ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »

2008年9月

教えることで本当の力がつく

 「教育」には「教えさせることで育てる」という方法があります。
にほんブログ村 教育論・教育問題 人気ランキング
 
 学校には、生徒にどれだけ「教えさせる」場面を設けているでしょうか。

 すぐに思い浮かぶのが部活動先輩後輩に教えられることはたくさんあります。
 後輩先輩から学ばなければならないこともたくさんあります。

 同学年の集団でも、より高い能力・知識・技能、豊富な経験をもっている生徒は、他の生徒に「教える」経験をもつことができます。

 現職の教師に問いたいのは、自分が生徒だったころ、どのくらい他人に「教える経験」をしてきたのでしょうか。
 
 以前に「叱る経験」の有無を話題にしましたが、「教える経験」というのはどうでしょう。

 大学生になって初めて塾のアルバイトで教えたとか、そういうタイミングではない、本当の「教えることのおもしろさ」を実感した経験はいつごろだったのでしょうか。

 若干危惧しているのは、教育実習生の授業や子どもと対話している場面を見て、この人はもしかしたら「教える」行為はこれが初めてのことなのではないか、と感じてしまう人が多いことです。

 また、現職の教師にも、「教える」行為が無機的な事務作業のようになされるのを見ると、「昔も今も・・・その楽しさがわかっていないのか・・・」と危惧することがあります。

 「教える」ことのやりがいとは何か。
 「教える」ことの価値とは何か。
 「教える」のに適した条件や環境とは何か。
 

 教師による操作主義で「教える」ことではなく、生徒が生徒に教えることで育っていくその生徒の「教育力」。 

 「生徒が生徒を育てる学校」というキャッチフレーズが、もっと一般的になる日が来るでしょうか。
 自己教育力だけでなく、教師が有するタイプの「教えて育てる」力も、すべての人たちが備えていくべきものだと思います(親になったときのことももちろん踏まえて)。

競争原理が機能しない「他人事」主義

にほんブログ村 教育論・教育問題

 文科省や都道府県の教育委員会が実施している調査を

 あくまでも「請負」と考えて機械的に実施している学校=他人事主義と、

 しっかり「利用」している学校=功利主義・合理主義とでは、

きっとその後の効果も変わってくるでしょう。

 全国的な話題になる大きな調査は、マスコミをにぎわせているような話題にばかり目がいってしまいますが、単純に、問題を解いた子どもの立場からすると、「どのくらいできたのだろう」「十分に解けていると言えるのだろうか」「他の子はどうだったのだろう」などと疑問に思えて当然です。

 実施の目的を踏まえれば、文科省だけでなく、各学校や担任もそれに答える立場であり、調査の実施だけで面倒くさがっている教師もいるかもしれませんが、本当に手がかかるのは「個に応じた指導」の実施です。
 そのためにはしっかり分析を行わなければなりません。

 あるクラスでは、漢字テストや計算練習ばかり集中的にやっているだけだったので、A問題の出来の割にB問題の結果が悪いとか・・・。その逆とか・・・。

 「消化」した学力調査が栄養になるかどうかは、責任問題として端的に言えば、校長の考え方如何でしょう。

 私が指導主事のころは、都や国から依頼される調査を実施してもらったとき、内容によっては、自治体内、地区内のデータをグラフ化し、後で出される都や国のデータと比較した分析結果を校長会でお示しすることにしていました。
 
 校長先生の中では、データの意味をじっとお考えになる方、地区や学校のデータで優れている箇所をひっぱりだしてメモを取られている方などが、印象に残っています。

 ポジティブな情報というのは非常にダイレクトに学校に届くので、嫌らしいことですが行政の戦略としてはお願いごとがあるときにセットにしてお電話するというパターンをよく使いました。

 「競争主義」として批判を受ける場合もあるこうしたデータに基づく学校の特色探しは、ポジティブな結果がでればますますやる気が増し、逆にネガティブなデータを突きつけられると反発したりやる気をなくしたりする。

 当然と言えば当然の心理ですが、企業活動だと両方ともより活動的になることが期待できます。

 これが本当の「競争原理」のメリットですが、決してつぶれたり教師が大損をしたりすることがない(教師の「やる気レス」で子どもが損することはある)学校では、結果が悪くても「それが何?」という態度をとられてしまいかねない。
 そういうデメリットは、職業倫理の高潔さへの信頼によって存在しないことにしなければなりません。しかし実際には・・・。

教師はなぜ批判に弱いのか その3 低い評価への耐性不足

 批判を行うとき、心がけなければいけないのが、

 「自己顕示欲」
 「自己愛」
 「深い劣等感」
 「満たされぬ欲求」「強い欲求不満」

の発露、はけ口になっていないかを見つめることである・・・

 田坂広志著「プロフェッショナル進化論」(PHPビジネス新書)にあった言葉です。

「批評」においては、その評者の「人間性」が、恐ろしいほどに出る。

 これ自体、恐ろしい言葉です。

 教師という人間の日常についてはどうでしょう。
にほんブログ村 教育論・教育問題
 
 ブログの運営、コメントの書き込み、・・・これらは多かれ少なかれ、「自己顕示欲」「自己愛」を満たす場なのでしょう。
 ・・・教師という職業を選ぶという時点で、もしかしたらこの二つが強烈なインセンティブになっているのかもしれません。

 企業での経験や行政経験のない教師の多くは、社会人としての「深い劣等感」というのを感じたことがないのでは?と思われます。
 逆に「優越感」というのは、いつでも感じることができてしまいます。
 子どもに目を向けていれば、いつもそこには「何とかしてあげなければならない人ばかり」。  

 そこが逆に、教師の欠点になっているのかもしれません。
 ・・・本当は自分自身が「何とかしてもらわなければいけない人」だったりします。

 教師が、子どもが望む力をつけさせてあげたいと強く願い、しかしなかなか実現しない場合、欲求不満という状態はおこりやすいでしょう。

 自分自身が劣等感を感じにくい環境にいることが、劣等感のかたまりみたいになってしまっている子どものことが理解できない・・・よくマンガやドラマに「先生にできない人の気持ちはわかりません」というせりふが出てきます・・・そういう問題を引き起こしているのかもしれません。

 ここでもし私が教員評価の意義を持ち出したら、それこそ「意図的な誘導」に見えてしまいそうですが、研究授業をたくさんしたり、教科等の勉強会に参加したりしていないと、「低い評価を受ける」ことのつらさはなかなか体験できるものではないでしょう。
 ですからそれを拒否する・忌避する気持ちもよくわかります。
 
 しかし、その場合、大切なのは、低い評価に憤るのではなく、その具体的な内容、評価情報をふまえて、まずは自己内対話をすることが大切なのでしょう。
 そして評価者と正対して不明な点は質問をする。
 場合によってはそこで議論を行う。

 大前提に一致がある人間と人間なら、このプロセスは大変重要でしょう。

挨拶ができない

にほんブログ村 教育論・教育問題
 「挨拶ができない」ことを課題に感じている学校で、「挨拶をしよう」などという目標がつくられる。
 目標はつくられても、つくりっぱなし、スローガンの掲示のしっぱなし。
 ふり返り・評価・反省はゼロ。
 で、結局相変わらず「挨拶ができない」状況が続く・・・・。

 挨拶には、たとえば、
 心身の健康のアピール
 自分の自信とやる気・積極性のアピール
 性格・人間性・教養のアピール

 これらの要素が考えられるのですが、これを生徒の言葉で表現させ、もっと具体的な「挨拶像」を追究する・・・そんな活動も考えられるでしょうか。

 健康系あいさつ
 やる気系あいさつ
 教養系あいさつ

 何か一つでも自分に合った系統の挨拶を・・・。

「ふりだしに戻る」公立学校

にほんブログ村 教育論・教育問題
 以前にもふれたかもしれませんが、学校選択自由制で一つのネックは、次年度に入学してくる子どもや保護者にPRできるのは、その年度の学校の様子、それまでの学校の実績であるということです。
 
 問題となるのは、次年度になって、異動のために教師がかなり入れ替わってしまい、改革が進んでいたはずが、「ふりだしに戻ってしまう」ケースです。
 立ち直った学校がふりだしに戻る姿はみじめです。

 そのようなアンケート結果があるのかどうかわかりませんが、選択はしたが、「こんなはずではなかった」「聞いていた話と違う」「評判は偽物だったのか」とがっかりしている保護者や生徒はどのくらいいるのでしょうか。

 「結局、公立学校はどこも同じではないか」という失望が広がることは、学校選択自由化のデメリットとして記録に残る話かもしれません。

 すべて異動が原因というわけではもちろんありませんが、昨年度までの学校にできたことが、次の年度にはできなくなるというリスクが、異動にはあります。校内の人事による場合もありますが。 

 異動というのは、一つの学校内の立場から見ると、指導力不足の教師がいなくなるメリットだけでなく、学校を引っ張ってきたリーダーが出ていってしまうというデメリットもあることです。

 企業などでは、次々に上のポストにつく人材が社内から供給されてきますが、学校はフラット&年・序列型の組織のため、「私は異動するから後はあなたに任せました」という教師が内部で育っていかない問題があり、それは主幹職を導入したくらいでは簡単に解決しないことです。

 では学校はどのような戦略をとっているかというと、その学校に欠かせない人材を、外に出さなくなっていきます異動させないのです。
 その戦略を私は否定することはしませんが、そういう方法をとると、「次の人材を育成する」というはたらきが弱くなり(もともと力がある人は、優秀な教師の姿を見て勝手に能力を向上させていくのでしょうが)、一部の学校の教育力は維持できても、全体としてレベルが下がっていくことになりかねません。
 公立学校にもかかわらず、着任後、異常に長くいる教師がいる学校は、ある意味では安心なのですが、危険をはらんでいる(後継ぎがいない)学校であるとも言えます。

 学校の適正規模とは、少人数の学校をどこかと統合することをほぼ意味していますが、単に生徒・児童数の意味ではなく、学校をまわしていける人材絶対数に基づいた「適正規模」というのがそのうち話題になるかもしれません。

 公立学校は、子どもを育てることはもちろんたいへんなのですが、教師を育てることでも、たいへんな苦労をしているところなのです。

教師はなぜ批判に弱いのか その2

にほんブログ村 教育論・教育問題
 教師が批判に正対した回答ができない理由は、公務員でありながら、「公的な立場」でそのような対応をした経験自体があまりないからでしょうか。

 「学校の教師として、担任として」の立場というのは、ある程度自分の信念に従って真摯に対応すれば、特に、初期対応に失敗しなければ、大きな問題にならないですむわけです。

 しかし、たとえば日教組に代表される「組合関係者」とそれに対する嫌悪感・拒否感が非常に強い(直接的な原因が教師にある場合もあれば、第三者として問題になっている事例を知っただけでそうなる場合もあります)人との対立の中に入ってしまうと、なかなか「公的な立場」としての対応は難しいものになります。

 教育基本法には、「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」とし、また、「・・・特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」という条文
がありますから、政治にからむ問題が重なると、さらに取扱いが難しい。

 今回の中山国交相の発言・辞任騒動で大きな影響を受けている教師に「すずめ先生」がいらっしゃるわけですが、すずめ先生としてはブログのタイトルには似合わず(おそらく反響の大きさを予想されて)ややトーンを落とした記事を作成されましたが、それでも見逃さない人が大勢いたわけです。
 
 コメントを削除されない姿勢は立派なもので、書き込まれた情報だけでも相当な「資料」ができあがります。
 批判に強い人でなければ耐えられないでしょう。

 おそらく組合の教師が最も嫌がる批判が、「そもそも組合員は・・・」という批判を前提にくる批判でしょう。
 相手を理解しようとしない人を相手にすることほど労力のかかる対応はありません。
 でも、こういう対応にあくまで「公的な立場」でこたえていると、耐性が培われます。

 組合員でなくても、教師の立場ならすずめ先生のブログに押し寄せる怒濤のようなコメントで気にかけなければならないのは、どういう行動が教育への信頼を損ねているかということです。中には組合員でなくてもやっていることがあるかもしれません。

 「教育が信頼できない」「学校が信頼できない」人がいる根本原因が組合にあるわけではもちろんないのですが、その問題をどう解消できるか、組合員でない立場からも考えていく必要があると思われます。

中山国交相の信念と教育現場

にほんブログ村 教育論・教育問題
 中山国交相文相時代の「火の玉」的な仕事にまだ区切りがついていなかったようで、政局も視野に入らないほどの強い信念で燃えているようです。
 
 今の教育界では、文科省対日教組という図式はほとんど忘れられかけていましたから、改正教育基本法へのスタンスとか、新学習指導要領へのスタンスが、どうなっているのかを再認識するチャンス、また国民の教育への関心の向上というチャンスに結びつけられるといいですね。

