制の実施によって悪化するということになるのでしょうか。

どこでも一緒でしょう。

避けられる学校と、集まる学校ができる。
先生の努力や、学校の状況とは関係なく、
だいたい固定されていく。
選択制がはじまってから、毎年、ほぼ同じだよ。

学校の商品化という言い方をする学者もいますが、
よりよいものを選ぼうとするけど、
選んだ学校をよくしようとは考えない。
そういう子どもや親を大量生産するから、
文句ばかり言うようになるんじゃないの?

失礼いたしました。
そうすると、金沢市は地域間の問題が学校選択制の実施によって悪化するということになるのでしょうか。

w(゚o゚)w
>あまり実感をおもちでないようですね。

自分の感覚がすべてと思うところが、
日々、自己中と指摘しているところです。

金沢市は、学校選択を実施しております。

いちろうさんの身近には、もしかして学校選択制を実施しているところがないのでは?

あまり実感をおもちでないようですね。

「地域間の格差」というほど、学区域というのは広域ではないんですが・・・。

┐(´д`)┌ヤレヤレ
ただただ呆れることが多いのですが…。
ここのコメントの整理をしますか?

最初は、引用と著作権への疑問ですね。
私は、公務員だから法令遵守をしているんだろう…と半分茶化し、暗象からのコメントがないまま次の話題へ。

次は、関西を例にした記事の「地域間の学力差」(地域の問題)として、私がコメントをつけました。それに対して、暗象は「先生の問題に起因する学校間格差」(先生の問題)として答えています。
その認識の違いから、学校選択制への捉え方も違うのではないでしょうか?

ご自身の記事内容から考えると、地域の問題と捉えるべきところを、なぜ先生の問題にすり替えているのかが、不思議でなりません。

「地域の問題」
「先生の問題」
とは何でしょうか?

pig
>学校改善に「逃げの姿勢」である教師が多く人間関係がぎくしゃくしている学校にあえてエールを送るほど余裕はありませんし、今はその立場でもありません。

? ? ?
地域の問題と、先生の問題を一緒にするなって!!

「課題のある学校をよく」するために私も相当努力してきましたし、先生方の努力で改善できたおかげで、いじめや不登校で苦しんできた小学生や保護者を救える学校もつくれました。
教師として、「ぜひ私の学校を選んでいただきたい」という熱意を小学生や保護者に伝えることができるようになりました。
各学校が自律的な努力をすべきことを推奨いたしますが、学校改善に「逃げの姿勢」である教師が多く人間関係がぎくしゃくしている学校にあえてエールを送るほど余裕はありませんし、今はその立場でもありません。

w(゚o゚)w

またすりかえる…
課題を解決しようとせず、
自分だけ課題から逃げて助かろうとする、
その考え方がダメだと言っています。

地域間で差があることは、全国的な常識です。
学校としての一時的な差ではありません。
どれだけ先生が替わっても、
私の知る限り、20数年荒れている学校があり、
隣の学校は、何度か荒れたことがある程度です。

学校の先生の立場であれば、
課題のある学校をよくしろという主張をすべきで、
課題のある学校を避けて、
課題の少ない学校を選べというのは、
あまりにも無責任であり、
利己的な主張を助長することになりませんか?

教育力に課題がある学校でも強制的にふりわけられる方がよいか、保護者や子どもの選択に任せる方がよいか、当初から議論がありますね。

( ̄ー ̄)ニヤリ

素直になってきましたね。 ヽ(^。^)ノ

>学校選択制は子どもを救う有効な手段になりますね。

この“利己的な差別主義”を公務員、
しかも、学校の先生という立場で推進するのは、
どんなものなのですか?

この点についても、当初から指摘していましたよね。

小学校の指導要録にインチキがなければ、出身小学校別に学級編成はしませんから、中学校での学級間格差はあまり起こらないのが普通です。
というより、「7・5・3」の法則?を踏まえるまでもなく、地域が決して広域ではない小学校間での格差がそこまで開くとすると、学校選択制は子どもを救う有効な手段になりますね。

(◎´∀`)ノ
>関西の中学校ではこれが本当に珍しくない現象なのでしょうか?

容易に想像できますが?
経済状況と学習には相関関係があると、
日教組批判をするために始めた
全国学力テストの結果として記事になっていたが?

bleah
madographosさん

ここの記事のいくつかは、
ネット上の書評の文章とほぼ同じものですよ。
そのあたりについての疑問は、
公務員なので、きちんと法令遵守していると信じて、
黙っていましょう。
その書評を書いている人、本人だとか…。

ご指摘ありがとうございます。
正確な引用ではないので、出典は省略いたしました。
大学教授が誰かはもうおわかりになってしまうかもしれませんが、ここではふせておきました。

内容とは関係ありませんが,公表された著作物から引用する場合は,出所を明示しなければならないのではありませんか。

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  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
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    「太公望 中」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より