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高コンテクスト依存症からの脱却

 コンサルティングを仕事にしている人の中には、アメリカではやっていることをそのまま日本に導入しようとする人もいるようですが、業績を上げているコンサルティング会社は、もっと広い視野から企業活動を捉えているようです。
 日本語による日本でのコミュニケーションの特質に、コンテンツ(内容そのもの=文字情報、数字データ等)よりコンテクスト(コンテンツ以外のもの=状況、脈絡、雰囲気など)が重視されるということがあります。
 「一を聞いて十を知る」
とか、「空気を読め」「察して下さい」
などというのは、「高コンテクスト」・「低コンテンツ」という特質を裏付けるものです。
 掲示板ではないブログでも、コメント欄への書き込みにまじめに答えていればコミュニケーションの手段になっているわけですが、人にとっては(私のように?)相手の意図が読めずに見当違いのことを答えたり、まともに質問に正対してくれない人もいます。
 質問がコメント欄に残ったままで自説を語り続ける人もいますから、ブログというのもよほど神経が図太くないと続けられないものだということがよくわかります。
 特に日本の中高年世代は高コンテクスト・コミュニケーションに慣れ親しんできたため、若い世代の部下に「おい、あれ」「ほら、それ」ですますことができなくなり、悩んでいる上司がクライアントになるのが、最近のコンサルティング業のようです。
 学校現場でも、「そんなこと言わなくてもわかるだろう」「見て覚えていればこんな間抜けなことはしないですんだだろう」という叱責がベテラン教師から若手教師にとぶことがあります。
 「内容なんて関係ない、お前の言い方が気に入らん」という人をなだめるのも一苦労です。
 若手教師の言い分としては、それはきちんと言葉で表現してくれないと分かりません・・・ということがあるのですが、もしこれが若い教師一般の話であれば、学校現場でも「高コンテクスト・コミュニケーション」が低下していることになり、「高コンテンツ」がコミュニケーションに求められることになります。
 私がコメントさせていただく方と、コミュニケーションがうまくいかない理由の一つにも、コンテンツについての関心や知識に大きな隔たりがあることが感じられます。
 理想的には、高コンテンツで高コンテクストが一番なのでしょうが、まず文字情報のやりとりしかないブログでは高コンテクストは望むべくもなく、コンテンツで勝負するしかありません。
 そういう点では、若者の「メール文化」も、「あれあれ」「そう、それ」では何も通じないので、「高コンテンツ」化への移行を促進する効果があるかもしれません。
 非常に多様性の高いメンバーを相手にするコンテクストフリーの環境の中で、コミュニケーションをどのようにリードできるか、これが、教師やファシリテーターに求められる資質であると考えられます。
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教育」カテゴリの記事

コメント

いちろうさんに改めてお聞きしますが、「暗象」について私が答えるべき質問とは何でございますでしょうか。

shock shock shock
>お答えできない質問が多いのが残念です。

ものごとには軽重があるから、
すべてに答えろともいいませんが、
暗象の良心にてらして、逃げずに答えて欲しい。
暗象が、軽微と判断して流すのはいいが、
自身に都合が悪くなるからと黙殺するのは、
日々の主張とてらし、どうかと思います。

いつも熱心にコメントをくださるいちろうさんのブログを訪問させていただくと、そこは鋭い切り口で撮られている秀逸なフォトショットが満載で圧倒されます。
私は写真の専門的なことはわからないのですが、このような写真を撮られる方の視覚的な情報の切り取り方には感服いたします。
また文字情報のカットも鋭くコメントをいただく私はいつも助かっております。
比較の問題ではありますが、訪問される方もコメントをいただく方もごくごく少ないブログですから、今後ともよろしくお願いいたします。
お答えできない質問が多いのが残念です。

sad
あら、被っちゃってたね。何と気の合う‥。

>8月13日の記事やコメントについては、‥

よかったです。
ただの黙殺だったんですね。
あまりにも妙で、不思議でなりませんでした。
では、読み返すのが大変なので、
次の機会に指摘したいと思います。(^-^)v

punch
>私もkurazohさんが意図を読めないとは感じておりません。

感情論ではなく、論理で説明されては?
私は、いつの記事か明記したのですが?


