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「新しい」教育に対する「開国派」と「攘夷派」

 (内容的には、教師VS子ども その2「論理力」の続編になります) 
 教育効果の高い新しい指導技術・指導内容に関する情報を知りたい。
 そういう願望はどの教師も持っているのではないかと思います。
 ですから、自腹を切って本を買い、セミナーに出かけ、教育関係の記事をネット上で検索する。
 教育雑誌は、そのようなニーズを満たすための特集を組んだりする。たとえば、最近ではフィンランド・メソッド。

 成果が出ている実践を試してみたくなる、というのは教育者として自然な欲求でしょう。
 そのとき、当然、参考にする教育が実践された環境と、自分の指導力や自分の教える子どもたちの実態の乖離にも目を向けなければならないのは、言うまでもありません。
 追試をしてうまくいかないときに、失敗した教師は「あの先生の授業は優秀な子どもがいたから成功したのだ(裏をかえせば何を言っていることになるか、は明らかですね)」という言い訳で自己防衛してしまいがちです。
 まずは自分の指導力のレベルをしっかり認識すること、これが今の教師に求められていることかもしれません。

 さて、新しいものが好きな教師が多い一方で、そういうものへの拒否反応が先にでてくる教師もいます。
 そういう教師の特徴は、「まず試す」ことではなくて、「まず批判する・拒絶する」ことにあります。

 歴史上のできごとをたとえに使えば、「開国派」と「攘夷派」です。
 「開国派」は、優れたものが外国にあると考える。そこから学べるものを学んでいく。取り入れていく。そういう姿勢です。
 「攘夷派」は、今まで自分たちがやってきたことこそが正しいと信じている。外圧は徹底的に排除する。そういう姿勢です。
 日本の歴史のおもしろさで言えば、「開国派」が悪役になっていることです(天皇の意思に背く、みんなで決めようという原則に反する、反対者を弾圧する、そういうことから)。
 しかし、「攘夷派」だったはずの人々が、「攘夷」が無理だと悟り、「悪役」を倒した後は、「開国派」と同じ考えになる。
 日本では伝統的に、「何はともあれ、まずは反対」という考え方の人がいるわけです。

 「異なる立場の人間の視点から考える
 論理的思考を行うには、そのような方法も大切ですから、「まずは反対」という立場の人がいても、問題になるわけではありません。
 要は、論理的に詰めていって、その反対者を納得させられる表現力、説得力があるか、そこが問われてきます。
 そして、説得していくためには、教育の場合、実践が必要になります。
 この「実践」を「実験」として認めない、という立場の人もいますが、「実験」対象となった子どもは熱意のこもった指導のためか、高い成果を残してくれるようになるのが救いです。 

 新しい指導技術は、今までの自分の実践と何がどの程度異なっているのか
 (この時点で、決して「新しい」ばかりの指導技術ではなく、今まで自分が実践してきたこともかなり含まれていることに気付くことも多いでしょう)
 子どもに求められる力を、どのように習得させていく効果が新しい指導技術にはあるのか。
 そういう調査・分析をしっかり行っていくことが必要です。
 「開国派」「攘夷派」の二項対立ではなく、どちらの長所も持ちながら、「常に子どもの立場で教育を考える派」であることが教師には求められていると考えています。
 子どもの立場で考えれば、要するに、授業がおもしろく、力がつけばよい、ということです。
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教育」カテゴリの記事

コメント

記事の補足をしておきます。
本文でことわっているように、「開国」「攘夷」は新しいものを導入することがよい選択(「改革」と呼べるようなもの)と捉えるか、よくない選択(「破壊」と呼べるようなもの)と捉えるのかを考える「たとえ」として使っています。
まさかPISA型学力やフィンランド・メソッドは「黒船」とまでは言えないので、史実に深くなぞらえるような意図はもっておりません。
大事なのはその「姿勢」の問題です。
「開国」の姿勢とは、新しいものを導入することによるメリットを重視することのたとえで、その実践によって目標をより実現しやすくなるなら、どんどん新しいものを取り入れようとする姿勢のこと。
「攘夷」の姿勢とは、新しいものを導入せず、従来の方法を維持することによるメリットの方を重視することのたとえで、それまでの実践が優れたものであることを再認識し、従来どおりの成果を出し続けていこうとする姿勢のことを想定しています。
子どもの立場から言うと、どちらを全面的に肯定しても否定してもいけないわけで、常に「子どものために何が最善か」を考え続ける姿勢が大事だということを訴えておりました。
最も大切な部分は、
「開国派」「攘夷派」の二項対立ではなく、どちらの長所も持ちながら、「常に子どもの立場で教育を考える派」であることが教師には求められていると考えています。
の後半部分です。