 朝日新聞で、「中山国交相の主張は正しいか」という大きな記事を載せていたことには驚きましたが、あれはどうせやるなら県別の比較ではなく、小学校では学級ごと中学校では国語と数学の教科担任ごとに調査しなければ、検証はできないはずです。
 ただ、組合員になった動機、日常の教育活動以外に実施している組合関係の活動、教育実践に反映されている理念の軽重などは人それぞれで、組合員同士でも「あの人といっしょにしてほしくない」という教師もいるでしょうから、ほとんど意味のない検証作業でしょう。 

 中山国交相の発言に対する支持者もいるわけで、地域によっては「寝た子を起こす」ことになり、現場への逆風となることが考えられますが、そういうときこそ現場にとってはチャンスであり、組合員であるないにかかわらず、信頼を高めたり連携を深めたりするきっかけをつくりだしてほしいと思います。

教師はなぜ批判に弱いのか その1

にほんブログ村 教育論・教育問題
 教師や教育関係者は、なぜ批判への耐性に乏しいのか。
 批判に対してなぜ過剰な反応をしてしまうのか。
 自己弁護に走ってしまうのか。

 逆ギレまでのレベルにはいかなくても、議論を尽くすことなく、「どうして理解してくれないのか」という言葉を出すところまでいってしまうのか。

 批判や提案に正対した答えを返さなくても、まだ「私や子どもはこんなにがんばっている」と自己主張する人の方が教師らしくていいですね。

 一つの原因として、内部での切磋琢磨の機会が乏しいことがあると考えられます。
 人事考課制度が導入されても、「批判」に弱い校長は、問題となる教師の指導の在り方についてとことん議論するというスタンスはとらずに、訪問に来る指導主事や人事権をもつ事務方に愚痴をこぼしているだけというパターンが多いのではないでしょうか。

 授業を互いに見合って、素朴な疑問を投げかけ合う機会は年間にどのくらいあるのでしょう。

 互いの指導力を高め合う効果を期待すること、指導上の相乗効果をねらうことを抜きにして、教師の「同僚性」を語ることはできません。

 教師の立場で自分自身と教師に対する自己批判・自己内対話・問題提起をすることは、ときにつらい面も一時的なマイナス面もあるでしょうが、長い目で見て、根っこからの教育改革を進めていくにはそれしかないように思います。

問題1 リーダーがもつべき5つの問題意識

 リーダーはどこへ目を向けて行動すべきか。

 次の5点で言いたいことは何でしょう。

1 リーダーは前を向いて行動しよう
2 リーダーは後ろをふり返りつつ行動しよう
3 リーダーは外を向いて行動しよう
4 リーダーは内を向いて行動しよう
5 リーダーは上を向いて行動しよう

 そして、そのために必要な力とは何でしょうか。

にほんブログ村 教育論・教育問題
[リーダーシップ] ブログ村キーワード

失敗・結果・責任

 「失敗」という言葉への印象も、人によってさまざまだと思います。
[失敗] ブログ村キーワード

 「失敗は許されない」「失敗はしたくない」という考え方、実際のケースもたくさんあるでしょう。

 医師による手術。高校や大学受験。選挙への立候補。

 一方で、「この世に失敗はないあるのは結果だけ。」という考え方もあります。
 
 たとえば事業に失敗した。この「失敗」は、負債を抱えた、土地や家を失った、信用を失った、・・・さまざまな「結果」を生んだことになったかもしれませんが、その結果に対しては「責任」を持たなければならない。

 失敗によって生じたのは「結果」であり、「責任」であるわけです。
 
 このように考えると、「失敗」=「恐怖」「嫌なもの」「絶対に避けたいこと」という感覚にとらわれて、「行動をおこさない」人がいたとしたら、そういう人は「結果」だけでなく「責任」からも逃れる人、ということになります。

 大切なのは、どのような責任の取り方ができるか、ということでしょう。
 自分自身の問題であるならば、いくつかの解決方法が必ず見つかるはずです。

 選挙に当選しても、その後、実績を残さないという、有権者から見ての「失敗」も考えられます。
 選挙に落選しても、その後、地元でボランティア活動NPOの活動で実績を残すという「結果」を残すことも考えられます(次の選挙には当選するかもしれません)。

 「失敗」を自己内では「結果」として受けとめるとして、他者からの「失敗」という価値判断は、どの時点でどのようにくだされるものなのでしょうか。

 前回の記事では、「担任教師を主たる原因とした小学校段階での学力不振」を例に挙げましたが、この教師による「教育の失敗」とは何なのでしょう。

 教育の世界では「結局は本人の自己責任」という学校・教師の側の責任回避の論理がまかり通っていますから、「小学校の担任教師に責任はない」と言い切ることも可能でしょう。

 「教師の注意を聞かない」「持ち物は忘れ放題」が常態化している学級で、学力がつかないのは当たり前だろう、子どもの質が悪いんだと開き直る教師が、「いずれそのうち自分たちが愚かだったことに気付くだろう」などと言っているとしたら、親は「この学校に入れたことが失敗だった」と思うでしょうか。

 いずれにせよ、責任を転嫁する姿勢というのが、よくない結果を招く最大の原因であり、最も醜い姿です。
 教育ブログの中にも、制度が悪い、政治家が悪い、教育改革が悪い、教育委員会が悪い、指導主事が悪い、・・・批判するばかりの記事が見られますが、大事な指摘があるとすれば(教育をよくしようという信念があるとすれば)、他者がとるべき責任の在り方を具体的に指摘することに意義があるのでしょう。

【追記】
ブログ「校長・・学校のおやぢ」のオーナーでいらっしゃるAYETOWNさんから、そのブログの中で質問を受けた(?)ことがありましたので、補足させていただきます。

すぐ上の「他者がとるべき責任の在り方」は「自己が取るべき責任」ではないのか、というご指摘なのですが、「自分が取るべき責任」を正しく自覚できない人が責任を転嫁するのであって、もしそういう行動をしても意味があるとすれば、その他者が果たすべき責任を具体的に示すことが重要である、そのような意味で書きました。

たとえば、「天井窓を破って落下し、亡くなってしまった児童の責任」「その親の責任」
「親の不正によって採用取り消しになった2世教師の責任」
などです。そういう作業をすることによって、気付けることとは何でしょう。

学習指導要領を「読む」とは?

にほんブログ村 教育論・教育問題
 新聞のコラムの内容がとにかく気になる大学教授の話が続いて恐縮ですが、
 ある講演会に招かれた教授が、集まった教師たちに
 「学習指導要領を読んでいますか」という質問をして、
 手が上がった教師が1割くらいしかいなかったことに腹を立て、その場で
 「叱った
 という記事を自分で書いていました。

 その後の論調は、私と似たところがあるのですが、問題は「問い方」のことです。

 大学教授から「学習指導要領を読んでいるか」と聞かれて、確かに開いたことも手に取ったこともない教師はいるかもしれませんが、教員採用試験のときは必ず「読んだ」はずで、おそらくその質問がきたときは、「読む」ということの意味をはかりかねていた教師が多かったように思います。

 「読む」と一言で言っても、「熟読」「斜め読み」「とばし読み」「拾い読み」など、さまざまな「読み」があります。

 「目標」には必ず目を通しているとか、「解説」の方は読んでいるとか、いろいろな答え方ができるのが「学習指導要領を読む」ということです(そういうタイトルの雑誌の特集もあるでしょう)。

 講演会、研修会で問うてみたいことは、どのように「読んで」いるかということです。

 当然、「読んだだけ」では話にならないので、「改訂の趣旨を学校の実情をふまえてどう捉えているか」とか、「移行期間の指導の重点はどのようなことになるか」とか、その運用の在り方が大切なわけです。

 「一食当たりの摂取食品数と学習成績の関係」とか、いろいろなデータを掲げて子どもの生活習慣と学力などを説明することは誰にでもできるので、ではそのデータを裏切る教育がどうしたらできるかとか、格差の背景をいろいろと探るよりも、学校で何ができるかということを問うていくことが大事だと思います。

小学校における学力の学級間格差

にほんブログ村 教育論・教育問題
[中学校] ブログ村キーワード
[小学校] ブログ村キーワード

 前回の記事で紹介した大学教授が扱っていたかどうかわかりませんが、学力の学級間格差が問題となるのは、一人の教師がほとんどの教科を教える小学校に他ならないでしょう。

 ある市の教育委員会が実施した調査によると、小6の39学級算数の学力調査を実施したところ、平均点のトップは62点最低は30点だったということです。

 平均点が高いクラスの特徴は、高得点者が多いわけではなく最低点が高い、つまり「おおむね満足」の学習状況の子どもが多いということです。
 教育委員会では「●●先生のクラスだ」と一目でわかったらしいですね。

 平均点30点の学級の子どもたちが、学力の不足を中学校で挽回することは容易ではありません

 4月に実施された全国的な学力調査の結果をまつまでもなく、直ちにそのような6年生のクラスの子どもには特別な手を打つべきでしょう。
 
 「日本の教育の欠陥は中学校に集中的に表れている」ため、「日本の教育をよくするには、中学教師にいい授業をしてもらわないといけない」と主張しているような大学教授に参考にしてもらいたいデータです。

目が覚めた?小学校教師

にほんブログ村 教育論・教育問題
[中学校] ブログ村キーワード
[小学校] ブログ村キーワード
 ときどきとんでもない誤解を世間に広める大学教授(元小学校教諭)がいて、あるコラムでこんなことを書いていました。

 ある中学教師から、「ゆっくりで丁寧な指導がいいとあなたは思っているだろうが、それに慣れた子どもは3倍のペースで進む中学校の授業についてこられなくなる」という批判を受けて、「おかげで、目が覚めた」と。

 何に気付いたのかが明確にはわからないのですが、中学教師から話を聞くまで、中学校の授業を参観して(していないかもしれません)、その課題に気付いていなかったことは明らかです。

 その後に続く言葉にもびっくりしました。

 「教師の善意は子どもをだめにする。」
 ・・・先日の記事(コメントでしたか?)通りの教師です。

 とにかくこの方の中学校教育に関する発言は、はてなものが多いのです。

 中学校の定期考査では、小学校間や学級間で平均点が相当に違う、それも10点程度は普通で、20点くらい違うことも珍しくない・・・(!!)

 あり得ないことでしょう。

 関西の中学校ではこれが本当に珍しくない現象なのでしょうか?

 普通、中学校でクラス編成をするときは、小学校の成績(3段階で、かつ、あまり信憑性もないのですが)をもとに基本的には分けていきますから、学級間の学力格差がそれだけ広がることはないでしょう。

 もし仮に、1組の平均が80点で2組が60点だとすると、これは明らかに異常事態です。

 また、この先生は、「日本の教育の欠陥は中学校に集中的に表れている」ため、「日本の教育をよくするには、中学教師にいい授業をしてもらわないといけない」と主張しています。
 何に目が覚めたのか?
 こういう主張なので不明確なのです。

学校公開時のアンケート内容

にほんブログ村 教育論・教育問題
 公立学校では、学校公開のときに簡単なアンケート用紙をつけていることが多いと思われます。
 
 そのアンケート内容こそが、「学校公開をすることの目的や意義をメッセージとして示すことにもなる」という考えをもっている学校というのは、どのくらいあるのでしょう。

 「外の目を気にしすぎるようになる」という批判も考えられますが、少なくとも

 「来校者に目に本校の教師や生徒はどのように映ったのか?

