情熱がわかない4つの原因
「教育への情熱」をどのように高めたらよいのか。
様々な立場の人から、教師へ、教師志願者へ、保護者へ・・・様々な立場の人へ、それが十分でないときに求められる問いです。
岡潔集第四巻にある言葉です。
目標があまり遠くては情熱はわかない。
目標が正しくなくても情熱はわかない。
また、全然責任を感じないときにも情熱はわかない。
やさし過ぎても情熱はわかない。
はっとさせられるのは、三つ目の指摘です。
教育への責任というのを、教師や保護者はいつどのようにして感じることができるのか。
事件や事故を起こしたときだけか。
一方、子どもの勉強へのやる気、学習への情熱のことを想定すると、あまりそこに子ども自身の「責任」という「重荷?」をもたせてこなかったのが、今までの教育ではないか、と思われてきました。
ここに、教育という語への永六輔の反発が理解できる立場が生まれます。
「教え育てる」行為の主体は子どもではなく教師や保護者などの大人。
そちら側には、教育の責任がある。
では、子どもの側には?
「教育」と言ったら、やはり「受けるもの」「受けさせられる」ものでしょうか。
「教育基本法」ではなく「学習基本法」を、という提唱をしている「働くための学習」(学文社)の著書、田中萬年。
「~を身に付けなければならない」という言われ方をすると、当然子どもは反発するのでしょうが、
「~を身に付けさせることとする」とされていても、それが十分にできていない状況をどう考えたらよいのか。
こんなことが面接の質問で聞かれたら、教師志願者の方は何とお答えになるのでしょう。



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