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個性に共感できる子どもと教師

 岡潔の『対話 人間の建設』の一節から、個性への共感について考えてみたいと思います。
 

各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、いいものには普遍的に共感する。個性はみなちがっているが、他の個性に共感するという普遍的な働きをもっている。それが個人の本質だと思いますが、そういう不思議な事実は厳然としてある。それがほんとうの意味の個人の尊厳と思うのですけれども、個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのままでないと、出しようがないと思います。・・・・そういういろいろな個性に共感がもてるというのは、不思議ですが、そうなっていると思います。個性的なものを出してくればくるほど、共感がもちやすいのです。

 子どものことで言えば、「いいものに素直に共感することができる力」には欠けている部分があるのではないか、というのが多くの教師の印象でしょう。
 個性に共感する普遍性を育てる(こういう対象は普遍性とは言わない?)ために、さまざまな方策が工夫されても、プロセスの中では多くの葛藤や対立があり、一見すると結果として失敗したように見えることもあります。
 しかし、それが成功への第一歩になっていたことに、後から気付くこともある。
 また、今の生徒たちは「空気を必死で読む」ために、個性を「正しく出せていない」(そっくりそのままの個性ではなく、飾ったり本質をぼかしたりした表現になってしまう?)ことが、共感を得にくい原因になっているのではないか、という気もします。
 クラスによっては、うまくいっているようでも、そっくりそのままでない見せかけの個性を尊重するため、共感を欠いたドライな人間関係が固定化しているところがある。
 だから多少の衝突は覚悟の上で、その人の「いいもの」を探したり、自ら「いいもの」を追求していける人になってほしい。人それぞれ、きっとその人にしか出せない「いいもの」があるはずである。人に共感できる人になることが、人から共感される人になることにもつながる。
 そのいうメッセージを込めた指導の事例を過去にご紹介いたしました。
 教師にも、同僚に対して、管理職に対して、このような姿勢を持つことが求められている、というのが一貫した私の考えです。
 一人一人の教師の「いいもの」を共感し合える教師集団の力は、はかりしれない偉大なものになるはずです。
 たまたまコンピテンシーディクショナリーを作ってくれた教師がいましたが、これは今でも私の宝物になっています。
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教育」カテゴリの記事

コメント

gawk
>教育を子どもの立場になって考えるとき、そこには上からや下からという角度はありません。

今日の「とくダネ」という番組で、
教育委員会の特集をしていたけど、
尾木なんとかさんのことばが理解しやすかった。

上の立場のものが一方的に評価するのではなく、
評価される側のものが、評価する人を評価する。
簡単にいうと、相互評価のしくみが必要でしょう。
そこから逃げて、きれい事を並べても、
ただの管理のための手段になってしまう。

いちろうさんへ。
 現場の感覚は一般の方には分かりにくいと思いますので、少し補足させていただきます。
 教育現場では、子どものために教師が助け合うのは当然のことです。ある教師の失敗は、だれかが努力してフォローします。
 当然のことなのにできていないことについては、逆コンピテンシーとしてふれています。あまり逆コンピテンシーが強すぎると、互いのフォローが間に合わずに学年や学校が崩壊します。
 人事考課のおかげで同僚性がくずれる、と主張している教師がいますが、そういう人に限って普段から助け合いができていないのだと私は考えています。
 評価があろうとなかろうと助け合うのは当然のことですし、もし高い評価を得ようと思えば同僚性をより高めればよいのです。
 「上から垂れ流されてくるもの」を嫌悪する教師も多いですが、まず第一に考えるのは子どもの立場になって考えたときにそれが必要か、最善か、ということです。
 当たり前のことなのですが、そのことをふまえてもう少しわかりやすく考えを述べることには今後も留意していきたいと思います。
 教育を子どもの立場になって考えるとき、そこには上からや下からという角度はありません。

shockshock
>教師にも、同僚に対して、管理職に対して、このような姿勢を持つことが求められている、というのが一貫した私の考えです。

これは「学校経営者としての5つの悩み」の回答なのか?
あそこで私が指摘したのは、
同僚に向ける目と、
管理職に向ける目の違いである。
日々の私の指摘、
「現場感覚のない上からの垂れ流し」
「平等意識の欠如した上から目線」を、
違う記事を学校に置き換える中で、
本心をハッキリ表したと思っている。

得意の別記事を立てるのではなく、
あそこで回答して欲しかったのだが。

gawk
>学校と家庭そして地域が一体となって子供達を育て上げる「さざえさん」的環境ってのが理想なんですけど・・・。

そうなのか?
サザエさん的「日本の常識」って、
「世界の非常識」なんじゃないのか?
私は、サザエさん的な番組を見続けて、
それが常識のように、
無意識に頭に擦り込まれていくことに、
ちっょと怖いものを感じることがある。

>「じわじわとわかるいいもの」

じわじわと‥、ね。

編集長さま、コメントありがとうございました。
「お金で買えるいいもの」「テレビをつければ見られるよさそうなもの」で子どもたちは完全に包囲されていますので、「じわじわとわかるいいもの」にふれさせるのは至難の業です。
友達の話をしてくれるときは、相手の子どものよさを強調してあげていますが、自分の子どものよさを見失いがちになるので、注意していきたいと考えています。

起こしいただきありがとうございます。

「いいものに素直に共感することができる力」って大切ですよね。愚息達に様々な環境や場面を提供してきたつもりですが家庭だけでも難しいことなのかもしれませんね。ましてや学校だけですともっと難しいと思います。学校と家庭そして地域が一体となって子供達を育て上げる「さざえさん」的環境ってのが理想なんですけど・・・。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より