ということを「知りたい」と思うのが普通なのではないかと考えてしまいます。

 教育委員会では、どの程度このアンケート内容とその結果、分析を把握しているのでしょうか。

 教育委員会へ集まる情報の多くは不平・不満で、なかなかよい情報というのを耳にする機会は少ないと思いますので、学校に関心のある住民の直接的な意思の把握ができるという意味で、価値があるのではないかと考えられます。

 施設面の問題など、議員→議会という流れになり予算措置が必要になる情報は困るかもしれませんが、住民はそういう意味で「行政が困る要求」をどんどん伝えていかなければなりません。

 5009さんからのコメントへの回答では、次のような例を挙げてみました。

 「生徒の服装や態度はどうですか
 「挨拶はよくできていますか
 「教師の声の大きさ、明瞭さはどうですか

 読者の方で、もしこんな項目があったよ、とご紹介していただけるものがあったら、ぜひご投稿くださいませ。
 あつかましいお願いですが・・・。 

 重点的に指導していること、目標にしていることが、できているかどうかを評価するよい機会ですから、学校評価の年間計画に位置づけてあることも必要でしょう。

 ・・・「学校評価の年間計画」と聞いて、「何、それ?」と思われる人が多いかもしれませんが・・・。

ほめる行為の難しさ

にほんブログ村 教育論・教育問題
 何でもかんでもほめることの問題点を漠然と指摘してきましたが、具体的な状況を想定すると、次の5つの留意点が考えられます。

1 なぜあの子ばかりほめられるのか?という周囲の子どもの嫉妬、不公平感を引き出さないか

 子どもが教師のほめる理由、タイミング等をわかっていれば、なぜその場でその子どもがほめられたのか、共感することができるのでしょうが、まわりが見えていない、あるいは教師に自分だけを見てほしいと思っている子どもは、やきもちをやくことになりかねないわけです。
 ほめる機会が多い小学校ではよくそんなことが起こらないでしょうか。

 それが原因でいじめが発生する(発生している)場合もあるので、教師はほめたときの子どもの表情から、何らかのメッセージを受け取る必要があります。

2 なぜ今、ほめられないのか?何か問題があるのか?という疑心を生む原因にならないか

 いつもほめられながら育っている子どもは、いったん、自分が「ほめられるべき」状況で、教師などがほめることを忘れると、不安感を抱くようになりかねません。

 ほめられることだけが行動の原動力になってしまうと、常に「人にどう見られているのか」ということにとらわれる習慣がついてしまうという問題もあります。

 あるいは、いつも「ほめられていること」にとらわれ、同様に「他人によく見られること」のための行動ばかりに気がいってしまう子どももいるでしょう。

 子どもの小さいうちは、「先生がほめてくれること=よい行い」という認識がありますから、ほめられようと起こしている行動が結果的に他人のためになっている場合がありますが、結局は自分のため、というのが周囲から気付かれてしまうようになると、関係がぎくしゃくしてくることでしょう。

 子どもの特性を理解しながら「ほめる」ことが必要になります。

3 教師は「ほめること」で子どもを動かそうと、戦略的な行動に出ていると思われないか

 悪い言葉で表現すれば、「子どもをだまして利用する」ためのほめ言葉というのもあり得ます。
 5番目とも関係がありますが、わざとらしい、口先だけのほめ言葉というのは子どもの方はいずれ見抜くようになるでしょう。

 とは言っても、ほめられると悪い気はしないのが人間ですから、「モチベーションを上げるための決まり文句」という共通認識をもって、「あいさつ」代わりに「ほめ言葉」を使っていく習慣をつくるというのもいいかもしれません。

4 ほめた子どもが自信過剰にならないか

 ほめる行為は子どもに自信を持たせることがねらいになるのですが、それが過剰な自信になることもあり得ます。
 過剰な自信は現実を知ったときのショックの大きさに耐えられない子どもには酷なものになります。
 ただ、そういうショックをバネにできる子どももいるので、「ほめ言葉」と「励ます言葉」のバリエーションをたくさんもっておくのが教師の仕事になります。

5 「ほめる」ことで子どもに気に入られようとしている教師だ、と思われないか

  3番目と似ているのですが、好意や尊敬の押し売りになってはいけない、という戒めの言葉として頭に入れておくことが必要な留意点でしょう。

なかなか成仏できない「意固地」

にほんブログ村 教育論・教育問題
 中学生とはいえどもなかなか一人前の主張をする子どもがいるものです。
 自分の言動の課題は見事なまでに棚に上げて、他人の問題点を追及し続ける、そういうタイプに今まで何人か出会いました。

 「自分の言葉で主張できる中学生」自体が少なくなっているので、「平等性」「公平性」のアンバランスはこちらも横に置いて、熱心に聞き入ってしまうことがあります。
 それは、指摘している「他人の問題点」が当たっている場合もあるからと、「発言の機会が奪われること」で「自分の言葉で主張すること」をしなくなってほしくないと思うからです。

 一見すると、自分の間違いや問題点を全く認めようとしていない、自己中心的な人間のように思われ、おそらく周囲からは完全に特別視されているような子どもでも、実は内心ではそれらに気づいており、ただ自分の問題を認めてしまうことで「自己の価値」が失われてしまうこと、「自分が自分でなくなってしまうこと」を危惧しているために、頑固・意固地な態度をとり続けている場合があります。

 このようなタイプの子どもには、周囲がその子どもの価値を別の形で認めてあげられる環境をつくることが大切です。根気のいる作業ですが。
 そういう環境がなければ、子どもの意固地は決して「成仏」できないのです。

 卒業式直前まで「成仏」したくてうずうずしながら、結果的にはだれにも認められず、無意味な反抗を繰り返す子どもでも、なぜか卒業式に際しては何か悟ったような顔をして去っていくこともあるので不思議なものです。

 不登校がいつまでも続くと思われた生徒が、わずかなきっかけから毎日登校する「学校大好き人間」に変身することもありました。

 環境が変わることで、人間は新しく生まれ変わることができる・・・逆に言うと、環境が変わらなければ、人間が変わることも難しい・・・そういう諦めをせず、今の「環境」を変える力を自らも持ちたいものです。

「学校公開」によって不信の上塗りをする学校

 「開かれた学校づくり」は、学校の閉鎖性・不透明性をくずし、学校改善を進めるための政策なのですが、「改善」の意識のない学校・意欲のない教師が公開すれば、公立学校への不信が募っていくばかりということになります。
にほんブログ村 教育論・教育問題
 学校や教師というのは、いかに「評価されたくない」という信念?をもっているか、どうしたら「評価されずにすまそう」としているか、よくわかることがあります。

 ある方のブログに、学校公開に参加した感想が記載されていましたので、了承をいただいた上、ここにご紹介したいと思います。
 文面からは、学校側が「自ら進んで」公開に臨んでいるわけではないこと、「公開」にある一定のメッセージをこめようとしているわけではないことがありありと伝わってきます。

 決して「ごく一部の」学校の様子ではないと思われますので、たいへん参考になりました。

 

学校公開と言っても、中学は小学校ほどたくさんの人たちが来るわけではないのですが、それでも学校選択制度がある以上、普段の様子を知る大事な機会ですね。
 で、校舎に入って、階段を上がって、5分で帰りたくなりました。
 だって、どの教室も、ぴしゃりとドアが閉ざされているんです。(開いていたのは全校でたった1クラスのみ)

 (中略)

 ドアにはめ込まれている窓もすべて摺りガラスだから、教室の中を覗くことは不可能。

 (中略)

 学校公開も、あちこち足を運んでいると、何回かに1回ぐらいは、「うまいなぁ!」という先生や「おもしろい!」と思う授業に出会えるのですが、残念ながら今日は収穫なしでした。
 どこもかしこも、教科書片手に先生が一方的にしゃべり、たまに生徒に読ませ、黒板を写させる。。。旧態依然の授業スタイル。
 「いいかー、この問題わからない人は、勉強が足りないよー」
 なんてかんじで、流されていく。生徒たちの目が、生き生きしていない。
 私が中学生のころも、こんなだったな。学校の授業なんて、つまらなかったもんな。
 あれから20年以上経っているのに、
 その間に、時代はこんなに変わったのに、
 教室は何一つ変わらない風景。
 これじゃぁ、「塾の方がわかる」と生徒たちに言われてもしかたないか・・・・。だからって、学校で塾講師が授業するのを受け入れるって、どうよ?とも思う。
 中学校の先生は、その教科のエキスパートなのですから、そのテーマをいかにプレゼンするか、その教科を学ぶことのおもしろさをいかに伝えるか、もっと真剣になってもいいのでは?
 研修とか、研究会とか、研鑽は研究授業で終わらせるのではなく、日々の授業に生かしてほしいものです。

 (後略)

 学校選択が自由になっても、ほとんどの学校がこのような状態では、選択の意味がない、という主張(学校選択制への反対)もわかりますが、学校に今(昔から)何が一番求められているのか、たいへんよくわかるご感想ですね。

 このような学校で育って、それが当たり前だと思っている教師には、批判されていることの意味すら理解できないのかもしれません。
 「だって、それが公立学校というものですよ・・・」という教師がわずかであることを願いたいものです。

言葉では伝わってこないメッセージ

 コメント欄でお示ししたことをここにまとめてみます。

にほんブログ村 教育論・教育問題
 教育は、言葉だけで何かを変えることはできません。
 「魔法の言葉」というのもありますが、これは「言葉」よりも「魔法使い」の役割の方が大きいわけです。

 A先生から「○○さん、私がこの生徒の行動には全責任をもちますから、今回の失敗は許してもらえませんか」と言われてうれしく感じるような生徒でも、B先生に言ってもらって同じようなことを感じるとは限りません。

 A先生と生徒には、双方向の気持ちのやりとりがあるから成立するコミュニケーションも、B先生とその生徒の間のように「一方通行」であると成立しないということです。

 生徒が変わると、A先生とB先生の立場は入れ替わるかもしれませんし、両方がA先生、B先生になるかもしれない。

 同じ言葉でも、生徒によって受け止め方が100%異なる場合があります。

 特に、孤立傾向の高い生徒の場合、たくさんのB先生に囲まれているという認識をもってしまい、周囲からの同調性圧力を感じ、それに対する反発が強くなることで、その傾向がますます増すことになります。

 しかし、そのような生徒からは、教師として、次のようなメッセージを受け取ろうと努力する必要があります。

 「私を理解してほしい
 「私にみんなといっしょの認識ができるよう、教育してほしい
 「私もみんなと変わらない、同じ生徒であるということをわかってほしい
 「変わり者扱いしないでほしい

 もちろん「自分の行く道をじゃまするな」系もごくまれにいますが、そこまで信念のしっかりした子どもは逆にたのもしい。

 メッセージを受け取る努力はしつつ、だからといってその生徒を特別扱いするわけではなく(同じように扱ってほしいというメッセージを尊重して)、こちらからの必要なメッセージを送り続けていく、そういうスタンスを私はとっています。

 一方通行で渋滞している道路を、上から眺めるようなイメージです。
 あるいは、歩行者として、ゆっくりその道を逆行していくようなイメージでしょうか。
 道幅を広げていくという選択肢もありますが、そこに新しいものが殺到してくるというデメリットも・・・。

 「私だけ(自分の子どもだけ)特別扱いして
という生徒(保護者)もたまにいますが、まだごく一部であるし、正当な理由がある場合は別として、「それはできません」と言えるのが公務員としての立場です。
 もちろん、クレーム対応の労力を減らすために、その生徒や保護者だけに伝わるようなメッセージを出すという工夫はしますが。

 もちろん、以上のことと、ブログの世界はまた別の話です。
 
 ブログではメッセージ性のかたまりのようなものが飛び交っていてわかりやすいのですが、もしかしたら、隠されたメッセージというのもあるかもしれません・・・。

言葉も人間も完全なものではない

 私もそうですが、ブログのコメント欄を通しての意思疎通・意見交換というのは難しいものであると、多くの方が感じていらっしゃるものと思います。
にほんブログ村 教育論・教育問題
[仏教] ブログ村キーワード

 仏教には、このような説話があります。
 
 釈迦が「あなたの教えを短い言葉で説明してください」と言われ、要望に応えたら、相手がわけがわからず腹を立て、帰ってしまった。

 普通の人なら、「だってあなたが短い言葉でと言ったから・・・」と腹を立てるのに、釈迦は平然としている。
 なぜ腹を立てずにいられるのか。

 仏教では、「言葉は完全でない」「言葉は正しくない」ということを前提にしているからでしょう。

 不完全である言葉を、不完全な人間が使うわけですから、相手にうまく伝わる確証はどこにもありません。

 結局、言葉が善意としてとられる場合と、悪意としてとられる場合があるのは、受け手次第ということになります。

 つまり、「お前の言うことは理解できない」ということは、「私はお前の言うことが理解できない人間である」という意味と同じであると考えればよいことになります。

 ですから、「精一杯、理解してもらえるように尽くしたのに・・・」という後悔をしている人がいたら、それは後悔するべきことではなく、「精一杯尽くしたのだから悔やむことはない」ととらえるべきことであるというのと同じようなことでしょう。

「する」と「しない」の間にあるもの

 たとえば、学級委員に立候補するか、しないか。
 生徒会の会長に立候補するか、しないか。
 正式な応援者になるか、ならないか。
[立候補] ブログ村キーワード

 「する」「しない
の間は「」ではなく、たくさんのことが詰まっていることでしょう。

 CFを見ていたら、「Yes」と「No」の間には・・・
というフレーズが登場して、意思決定というのは簡単なことではないと改めて思いました。

 迷いを断ち切る決め手は何でしょうか。
 
 個人としての決断力か。
 信頼できる人からの応援か。
 
 個人としての自信か。
 応援者の自信か。
 
 決断の足を引っ張るものは何でしょうか。

 負けたときの敗北感からの事前逃避か。
 プライドが傷つくことことからの事前逃避か。
 自信の不足か。
 他者からの信頼感の実感不足か。
 実績不足からくる不安か。
 
