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フィンランド・メソッドへの批判の内容からわかる「批判的思考力」

 「フィンランド・メソッド」に関する専門書は読んだことがなかったのですが、つっこみどころがありそうだった河野庸介著『「フィンランド・メソッド」で我が子の学力を伸ばす」(主婦の友社)を読んでみました。
 著者は国語の先生なので、予想通り、国語教科書に素材として使われている文章の読解に関する説明が中心でした。
 フィンランド・メソッドを「発想力」「論理力」「表現力」「批判的思考力」「コミュニケーション力」の五つの能力を伸ばす、「型」を用いた指導方法ととらえ、そのポイントを解説してくれていますが、親として本当に「我が子の学力を伸ばそう」と思ったら、相当の努力が必要そうです。
 国語教育の専門ではないですが、以前、このブログで「何でもいいから思ったこと、感じたことを発言しなさい」などと問われる国語の授業では、学力は向上しないし意欲も高まらないだろうという趣旨のことを書きました。
 教師は、思うように子どもが発言しないときに、よくこの「何でもいいから自由に発言して」という「北風指示」を発します。
 フィンランド・メソッドは、「自ら問う」姿勢、「批判的読み」の力が身に付く指導方法であり、一方、今までの日本の教育ではそれらの育成が十分にできなかった(総合的な学習の時間でようやく育成されつつある)こと、今後はそのような能力がますます求められると信じられているからこそ、導入しようとする学校が増えているわけですね。
 ただPISAの結果がよかったから真似をする、という話ではなく(調べもしないでそういう批判をする人がいること自体が余計に日本の教育の問題性を浮き彫りにしています)、必要とされる力を十分に身に付けさせてこなかったからこそ、日本でできそうな方法にアレンジして取り入れようとしているわけです。
 いずれにせよ、教師が学校でしっかり身に付けさせることも、身に付けさせないこともできるのが、上記の5つの能力です。家庭の役割も重要ですが、まずは教師の側の共通理解がほしいところです。
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教育」カテゴリの記事

コメント

拙著「フィンランド教育の批判的検討 学力の国際比較に異議あり」(花伝社 2012.05.24 発売)をお読み頂ければ、フィンランド教育の厳しい現実と、その背景がお分かり頂けると思います。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%AE%E6%89%B9%E5%88%A4%E7%9A%84%E6%A4%9C%E8%A8%8E%E2%80%95%E5%AD%A6%E5%8A%9B%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%AF%94%E8%BC%83%E3%81%AB%E7%95%B0%E8%AD%B0%E3%81%82%E3%82%8A-%E6%9F%B4%E7%94%B0-%E5%8B%9D%E5%BE%81/dp/4763406345

コメントありがとうございます。
次に記事にしたかったことをいちろうさんに読まれてしまいましたね。
嫌みどころか、私のブログの本題をよくご理解いただいて、本当に感謝申し上げます。

pout
>「発想力」「論理力」「表現力」「批判的思考力」「コミュニケーション力」の五つの能力を伸ばす、「型」を用いた指導方法

指導はいいけど、
この5つの能力って、先生にはいらないのか?
子どもたちに求める能力を身につけようとする努力は、必要なんじゃないのか?  それ以前に、自らに身についているのかを客観的に評価することが必要なんじゃないのか?  軽い嫌みです。

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» 今また、自己破壊的な異国の文化導入 [校長日記・・学校おやぢつぶYaKi]
 いやあ日本的で本当に面白いですね。 フィンランドの指導法が大流行。 PISAの結果が学力観を規定しきっています。無批判に・・・  フィンランド・メソッドを「発想」「論理」「表現」「批判的思考」「コミュニケーション」と分解して、それぞれを「力」ととらえ、それ....... [続きを読む]

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より