新しい教育実践が出てくると、それに反対したくなる、うまくいってもらいたくないという教師のメンタリティというのは理解できます。
新しい教育実践の成果が出てしまうと、今までの自分の実践に課題があったこと、指導が十分ではなかったことが明らかになってしまうからです。
メンツにこだわる教職歴20年、30年というベテラン教師は、自分のクラスで成果が上がらず、10年そこそこの若手のクラスで新しい実践の成果が上がってしまうのは許されないのですね。
でも、そういう教師にとっては、新しい教育実践というのも役に立つ場合があるのです。
それは、自分がその実践をして、成果が上がらない場合です。
「新しい教育」のせいにしてしまえば、自分が責任を果たしていないという気持ちをごまかせるからです。
このような教師に、「子どもの立場からの視点」がないことは明らかですね。
結局、今、目の前にいる子どもたちにとって自分の教育実践はよりよいものなのか、それが大切なわけですが、できるだけ多くの目から実践を評価してもらうことが欠かせないことは言うまでもありません。

shock
暗象さんの中で、
「何でも」と「すべて」の違いが、
概念として区分できていますか?
以前の記事(ことばとしての)と、
日々の記事の内容から、
「何でも」の方を選びました。

コメントありがとうございます。
「いちろう」さんは私の保護者のようにブログで接していただいておりますので、yamamotosan様のご参考にもなると思います。いつも足りないところを補っていただいております。
「暗象さん」という人物は、「いちろう」さんがこのブログを通してご自身が作り上げているイメージですので、特に私からご意見申し上げる必要はないのですが、「何でも賛成というのは、暗象の文科省に対する姿勢」というご指摘に関しては、過去の記事をお読みいただければ、「何でも」という箇所が誤りであることがわかります。

happy01
>この場所を自説の展開場所にしてしまっては。。

いやっ、ここは、自説を拡散させたくてつくっているブログだし。暗象には、一つ一つのことを詰めていく気はないと思うよ。

「開国派と攘夷派」を、そんな簡単な図式で見ていいのかどうかは、異論の多いところだと思うし、一番の違いがどこにあるのかというと、新しいものを受け入れるかどうかの違いだといわれると、違うと思う。
で、その結論が、

>日本では伝統的に、「何はともあれ、まずは反対」という考え方の人がいるわけです。

ときたら、自説を展開するための理論としか思えないが、不思議と暗象は、そこも否定する。

単純に、日本でなくても、何はともあれ、まずは反対という考え方の人は、どこにでもいるわけです。何はともあれ、何でも賛成というのは、暗象の文科省に対する姿勢であり、同じ暗象は他方で何はともあれ何でも反対という姿勢を見せています。集団としての差はもちろん、個々の差もあれば、個人内でも差があることを、もっともらしい理屈をつけて自説へ導くやり方が、偉そうで嫌いだ。しかも、自覚していない。

素朴に、どうしてこんなに“偉い”人間ができたのかが、不思議でならない。

>「開国派」「攘夷派」
面白い喩えですね。

インドもフィンランドと同様、IT立国を目指し、教育の中で重視しているものは
「ディベート」と。ある報道で知りました。
ディベートは確かに相手を説得する有力な手段ではあると思います。
けれども素朴な疑問なのですが、
目的は何でしょうか?
その結果得られるものは何でしょうか?

論破と自説の貫き?
敗者と勝者の生成(社会の縮図)?
切磋琢磨?

その根底には『思いやり』『立場の違い』『相手の今の感情』など、コミュニケーションの基本的な要素を備えていなければならないはずです。
なぜならば、勝ち負けを問われた量的拡大の時代は過去になり、
社会は質的拡大を求めているからです。
質の拡大には「コミュニケーション」が必須要件です。
より良い成果のために、「力で通す」のではなく、集団の中の個を生かし、最大限のout putを引き出す「協調」が今後ますます必要になるのだろうと思っています。
その意味で、
著書『これから何が起こるのか』田坂広志
の終話にあるように
日本的な価値観がグローバルな社会に問題解決の指針となるのかもしれないと思っています。

まさにkurazohさまのおっしゃる「開国派」「攘夷派」の二項対立ではなく、どちらの長所も持ちながら、「常に子どもの立場で教育を考える派」なのだろうと、勝手に納得しています。

いけませんね。kurazohさまの投稿からは、まだまだたくさんの気づきは頂くきますが、この場所を自説の展開場所にしてしまっては。。
お近づきになりたいという心情の発露です。ご容赦くださいませ。

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» 攘夷がいつのまにか開国になってしまった [校長日記・・学校おやぢつぶYaKi]
 篤姫さんのドラマが好評だが、そこで悪役扱いされていた井伊直弼こそが開国派なのだ。彼らは「これまでどおり幕府が政治を担っているのだから、幕府の判断で開国すれば良い」と考える。  ところが幕府内の非主流派が200年あまり眠っていた天皇を担ぎ出して「外国との....... [続きを読む]

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より