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ダメなファシリテーター その3「聞き方」

 前回の「尋ね方」といい、今回の「聞き方」といい、教師の陥りがちな失敗が、ファシリテーターとして犯しやすいミスと重なることが多いのには驚かされます。

 「聞き手」としての教師の役割は、カウンセリングマインドなどの文脈で記事にしてきましたが、情に流されることなく、決めつけることなく、発言の言葉を聞く内容を聞く内容から導かれる意味合いを考える発言されなかったこと(このことを教師が考えるときに、思い込みをいかに持ち込まずに行うかが難しい)ことを聴く発言者の思考状態をふまえて考える・・・などのさまざまな段階があります。
 そこで、教師もよく犯すミスですが・・・

 第一に、相手が話しているのに、他のことをしてしまう人
 全身全霊を「聞く」「聴く」ことに傾けるのは、思ったよりも難しいことではあります。
 教師の中には、自分が考えている姿を子どもに見せるのが恥ずかしいというか、照れてしまう人がいます。
 そういう人は、書類を探す、メモをとろうとする、パソコンの画面を見る、黒板に向う(子どもに背を向ける)、などの行動をとることがあります。

 会話の中で、実際に何かを調べる必要がある場合は「ちょっと調べてみるね」などの一言で何の問題もおこりませんが、その一言がないと、「いつも私を見ていてね症候群」「聞いたら(他の人との会話中でも)すぐに答えてね、そうでないと嫌いになるよ症候群」の子どもたちは遠のいてしまいます。
 授業中、ある生徒が発言している場面では、他の生徒の理解度をうかがうために視線を聞いている生徒に向ける場合はありますが、コメントを返すときなどには当然、発言者の方を向いて行います。

 第二に、これは上の最後の事例と関連がありますが、聞いた後に要約することを怠る人
 常にそうしなければいけないわけではありませんが、教室内での子どもの発言の中には、声量が小さく語尾も不明瞭で、他の生徒が聞き取りにくいとき、また、発言している本人が緊張したり理解が不十分だったりして自分が何を言っているのかわからなくなってしまっているときなどには、教師は必ず発言内容を要約したり、繰り返したりして、自分と発言者、他の生徒という教室にいる全員の理解を確認することが大切です。
 発言→要約・新たな課題の発見→新たな展開→発言・・・・という流れをスムーズにするのも、ファシリテーターの重要な役割です。

 第三に、これは会議での話し合いでよくあることかもしれませんが、話している途中で遮る人
 「飲み込みが早い」「理解するのが迅速で的確」と自負している人が、陥りやすいことです。
 遮られた人の表情を見れば、その意味は一目瞭然でしょう。

 第四に、相手の発言の要約と自分の意見を区別なく言う人
 授業では、子どもが返した不完全な解答を、勝手に補足して正解にしてしまう教師がいます。
 ここでは、発言した生徒の理解を完全なものにするためにも、どこまでが正しく、何が不十分だったのかを明確に示す必要があります。

 第五に、質問の内容は聞くが、その意図を聞かない人
 教師たちは、前提や本音を隠しながら(それくらいは察してくれ、という空気を発散しながら)、会議で発言しあうことがあります。
 ファシリテーターとしては、イエスかノーで答えるのではなく、「どうしてそういうことを聞くのか?」と疑問に思い、直接そう言うわけにはいかないので、「と、いいますと・・・」などと本音の発言を促すことが、議論を前進させる効果を発揮する場合があります。
 教師の発問に対して、ろくに考えもせずに「わかりません」と答える生徒がいます。
 発問の仕方や内容が不明確であるという原因も考えられるのですが、考えたり整理したりする時間をある程度必要とする発問の場合は、「では、いっしょに考えていきましょう」といって続けるのも一つの方法です。
 
 最後に、「質問の意味がわからないので、もう一回言ってください」とか、「具体的な質問をお願いします」と連呼する人
 これは聞き方の問題で、必ずわかるところまでを確認して、「その先についてですが・・・」などと段階をつくって話を向けるなどの工夫がほしいところです。

 問題行動の生活指導で、指導されている生徒の「聞く態度」が悪くてさらに指導者を激高させるような場面というのがよくあります。
 家庭の会話でも、テレビを視聴しながら親の話を聞く、テレビの字幕を見ながら出演者の話を聞く、授業の場面でも、教科書を見ながら教師の話を聞くなど、「ながら聞き」が生活の中にあふれています。
 授業で最も子どもが集中する時間は、「教科書等は見ない」「板書はなし」「ノートも禁止」措置をとるときです。
 短い時間でも、そういう「聞く」ことに集中できる練習が必要なのかもしれません。
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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より