>また曲者を相手にしても議論を壊すことなく話し合いを続けておられる。おそらく現実でも多くの苦労を経験されているのだろうと感じております。

これもあなたが否定し続けている、
主観と想像の世界だね。
少なくとも、相手方になることの多い私は、
議論を壊すことなく進めているとは感じていない。
逆に、頓珍漢さに驚いている。


>「空気を読め」というのは自らの責任は果さず相手に責任を丸投げする行為と言えるのではないでしょうか。自己中心的思考とも言い換えることができるでしょう。

本当に、そうですよね。
で、誰が誰に対して「空気を読め」と発言したのですか?

ご説明が不十分でしたが、8月13日の記事やコメントについては、私のブログにTBをいただいた「校長日記・・学校おやぢつぶYaKi」でのやりとりを受けたものでした。
この記事で管理者の方が「フィンランド・メソッド」の導入へ批判的な意見を述べられたことに対して、それを「無批判での導入」と呼ぶのはおかしいこと、それはすでに現行の学習指導要領に示された学力観が含まれているからであるという根拠をそえての反論をしたのです(質問に正対した管理者の方からの回答はいっさいありません)。
ここで学習指導要領を持ち出したのは、それが論理の矛盾の根拠として使ったまでであって、学習指導要領自体が正しい、正しくないということは別問題です。

私もkurazohさんが意図を読めないとは感じておりません。あなたは相手を追い詰め過ぎることなく、また曲者を相手にしても議論を壊すことなく話し合いを続けておられる。おそらく現実でも多くの苦労を経験されているのだろうと感じております。

「空気を読め」というのは自らの責任は果さず相手に責任を丸投げする行為と言えるのではないでしょうか。自己中心的思考とも言い換えることができるでしょう。

typhoontyphoontyphoontyphoon
>ところで私はあなたのことを、空気を読まないとか、意図が読めないなどと感じたことはありませんよ。(笑)

おべっかをつかうより、
右上のカレンダーから、8月13日の記事と、
そこに着けたコメントの流れを解説してよ。
私は、3回読んだけど、暗象のコメントが意味不明。
細かに指摘したらきりがないけど、
最近の圧巻は13日だな。

コメントありがとうございました。
「日経ビジネス」8月18日号の「有訓無訓」に、前鳥取県知事(現在は慶応義塾大学教授)の片山善博の「自らの使命を考えよ 変化はそこから始まる」という談話が掲載されています。
冒頭に、以下のような言葉があります。

 何でも是々非々で議論する。これが私の信条です。おかげで旧自治省時代についた呼び名は「エイリアン」。あえて空気は読まず、相手が先輩でも上司でも是々非々の議論を優先するので嫌われました。
 鳥取県知事時代も同様でした。

行政のことは経験があるので、ある程度の想像はできるのですが、それでも、片山善博がこきおろしている行政は、学校現場よりもミッションが優先されるところです。
行政は一つ一つの部署の守備範囲が狭いのでこれが可能なのかも知れませんが、学校現場のように教師が1人何役もこなさないといけない環境では、少しでもミッションをせばめようとする圧力が加わりやすくなります。
それでも使命感の強い人には何ができるかといえば、協力者を増やすか、自分の資質・能力を向上させる以外にはありません。
「分かり合うのは難しい」「今の子どもや親は理解できない」と言う教師ならならさら、コンテンツ勝負の姿勢が大切だと考えています。

なるほど「高コンテクスト」・「低コンテンツ」とは日本社会に古くからありがちなものだったでしょう。
雑多な民族からなる集団だとそれこそ多くの「コンテクスト」(背景)が共存しているわけですからそういうわけにもいきません。
日本という国は昔から農耕民族の末えいである集団の和を尊ぶ文化を持っていることとも無縁ではないでしょう。
しかし嵩じると排他的ないじめ文化とも繋がってくるのは興味深いことです。
集団の中で出る杭になって打たれぬように、周りの空気を察知する能力が求められてきた文化。
しかし情報の中身で勝負のデジタルな現代のビジネス社会では、おっしゃるように個々の意見の中身である「コンテンツ」勝負が重要になるでしょう。
「いわずもがな」の雰囲気や感性に頼るところの文化、そして情報ピンポイントの合理的な文化。
能力を光らせるには何でもほどほどのバランス感覚が必要になるのでしょうね。

ところで私はあなたのことを、空気を読まないとか、意図が読めないなどと感じたことはありませんよ。(笑)
きっとリアルの職場でもバランス感覚のいい、優れた指導者なのだろうと推測いたします。
優れているからこそ、こうしてご自分を謙虚に見つめながら常に前進をめざしておられるのだと思いますから。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より