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北京五輪報道と教育の「寛容・多元主義」

 北京オリンピックは開幕したばかりですが、日本のメディアは報道の自由を中国に訴えるキャンペーンも同時に行おうとしているようです。
 政治テロを防止するため、大量の人員と監視カメラを投入した厳戒態勢がとられている中国。
 北京を訪れている外国人の中には、テロ行為の目的が明確であり、対象が(武装)警察官であるという「安心感」があるのかもしれませんが、警備の「物々しさ」には感じるところがきっとあることでしょう。
 報道の自由、表現の自由は、「都合の悪いことは知らせない」という立場の人から多くの人の利益を守るという一面があります。
 ある立場の人にとって「都合の悪い」ことが別の立場の人には「都合がよい」こととなり、その他の多くの人の利益とは関係のない事実というのもあります。
 「報道」も「歴史」と同じように、無数の事実の中から「発信者」がその価値観に基づいて抽出したものが発表され、残されていくことになります。
 ですから事実の「選択」の傾向によって、「発信者」の価値観や立場が明確になることがありますが、価値観や立場が多様な人々からの情報が収集でき、それを各個人が改めて自分の価値観によって解釈していける社会が望ましいことを、教育現場では子どもに伝えていきたいと思います。具体的には、異なる価値観に基づく意見や考えの尊重です。あまり明確ではなかったかもしれない、より上位の価値観に気づかせる効果が期待できます。
 ただ、教育現場には教育現場の価値観・・・たとえば、子どもたちは「時間割」にそって各教科の学習を行っていくべきである・・・があり、その価値観を受け入れることができない子どもの学習をどのように保障してあげられるか、といった問題があります。
 不登校生徒の状況・・・中学校は約3%・・・が発表になりましたが、この子どもたちへの教育のあり方を考えるためには、「1年間に30日以上の欠席」というだけのくくりだけの統計ですますことなく、ほぼ全欠席(200日以上)はどのくらいなのか、その生徒たちの学習はどのように行っているのか、社会参画を学ぶ機会はどうなのかなどをふまえて「学校ができること」「保護者ができること」「地域ができること」「行政ができること」などを考えていく必要があると思います。
 学校とは異なる価値観で「学び」を保障する支援組織と学校との連携など、教育にも「寛容と多元主義」が強く求められる時代になったのかもしれません。
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教育」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。
「フィンランド流教師の育て方」
から参りました。yamamotosanといいます。

>社会参画を学ぶ機会はどうなのかなどをふまえて「学校ができること」「保護者ができること」「地域ができること」「行政ができること」などを考えて・・・

おっしゃるとおりと思います。
どうして勉強しなければならないのか?? 子供の納得がないままに学校では、指導要領と先生の価値観によって授業が進行します。
あたかも、子供に教えることができるのは教師の特権でもあるかのように。

私は思うのですけれど、
教師は知識と同じぐらい子供に生き方を見せてあげたいのです。
経験もさせてあげてほしいのです。
勉強することの意味を教えてあげてもらいたいのです。
子供の自己肯定感を育ててあげてほしいのです。
自分で立って、歩き出せるよう、人生の勇気と意味を教えてあげてもらいたいのです。

家庭、地域社会、行政、経済社会。すべて子供を取り巻くものの存在は、「より良い将来のため」というキーワードに沿って、協力関係にあることが望まれます。
新参者ゆえのご無礼はお許しください。


情報が制限されるようなケースになればなるほど、「憶測」が飛び交うことがよくありますね。
とにかく事実の報道から判断するしかありません。

いちろうさんは、自宅学習も出席扱いしている学校があることはご存じですか?
「不登校」の実態は、数字だけではなかなかつかめません。
また、学校の価値観が高まることが「不登校」抑制に結びつく場合もあるでしょうが、効果は限定的だと思われます。
単純に「体育」が嫌いで、時間割に体育のある日は必ず欠席する生徒もいますし、どの授業にも興味はないが、行事だけは毎回出席する生徒もいます。
現場感覚だと、「友達と遊べる」など、勉強以外の「学校の価値」が高いからまだ、3%にとどまっているものだと思われます。
不登校は、小学校までは非常に少なく、中1・中2・中3と高校に近づけば近づくほど多くなる傾向があることを考えれば、やはり「勉強」や「進学」に対するプレッシャーが大きく、「無気力」「情緒的混乱」「複合的要因」(これらを原因とした不登校生徒が全体の4分の3)の背景にこれらのことがあるのは明らかで、その分野の組織と学校との連携は欠かせないものになりそうです。

foot
>政治テロを防止するため、大量の人員と監視カメラを投入した厳戒態勢がとられている中国。

いやっ、先の洞爺湖サミットや国体開催地の警備と比べたら、特別異常とは思わない。洞爺湖周辺の人口と、会議に集まった人数と、警備のために集まった人数を比較してみればいい。
自分のことだと理由がわかるから言い訳ができるけど、他人のことになると「理由をつけて」理解しようとする。その意味で、どうでもいいコメンテーターが本当っぽいウソを拡散する番組が多いことに不満がある。

>教育現場には教育現場の価値観・・・たとえば、子どもたちは「時間割」にそって各教科の学習を行っていくべきである・・・があり

素朴に、時間割は価値観なのか?
後の文を読むと「学校へ行かなければならない」という価値観じゃないのか?

>学校とは異なる価値観で「学び」を保障する支援組織と学校との連携

不登校を増やしたい?
不登校の子どもたちを救う支援組織は必要だと思うが、そこと不登校を減らしたいと考える学校が連携するというのは、どうかと思う。
学校へ行かなくてもいいという価値観を追認することで、不登校を増やす方向へ動くんじゃないのか?
学校がすべきは、不登校を出さないように、学校の価値観を高めることであり、不登校の子どもの「学び」の保障は保護者が考え、学校ではないところがすべきでしょう。連携は復帰のためであり、「学び」の保障とは一線を画すべきでは?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
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    「子産(下)」より
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    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より