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学力向上のために「死活的に重要なこと」とは?

 ドラマでは、現場の士気を低下させるようなお役所や上司の姿勢にめげず、必死に現場で努力している人物が主人公としてよく描かれます。
 このようなドラマを教育でつくろうとすると、「悪役」は文科省か教育委員会、校長や教頭という立場の人間になり、一般の教師が主人公になります。校長ならまだしも、指導主事が主役になるようなドラマは絶対につくられないでしょう。
 このようなドラマの図式は、実は現場の実際の教師たちにも都合がよいものになっています。
 「行政がとてもたくさんの書類を書かせるから、教材研究の時間が減っている」という事実が、どれくらいの教師にどの程度あてはまるのかはわかりませんが、それを「言い訳」にすれば、「何とかして時間をさいてでも、教材研究をしようとするなどという意欲はない」事実が隠蔽できます。
 「余計なこと」「雑務」に時間をとられたとしても、「本務」は「本務」として実践できる環境がある(授業をさぼって試験問題をつくるわけにはいかない・・・でも小学校では、自習をさせておいて問題の採点をしている教師はいますね)以上、結果を残さなければならないのが教師のつらいところです。
 現場の教師が困ってしまうのは、士気が高まるようなこと、たとえば「何でもみなさんの自由におかませします」「今まで通りでいきましょう」と言われてしまうことでしょう。
 結果がついてこないと逃げ場がなくなり、あとは子どもか学習指導要領のせいにするしかなくなります。
 責任を持たされることは、教育への情熱を高める上でも必須の要素なのでしょうが、責任をとる気がない、あるいは、責任をとる手段がない人にとっては、効き目のないことです。
 
 今、どうしてこんなことを書いているかというと、何度か引用している内田樹「こんな日本でよかったね」(バジリコ)の、「日本の教育がひどいことになっているのは、教師たちが構造的に不機嫌にさせられているからである。」という一文にひっかかったからです。
 教育ブログを読んでいても、そのような「不機嫌さ」を露骨に表現している記事が多いのです。
 その一文には批判的な私ですが、次の内容はその通りであり、自分もそのように実践してきたことを記事でもふれてきました。
 

膨大なペーパーワークに文科省や教育委員会からの締め付けに保護者からのクレームに勉強どころか基礎的な生活習慣さえ身についていない生徒たちに囲まれて、それでも「機嫌良く」仕事をしろというのが無理な注文であることは私にもわかっている。
 でも、そういうときだからこそ「機嫌よく笑ってみせる」ことが死活的に重要だと私は思う。

 この「機嫌よく笑ってみせること死活的に重要だ」という表現に、私は強く同意します。
 以下の部分の引用でその理由の説明になると思います。
 
要するに教師自身の心身がアクティブな状態にあって、「気分がいい」ということだけが確保されれば、初等中等教育の基礎としては十分なのである。・・(中略)・・
 教師が知的な向上心を持っていて、それを持っているせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちにはそれが感染する。教師たちが専門的な知識や技能を備えていて、そのせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちは自分のそのような知識や技能を欲望するようになる。

 齋藤孝の著作にも同様な表現がありました。
 もっと古い教育学者の著作も、直接的な表現ではありませんが、「教師自身が学ぶことを、授業を通して楽しんでいること」が大事だという主張は数多く見られます。
 教師を含めて人間は、不機嫌にさせられてしまうのは非常に簡単なことですが、どんな状況でも機嫌よくいられる、というのは、その効果の絶大さを認識している人にしかできないことかもしれません。
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コメント

コメントありがとうございます。
>子供の感情から眼をそらさなければ、子供も自分以外の人に無関心でいることはない
教師にとって非常に重たい言葉ですね。
経験豊かな教師は、「自分が!自分が!」ではなく、子どもたちの集団づくりにも力を入れ、「(困っている)人に無関心でいられない」ネットワークを構築していきます。
最も注意が必要なのは、「先生の顔色、空気、機嫌など全く眼中になくマイペースでいる」と誤解されてしまっている生徒でしょうか。
私もよく生徒理解のために「グルーピング」を試みますが、それは固定観念、偏見に結びつくおそれがありますから、あくまでも一人一人への理解が基本であることは言うまでもありません。

経験でからしか申し上げられず、気後れ気味なのですが。

子供もいくつかのグループに大別できると思います。
1、先生の顔色、空気、機嫌など全く眼中になくマイペースでいるグループ
2、先生のそれらを気になることがあっても、自分の情緒がそれに左右されなくても済む子供たちの集団
3、先生のそれらが気になるので、しばらく様子を見ようと、自分の行動をコントロールできるグループ
4、その場の空気に情緒を支配され、不安定になる集団

現実的に教育場面で許されることかどうかはわかりませんが、先生も感情を持つ生身の人間です。笑いたいとき、怒りたい時、静かにしていたいとき、活動的になりたいとき・・・・・
それら先生の感情を、子供がどのように受け止めているのかを冷静に読み取り、一人ひとり 子供に素直に入ってゆく言葉を投げかけてあげられればラポールが築けるのではないかと思うのです。
言葉が適切なものでなくても、素直に入らなくても、投げかけられた子供は、生の言葉に、先生の新たな一面を感じ新鮮な気分になれると思います。
それほどまでに、子供たちは先生や親から
関心をもたれたい存在なのだろうことを信じています。

先生や、親がどうなのか。その状態が大切なのではなく、それを感じている子供の繊細さを信じることが大切であり、子供の感情から眼をそらさなければ、子供も自分以外の人に無関心でいることはないと思います。
人はうわべの言葉にではなく、心の底から湧き起る感情を伴う言葉に感動するのだろうと思っています。

民間の方の「営業スマイル」とはちょっと質が違うかもしれませんが、「笑う門には福来たる」とはよく言ったものだと思います。

教師を含めて人間は、不機嫌にさせられてしまうのは非常に簡単なことですが、どんな状況でも機嫌よくいられる、というのは、その効果の絶大さを認識している人にしかできないことかもしれません。

大変難しいです。

しかし、
生徒たちに
逆境で笑える人間になってほしいと
願う教師であれば、
まず自分が笑って見せないと
いけませんね。

自信はありませんが、
やってみようと思います。

ありがとうございます。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より