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« 外国語(英語)活動の導入で犠牲になる子どもたち | トップページ | 理想は高く 信念をより強く »

小学校の英語活動のねらい

 すずめ先生から、「どんな英語活動の,どういった点が問題で,どうされればいいとお考えなのか聞かせていただけたらと思います。」というご質問がありましたので、お答えいたします。
 その前に、「教育改革=悪」という固定観念のある方のために、英語活動の小学校導入までの経緯を簡単にふり返ってみます。

 英語教育の開始時期の見直しは、昭和61年臨教審教育改革に関する第二次答申」で初めてふれられました。
 平成4年以降、国際理解教育の一環として、英語教育を実験的に導入する研究開発学校が指定されていきました。
 平成8年中教審第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」で、小学校における外国語教育について、「子供たちに外国語、例えば英会話等に触れる機会や、外国の生活・文化などに慣れ親しむ機会を持たせることができるように・・・」「ネイティブ・スピーカーや地域における海外生活経験者などの活用を図ることが望まれる」とされ、
 平成10年改訂の学習指導要領により創設された「総合的な学習の時間」の取扱いの一項目として、小学校における英語活動が規定され、全国の小学校に広まっていきました。
 平成14年に文科省によって策定された「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」の中で、小学校英語活動実施状況調査が行われ、平成15年度には全国の88%の小学校が何からの形で英語活動を実施していることがわかりました。
 平成19年度には、約97%、つまりほとんどの小学校で英語活動は実施されているわけです。

 しかし、英語活動の指導の内容は学校によってさまざまです。

 私が第一に危惧していたのは、英語への苦手意識の早期固定化です。

 小学生が中学校に入学するときに楽しみにしている学習の第一が英語だったアンケート結果を見たことがありますが、この順位は今、下がっていないでしょうか。

 ではどんな英語活動をのぞんでいるのかというと、一言で表現すれば、「表現活動が好きになる英語活動」です。

 単語をたくさん知っているとか、書けるとか、読めるとか、そういうことではけっしてありません。

 誤解を防ぐためにも、新しい学習指導要領、そしてその解説の外国語活動編は、ぜひすべての先生に読んでいただきたい冊子(72円)です。
 
 のぞましい英語活動は、「内容」に示されている通り、
 「英語を用いてコミュニケーションを図ることが、楽しいと思える体験ができること」
 「(一部の児童ではなく)だれもが積極的に英語を聞いたり話したりする活動ができること」
 「言葉によってコミュニケーションを図ることが大切だということに気付けること(伝えなければわからないことがわかること)」
 「英語の音声やリズムなどに親しめること」
 「言葉のおもしろさ、豊かさに気付けること」
 「英語圏などの人々の生活、習慣、行事の違いにふれて、多様なものの見方や考え方があることに気付けること」などです。

 単に中学校の英語の先取りとか、前倒しという認識ではなく、小学校ならではの目標をきちんと知り、達成していく姿勢を先生方には持っていただきたいと思います。

 ・・・・しかし、発音自体は訓練しないと無理でしょうね・・・・。
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教育」カテゴリの記事

コメント

>現場から、この程度のことが出てくると、
不信感でいっぱいになる。
>先生って、そんなにレベルの低い集団なのか?

 やはりご自身の目でたしかめていただくのが一番でしょう。

w(゚o゚)w
>小学校における英語活動の実施の有無が、高校受験に影響することはまずないでしょうね。
>私が心配していたのは、「英語嫌い」の早期化により、中学校での学習動機に障害となるケースです。

それが影響じゃないのか?

>保護者が指導力のせいではなく、制度のせいにしてくれると、一部の先生方はとても安心できるでしょうね。

そういう見方が不思議でならない。
ラーメン専門店の店主に、うどんを出せと言って、
出てきたうどんに差があることを批判する…。
学校の先生の免許って、フリーパスなのか?
教科別じゃないのか?
小学校の先生は、基本的に英語の免許を持たないんじゃないのか?
先生の免許を更新制にするといって、
木登りをしていたが、その程度なのか?

現場から、この程度のことが出てくると、
不信感でいっぱいになる。
先生って、そんなにレベルの低い集団なのか?

