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新学習指導要領で学力低下が進むと主張する「学者」

 新学習指導要領を真っ向から否定している著書に、尾木直樹著「日本人はどこまでバカになるのか」(青灯社ブックス)があります。
 著者は元中学校教師で、教育評論家時代はいじめや不登校の問題でよくTVに出演していましたが、現在では法政大学キャリアデザイン学部教授、早稲田大学大学院客員教授という肩書きがついて、文科省の政策への批判を展開するようになっているようです。

 学習指導要領批判とセットにして紹介しているのが全国的な学力調査
 全国的な学力調査に批判的な人に共通する特色は、これを「全国一斉学力テスト」と呼ぶことです。
 授業の実際や学習習慣についての質問紙調査もあるので、呼び名としては適切ではないのですが、負のニュアンスをにおわせるのには最適の呼び方です。
 「子どもたちの学習の改善に何も役立たない」かどうかは、現場の教師の活用次第、指導の改善次第であることを私は述べましたが、著者は「教師はどのような実践をするか」という前提条件を排除した論理が中心なので、このような極端な結論になってしまいます。
 
 文科省批判にセットとして肯定的に利用しているのが、フィンランドの教育です。
 その目指している学力に共通するものがあることは、記事やコメントでふれていますが、著者は学習指導要領の学力観の構造が古いと批判しています。
 では独自の?学力観が新しいかというとそうではなくて、基礎基本を育てながら活用力を培うという、普通の指導論を述べているだけです。
 
 夜スペにも批判を展開していますが、著者はさまざまな要求は現場の教師が請け負うべき、しかしそのためには「教員増」「一学級の生徒定数減」「教師がじっくり研修を受けて力をつける」などの行政(国)の地道な努力以外にない・・・というタイプの結論づけです。
 「そこを忘れて、安易に進学塾のDMに応募するのは、いかがなものか。」と言いますが、こういう時間感覚や経営感覚のない言葉によって、励まされる人はだれなのでしょうか・・・。

 教師の指導力向上について、「早稲田アカデミー」が実施しているセミナーに対しても著者は「悪いことではない」と言いながら、「教師」と「講師」は違うという論理のもとで批判していますが、その主張は明らかに的はずれであり、偏見に満ちています。
 フィンランドの教育をもちあげ、文科省の教育政策を批判するのはいいのですが、全然見えてこないのが、日本の教師のことです。
 ごく一部に見られる教師批判が、「授業の進め方や指導法といった教師の本質に関わる領域がアウトソージング(外部委託)されていることに抵抗を感じる教師が少ないことも、嘆かわしい現実である。」といったような文言でしょうか。

 その理由が、自分たちが「教師」ではなくそのような「講師」の恩恵を受けて今があるから・・・というものであったら、やはり教師の資質・能力を問題にする方が先なのではないかと思ってしまいます。

 著者がPISA型学力低下を食い止める切り札にしているのは、家庭の教育力の向上です。
 しかし、「家族の団欒をとり戻せ」とか、「パソコンは居間に」とか言っても、そう簡単にはいかない家庭もあるでしょうし、「読書の力」とか「基本的生活習慣の確立」なんて当たり前のことです。

 国づくりのグランドデザインがないとか、そういう大げさなことを言っている場合ではなくて、今、目の前の子どもにどんな意味のある学習指導ができるか、生き方指導ができるかが現場では問われているわけです。
 ほぼ予想通りの内容ではありましたが、PISA型学力にふれた本に目を通そうとしているので、仕方がありません。
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教育」カテゴリの記事

コメント

shock
先生的喧嘩両成敗なのか?

民間企業ではやっていけない対応だね。
「しないほうがいいこと」と
「してはいけないこと」を同列に扱ったら、
収拾がつかなくなる。

子ども相手でも同じじゃないのか?
子どもたちは、こういう対応に不満を持たないのか?

sad
>塾に通う子どもの声をまともに聞いているとは思えませんね。

目指しているものが違うだけじゃないのか?
まあ、この点は尾木なんとかの本を読んでいないから何とも言えないが、ただ、暗象は批判するために書いている意図がみえる。
日々の論調でいけば、全部をザックリと切るんじゃなくて、個別具体に指摘しなきゃいけないんじゃないのか?

コメントありがとうございます。
著者は、塾に通う子どもの声をまともに聞いているとは思えませんね。

>「教師」と「講師」は違うという論理

よく「知・徳・体」と言いますが、これら全てを成長させる場が学校と言えましょう。しかし「知」は一定レベルの「徳」と「体」のベースがなければ成り立たない。だから私は塾講師であろうとも生徒への指導が入りやすいよう生活指導も行いますし、またそうあるべきだと考えます。点数を伸ばそうと思えば、生徒にもう一歩踏み込む必要があるのですね。

私は塾講師も教員も、家庭から求められるものこそ異なりますけれども、ベースに流れるものは同じではないかと考えています。もちろん指導者によって様々なスタイルがあっても良い。しかしベースには共に学んでいこうとする向上心と、大切なものに対する願いが背骨を貫いている必要があるでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より