 中国で「」は「エキ」であり、「使役」「苦役」等の用法しかありませんでした。
 日本では近世に「ヤク」意識が生まれ、そこから現代でも公務員をさす「役人」という言葉としてその意味が受け継がれてきています。

 役割意識

 生徒の代表者としての役割意識。

 それは、目の前の教師が抱いている役割意識が実感できたときに、次世代の子どもに受け継がれるものかもしれません。

 「生徒」が語れる自治の学校復活・創造させるために、教師ができることとは何かを考えています。
にほんブログ村 教育論・教育問題

「満足感」より「達成感」を

 いちろうさんからは「それが過保護だ!」と怒られるかもしれませんが、教師は指導上、子どもに満足感、充実感、達成感を味わわせるような工夫をします。
 
 ただ話を聞いてあげるだけで満足感を感じる子どももいれば、放っておいても充実した時間を過ごせる子どももいます。
 何日も何時間も準備をさせて、成功させて味わわせる達成感もあります。
 誰にでも通用する「工夫」というのは少ないもので、子どものツボにはまる指導法を探っていくことが望まれます。

 一般的には、「ほめる」ことで教師は子どもの自己肯定感を育て、「やる気」を出させる指導を行いますが、私の場合は無条件で何でもかんでも「ほめる」ことを躊躇します。

 このブログでは、過去にも「何でもかんでもほめることによる弊害」についてふれてきました。

 子どもは諸活動で満足感を味わうことができるのですが、その多くは「自己満足」のレベルであって、「その先」を目指そうとしない「苦労回避」のためのブレーキ機能になってしまっている気がしています。

 この状態でほめてしまうと、中には「そこまででいい」と安心してしまって、「もっと上」を目指さなくなってしまう子どもも多い・・・だから問題が解決されず、よくないやり方が繰り返されることになってしまう・・・そういう子どもがここ数年の中でも随分増えてしまってはいないか。そんな自問をしています。

 「満足感」より「達成感」を。

 そのためには、具体的な「成功」「成果」をどんな小さなことでもよいので出し続けていくことが必要です。

 「小さな成果」が出せない生徒に、いきなり「大きな成果」が出せるわけはありません。
 「小さな成功」の積み重ねが、「大きな成功」へと育っていくわけです。

 教師の役割として大切なのは、その小さな成果や成功を見逃さず、子どもに伝えてあげることでしょう。
 それをどの程度の成果・成功とみるかは子どもに任せてよいのですが、どういう行動が成果・成功に結びついたのか、その仕組みも子どもに返してあげたいものです。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

成果をあげるコツは企業も学校自治も同じ

 成果をあげている人が実践していること・・・コンピテンシー・ディクショナリーは、人まねでなく、自分自身が築き上げていく、そういう信念をもてるレベルまで求めていきたいと考えています。
[成果主義] ブログ村キーワード
 ただ、スキルとして定着するまでは、「チェックリスト」「重点項目」のようなものが必要かもしれません。

 中学生のレベルでも、ときどき「この学年は別格だった」と回想される実績を残す集団がでてくる場合があるので、勝手な限界レベルを設定した甘い指導はできません。

1 「何がなされるべきか」を常に考える
  
 この習慣をつけると、現状の問題点にたくさん気付きます。そこでイライラしてしまうのではなく、次のステップに結びつけることです。
 「当たり前のことが当たり前にできる」レベルを超えられれば、目標設定自体に誇りを感じられるレベルが次に待っています。

2 学級、学年、学校全体のこと、組織のことを考える

 この習慣をもっていると、「私は・・・」ではなく、「私たちは・・・」と問うたり意思を表明したりすることができるようになり、「公」の世界の役割を意識できるようになります。
 「私たちは・・・」が口癖になるようなリーダーを育成したいと思います。

3 行動計画をつくる

 最近はエクセルで予定表をつくる中学生もいます。
 たとえば自治に関する生徒の活動時間は学校では限られているので、使用可能な時間を整理し、ゴールから逆算していってスケジュール表をつくる癖がほしいものです。
 常に複数の行動計画が動いていくことになりますから、「進行管理」ができるかどうかが「計画だおれ」になるかならないかの別れ道になります。

4 自分が動いてコミュニケーションをとる

 「誰も私に相談してくれない
 「私に話してくれなかった
 「私は聞いてない
 そういうことを不満に思うようではリーダーにはなれません。
 自然に情報が集まるシステムをつくることもできますが、そのためにはまず、「自分の足で情報を集める」癖をつけることです。
 フットワークがいいかどうかがコミュニケーション能力があるかないかの目印になります。

5 話し合い活動の生産性を向上させる

 みんなが集まって、話し合って、何となく時間が過ぎていくだけでも、中学生は不思議と充実感がわいてくるものです。
 授業でよくある話し合い活動でも同じです。
 自分がどのような考えをもってそこに参加し、相手のどのような考えにふれ、違いがあればどうすりあわせ、自分の考えをどう深めていけたか・・・
 後で評価できる内容はいくらでもあるのですが、何の成果もなくても「やった気になる」のが話し合いです。
 その落とし穴にはまらず、まず話し合いの目的を明確に認識させ、ゴールは何かという共通理解をもった上で、成果ができるように進めていかないと、ただ「友好を深めた」だけで終わってしまいます。

電話対応から受ける安心感

 今後しばらく、私自身の「過去との対話」にも取り組んでいきたいと思います。

 電話の応対の件では、「2008/06/11 「体構え」が指導できる学校」でもふれておりました。
にほんブログ村 教育論・教育問題

 たまたま今日、研修の関係で東北地方の2つの中学校に連絡を差し上げたのですが、両校とも2度の呼び出し音ですぐ出ていただき、対応も非常に丁寧でした。
 
 電話対応者の声のトーン、話し方、要領の捉え方などから、だいたいどのような学校状況なのか推測できますが、さすがに長期の研修で現場を離れる先生を送り出すほどの学校は、中がしっかりしていらっしゃるものだとわかりました。

 受け入れる側としても、たいへん大きな安心感をもらえるやりとりでした。

 たかが1分くらいのやりとりで・・・と思われるかもしれませんが、1分で感じることが本質を的確に捉えることになっている例はたくさんあるかもしれません。
[教育現場] ブログ村キーワード

会議のときに生徒の写真を見えるところに置いておくのはなぜか。

 「日本を滅ぼす教育論議」(講談社現代新書)で紹介した岡本薫の著書『教師のための「クラス・マネジメント」入門』(日本標準)は、現場のにおいがあまりしてこない物足りなさはありますが、若干の事例を踏まえて「教育の失敗」分析を示したものです。
 教育のマネジメントに関する基本的なチェック事項について、以下のようにまとめてあり、また個別のチェックリスト例も別に示してあります。

 「現状」を正確に把握しているか?
   木を見て森を見ない、森を見て木を見ないために現状認識を誤る場合があります。

 問題の「原因」を追究・特定しているか?
   思い込み・見落とし・誤解などがよくおこります。

 「具体的な達成目標」を明確に設定しているか?
   全員に同じ目標というのは、具体的な評価基準をつくるとわかりますがあり得ない場合があります。そういうときは、全員の目標と個人の目標を区別して設定する必要があります。
 
 「実行可能で有効な手段」を選択しているか?
   手段が目標にならないよう、配慮する必要があります。手段の有効性、適切なタイミングなど、実行段階の問題なのでけっこう重要です。

 関係者間の「共通意思」を形成しているか?
   自分が納得し、相手を説得できる材料があるかどうかが大切です。単独で突っ走るタイプの教師がいる場合は、特に日常的な情報の共有、意思疎通が欠かせません。

 「手段の実施」を決定どおりに行っているか?
   長時間かけて議論し、決定したのに、それを実行しない、または手段を変えてしまうケースがよくあります。

 「結果と達成目標の比較」(評価)を行っているか?
   目標と評価の一体化が図られていない授業がたくさんあるので、このような分析の意識付けは大切です。

 このブログでも取り上げてきた内容が掲げられているわけですが、経営、マネジメント理論などを学んだことがない一般的な教師は、理論より実践の経験に基づいて問題解決力をつけ、教育の課題を克服しており、他者分析はしていても、上記のような自己分析が習慣化しているかというと、なかなか一つ一つの仕事をあてはめてみる余裕はないというのが現状でしょう。

 著者は、このような分析を、政府の委員会・審議会のメンバーや政治家・官僚、著名なジャーナリスト、学者、研究者、専門家、財界人などによってもできていない・・・と大きく構えています。

 しかし、校長の指導力がある学校では、人事考課制度などを活用して、知らず知らずのうちにマネジメントが行き届いているというところもあるでしょう。
にほんブログ村 教育論・教育問題

 私は、「知らず知らずのうち」により望ましい職務行動がとれるようになるのは、上記のようなマネジメントの知識があるかないかよりも、まずは「子どもの立場になって考えているかどうか」が前提になっていると思っています。

 会議などでは、生徒の写真を常に見える状態にして議論することが、その前提を守るための有効な手段になります。
 それさえクリアしていれば、本当に必要なチェック事項が限られてくるかもしれません。
 自己管理には今後も試行錯誤が大切だと思います。

依存的になる親や子?

 いつもコメントを下さる「いちろう」さんから、具体的な学校・教師の逆コンピテンシーを示していただいたので、少し考えてみたいと思います。

不必要なことをしない先生がいいと考えています。 最後までやりきることができないのに、家庭のことや地域のことに口を出したりするのはどうかと思う。中途半端に口出しされて(批判されて)、どんどん依存的になっていった親や子を、少なからず見てきた。

 「必要なこと」「不必要なこと」の境目は、教師によって、保護者によって、子どもたちによって、すべて異なるものですね。
 公立学校は、特にその境目がそろっていないという問題を抱えているので、「画一的な指導」は絶対にうまくいかないのです。
 一方で、「画一的な指導」で非常に効率よく、学力を高めていくことができる教育の場も、たくさんあります。
 
 「家庭のことへの口出し」は、教育基本法も含んだ批判かどうかわかりませんが、教師と保護者の役割分担の境目というのも、組み合わせによってバラバラです。

 地域のことについても同様ですね。

 問題は、その関わり方が「中途半端」であり、いちろうさんは「やるなら最後までやりきれ」という要望をお持ちのようです。
 ただ、それは責任分担の合意形成の失敗か、教育すれば必ず答えが出るといった誤解から生まれる、学校にとっては酷な要望であるような気がします。

 保護者や子どもの「依存心」というのは、ある範囲内では学校教育の必要性を物語っていると言えます。

 塾に通っていない子どもが、進路の情報を入手できる先は、まずは学校でしょう。
 子どもがいじめに合ったとき、まずは状況を担任などに聞くでしょう。
 何かクラス内でトラブルがあったら、子どもが相談できる相手として、担任が想定されていないということはないでしょう。
 
 問題は、子どもが自立できる力をつけられるかどうかということで、そのために多くの領域・教科で学ぶことがたくさんあるわけです。
 その力がつくまで卒業させない、というわけにはいかない公立学校では、「中途半端」で終わる危険性を回避できません
 だからと言って、教育しないわけにはいきません。

 義務教育の場合は特に、人格の完成が達成目標ではありませんから、卒業後にいかに伸びる基礎がつくれるかが課題であり、まだ「依存心」をうまく活用しつつ、力をつけていってあげることが教師の役割だと考えられます。

 ただ、最近は、自立が進んでいるのか、学校教育への不信が深刻なのか、依存的な態度?をとってくれる子どもや保護者が減ってきているというのが素直な印象で、その方向性はいちろうさんにとっても好ましいことなのかもしれませんね。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

「怒りのもと」を吸い込むスポンジ

 仏教の世界では、「怒りは自分を焼き尽くす火」とよばれ、怒りによる悪影響を防ぐために、さまざまな説話が語られてきました。
[仏教] ブログ村キーワード
 逆に考えれば、それだけ「怒り」は人間にとって身近なものであり、その原因もたくさんあるということです。

 キリスト教の話にも、ユダヤ教徒が「不倫をした女は石で殴って殺す」という戒律に従って女を捕らえ、行動をおこそうとしていたとき、イエスが「よくわかりました。では、最初に何も罪を犯していない人から石を投げてください」といって女を救った、というものがあります。

 「すべての人を、どこまでも赦す」・・・簡単にできることではなさそうですね。私のような未熟者には、現実社会で、これができてしまう人が得られるのが尊敬だけとは限らない気がしてしまいます。

 怒りの火は自分を燃やすことのたとえに、マッチとゴミの話があります。
 
 ゴミを燃やそうと思って、マッチをすると、先に燃えてしまうのはマッチです。
 マッチは大事だから燃えずにとっておいて、ゴミだけ燃えてほしい、というわけにはいかない。

