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« 学力向上のために「死活的に重要なこと」とは? | トップページ | キャリア教育における教師の最大の弱点 »

キャリア教育に関する教師の盲点

  yamamotosanさんからコメントをいただきました。
 ありがとうございました。
 キャリア教育に関するブログを立ち上げていらっしゃる方のようですね。

(子どもは)どうして勉強しなければならないのか??
子供の納得がないままに学校では、指導要領と先生の価値観によって授業が進行します。あたかも、子供に教えることができるのは教師の特権でもあるかのように。
私は思うのですけれど、教師は知識と同じぐらい子供に生き方を見せてあげたいのです。
経験もさせてあげてほしいのです。
勉強することの意味を教えてあげてもらいたいのです。
子供の自己肯定感を育ててあげてほしいのです。
自分で立って、歩き出せるよう、人生の勇気と意味を教えてあげてもらいたいのです。
家庭、地域社会、行政、経済社会。すべて子供を取り巻くものの存在は、「より良い将来のため」というキーワードに沿って、協力関係にあることが望まれます。

 もし中学校に「哲学」の科目があったとしたら、「子どもが思索にふけっている間は、他の教科の授業中でも教師は指名してはならない・・・」などの規定ができるのでしょうか。
 あまり特定の教科の学習に興味がわきすぎると、それを追究する誘惑に勝てず、他教科に力が入らなくなるという問題がおこってきます。
 そういう点でも、義務教育の学習には大きな限定がかかっているような気がします。
 しかし、「授業を休んで1ヶ月間の職業体験を実施可能(ただし実施者は補習を○○時間受けること)」なんていう教育があってもいい気がしますがどうでしょう。
 「知・徳・体」の調和のとれた教育が最もバランスよく実践できるものの一つがキャリア教育であることはわかっていても、今のカリキュラムの範囲内で、どれくらいのインパクトがある教育が可能であるかは、何とも言えません。
 私自身は、自分が教師になったことを考えると、自分が受けてきた学校教育そのものがキャリア教育でもありました。もちろん私だけではありません。教師はみんなそうです。
 という話で言えば、どういう教師の教育を受けてきたかが、自分の教師生活にも大きな影響を及ぼしそうですが、他の道に進んだ方々にとってはどうなのでしょう。
 その点は、教師にとっては盲点になっています。
 教師がキャリア教育の上で果たしていた役割は何なのか。
 一つ前の「死活的に重要なこと」が、あらゆる子どもに大きな影響を及ぼしていることは、私の直観にすぎないかもしれませんが、その直観が誤りであったとしても訴えたいことになっています。
 社会の変化に抵抗し、飲み込まれたり、溺れたり、逆行したりしている教師が「良い機嫌で子どもに接し、良い気分を味わわせている」保障はありません。
 社会の変化に迎合せず、コントロールされず、先を見通していける教師が求められていると信じています。
 コメントをきっかけとして、キャリア教育について、改めて考えさせていただきました。
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教育」カテゴリの記事

コメント

yamamotosanさん、心のこもったコメントありがとうございます。
子どもにとっては、自分の成長へのはたきかけをしてくれる人はみんな教師であり、重要な財産です。この意味での子どもが持てる財産の格差は、「不運」ではすまさまれない問題だと考えています。
それが学校の教師に関わる責任であるとすればなおさらです。私のブログは自分自身のことももちろん含め、この問題と正対しています。
一方、「(学校現場だけでない)教師を増やす」ことへの強い意思は、私自身としては「教職が第一志望ではないのに教育実習を受けに来る学生」に対しても決して手を抜かずに教え込んでいることで果たしています。
フィンランドの教師たちは、日本人の政治や教育に対する関心が高くない理由は、それだけ「余裕がある証拠だろう」と「余裕のコメント」をしているそうですが、現場では「余裕を感じない」教師たちによる「余裕のある」指導が求められています。
今後ともよろしくお願いいたします。

早速のお取り上げに感謝いたします。
現場での教員の方のご苦労には頭が下がります。

私は教員養成の学校に学びましたが、
結果がすぐ出ることに興味を持っていたこと。
そして、このことが大きな理由なのですが、劣等児であり「先生」に対する印象がまったく良くなかったため、最後まで教員になることにある種の抵抗を感じていました。
卒論に「教科の出来不出来の自己意識と教師との親和性の相関」をテーマに取り上げたほどです。
その意味で、私のキャリア教育は実学的なことに自ら軸足をおいていたようです。

話がそれましたが、「死活的に重要なこと」とは、教師の立場での論点かもしれない。と感じながら拝読いたしました。
実は、子供が見たいもの、感じたいこと、モデルとしたいこと。は、その倭うに苦悩している「大事な先生」の生の姿であり、それに、どのように対峙していこうとするのか、先生の姿なのだろうと思うのです。

>社会の変化に迎合せず、コントロールされず、先を見通していける教師が求められていると信じています。
たしかに、わたくしも学生時代教わりました。
「教職は世捨て人のする仕事」
「諸君の視線は、はるか彼方水平線の向こうを望め」
kurazohさまの仰る精神はそのことだと拝察申し上げます。

わたくしも、そのことばに震え、崇高な精神を持つことに誇りと喜びを感じました。
今、教職は みかえりを求めず、自らを犠牲に出来る。その意味での人格者が提供するサービス活動。なのだろうと思います。
直接サービスを受ける人は、児童生徒なのですが、彼らは将来の社会を担う大切な社会資源です。
先日、中学二年生に働くことについてお話をさせていただきましたが、その質疑の中で、先生からは「これからの社会ではどのような力が必要とされますか」
校長先生からは「コミュニケーションをとるときに心がけたいことは何ですか」
ふたつご質問をいただきました。
両方とも、学校現場での切実な課題なのでしょう。
現場の先生方は、社会のあり方に戸惑いを感じられ、どこかで、実社会の情報を欲せられているのだろう。と感じました。

現代は、正解のない社会。といわれます。
価値観が多様化した。そんな耳障りの良いことではなく、手本にすべきモデルがなくなった現実をみなが感じ、『どうしたら』を自ら見つけなければ、埋もれざるを得ない状況です。
その意味で、必要な能力は、課題を見つけ、自分で解決しようとする、生きる力。です。

その意味で、今の社会はどうなのか、醜いことも、正しいことも、現実も理想もすべて伝え、どうあるべきなのか、どうしたいと考えるのか、それを考える力を知識として学ぶとともに、現場で考え、実行する訓練も積んでほしいのです。
長文になってしまいました。
お許しください。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より