 小学校における英語活動の実施の有無が、高校受験に影響することはまずないでしょうね。
 私が心配していたのは、「英語嫌い」の早期化により、中学校での学習動機に障害となるケースです。
 保護者が指導力のせいではなく、制度のせいにしてくれると、一部の先生方はとても安心できるでしょうね。

(´ρ`)ぽか~ん

>中学受験で英語が試験科目になればの話ですね。

高校入試の話。
公立の小学校で教えるところもあれば、
教えていない学校もあり、
さらに学校によってやっていることが違う。
先生的には、指導に大きな差がある。
さまざまな状況の中で学んだ子どもたちが、
1つの中学校に集まったとき、どうなるのか?
金科玉条のごとく学習指導要領を唱える者として、
そういう状況を生むことが、
一番の問題じゃないのか…ということ。
結局、行政には無批判なんだよなぁ。
子どもや親のことより、
教育員会の指示に従わない先生が嫌いなだけなんだね。

先生の批判は延々と続けるけど、
教育行政が生みだしている問題の方が大きいのでは?

いちろうさんへ。
中学受験で英語が試験科目になればの話ですね。
指導力格差の話で言えば、発音もままならない小学校教師から、ネイティブなみの実力のある中学校教師に出会えれば、いい意味のカルチャーショックを受けられるかもしれませんが・・・。

lovely
>「教育改革=悪」という固定観念のある方のため

ありがとう。私のことだ。

>英語活動の指導の内容は学校によってさまざまです。

私はこれが一番の問題だと思っている。
親としては「英語」は受験科目である。
なのに、やっていることには学校ごとに差がある。
でも、入試では、一緒に扱われる。
暗象の日々の主張でも、
ここが一番の問題だと思っていたのだが?
なんで「第一に危惧していたのは、英語への苦手意識の早期固定化」なんだ? その理屈なら、どの教科でも起きうることだし、そうさせてしまう先生を批判するのが、暗象の論調じゃないのか?
対象が違うと、スタンスがブレていませんか?

madographosさんのコメントは、記事以上の説得力があると感じる。そういう親の方が多いのではないか?

おはようございます、そうなんですよ、楽しく会話できるような英語をやればいいんですよ、文法だの単語をどうのめんどくさいこと授業にするからだめなんですよ、日本語だって文法だのなんのなくても話せます、中学校高校と6年も英語やって挨拶もろくすっぽできないような授業なんてありえません、やり方が悪いということですよ、

 「小学校ならではの目標をきちんと知り、達成していく姿勢を先生方には持っていただきたい」,kurazoh様は,教師を指導する立場にある方なのですね。
「「教育改革=悪」という固定観念のある方」とはどのような人を指しているのですか? 「教育改革は悪ではない」という固定観念もまた成り立ちそうですね。
さて,小学校英語についてですが,「表現活動が好きになる英語活動」に慣れ親しんだ者が,その後,英語嫌いになる可能性もまた高いのではないですか。
長いスパンで英語教育を見た場合,小学校と中学校ではギャップがあって,そこでつまづくことが多いように思います。語学習得には,どうしても壁をよじ登らなければならないようなところがあり,それゆえ中学校以降の英語教育が苦痛を伴うものになりがちなのですが,小学校英語の在り方からみると,かなりのギャップが生じてしまうのです。
あるいは,「表現活動が好きになる英語活動」が性格的に好きになれない子どもも実は多いのではないですか。そのあたりへの目配りも必要かと思いますが。

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» 元顧客はトヨタ自動車はじめ上場企業12社!伝説の英語トレーナー [カリスマ英語速習法]
私個人の場合は、全ての自動車工場(本田技研工業、TOYOTA, 日産、など)とその関連企業(旭ガラス、新日鉄、など)で、エンジニア間の技術的な会話の通訳が多かったのです。それを周りの人は「凄い!」と言ってくれます。でも、そうでしょうか?私はそうは思いません。そんな難しい話も日常英会話の延長線に過ぎないのです。つまり、その会話に使っている英語はなんと!!!中学生で習うレベルの英語ばかりを使っているのです。他のどの一流通訳もみんな同じです。 つまり、話の内容が難しいからといって、...... [続きを読む]

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「歴史の活力」より
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    「春秋の色」より
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「子産(上)」より
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    「青雲はるかに(上)」より
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    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より