 自分に火をつけたら、触れるものすべてを燃やして破壊することができますが、自分も破壊されてしまう。

 ・・・それでもついてしまう火はどうしたらよいのでしょう。

 他人からの攻撃による怒りを防ぐ方法としては、「水晶玉のようになれ」という話があります。

 自分の心を、光り輝く水晶玉のようにしていれば、相手からどんな色の水で汚されても、ふくだけできれいになってしまう。
 そういう心を持っていれば、たいていの攻撃への備えとなる、というものです。
 
 「スポンジ」のような心では、苦しくなるだけなのでしょう。

 それでも吸い込みたくなるようなものが、学校にはたくさんあるのです・・・。

ブログに注ぐエネルギーの根源

 どこかで書いたことかもしれませんが、私は大人から自分自身のことについて罵詈雑言・誹謗中傷を浴びせられても、「法令違反をしている」など職業倫理にかかわることで事実無根のことを言われる以外は、滅多に怒ることはありません。

 ただし、学校現場で何か問題がおこったときに、自分の仕事を棚に上げて、「子どものせい」「親のせい」「子どもが悪い」「親が悪い」という発言をする教師だけは絶対に許せません。

 そういう逃げを、自分自身がとってしまいそうになることもあります。
 しかしそのような逃げは、絶対に避けなければならないことです。

 「権威」がなくなった教師は、信頼される努力を積み重ねていかなければなりません。そのためには、不信の原因になる要素をすべて取り除く必要があります。
 失われた信頼の「回復」「修復」ではなく、完全なる「再建」「建設」です。

 そのエネルギーが自分のブログに注がれています。
 にほんブログ村 教育論・教育問題
 
 「子どものせい」「親のせい」「子どもが悪い」「親が悪い」という教師の話を子どもが読んだり聞いたりすれば、どんな気持ちになるかを考えさせすれば、だれにでも感じるものがあるのでは。

 なお、教師でない一般の方が、「子どものせい」「親のせい」「子どもが悪い」「親が悪い」と言っても、怒りはわいてきません。
 職業癖のようなものでしょうか。

「謝ってあげているのになぜ?」という発想

 近所のスーパーで、20~30歳代の女性と50~60歳代の女性のトラブルを目撃してしまいました。
 原因は、若い方の女性が年配の女性の体にカートをぶつけてしまったことにあるようですが、怒っている年配の女性に対し、若い方も「謝ってるじゃない」と逆ギレしているため、口論になっていました。
 年配の女性は痛さに頭がきているのか、謝り方が悪かったことに腹を立てているのか不明でしたが、双方とも晩ご飯準備の忙しい時間で、イライラしていたのでしょう。

 「謝ったのに、なぜ許してくれないの?」という発想しかできない人だったら許せないかもしれませんね。
 「大丈夫ですか?」とか、相手を思いやる言葉が必要だったのでしょうか?

 いずれにせよ、「怒る」という行動も相当にエネルギーを要することだなと思います。
 自分だけでなく相手にも引火して、しかも相手の方が燃え上がってしまうと逆に拍子抜けというか調子が狂いますね。

 にほんブログ村 教育論・教育問題
 教育界の中でも、コミュニケーションをきちんと取ればトラブルにならないのに、それを怠っている両方か片方が腹を立てている図がよくありますが、恥ずべきものです。
 柔軟な思考でトラブルを収めることも可能なのに、教師という職業人の中には、「誤りを認めたがらない」「一度決めた考えを変えない」習性があるのか、意固地になって問題解決に協力しない人がいます。
 
 このようなことで順番待ちの「問題」が放置される状況は避けたいものです。
 ですからこういう場合に「仲裁役」ができる人材というのは、たいへん貴重な存在です。
 教育ブログの中でもときどきそういう方が現れますね。

意思疎通しない相手への批判

 教育ブログを閲覧していると、自分自身も「意思疎通」「合意形成」を怠っているのに、他方の人間を一方的に批判している学校関係者が見つかります。

 「教師と保護者」の関係は「校長と教師」と同じであり、さらに「教育委員会(教育長、指導室課長、指導主事)と校長[校長] ブログ村キーワード」の関係とも同じです。

 トラブルの原因には、同調性圧力が強い日本人の特徴として、「違う考え方をもっていること自体が許せない」として思考停止になっている場合や、一方が片方の情報を鵜呑みにしたり、無批判に従ったり聞き流してしまったりすることなどがあります。

 ルール、法令には従っていても、何かぎくしゃくしてうまくいかない、全然計画通り進まない、成果が出ない、という課題の背景には、「意思疎通」「合意形成」が行われていないことがあります。

 一般の方のなかには、学校でこのような「意思疎通」「合意形成」が行われる場を「職員会議」と誤解している人もいると思いますが、単なる事務連絡は別として、意見が分かれそうな議題がいきなり職員会議で出されて、ほとんどの教師が初耳の状態で意見を求められるということはなく、それ以前の段階の、分掌や学年等の会議での提案があり、場合によっては「協力の要請」や「根回し」が個別に行われたりして、事前に「意思疎通」を行う、というのが学校というところです(もちろん学校だけとは限らないでしょう)。

 批判するようになった相手、批判されるようになった相手とは、正面から向き合って、「合意形成」「共通の意思の形成」を怠らないようにしなければなりません。

 それを怠って「相手が悪い」と言うのは、「自分も悪い」と言うのとイコールです。
にほんブログ村 教育論・教育問題

マナー違反に対する指導

 私の勤務している学校には、いくつかの大学から授業見学に訪れる教職希望者がいて、授業見学だけで帰る場合と、簡単な質疑応答の時間を設ける場合があり、昨日は後者のケースとなりました。

 質疑応答の中で、「人間観察」のおもしろさを話題にした後、
人は、いろんなところで、観察されていることを忘れずに
「今ここで、私がどうしても許せないことをしている人が何人かいます」
という流れになって、
「企業などの訪問先で時間をさいてもらって話を聞くとき、机の上に鞄を置いたままでいることはあり得ますか?」
という指導?になってしまいました。

 「生徒なら(ここ、言い忘れたかもしれませんが)私が絶対に許さない行動です」
と言ったせいか、鞄をすぐ提げて、机上でメモができる態勢になったのはよかったとほっとしていますが、同僚が、この訪問者たちへのいきなりの指導をフォローをしてくれて、生活指導の話題になり、

 「みなさん(大学生)は人を叱った経験というのをどれくらいお持ちですか?」

という質問を投げかけてくれました。

 大学の教官に連れられて嫌々来ただけの大学生もいるかもしれない中、訪問先の教師からいきなり指導を受けてしまったわけで、不愉快に思った人もいたかもしれませんが、
私の場合は絶対に許しません
あり得ないことです
という言葉への反応は素早いものでした。

 考えてみたら、ほとんど人から叱られたこともないし、叱ったこともない、そんな大学生は少なくないのではないでしょうか。そしてそういう人に限って?採用試験に受かる。

 指導の仕方、叱り方にもさまざまなバリエーションがあります。
 マナーを教えるときなどに、「私にはこれこれこういう態度を許さない価値観をもっている、世間でもおそらくそういうものである」と言ったとき、相手が素直に受け入れてくれるような関係ができているかどうか。

 「スキル倒れ」にならないようにすることも、指導者にとっては大事なことです。
にほんブログ村 教育論・教育問題
[教育者] ブログ村キーワード

「税金の無駄遣い」という主張を間違いないものにできる教師

 よく考えてみれば、公立学校の信頼を貶めることのないよう、熱心に書き込み続けていただいているいちろうさんのような「保護者」の方と、「信頼を損ねている?」公務員の教育ブログというのはおかしな図式ですね。
 「内部告発」や「内部からの批判」というのは日本の文化にはそぐわないのでしょうか。
 ただ、教育基本法に掲げられた「教育の目標」を念頭に生活している者にとっては、やはりやるべきことはやっておきたい気がします。

 *「幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い・・・」
 *「自主及び自律の精神を養う・・・」
 *「職業及び生活との関連を重視し・・・」
 *「正義と責任・・・・・公共の精神に基づき・・・・」
 *「自己の人格を磨き・・・・」
 *「生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習・・・」
 *「成果を適切に生かす・・・」

 行政にいたころは、たまたまかもしれませんが、学校関係者以外の方から受けた電話のうち、苦情の電話と質問の電話で99%間違い電話が1%激励や感謝の電話は皆無でした。

 苦情のうちの多くは、学校や教育についての情報不足、学校や教師とのコミュニケーション不足が大きな原因だったので、そのようなことの解決になるような記事を今までにいくつか紹介してきました。

 学力調査については、「平均点の扱い」ばかりがマスコミで取り上げられ、肝心のねらいの部分が保護者に伝わっていない状況がありますが、実は、学校現場の教師自身がそれを理解していないことは、いくつかの教育ブログの記事を読むだけでもわかります。

 国語や算数、数学の教師ではないからかもしれませんが、新聞にも掲載されている問題がどのような質のものなのか、それすら知らない(興味がない)人も多いようです。

 このように、全国的に展開している教育政策の一つの成果や本来の課題が、保護者にまで伝わらない原因はどこにあると考えられるでしょうか。

 これを現場の私は、やはり現場の教師という自分自身の立場に求めます。
 
 学校は、この調査の目的を、どのように子どもや保護者に伝えたのでしょうか。

 また、この調査の結果を、どのように子どもや保護者に伝えたのでしょうか。

 個人票を返してそれでおしまい、ということはなかったでしょうか。

 教育は、「こんなの税金の無駄遣いだ」と政策を否定的に考える教師が、自分のその信念を貫徹するために、いっさい政策に意味をもたせないように努力することが可能な世界なのです。

 新しい学習指導要領が、すべての教師に配布されました。
 こんなの、税金の無駄遣いだ、という主張は、自分がそれを開きもしないことで、その通りの主張になります。
にほんブログ村 教育論・教育問題

 冊子には、改正された教育基本法、学校教育法(抄)、学校教育法施行規則(抄)の他、移行措置関係規定等も収録されています。
 
 教育基本法第二条に新たに加わった内容は何か?
 このことの知識を問うだけでも、「法令」に疎い教師の日常が見えてしまうかもしれません。 

失敗と成長の分岐点

にほんブログ村 教育論・教育問題
 いちろうさんほどの方から、

少なくとも、このブログを読んでいる100人の人たちの多くは、公立学校にはやりたくないとか、税金の無駄遣いだとか、現在の学校を否定的にとらえていると思います」

 というコメントをいただいて、それだけの内容があったのかと改めて自分のブログをふりかえってみたくなりました。
 いちろうさんはよほど「公立学校」に愛情をもっていらっしゃるようで、子どもさんも先生方もうらやましい限りです。

 記事も700をこえ、プリントアウトだけでもたいへんな量になってしまっていますが、「教育への信頼の回復」が大きなテーマだったのものが、「教育への不信の助長」になっているという鋭い指摘でしたので、「隠れていたもの」が表に出せた意義は大きいと思われます。

 しかし、教育の失敗を他人のせいにして、それで何かが救われると勘違いしている多くの人たちには、現実の厳しさをつきつけていかなければならないと考えています。

 学校現場は、いわれのない批判を受けることも多いですが、「貴重な」批判を受けたタイミングを逃さずに、「変わるチャンス」として生かすべきところです。

 もちろん自己批判でもいいわけです。

 そのネタをたくさん紹介しています。
 
 それにしても、教師というのは、大きなやりがいもある一方、大きな絶望落胆も幾度となく経験することになります。

 教育というのは、さまざまな教科や領域等の目標に照らして考えればわかるように、指導上の「成果」や「失敗」がどんどん累積していく職場です。
 しかし、「失敗」に中には、将来の「成長」「成功」のための財産になるものもあるので、短い中学校、高校生活で「大成」しなくても、その「タネ」がしっかりまかれていればよいわけです。
 そのために必要なのは、「失敗」の自覚です。

 どんな「失敗」を成長への財産と受けとめるられるかが、さらなる失敗と成長の別れ道になるでしょう。 

「指導者としては不適格だ」と評価される人間のブログ

[教育者] ブログ村キーワード
にほんブログ村 教育論・教育問題

 このブログは、「いちろうさん」という熱心な読者の方が、「指導者としては不適格」と評価している人間のブログです。
 一日平均約100名の方に訪問していただいておりますが、強烈なレッテルが貼られているブログだということをお含みいただいて、引き続き、どうぞ注意深くお読み下さいませ。

 さて、教師に限らないと思いますが、職業人には、専門的な知識や、職業的な智恵が必要です。

 教師にとって専門的な知識というのも様々ありますが、この「知識」というものは、変化の大きい社会では、苦労して学んでもすぐに陳腐化していくという性質があります。
 
 本日のある会議で、「阪神工業地帯の工業製品出荷額の順位が、まだ全国2位だと思っている教師がいる」ということが話題になりました。
 
 では、教師は常に最新の情報を入手していて、「専門的な知識」の面で十分であればよいかというと、そういうものでもありません。

 そういう教師は、「求められる人材」であっても、現場で「活躍できる人材」ではありません。

 現場で「活躍できる人材」選びは、これまで非常に難しいものだったと思います。

 それは、「求められる人材」と「活躍できる人材」の概念が混同されており、「求められる人材」=ニーズに合った人材であるかどうかだけが選考の基準になっていたからでしょう。

