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時数は減っても「総合的な学習の時間」は学校の看板メニュー

 「ICT教育」という言葉を聞いても、意味がわからない教師もいるのではないでしょうか。
 「教育の情報化強化月間」というのが存在していたことを知らない教師がいても不思議ではありません。

 教育界は、世の中の変化に遅れがちです。
 教育を担う学校の教師のほとんどが、自分が受けてきた教育とそれほど大きな違いのないことを数年後、十数年後に職業として実践することになるからです。
 授業のスタイル子どもとの距離感生活指導観などは、自分が受けてきた教育の影響を強く受けることになります。

  教育界では、「時代の先取り」というものは難しく、さほど大きな「変化」でなくても、多くの教師はその「変化」に満足な対応ができません。
 
 「新しい学力観」とよばれたものも、「生きる力」も、総合的な学習の時間も、すべての教師がすべての職場で成果を上げている実感をもっているとは言えないので、自分の指導力よりも、これらを導入する政策を考えて実行させている行政に問題があったと決めつけることで、モチベーションが下がらないように自己防衛しています。

 私は公立学校やその教師が信頼を得られるように変化する最大のチャンスは、現行の学習指導要領の移行期間から完全実施のころにあったと考えています。
 教師の組織力、地域や社会の人材力、授業の質、さまざまな「教育力」の向上改善変革の好機でした。

 そして、今、信頼すべき公立学校か、そうでないかは、たとえば、新しい学習指導要領で、総合的な学習の時間が縮小されることに喜んでいるかどうかで判断できると思います。

 もちろん、悲しんでいる学校の内で信頼してはいけないのは、総合的な学習の時間のねらいを明らかに無視して読書や短時間の計算や漢字練習、行事などを実施し、カウントに入れていたところです。

 これからの総合的な学習の時間は、調査やレポートが英語や数学、国語で宿題があるように、家庭等で学んで作成したものを発表したり、批判しあったり、それらを題材にして新しい資料を活用してまとめたり、そういう学習が導入されることになるでしょう。
 「発表で終わる」総合ではなく、「発表から始まる」総合です。

 そのときに、各教科等で学んだことが生かされているかどうかが問われるようになります。
 土曜日の有効利用も大きな鍵になります。

 また、総合的な学習の時間では、各教科等でどのような意義深い学習を行っているか、それとも行われていないかを発表させたり、話し合わせたりして、より子どもにとって「学びがい」のある学習はどのようにして実践できるかを考えさせるような、そんな時間を保障する必要もあると考えています。
 
 今年度、10月以降に私が現場で実践する総合的な学習の時間のテーマは、「観光立国日本の創造」です。
 どのような視点で子どもたちが追究をはじめるのか、今から楽しみなところですが、10月までにそれらの先回りをしておかなければなりません。 
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教育」カテゴリの記事

コメント

いちろうさんが誤解されている部分がよくわかりました。
総合的な学習の時間で育成しようとしている能力は、教科の学習でもしっかり取り組まなければならなくなったのが新しい学習指導要領です。
ですから、補充学習とか、運動会準備に使っていたりと総合の時間でインチキしていた学校はがっかりしているだろう、そんなことを書いたわけです。

( ´,_ゝ`)ハイハイ

総合学習に対する考え方に違いがあるとは言っていない。新学習指導要領を受けての対応の差を言っています。

すずめさんは、学力向上の世論と、新指導要領での削減を嘆きつつも、受け入れている。
対する暗象は、あくまでも総合学習は大切なもので充実させていかなければいけないと説く。

その姿勢について、
世間の流れに関わらず正しいものは正しいと主張し続けて衰退していったのが日教組で、暗象とすずめさんの対応で、どちらが日教組的な正論を語っているかということへの指摘。
行政の末端の公務員としての対応をしているのが、すずめさんの方であり、行政の方向性を無視してでも自らの信じる道を進もうというのが暗象であることの可笑しさを指摘しただけです。

すずめ先生がこの記事にコメントをいただいたのは、総合にかける希望と問題について私と共通した認識をお持ちだったからと推測いたします。互いに批判し合っている内容ではありません。
「暗象」というキャラクターの話はいちろうさんにお任せするとして、「総合的な学習の時間」はカリキュラム上、学校の創意が試される(もちろん目標を達成するための手段に対する創意です)代表格のものであることは確かです。
いちろうさんは、「暗象」が求めている「現実的ではない対応」とはどんなものだと思われたのでしょうか。

( ^ω^)おっおっおっ
論理性や整合性、言葉づかいに重きを置くブログじゃなかったのか?

日教組を看板にあげているすずめさんが、
公務員の立場として、学習指導要領を遵守し、
世間の状況を読みながら、
現実的な対応を模索している。

文科省と協力関係にあると言っている暗象が、
現状として否定されている状況を、
なお大切なものだと主張し、
できないのは先生の創意工夫や努力が足りないと批判し、現実的ではない対応を求めている。

お互いの主張は、逆じゃないのか?

まあ、私は、すずめさんに賛同するな。
方向性が示されたのに、
努力して逆行するほどリスクの多いものはない。
対して、暗象のいう
信念に基づいて世間を変えようっていうのが、
日教組のしてきた運動じゃないの?
でも、日教組を目の敵にしている…
やはり、暗象は自己中心的というか、唯我独尊?

コメントありがとうございました。
総合で苦労しているのが一部の教師であってはなりません。
また、その運用によって組織改革に成功できた学校も少なくないでしょう。
道徳や特別活動以上に、学校の組織力や教師の専門性が発揮できる時間です。
しかし、その分、教科指導以上に学校間の格差が大きいのが総合です。
教育で産みの苦しみを避けて通っていては、何の進歩もしないでしょう。

トラックバックありがとうございました。
総合がこれからどうなっていくのかについては,
今までの経過を見ても,
移行期間を考えても,
前途多難だとしか思えませんが,
完全実施になってからの50時間,70時間の運用をどうするのか,長期的に考えないと,もう一度敗北するような気がします。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
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  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より