 では、「活躍できる人材」とは何か。

 それは、職業的な智恵をもっている人材です。

 「求められる人材」は、法令遵守が徹底できる(初任者研修の最初にたいていこれが扱われます)し、専門的知識には難がないというニーズを満たしてはいますが、そういう教師がたとえば現実の指導困難校の教育を改革できるか、悩みを抱えている子どもを救えるかというと、そう簡単にはいかないでしょう。

 教師のコンピテンシーを構築していくためには、「専門的知識の網羅」という観点ではなく、「職業的な智恵」の言語化という作業が必要になります。

 しかし、「言葉で表せる知識」ではなく「言葉で表せない智恵」が重要になる、という言い方がされるように、「智恵」の言語化は非常に困難な作業です。

 それでも、「職業的な智恵がなければ解決不能だったはずの問題」、「職業的な智恵」を感じることができる「名言」などを探していきたいと思います。

 私自身は、いちろうさんが再三にわたって批判されていることですが、子どもに対しても「求められる人材」より上の、「活躍する人材」の育成をモットーにしています
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

家庭での「叱られる原因」と叱り方

 雑誌「プレジデント ファミリー」10月号の記事を読んでいて、驚いたことがありました。
 特集「なぜうちの子は、何度言っても聞かないの? 母の叱り方、父の叱り方」の中で、子どもを叱るとき、「叩くことがあるか」という質問に、「ある」と答えた人が4~5割いたことです。
 
 日本にはまだ「体罰容認」の文化が残っているようです。

 面談のときに、「うちの子どもが何かやったらどんどん手を上げてかまいませんから」とおっしゃる親御さんがまだいますが、学校で「腕力」に訴える指導はもう成立しません

 叱るときに絶対に子どもに手を上げないと意識している?の質問に対しては、「意識している」と答えた親は2割強ほどでした。
 
 この特集では(雑誌の読者の傾向もよくわかりますが)、成績のよい子どもの親と普通?の子どもの親を比較しており、「手をあげる」ことについては、両者の違いが見られないようでした。

 ただ、叱るときに怒鳴るかどうかについては、成績が普通の子の親は7割が「怒鳴ることもある」のに対し、成績のよい子の親の方では5割でした。

 「叱られる原因」を考えてみると、子どもは学校よりもはるかにたくさんの「叱られる原因」を家庭で抱えていることがわかります。

 ・成績(テストの点)が悪い
 ・宿題をやらない(期限を守らない)
 ・ゲームばかりやっている
 ・テレビばかり見ている
 ・マンガばかり読んでいる
 ・携帯ばかりいじっている
 ・後かたづけをやらない
 ・風呂に入らない
 ・行儀が悪い
 ・部屋が汚い
 ・食事のマナーが悪い
 ・帰りの時間が遅い
 ・うそをついた
 
 などなど・・・。

 「叱る行為」も「叱る側」としてはおもしろくないようで、「先生からも言い聞かせて下さいよ」と要望してくる親もいますが、内容によっては子どもの味方になってしまう?ようなこともあります。

 考えてみると、こういうことは学校生活では「叱る対象」になっていないものも多く、その分、教師は楽ができているようです。
 逆に、教師も同じような理由でだれかから叱られなけえばいけない状況の人もいそうな気もしますが・・・。 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

ハンバーガーとちゃんぽんと教育

 外食産業のように、参入障壁が低い業種は、それだけ奥が深い業種であると言えるかもしれません。
 教育産業などもその典型でしょうか。

 日本マクドナルド社長がリンガーハット社に移籍後、赤字転落の責任をとって辞任することになったことについての記事を雑誌で読みました。
 
 ハンバーガーに適用できる業務の効率化が、「長崎ちゃんぽん」にはできなかった、というのが記事の趣旨です。
 教育の現場では、ハンバーガーのように均一に規格化された材料を前提とした教育、そういう生徒を生み出す教育がかつては批判されました。
 当然、現実はちゃんぽんの具のように同じキャベツの葉でも芯があったり先の方の薄いものであったりしますから、厨房の手間を減らす、負担を減らすことは困難で、ちゃんぽんならではのボリューム感は、そもそもそういう発想で改善しようとするところにはなじまない長所であったわけです。

 では、どうやって業績を上げるかが問題なわけですが、「味が違うちゃんぽん」では勝負にならなかった。

 現場に復帰した会長は、食の安全・安心やCSRを万全の形で実施した功績を評価していましたが、それが「当たり前」の時代から、「正当に評価されるもの」になる時代までは、もう少し時間がかかりそうです。

 現行の指導要領から、「素材を選ぶ楽しさ」「調理するおもしろさ」も味わえる教育に舵をきりましたが、そのお膳立てが不十分だった反省から、「素材を選ぶ」教師の役割と、「調理する」子どもの役割を分けることにしました。
 その趣旨をふまえた総合的な学習の時間が間もなくスタートしようとしています。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

指導主事の盗聴行為

 私は、現場では「タテ」の連携の不足を、行政では「ヨコ」の連携の不足を感じていたので、双方の立場で改善を試みましたが、「組織」を変えることは難しく、「よく動く個人」で終わってしまいました。
 
 府教委の盗聴器問題の報道を知ったとき、まずはこのことが頭に浮かびました。

 これが上司の命令に基づくものであるとすると、また大きな「事件」に発展する可能性がありますが、仮にそういう命令があったとしても上司をかばうでしょうから、先には進まない気がします。

 教育委員会の中では、他の行政機関と同じように、担当の業務の多忙さから「ヨコ」の連携のなさが現場からの不信感を招く(同じような調査が別の部署から送られてくるなど)ことがありますが、こんな形で収集しなければならない情報があったのかどうかは疑問です。

 都道府県教委といっても、義務教育や特別支援教育ではなく高校教育の場合は学校数が限られますから、そんなに指導主事の数も多くなく、規模も限られていると思うのですが、自分の担当より生活指導の方に興味があったのでしょうか・・・?

 まあ、行政の職場自体は閉鎖空間ではないので、自席で内緒話が出るわけでもなく、印象としては「奇怪」というようにしかうつりません・・・・。 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

「わからないこと」への耐性をつける英語活動

 なぜ小学校の英語活動で「聞くこと」「話すこと」が指導の中心になるのかというと、外国語学習の場合、この二つの能力の向上が先に進み(その間は読んだり書いたりする能力はあまり向上しないで)、その後を追って、読むこと、そして書くことの能力が高まるような仕組みがあるからだそうです。

 ですから、小学校では読んだり書いたりすることに力を入れる必要はありません。

 小学校の英語活動について理解していただきたい点としては、他に、「わからなくても訳す必要はない」と言われることの意味があります。
 小学校の英語活動では、たとえば、子どもが英語の意味を知りたくなって、つい「日本語で言うと?」と聞いてしまう、それに、教師や既習の子どもが答えてしまう、意味を聞かないと、先に進もうとしなくなってしまう、そういう授業がまずい授業です。
 
 外国語のコミュニケーションは、そもそも「日本語」が通じないから学ぶのであって、「日本語に訳す」という回路を常に経由しないと気が済まなくなってしまうということは、コミュニケーションの意欲や根気をなくしてしまうということに直結します。
 
 日本人は外国語でのコミュニケーションに対して、「わからないこと」への耐性が低いことや、はじめから「わかりません」という態度をとってしまうことが問題だと考えられます。
 外国語教育によって、うまくいけばこの問題をクリアしてくれるかもしれません。

 教師の指導の工夫としては、日本語の意味を知りたがる生徒については、必死にジェスチャーで伝えようとしたり、絵を見せたりするなどの工夫が必要になります。
 ジェスチャーを含む「豊かな表現活動」はあまり「国語」の授業では触れられてこなかったことだと思いますので、ねらいを明確にした英語活動は、意味のある言語活動、言語学習になると思います。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

「こだわり」と人間の成長

 人にはそれぞれ「こだわり」があり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応していくことは、容易にできることではありません。

 生徒、教師、校長、保護者・・・さまざまな立場に由来した「こだわり」もあれば、人間一人一人の個性としての「こだわり」もあります。

 「挨拶や服装」「教室の壁面構成」にこだわる教師、「ミニスカート」「リボンの色」にこだわる生徒、「食事の食べ方」にこだわる保護者、「校長室の植物」にこだわる校長・・・。

 個性に由来する「こだわり」の場合は、中には、他の人から見れば理解できないものもあります。
 ですから、あまり気にもとめずに「批判」「非難」してしまうことがありますが、それが相手の「こだわり」のツボだったりすると、怒らせてしまう場合もあります。
 
 消しゴムを借りて、「絶対に使ってはいけない角」を使ってしまうなどのミス?。
 ノートで行をあけずにぎっしりと文字を詰め込んで書く生徒。
 アクセサリーのセールスをしているようなバックをもっている生徒・・・。
 「整理整頓」にこだわらないというこだわりを持っている生徒・・・。
 会議などで「多数決」にこだわる教師。
 
 好きなものを批判されたり傷付けたりすると腹を立てるのはわかりますが、ちょっと理解に苦しむ「こだわり」・・・どう考えてもその生徒にとってはデメリットであろうこと・・・については、どうしても「解きほぐして」しまいたくなる場合もあります。

 人間は「こだわり」がないならないで「ポリシーがない」とか「優柔不断」とか評価されてしまうこともありますから、何にも「こだわらない」というのもどうかということになります。

 人間の成長とは、「こだわり」のグレードアップのことなのでしょうか。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

教育や学校に対する「保護者の立場」とは?

madographosさんからいただいた分析結果について、私なりに補足させていただきたいと思います。

>kurazoh様が,保護者の立場と教師の立場を使い分けられているということです。・・・保護者の見解というのは,自分の子どもの学校を離れては成り立ちません。ですから,教師が,保護者の立場をとって一般論を述べるということは難しいのではないですか。

>ふたつめは,kurazoh様は,他者の見解に対して,過度の一般化あるいは曲解の過ちを犯しておられるということです。私は,「「開かれた学校」否定論」などというものを述べたことはありませんが,あたかもそれが私の立場であるかのようにお書きになるのはどういうことでしょう。

 以上の二点について、二つ目の madographosさんの疑問の答えは、一つ目の閉じた「保護者」観から自然と導き出されるものです。
 保護者は特定の学校の教師にしか教育への要望を語れないというのは、「学校・地域が閉じた空間」であることを前提にした考え方です。
 こういう考え方から、同時に「学校選択自由化」反対論者でいらっしゃることもわかります。
 
>みっつめ。kurazoh様は,固定観念などという言葉を用いて,個々の教師や教育事象の持つ個別性を排除してしまっています。教育改革に疑問をもつ教師には,個々の教育実践に基づくそれぞれ理由があって疑問をもっているのだと思います。これを固定観念などと言ってしまうのは,少々乱暴ではないでしょうか。

 「個々の教育実践に基づくそれぞれ理由があって疑問をもっている」のであれば、当然ながら、固定観念による疑問ではありません。
 私が申し上げているのは、あくまでも「改革をするから教育はますます悪くなる」と責任を学校現場ではなく政策に押しつける信念に従っている人たちのことです。
 madographosさんの想定される学校にはこのような教師はいらっしゃらないようですが、そもそも中教審答申や学習指導要領を読む気のない教師には、「教育改革」反対への論拠を示せといっても、何がどう改革されようとしているのか理解していないので見当はずれの答えしか返ってこないことから、このような呼び方になっています。

>よっつめ。小学校英語については,本当は小中高大を一貫したプログラムの構築が必要なのに,まだそこまで議論が進んでいないうちに必修化がおこなわれたということは理解していらっしゃるようですね。

 英語に限らず、あらゆる教科で「小中高大を一貫したプログラム」などは存在しないでしょう。
 伝統的な国立や私立での「中高一貫」はあったとしても、中高一貫は公立では始まったばかりです。
 大学まで含む一貫教育のプログラムができるのは、いつのことになるでしょう。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

なぜ一歩前に出るのか?

 人より一歩前に立とうとする、前向きな人に欠かせないものは何でしょうか。

 現実に流されないための錨とは、何でしょう。
 何をもつことが大切なのでしょうか。

 決して失われることのない報酬とは、何でしょう。
 お金とか、地位ではない報酬を純粋に実感できるチャンスは今です。

 成長していくための最高の方法とは、何でしょう。
 いつも何気なく言葉にしていますが、本当にその実現を願っているかどうかが大事です。

 自分の心の姿勢を映し出す鏡とは、何でしょう。
 だれのために、一歩前に出るのですか。
 それは、仕事を終えたとき、もうひとつ残る別の作品でもあるでしょう。

 力を磨いていく唯一の道は、どんな困難からも逃げないことです。
 
 相手の真実を感じとる力量=共感力をもち、自らと格闘し続ける強い意思をもった人同士、頂上での再会を約束しあって、一日一日の務めを果たしていってほしいと思います。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

「教育改革=悪」方程式による教師の自己防衛

 madographosさんからいただいたご質問に、簡単で申し訳ございませんが丁寧にお答えしたいと思います。
 趣旨不明の部分は逆に質問の形になってしまっていますが、ご了承ください。

> 「小学校ならではの目標をきちんと知り、達成していく姿勢を先生方には持っていただきたい」,kurazoh様は,教師を指導する立場にある方なのですね。

 保護者の立場ではこのような当然の要望もできないのが、madographosさんのとられている「開かれた学校」否定論なのでしょうか。
 このような要求が「指導」なんでしょうか?

>「「教育改革=悪」という固定観念のある方」とはどのような人を指しているのですか?

 「改革をするから教育はますます悪くなる」と責任を学校現場ではなく政策に押しつける信念に従っている人たちのことです。
 何でも反対しなければならないので、公務員としての義務までおろそかになりかねない人たちである場合、その上司たちは、対話の必要性がより高いものになるでしょう。そこから逃げている上司は多いでしょうけれど。

>「教育改革は悪ではない」という固定観念もまた成り立ちそうですね。

 それはおっしゃる通りです。
 教育改革が失敗したと考えている方には、それをもとに戻したり別のものにする教育改革が必要になるのですから。
 
>小学校英語についてですが,「表現活動が好きになる英語活動」に慣れ親しんだ者が,その後,英語嫌いになる可能性もまた高いのではないですか。

 中学校では「慣れ親しむ」段階ではなくなりますから、他の教科と同様に、嫌いになる生徒はいるでしょう。
 教師の指導力次第ですね。

>「表現活動が好きになる英語活動」が性格的に好きになれない子どもも実は多いのではないですか。そのあたりへの目配りも必要かと思いますが。

 「好きになれない子ども」がいるから「慣れ親しむ」ための学習が求められています。
 性格的に好きになれない子どものために、別のカリキュラムを提言されたいわけでしょうか。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

理想は高く 信念をより強く

 「今までのことはすべてこのときのためにあったのか」
と生徒が気付くとき、教える側・待つ側の忍耐力と粘り強さ、信念というものの価値に初めて光があたります。
 教える側の強力な欲求と、教わる側のニーズがいい意味で合致するタイミングは学校では多くないものですが、一度その体験を経ると、呼吸が合うという時間を楽しむことができるようになります。 

 思い返せば、初任者研修のときにご指導をいただいた校長先生と教頭先生の呼吸というのは絶妙のものでした。
 
 今までは、「これくらいでいいだろう」という満足の線を引いていましたが、あと2年くらいはこの線をとりはらってみようと思います。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

小学校の英語活動のねらい

 すずめ先生から、「どんな英語活動の,どういった点が問題で,どうされればいいとお考えなのか聞かせていただけたらと思います。」というご質問がありましたので、お答えいたします。
 その前に、「教育改革=悪」という固定観念のある方のために、英語活動の小学校導入までの経緯を簡単にふり返ってみます。

 英語教育の開始時期の見直しは、昭和61年臨教審教育改革に関する第二次答申」で初めてふれられました。
 平成4年以降、国際理解教育の一環として、英語教育を実験的に導入する研究開発学校が指定されていきました。
 平成8年中教審第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」で、小学校における外国語教育について、「子供たちに外国語、例えば英会話等に触れる機会や、外国の生活・文化などに慣れ親しむ機会を持たせることができるように・・・」「ネイティブ・スピーカーや地域における海外生活経験者などの活用を図ることが望まれる」とされ、
 平成10年改訂の学習指導要領により創設された「総合的な学習の時間」の取扱いの一項目として、小学校における英語活動が規定され、全国の小学校に広まっていきました。
 平成14年に文科省によって策定された「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」の中で、小学校英語活動実施状況調査が行われ、平成15年度には全国の88%の小学校が何からの形で英語活動を実施していることがわかりました。
 平成19年度には、約97%、つまりほとんどの小学校で英語活動は実施されているわけです。

 しかし、英語活動の指導の内容は学校によってさまざまです。

 私が第一に危惧していたのは、英語への苦手意識の早期固定化です。

 小学生が中学校に入学するときに楽しみにしている学習の第一が英語だったアンケート結果を見たことがありますが、この順位は今、下がっていないでしょうか。

 ではどんな英語活動をのぞんでいるのかというと、一言で表現すれば、「表現活動が好きになる英語活動」です。

 単語をたくさん知っているとか、書けるとか、読めるとか、そういうことではけっしてありません。

 誤解を防ぐためにも、新しい学習指導要領、そしてその解説の外国語活動編は、ぜひすべての先生に読んでいただきたい冊子(72円)です。
 
 のぞましい英語活動は、「内容」に示されている通り、
 「英語を用いてコミュニケーションを図ることが、楽しいと思える体験ができること」
 「(一部の児童ではなく)だれもが積極的に英語を聞いたり話したりする活動ができること」
 「言葉によってコミュニケーションを図ることが大切だということに気付けること(伝えなければわからないことがわかること)」
 「英語の音声やリズムなどに親しめること」
 「言葉のおもしろさ、豊かさに気付けること」
 「英語圏などの人々の生活、習慣、行事の違いにふれて、多様なものの見方や考え方があることに気付けること」などです。

 単に中学校の英語の先取りとか、前倒しという認識ではなく、小学校ならではの目標をきちんと知り、達成していく姿勢を先生方には持っていただきたいと思います。

 ・・・・しかし、発音自体は訓練しないと無理でしょうね・・・・。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

外国語(英語)活動の導入で犠牲になる子どもたち

 新教育課程では、小5・小6で実施される英語活動ですが、すでに総合的な学習の時間などで取り組んでいる小学校があります。

 しかし、その教育の内容は、まさに中学校教師が危惧している通りのもので、連携以前に「学力格差」「意欲格差」「コミュニケーション不全」が拡大する最悪の事態になりかねません。

 英語だけが嫌いになる、そういう話ではないのです。

 「英語学習熱」をもっている保護者は、それこそ幼児期から教材をそろえて家庭でも塾でも英語を学習させていますが、現在の小学校の英語活動では、そういう経験のない子どもたちに、大きなカルチャーショックを与えているようです。

 すでに学んで知っている子どもと教師だけが楽しそうにしている学習の現場で見えるものは、まさに中等教育で問題になっている中下位層の学習意欲喪失の前倒し現象で、中学校でその拍車がかかる種をまき、根を広げている状況と言えます。

 英語活動の指導を行う教師は、すでに発売されている「小学校学習指導要領解説 外国語活動編」(72円)をぜひ手にとっていただいて、内容を読解してもらいたいと思います。

 読解力があっても指導力に結びつけられるかどうかはわかりませんが、誤った趣旨の活動は絶対にしないでいただきたい
 授業参観できる学校ではその場で指摘できますが、全国的に広がる可能性がある問題の根っこは早く取り除いていかなければなりません。

 現在、英語活動を実施している学校の根拠が、「小5・小6」の完全実施に備えての「練習」だとしたら、「実験台」になっている子ども達は気の毒です。
 とにかく正しい知識を習得してから実施してもらいたいと思います。 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

都道府県の位置に関する理解(小6と中3)

 国立教育政策研究所が実施した「特定の課題に関する調査」(社会)の結果分析についてです。
 小6児童の都道府県の位置を選択する問題で、正答率が高かった県と低かった県を比べてみると、なるほどと思える傾向が見えてきます。

 85%以上の正答率だった都道府県(略して県とします)は、
 北海道(99.8%)
 青森県
 沖縄県

 75%以上85%未満の県は、
 新潟県

 65%以上75%未満の県は、
 秋田県
 岩手県
 千葉県
 東京都
 鹿児島県

 以上は、位置から都道府県名を選択する問題と、同じ結果でした。

 逆に、正答率が低い県は、

 45%未満(35%未満はなし)の県として、
 福井県(39.9%)
 山梨県
 岐阜県
 鳥取県
 島根県
 岡山県
 徳島県(39.9%)
 福岡県
 佐賀県
 宮崎県

 のような結果になっています。

 隣接する県との誤答がやはり多く、
 岩手県と秋田県
 宮城県と山形県
 栃木県と群馬県
 鳥取県と島根県
 岡山県と広島県
 四国の各県

 名称が似ている県も誤答が多くなっています。
 福井県、福島県、福岡県
 山梨県と山形県
 愛知県と愛媛県
 滋賀県と佐賀県

 また、授業の中で、事例地域として取り上げられていない県の正解率は低い傾向にあります。

 同様の調査を中3で行った結果(15の都道府県)は、以下のとおりです。

 80%以上の正解率だった県は
 北海道(99.2%)
 青森県(96.3%)
 東京都(85.1%)

 50%以上80%未満の県
 鹿児島県(79.6%)
 大阪府(76.6%)
 福岡県(62.6%)
 山形県(60.4%)
 和歌山県(59.4%)
 岐阜県(58.0%)
 栃木県(56.4%)
 山梨県(56.4%)
 岡山県(54.5%)
 島根県(54.2%)

 50%未満の県
 徳島県(48.3%)
 福井県(47.7%)

 県名をご覧になっておわかりの通り、中3では正解率が低いと考えられる県を中心に出題されています。
 小6よりは正答率が上がっているので、「現行の中学校地理では県を3つしか学習しない」という虚偽の情報を流した人たちが偽物であったことが証明されていますが、それでも事例として扱われる機会の少ない徳島や福井は相変わらず半分以上の生徒が位置を覚えていないという結果でした。

 教師の単純な指導の方法に関するアンケート結果との相関ですが、「都道府県の位置と名称」に関する学習で、「白地図」をよく使用した教師の教えた子どもの正答率は78.4%であるのに対し、使用していない教師の教えた子どもの場合は55.6%であったことから、指導の有無が結果に与える影響の大きさがうかがわれます。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

「全国的な学力調査の目的」に示されている学校の役割

 全国的な学力調査については、現場の教師などからその実施に対する批判的な記事が多く発せられる中で、私は以下のような考えを持っています。いつか述べたような気もしますが、あるブログへのコメントを中心にまとめます。

 私は、親として、文科省の示す全国的な学力調査の3つの目的のうち、以下のものを最も重視しています。

各学校が各児童生徒の学力や学習状況を把握し、児童生徒への教育指導や学習状況の改善等に役立てる。」

 特に小学校の場合、単元ごとに行っているとても易しいテストプリント(覚えているだけでできてしまう)だけでは、学習面の総合的・総括的な評価が難しいと考えています。

 文科省の学力調査によって、活用力もあると(過信していたんだけど)実は「暗記」だけが得意な子だったのだとか、「覚える」ことは苦手でも、実は「自らの考えをまとめて述べる」ことが得意な子だったとか、担任の教師として、改めて「発見」できる学習状況の情報があるのではないでしょうか。
 それなのに、「Aちゃんはやっぱりよくできたな」「Bちゃんは調子が悪かったのかな?」程度の感想?では困ります。
 
 担任の教師が、結果を通して、「子どもに伝えたいこと」をかなり感じてくれているはずなのです(と望みます)。

 そこに、子どもの実力を自分が把握しきれていなかったという課題が見えれば、指導の改善に生かすとか、子どもを先入観で見ないとか、教師として必要な子ども理解が深まる題材の一つになると評価しています。

 県や市ごとの平均点の比較ばかりマスコミや行政は取り上げますが、それはそれらの役割だからであり、保護者としては、現場の教師に自分の役割をしっかり果たしてほしいと願うばかりです。

 繰り返しになりますが、各学校がすべきことは、「各児童生徒の学力や学習状況を把握」することであり、「児童生徒への教育指導や学習状況の改善等に役立てる」ことなので、その説明をきちんと果たしてほしいと思います。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

歴史上の人物(42名)と業績の理解(小6)

 国立教育政策研究所が昨年のはじめに抽出で実施した「特定の課題に関する調査」(社会)の結果によれば、小6児童の歴史上の人物(今回の問題では42名)に関する知識・理解の定着度の傾向がよくわかります。

 業績から人物を選択する問題では、 
 85%以上の正答率だった人物は、
 卑弥呼(99.0%)
 ザビエル
 ペリー
 野口英世
 雪舟
 杉田玄白
 福沢諭吉
 織田信長
 聖徳太子 の9名。

 75%以上85%未満
 伊能忠敬
 足利義満
 足利義政
 小野妹子
 豊臣秀吉
 紫式部
 鑑真
 徳川家康
 徳川家光
 清少納言
 藤原道長
 行基 の12名。

 65%以上75%未満
 歌川広重
 本居宣長
 聖武天皇
 近松門左衛門
 平清盛 の5名。

 55%以上65%未満
 源頼朝
 源義経
 北条時宗 の3名。

 45%以上55%未満
 中大兄皇子
 中臣鎌足
 東郷平八郎
 西郷隆盛
 板垣退助 の5名。

 35%以上45%未満は
 陸奥宗光
 伊藤博文
 勝海舟
 明治天皇 の4名。

 35%未満は
 小村寿太郎
 大隈重信
 木戸孝允
 大久保利通 の4名。
 以上の結果となっています。
 
 大久保利通の正解率は23.5%と最低で、教師に行ったアンケート結果との相関を調べると、「指導にあまり時間をかけなかった」と回答した教師の教えた子どもの正解率は21.7%で、「人物年表など表現活動を取り入れた」と回答した教師の教えた子どもの場合は44.4%と、顕著な違いが見られます。

 もちろん同時代の同じ政治分野の登場人物が多いために、個別の業績をのみこめていない児童が多いのは無理のないことですが、40人のクラスで正解できる子どもが10人以下しかいないというのは、小学校の学習ではあまりに極端のような気がします。

 このような歴史上の人物の知識・理解に関するデータは、小6児童の興味・関心、理解度とともに、小学校教師の歴史学習指導の得意不得意の度合いを把握するのにも便利なようです。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

学力に「二極化」現象は存在しない

 「勉強が好きな子」「嫌いな子」
 「できる子」「できない子」
 学力には結果として「二極化」が極端に進行してしまった状況は存在しませんが、「二極化」的な思考が好きな人はたくさんいます。
 しかし、ウイングにキレをもたせる必要は教師にはないでしょう。

 目標に準拠した評価(絶対評価)の評定分布を見ても、5段階で3が最も多く、次に4、2、5、1といった順で「一山」型の分布が一般的でしょう。

 全国的な学力調査(国語・数学)の結果を見ても、「二極化」という現象は見えません。

 たとえば数学の場合、上位の方に山があり、あとは中位から下位まで、台形状の分布が見られます。中位と下位に区切れ目は見えません。

 ただし、たとえば県別の順位が下位の大阪府の数学の得点分布を見ると、下位の方に小さい山が見えています。

 数学は「二山」ができやすい教科と言われていますが、気持ちの上で「得意な集団」「不得意な集団」というグループは現に存在していそうです。

 その結果を踏まえて、選択教科や通常授業で習熟度別の指導が実施されるのでしょうけれど、その効果自体については疑問視されています。

 数学が不得意な生徒も、得意な生徒の発表を聞いたりして刺激を受けたり、向上心がわくような指導環境になっていれば、下の山は防げるかもしれませんし、できる人だけをほとんど相手にしているような授業が積み重なってしまうと、だんだん下の山が高くなってくるかもしれません。
 学校ごとの反省を具体的に示してもらう必要がありそうです。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

時数は減っても「総合的な学習の時間」は学校の看板メニュー

 「ICT教育」という言葉を聞いても、意味がわからない教師もいるのではないでしょうか。
 「教育の情報化強化月間」というのが存在していたことを知らない教師がいても不思議ではありません。

 教育界は、世の中の変化に遅れがちです。
 教育を担う学校の教師のほとんどが、自分が受けてきた教育とそれほど大きな違いのないことを数年後、十数年後に職業として実践することになるからです。
 授業のスタイル子どもとの距離感生活指導観などは、自分が受けてきた教育の影響を強く受けることになります。

  教育界では、「時代の先取り」というものは難しく、さほど大きな「変化」でなくても、多くの教師はその「変化」に満足な対応ができません。
 
 「新しい学力観」とよばれたものも、「生きる力」も、総合的な学習の時間も、すべての教師がすべての職場で成果を上げている実感をもっているとは言えないので、自分の指導力よりも、これらを導入する政策を考えて実行させている行政に問題があったと決めつけることで、モチベーションが下がらないように自己防衛しています。

 私は公立学校やその教師が信頼を得られるように変化する最大のチャンスは、現行の学習指導要領の移行期間から完全実施のころにあったと考えています。
 教師の組織力、地域や社会の人材力、授業の質、さまざまな「教育力」の向上改善変革の好機でした。

 そして、今、信頼すべき公立学校か、そうでないかは、たとえば、新しい学習指導要領で、総合的な学習の時間が縮小されることに喜んでいるかどうかで判断できると思います。

 もちろん、悲しんでいる学校の内で信頼してはいけないのは、総合的な学習の時間のねらいを明らかに無視して読書や短時間の計算や漢字練習、行事などを実施し、カウントに入れていたところです。

 これからの総合的な学習の時間は、調査やレポートが英語や数学、国語で宿題があるように、家庭等で学んで作成したものを発表したり、批判しあったり、それらを題材にして新しい資料を活用してまとめたり、そういう学習が導入されることになるでしょう。
 「発表で終わる」総合ではなく、「発表から始まる」総合です。

 そのときに、各教科等で学んだことが生かされているかどうかが問われるようになります。
 土曜日の有効利用も大きな鍵になります。

 また、総合的な学習の時間では、各教科等でどのような意義深い学習を行っているか、それとも行われていないかを発表させたり、話し合わせたりして、より子どもにとって「学びがい」のある学習はどのようにして実践できるかを考えさせるような、そんな時間を保障する必要もあると考えています。
 
 今年度、10月以降に私が現場で実践する総合的な学習の時間のテーマは、「観光立国日本の創造」です。
 どのような視点で子どもたちが追究をはじめるのか、今から楽しみなところですが、10月までにそれらの先回りをしておかなければなりません。 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

「AよりB」ではなく「AもBも」大切な日本の教育

 日本はさまざまな文化を積極的に受容しつつ、独自の文化も大切にしようとしている国です。
 そして、AがBよりも大切、という価値観の絶対的比較をよしとしない伝統もあるので、結局、AもBも大切、ということになってしまう。
 そのことが、現在の学校への期待の大きさにもつながっているし、実現できていない分、不信感の大きさにもつながっています。

 A=「生徒の自主性を尊重すること」、B=「生徒に必要なことはじっくり教えること」は、ときに両立できない目標になります。

 だからといって、BよりはAを優先すべきだとか、AよりBが重要だとか、学校としてははっきりと主張できない。
 大きなジレンマと言えます。

 こういうときに、たとえばある時期はAを重視する、次の時期にBに重点をおく、などのように、どちらかに偏った指導はしていないということを納得してもらうための手段というのもありますが、いずれにせよ望むべき成果がでない以上は批判の対象になります。

 A=基礎・基本、B=考える力(活用力)と置き換えて見ても同じことが言えます。
 学力の場合、これらのように分離して設定すること自体が誤りだという見方もありますが、以下のようなわかりやすい例で考えることもできます。

 たとえば、基礎・基本を漢字や言葉遣いの正確さという点で捉えると、誤字脱字だらけの作文でも、内容がとてもおもしろく、独自の視点なり独特の感性にあふれた文章というのがある。
 一方、言葉遣いや漢字は正しいのに、内容がほとんどない、自分の考えが見あたらない作文もある。
 日本では、前者・後者、いずれかでよいとは言い切れないのが普通でしょう。
 やはり価値観としては、両方優れているのがいいと思われるに決まっている。
 
 AもBも、両方同時に育成する、そんな夢のような方法は簡単には見つかりませんが、たとえば、黒板でもノートでも、生徒が「書いたもの」を互いに見合って批判しあう、そのようなスタイルの授業というのは効果的かもしれません。
 活字にしたりプリントにするのがたいへん手間がかかり紙代もかさむのですが、書く力、読む力、考える力、自分の意見を表現する(発表したり書いたりする)力が伸ばせる学習活動となります。

 小学校では、意見や発表は活発に行われても、ノートに書かれないために理解が定着せず、「あのときはわかっていたのに」=「あのときはわかったつもりになってしまっていた」ことになってしまうケースをよく見かけました。
 一定の期間が過ぎた後、過去の学習状況をしっかりふり返って、そのとき理解できていたことを再確認したり、実はそのとき理解できていなかったことを確認したりする作業は大切だと思います。

 学習の成果が上がる「学び方」を、子どもたちから学ぶ、というのも大切なことでしょう。 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

文科省批判の現場と自己批判の現場

 残念ながら、「批判のために批判する」「批判に対して反発したいから批判する」傾向をもつ教育関係者の中には、学習指導要領など「文部科学省」が示すものが、一部の官僚などが恣意的に作成しているという(批判するためにそうであってほしいという願望からの?)誤解や曲解のもと、発言をしている人がいます。

 改訂される学習指導要領が、どのようにして形作られていくかを理解するためには、中央教育審議会の教育課程部会における審議の経過や結果を読む必要があります。

 そして、教育課程部会の委員には、大学教授の他、指導主事や現場の校長、教員も多数含まれており、当然会議での発言は、その場で思いついたことを言い合うものではなく、資料を持ち寄って根拠を示しながら行われていくものです。
 「文科省の方針」を否定したい人は、改訂の方向性を与えた教育課程部会の委員にさかのぼって否定しなければなりません。
 そして、その改訂の方向性のいくつかは「現場」から出されているものが多いことに気付かれるはずです。
 つまり、自分が批判によって食いつこうとしている相手は、同じ現場の教師であることに気付いてしまうことがあるわけです。
 それでも根拠を示して批判すべきことがある、それは本来あるべき望ましい姿です。
 たとえば、平成13年度と15年度の教育課程実施状況調査の結果をふまえて、どのような内容を自校の教育課程に組み込んだか。何を重点課題にしたか。こういうことの積み重ねを各学校が大事にしたいのに、「異動」を原因にして反省が伝わらない学校も多いようです。
 しかし、反省が伝わらない原因は「異動」ではなく、「異動」があることをふまえた各種情報の伝達がしっかりしていないことに求めなければなりません。
 
 現場の教師に求められている姿勢は、仮に、文科省の示したものの100%が優れた教育実践や研究校の成果、多くの教育関係者の意見を集約してつくられたものではないとしても、示された「指導の方針」の趣旨をふまえて適切な「指導の実践」がなされているかどうかをまず徹底的に検証することであり、それを通して批判すべき点があればしていく、それが望ましい教師のあり方ではないでしょうか。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

大阪の快進撃は始まるのか?

 報道されている橋下大阪府知事の発言について、現場の教師の多くは反発を強めていることでしょう。
 今後、行政主導の学力向上テコ入れ策がどんなものになるかはわかりませんが、現場のよりよい実践が広まる速度より、行政主導の流れの方が速いという問題には、他の県の先生方も早めに気付いた方がよいかもしれません。
 大阪府の先生方にとっては、今後取られる方策によって、もし学力向上の傾向が見えてしまうと、それまでの指導の質が問われてしまうことになるし、成果が出なければ出ないでさらなる「意識改革」が求められる。
 現場は常につらい立場です。

 とにかく小6と中3の学力だけを向上させるというのは無理なことで、小6にしろ中3にしろ、その結果は過去何年間かの積み重ねによって生み出されたものであり、地道な努力によってしか達成されないと一般的に考えられるのが学力の特徴です。

 ただ、全国的な学力調査問題の成績に限って言うと、短期間の「意識改革」で向上する可能性があることも否定できません。
 それは問題の質とそのレベルから言えることです。

 東京都の場合は、問題の形式・趣旨は同じではありませんが、全国的な学力調査の少し前に、小5、中2の段階で独自の学力調査を行っています(名称は「児童・生徒の学力向上を図るための調査」)。
 この調査が「学力向上」への意識付けに一定の効果があることは、都の報告を見てもよくわかります。
 
 全国的な学力調査の問題の難易度はやや難しめになったようですが、そうは言っても、問題が全国に公表され、テスト自体とか文部科学省=「お役所」の好き嫌いの問題ではなく、「このような問題はできてほしいなあ」という素直な願望が浸透していくことは、子どもや教師にとって「どうせ毎年あるものなら、今年はがんばってみるぞ」などという動機付けに結びつくかもしれません。

 都道府県規模の平均点というものの差は、学校間で競争するのとはわけが違いますから、簡単な「インチキ」で縮めることができるものではありません(県ぐるみで不正をはたらけば別ですが・・・)。

 平均点が高い低いでウダウダ言うこと自体、教師の多くは虫酸が走るように嫌なことかもしれませんが、県別上位でも学校ごとに結果を見て、「もっと得点が取れるはずだ」という「意識」を子どもも教師ももてるようになることが、ヘキサゴンを見て喜ぶより先にあるべきであるような気がしています。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より